元オウム教団幹部 野田成人のブログ

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 A派、派閥争い、ひかりの輪について。

◆絶対は絶対にない?

 元々グルを据えたのは、エゴを滅する為である。しかしグルを絶対視するが故に、逆にエゴが強くなってしまう。強くなったエゴは、あらゆるところで摩擦を生じさせる。社会との軋轢のみならず、内部の人間関係もしかり。エゴを滅し、他の幸福を願うはずの真理。だがグルにこだわるが故にエゴが強くなる。人の心よりも、かつてのグルの言葉を優先する故に、聞く人の心は癒されることはない。

 このように、上祐氏らひかりの輪メンバーは、形骸化したグル絶対主義を批判した。余りにも父性的権威が強すぎて、反発した少年らと似ている(陽から陰)。しかし陽から生じた陰にも、実は陽の要素が内在している。グル絶対主義を否定しつつも、似た要素を内在するのだ。分かりやすく極端な例を挙げてみる(M派=ひかりの輪)。


M派: 絶対なんて無いんだよ、誰かが絶対に正しいとか、何かが絶対に正しいなんてあり得ないんだよ。どんな価値観でも認めるべきだよ。

A派: 結局人間の幸福って無常だから解脱するしかないんじゃないの?これぞ絶対の真理。

M派: いやだからそこで絶対のグルを求めたから、駄目なんだよ。絶対なんて絶対無いんだよ。

A派: でも人間はやはり幸福になりたいから、絶対的な壊れないものを求めるんじゃないの?

M派: いやだから絶対なんて無いんだよ、無いものをもとめるから苦しむんだよ。絶対なんて絶対の絶対に無いんだよ!これが絶対の真理なんだよ!!


「絶対はない」が絶対なんだ教 誕生。陰極まりて陽、である。

 本当に「絶対はないが絶対教」ができると、どうなるか?表面的にはあらゆる価値観を認める。そういう非常に綺麗な大義名分を掲げつつ、大衆を支配するのである。この陰から陽に移る局面は、分かりづらい。潜在的に内在される要素が、はっきりと顕現化するまで時間がかかるのである。政治支配の道具に使われたら、あらゆる思想をやんわりと封殺することが可能だ。

◆ひかりの輪・一元

 上祐氏の「ひかりの輪」について、更に言及してみる。はっきり言って、ひかりの輪は、上祐氏なしには成り立ち得ない。かつての教祖が認めた正大師というステージへの信頼が組織を支えている。現状どう否定してもそこは覆らないだろう。しかしながら上祐氏は、「誰かを絶対者とはしない」とする立場からか、自分が教祖であるとは名言しない。そこが世間から分かりにくいのだろう。「またこいつはウソ言ってんじゃないか?」と。

 上祐氏は自認するとおり、過去にさんざんウソを吐いてきたハンディがある。しかしそれを差し引いても、玉虫色の大義名分で支配する点につき、懸念は共有されているようだ。私自身も彼の主導する会議では、苦々しい思い出がある。こちらの意見も聞いて長々と議論はするが、最終的に彼の用意した結論に誘導されてしまうのだ。最近の動向は詳しくないが、ある程度浸透している内容を諌言させて頂いた。

 あえて上祐氏を擁護するならば、彼自身も怪物・グル麻原を倒すには怪物にならざるを得なかったのだ(※)。絶対的権威を否定して、陽から陰が産み落とされた。しかしその陰も陽となる種子を内在する。

 あらゆるものが一体、あらゆるものの価値を認める一元の思想(実はよく知らないが…)。しかし彼らも、「何か価値あるもの」を求めて、かつてのグルを否定したのだ。人間みんな幸福になりたいのである。「何でもあり」では逆に困ってしまう。何でも与えられ放題、甘やかされるだけでは、子供も幸福にはらない(陰・弛緩)。それと同様に適当な方向付けが必要なのだ(陽・緊張・権威付け)。

 次は経済を例に取り上げてと……。その前に、休止していた「分かる経済」シリーズ再開です(美しい法則はまだ続きあり)。

※ニーチェの格言(後の記事で使うのでしつこく引用) 怪物と戦う者は、その過程で自分自身も怪物になることのないように気をつけなくてはならない。深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ。

コメント


絶対はないと言いながらも

絶対はないと言い切ってなお、絶対を求める。
結構そういう事例あります。

機械系エンジニア: 「人間の作ったモノに、およそ絶対はありません。しかし、安全には絶対が要求されます。」

200km/h以上の新幹線に惨事の発生は絶対に許されない。千人以上の乗客を乗せる以上、安全は絶対でなければならない。

「絶対なんて絶対ないんだから事故しても許して」なんて口が裂けてもいえない。

三者三様・・・

A派、M派(光の輪)、中間派それぞれに自己主張があり、中心人物がいるということは
ほとんど変わりないと思うのですが、どうでしょうか?

でも、だからといって、VT氏にこのブログをやめてほしいとか思っているわけではないですが、それぞれの派が自己の考えに基づいて、やりたいことをやっているという印象があります。 そんな状況ですから、私としては、各々やりたいようにやる(実際、そうしているでしょうし)というのも、違法なことや他人に迷惑をかけるようなことでもない限り、それはそれでいいのではないかと思ってます。

ただし、それぞれの派の構成員は、それぞれの派の考え方などをしっかりと自分で検証しないといけないでしょうね。(選ぶのは自分ですから)

これで絶対?

安全論でよく言われるように、「これで完璧」という意識が進歩の停滞、つまり絶対安全の追求のベクトルの消失につながり、綻びが生じる結果となる。

数年前、山陽でトンネル壁面の崩れ->車両に直撃が発生した際、松平精氏(新幹線開発に従事)が「気の緩みさえなければ、そういうことは起きない」と一喝していた。最初は、そんな根性論で安全論を語っていいのかな?とも思ったが、「これで絶対OK」という意識が、絶対へのベクトル消滅につながるんだよ、というような意味合いがあったのだろうと思っている。

天動説を支持するガリレオ

観察に基づく経験によって「それでもやっぱり地球は動いている」と最後にぼやいたガリレオですが、なぜか上祐氏の場合、「地球が動いてるなんて、ありえないよね」と主張するガリレオのような違和感を感じました。

今までの経験に基づく結論は何だったの?という疑問がわきました。

見たものは見た、見ていないものは見ていない、白は白、黒は黒、1は1、10は10といった率直な認識は大切だと思います。
外の世界に対しても、自己の内面に対しても。

>私自身も彼の主導する会議では、苦々しい思い出がある。こちらの意見も聞いて長々と議論はするが、最終的に彼の用意した結論に誘導されてしまうのだ。

確かに質問に対する答えが長くて、結局何の話だっけ?てな具合だった。

VT師はオーラが不足しているから大勢を惹きつけられない。マイトレーヤ師はそのオーラで数十人を惹き付けた。正大師の肩書きのせいじゃないよ。俺は2mほどの距離からマイトレーヤ師を見たんだよ。確かにすごいオーラだったよ。

二拍子さんにしびれる0101。

>「地球が動いてるなんて、ありえないよね」と主張するガリレオ
うは、すごいきた!これだ!!「ありえないだろ!」くらいの勢いだもんなあ。w
二拍子さんにシビレタw

>見たものは見た、見ていないものは見ていない、白は白、黒は黒、1は1、10は10といった率直な認識は大切だと思います。

ほんとうだよ!ここでもシビレタ!

「陰極まりて陽」いまわかった、ying&yangを「絶対」ととらえてたんだね。
だから、話の結論がいつも、急速に、絶対へ向かわなければいけなくなる。
「地球が動いてるか」「動いてないか」どっちかにしないといけない思考になってる!
だから、脱するため、一元論しか「おもいつけない」んだな。
そういった意味では、まだ、「彼」自身が己をみつけてないんだな。

最終的に彼の用意した結論 は 「地球は動いてないよね」なので、
「動いてるんが、あたりまえだよ」と認識してる 一般においては、
誘導されない。

>確かに質問に対する答えが長くて、結局何の話だっけ?てな具合だった。 ↑

シビレタ。


美しいあのマークをずっとみてるはずなのに、(いや、お勉強だけなのでみたことないのかも!)
あの「二つの点」をあって、みないことにしてる。

お勉強にすべてこじつけた結果かもしれないw

のだちゃん、ying&yangのマークをはっておいたらどう?w

「それでも地球は動かない」という だろうけどねw

のだちゃんはオーラ超えて POPだからいいんだぜw

絶対かぁ

>「絶対はない」が絶対。

有りますよね「絶対」って。
人は必ず老いて死ぬって絶対が。

私は、人のやる事(行為)に、絶対は無いとは言ますが。
「人」自体が未完成、だからこそ、そこに学びの楽しさが有ると捉えていますが。
どうでしょう・・。

Re: 絶対かぁ

>有りますよね「絶対」って。
>人は必ず老いて死ぬって絶対が。

これ以上ツッコまないのが幸せかもしれないが、
「無常は絶対」となると、あれ?また「絶対はない」という絶対。
他にも、「空」が存在する、なんて違和感ある。この領域は「ある」「ない」の表現があまり有効でない。

>「人」自体が未完成、だからこそ、そこに学びの楽しさが有ると捉えていますが。

存在の無常性ゆえに、真空状態(=絶対性)に引き寄せられるようなダイナミクスが常に生じますね。しかし、いったんその空間がモノで埋め尽くされてしまうと、その吸引力は消滅してしまいます。

応接室は常時きれいに空けておかないと、本当に大切なお客様をお迎えできないようなものですかね?

二拍子さん。

お答えありがとうございますね。

お返事。

>「無常は絶対」となると

私、「無常は絶対」とは言っていませんよ。
人は必ず老いて死ぬって書きました。
何か間違っていますか?
話を広げないで下さい、私、「空」の話や「ある」「ない」の話は難しくて、
と、言いますか勉強し直し中で出来ません、ごめんなさい。

>>「人」自体が未完成、だからこそ、そこに学びの楽しさが有ると捉えていますが。

>存在の無常性ゆえに、真空状態(=絶対性)に引き寄せられるようなダイナミクスが常に生じますね。
しかし、いったんその空間がモノで埋め尽くされてしまうと、その吸引力は消滅してしまいます。

ごめんなさい、私読解力無いみたい・・。

「人」自体が未完成=存在の無常性ゆえに、真空状態って事ですか?


>応接室は常時きれいに空けておかないと、本当に大切なお客様をお迎えできないようなものですかね?

何でこんな話が出てくるのか解りませんが、
応接室は常時きれいにしておいた方が良いと思いますよ。
「本当に大切なお客様」が、肉親や友人なら気にしないでくれるでしょうけど。
違うのですか?(多分何かの比喩で書かれたのでしょうけど)


自分は、あまり絶対という言葉に拘らないで下さいって言いたかったんだけど、
そうすると、拘らないという事に拘る、という矛盾が発生すると・・・。

難しいですね。

>何でこんな話が出てくるのか解りませんが、
>応接室は常時きれいにしておいた方が良いと思いますよ。
>「本当に大切なお客様」が、肉親や友人なら気にしないでくれるでしょうけど。
>違うのですか?(多分何かの比喩で書かれたのでしょうけど)


ああっ、やっぱりこれ以上はやめとこうかな...コミュニケーションが逆に混乱を生んでは本末転倒...

>ああっ、やっぱりこれ以上はやめとこうかな...コミュニケーションが逆に混乱を生んでは本末転倒...

そうですね。

>私、「無常は絶対」とは言っていませんよ。
>人は必ず老いて死ぬって書きました。
>何か間違っていますか?

生老病死と4つの本質的苦しみ、これらの根本にある無常、という文脈です。

VTブログのカルマですかね?

弁舌爽やかにして意味不明瞭といった感じの方が多いのは・・・・。

生老病死、4つの本質的苦しみ、これらの根本にある無常、という文脈です。

ですから何処に「無常は絶対」って・・・。
あ、止めるんで知ったっけ。

失礼しました。

簡潔に言うと

「外側に絶対を求めるから苦しくなる。それはグルとか真理とかでもそう。外側の世界は真実と非真実、絶対と非絶対の混成体(即ち空)だから。自分の内側にこそそれを求めないといけない。何故ならそこを空は源としている、つまり全てがあるから(これもまた空の一義
)A派もM派も外側に求めるからそうなる」

でチャンチャン

だと思うけどな。

きょうの二拍子さんには。

まじシビレる。

>VTブログのカルマですかね?
>弁舌爽やかにして意味不明瞭といった感じの方が多いのは・・・・。

右、左に対して、中央は理屈っぽい、というのはセオリー通り。

一つ一つの理屈を、自分の経験にまで下ろすことをしないと、「あーそれ、わかるわかる!経験したことある!」につながっていかなくて、何がなんだか...

>右、左に対して、中央は理屈っぽい、というのはセオリー通り。


左右が理屈っぽい。中央は経験。
これヨーガ。

>一つ一つの理屈を、自分の経験にまで下ろすことをしないと、「あーそれ、わかるわかる!経験したことある!」につながっていかなくて、何がなんだか...


経験から生じた智慧で語る。
これヨーガ。

>応接室は常時きれいに空けておかないと、本当に大切なお客様をお迎えできないようなものですかね?

例えば、応接室は常時きれいに空けておかないと、本当に大切なお客様がきた時に、お迎えできないようなもの。

という意味だったのですか?
違う意味に受け取っていました、失礼。
それと、学ぶ→知識(雑学)の詰め込みでは無いと思いますが・・
私もよく解りません、ではこれで失礼します。

赤字でやや大きいサイズの「絶対に絶対はないんだよっ・・」

ってのが、信じることに生きてる人の窮地を画いていると思うた。あらためて信じようとしなくたって、人間はなんかしら信じてるから、そんなに言葉で自分たちを拘束しなくたっていいのにね・・と思う。

承認待ちコメント

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12.9


VT正悟師はオ~ラが不足しているのか?

どうも、「修行するぞ」をもじって付けたHNですが、
やはり素寒貧が治らないので、現在進行形にしました。
嗚呼。

>VT師はオーラが不足しているから大勢を惹きつけられない。
>マイトレーヤ師はそのオーラで数十人を惹き付けた。
>正大師の肩書きのせいじゃないよ。
>俺は2mほどの距離からマイトレーヤ師を見たんだよ。
>確かにすごいオーラだったよ。

じゃ、今度行ってみてみようかな。でも、わたしはオ~ラなんて見れませんから~。
残念!!(だいぶ、古いですが)

まあ、たしかに、VT正悟師はM正大師に比べれば、オ~ラが少なく、四無量心も少ないかも知れません。
しかし、われわれにこうして意見を表明する場を設けていただいたことを感謝すべきでしょうな。

>やはり素寒貧が治らないので、現在進行形にしました。
>お金を貯めているぞ

これじゃお金が無いことの肯定。

「私はお金持ちだ」
あるいは
「私はお金が貯まっている」

「私は~だ」「私は~である」の形が必要です。

マントラだってほとんど「私は~である」で構成されているでしょ。

自分は何者であるか。
その宣言が現実をその宣言に近づけていきます。
「私は~である」の宣言は最も簡単で強力な意志(サンカルピット)の放出です。

誤った使用例

「私は救世主である」
「私は十億宇宙の王である」
「私はシヴァ大神の化身である」等。
健康を害する危険があるため、
使用上の注意をよく読み、用法・用量を守って正しく使用しましょう。

「無常の世界に絶対の物を求める」という誤謬

 (マハー・ニルヴァーナ以外)この世は「全て無常」なのに、その無常の世界に絶対の物を求めるからおかしくなるのでは?

 A派にせよアンチにせよ狂信的な人達に共通して言える事は、「自分達が絶対に正しい」と思い込んで、其処で思考停止してしまっている事。
 そしてそういう間違った思い込みを元に内側に凝り固まったり、他を攻撃し排斥して自らの正当性を主張する傾向が強いという事です。
 そういう人達は思い込みが強すぎて正しく現象が見えていない・見られないという特徴があります。
 このblogでもそういう人達が散見出来ますね。(文字通り「お話にならない」人達でした)

 ただ、私はM派で「絶対に絶対はない」などと主張している人を見た事がありません。
 VT正悟師は、いつどこで誰からこの様な話をお聞きしたのでしょうか?
 私が直接M派と接して感じている事は、「A派上層部や一部のアンチのような狂信的な人達は少ない」という事です。

「絶対はない」が絶対教は、前回の岸田氏の話につなげて挙げた極端な例です。実際にそういうM派の人がいたわけではありません。誤解を生んだようでしたらごめんなさい。

そういう形で絶対性を主張はしていないけれど、結局オーラを放っている(??)上祐氏の上祐教であることは変わらないと私は思うわけです。結局人を引きつけようとするなら、ある程度そうなるでしょう。

自分自身の主張も含めて一切の価値観を相対化した「なんでもあり、なんでもいいよ」教では、人は引きつけられないでしょう。

ところで貴兄はM派の人とよく話すことがある、あったのですか?


さんでぃたー宣言

>誤った使用例
  「私は救世主である」
 「私は十億宇宙の王である」
 「私はシヴァ大神の化身である」等。
 健康を害する危険があるため、
 使用上の注意をよく読み、用法・用量を守って正しく使用しましょう。


「わたしはさんでぃたーである!!

 A派にせよアンチにせよ狂信的な人達に共通して言える事は、「自分達が絶対に正しい」と思い込んで、其処で思考停止してしまっている事。
 そしてそういう間違った思い込みを元に内側に凝り固まったり、他を攻撃し排斥して自らの正当性を主張する傾向が強いという事です。
 そういう人達は思い込みが強すぎて正しく現象が見えていない・見られないという特徴があります。
 このblogでもそういう人達が散見出来ますね。(文字通り「お話にならない」人達でした)」

シヴァの喜びだった者さん

の説がこんなことで証明されるなんて思っても見ませんでした。

で、NHをさっそく直しておきました。


サンディタさん

>A派にせよアンチにせよ狂信的な人達に共通して言える事は、「自分達が絶対に正しい」と思い込んで、其処で思考停止してしまっている事。
>そしてそういう間違った思い込みを元に内側に凝り固まったり、他を攻撃し排斥して自らの正当性を主張する傾向が強いという事です。


ネットではそういう人たちなんて掃いて捨てるほどいるかも知れません。
「オウム・ア~レフ・ひかりの輪」関連だけではありません。
「自分は絶対に違う!」と思っている人も気をつけた方がいいかも。

傍目から見て、そういう人の方がかえって面白い気がします。
というのは、周囲の凡夫(一般人)たちと違うことを言っていますし、
その見解がかけ離れているからです。
ただし、自分が巻き込まれないようにしないとね。

わたしが「ひかりの輪」(M派)より「ア~レフA派」が面白いと感じるのはそういうことでつ。


本末転倒では?

VT正悟師さま
>「絶対はない」が絶対教は、前回の岸田氏の話につなげて挙げた極端な例です。実際にそういうM派の人がいたわけではありません。誤解を生んだようでしたらごめんなさい。
 現実の教団問題を取り扱っているこの場で架空の例を出すのは少し不適当ではなかろうかと思われますが。
 おそらく理論の理屈付けのためにそういう例を出したのでしょうけれども、A派・M派などの実名を挙げながら架空の例を出すならば、結局現実から乖離して自説の理論を主張したいだけにしか見えません。
 もし現実の教団問題を話し合うのがこのblogの目的だとするなら、それは本末転倒な行為だと思います。

>そういう形で絶対性を主張はしていないけれど、結局オーラを放っている(??)上祐氏の上祐教であることは変わらないと私は思うわけです。
>結局人を引きつけようとするなら、ある程度そうなるでしょう。
 現在のM派は元マイトレーヤ正大師を中心に回っていますが、上手く軌道に乗れば「光の輪」は元マイトレーヤ正大師が居なくても昨日出来るシステムだと思います。
 ただM派にも未だにグル崇拝的な要素は御座いますし、逆にA派にも嫌悪の少ない大乗的な人も大勢居ます。
 ですから、今後両派がどう展開するのかそれぞれ注視していくつもりです。
 そして現実にはA派やM派を「陰だ陽だ」或いは「善だ悪だ」と単純な理論で決め付けられないと思います。

>自分自身の主張も含めて一切の価値観を相対化した「なんでもあり、なんでもいいよ」教では、人は引きつけられないでしょう。
 それはその通りですね。

>ところで貴兄はM派の人とよく話すことがある、あったのですか?
 M派と言っても結局知った顔ばかりなので、現在も平然と出入りしております。
 M派を肯定するにせよ批判するにせよ、直接自分の目で確かめねばならないと考えているからです。
 M派では分裂騒動や大阪支部「乗っ取り」の経緯など、担当者から直接詳しくお聞きしております。
 A派には当初から「この分列騒動における教団の対応はおかしい」と申しておりますので、私の行動が問題視される事も有りません。

ひかりの輪のシステムについて

上手く軌道に乗れば「光の輪」は元マイトレーヤ正大師が居なくても昨日出来るシステムだと思います。

未来の仮定の話をしているのに「昨日出来るシステム」と言っている自分がよく分かりません。

~ 小話 ~

男A「おれ子供が生まれたんだよ。嫁さんが子供にお乳を上げているのを見ると幸せを感じるんだよな。」
男B「へぇ~、そうなんですか。今度ぼく揉みに行っていいですか?」
                    (ぼくも見に行っていいですか?)
男A「おまえ、何言ってんだ、いいわけないだろう!」
男B「す、吸いません・・・」
     (すいません)
男A「吸わなきゃいいって、そういう問題か?!」


~ 小話2 ~

男A「あのさ、今お金ほとんどないんだよね。」
男B「え、どうして?」
男A「今月大仏買っちゃってさ。」
     (だいぶ使っちゃってさ)
男B「え~っ、おまえ大仏買っちゃったの?!すげーなー!!」



五時(誤字)

>上手く軌道に乗れば「光の輪」は元マイトレーヤ正大師が居なくても昨日出来るシステムだと思います。



上手く軌道に乗れば「光の輪」は元マイトレーヤ正大師が居なくても機能出来るシステムだと思います。


誰でもいいということですか。

では、彼が人間界からいなくなった後、ヴァジラシァーキニー師が代表になっても機能できるんですな。
上祐氏自身が神仏からのエネルギー?を会員に分配する仕組みになっていないと。
以前の組織では破綻するのが目に見えていますからね。


事件前のオウム真理教は麻原氏がすべてコントロールしていましたし、エネルギー的な流れも、上から下に流れる仕組みでした。

A派は今もそうでしょうな。
小菅にいる麻原氏からのエネルギー?を松本家やアッサ~ジさんが受け止めて、その中継役をしているみたいです。


よし

わたしも「さんでぃたー派」を作るぞ!!

「さんでぃたー派」はA派・中間派・M派・現世の範疇を超えています。

A派も中間派もM派も現世もイヤな方は「さんでぃたー派」に来て下さい。

「さんでぃたー派」ではわたしさんでぃたーが麻原尊師のエネルギーを受けとめてみなさんに注入いたします。

昔大阪支部で「サンディタは魔境に入り自分のグループを作ろうとしているから連絡を取ってはいけません」という通達が出ましたが、あれは真理の実践を妨害する魔の働きによるものでした。

みなさん、魔の働きに負けてはいけませんよ!!

ニーチェに思う


ニーチェの「善悪の彼岸」にかかわらず、ニーチェは、大多数の現代科学者及び心理学者など、多くの後世の人々に影響を与えた思想家ですが、ジョルジュ・バタイユやルネ・ジラールなどは、ニーチェの狂気は彼の哲学によってもたらされた精神的失調だと考えています。大方の解説者はニーチェの狂気と哲学を無関係なものと考えています。

個人的には、ジョルジュ・バタイユの見方に賛成しています。

ニーチェは、1889年1月3日にニーチェの精神は崩壊し、発狂した。それから12年後に死ぬまで、狂人としての日々を送った。最終的に1900年8月25日、ニーチェは肺炎を患って55歳で没しています。
このことからニーチェを論じてはいけないのでしょう。この発狂以降、ニーチェは何も書けなくなっているのだから、ニーチェの哲学はすべてそれ以前の著作からしか導きえないという事実があるからです。

先ず、『権力への意志』がのちに「ニーチェの思想はナチズムに通じるものだ」としてナチスに悪用されたことには、ナチスへ取り入ろうとしたニーチェの妹エリーザベトが、自分に都合のよい兄の虚像を広めるために非事実に基づいた伝記の執筆や書簡の偽造をしたり、遺稿『力への意志』が政治権力志向を肯定する著書であるかのような改竄をおこなって刊行したことなどが大きく影響している。しかし、たとえこれほどの悪意的な操作がなかったとしても、〈善悪の彼岸〉〈超人〉〈力への意志〉など、文字面だけを見れば強権に迎合するものとも見えかねないキーワードをニーチェ自身が多用していたことも事実であるわけです。

しかしニーチェ思想の一部がナチズムに悪用された事実は間違いなくあります。だからといってニーチェ思想の質がおとしめられるわけではないでしょう。

そして、引用されている格言は「善悪の彼岸」の該当部分、これは第4章 箴言と間奏曲 146節に書かれているものであります。

ニーチェの哲学は使うにはかなり注意を要するものだと言われています。ニーチェを「方法」としては読めないということのようです。

永井均さんが『これがニーチェだ』という本のなかで「ニーチェは世の中の、とりわけそれをよくするための、役に立たない」「どんな意味でも役に立たない。だから、そこにはいかなる世の中的な価値もない」「マルクスにはなお復活の可能性があるが、ニーチェにはない」‥‥と。

 むろんこれには説明がついている。ニーチェは人間社会の構成原理とはとうてい両立しがたい反社会的なことを書いた。いわば余計なことをしたのである。だからこそニーチェは凄かったのだ。けれどもその凄さを受け取るには、ニーチェの「問い」を見なければならい。ニーチェから「答え」を引き出したのでは、ニーチェを読んだことにはならない。ニーチェは誰も感じてなどいなかった問題をただ一人で感じ、ただ一人でその問題と格闘しつづけた。ニーチェは巨大な問題提起者なのだ。
といった、興味深いことを書いています。

だから、

> 怪物と戦う者は、その過程で自分自身も怪物になることのないように気をつけなくてはならない。

この「善悪の彼岸」箴言と間奏曲 146節の格言でとらえられることは、おそらく、特定の状況の観察的解釈を施すには有用な見方でしょう。しかしそれ以上には機能はしないものでしょう。

ニーチェには、精神に関する有名な比喩があります。氷上英廣訳岩波文庫によれば

ツァラトゥスラの教説
三段の変化

において、
駱駝、獅子、幼な子

「最初は駱駝のごとくあり、次に獅子となり、最後に幼な子とならん」
という部分があります。

そしてこの一節の最後の方で

幼な子は無垢である。忘却である。そしてひとつの新しい始まりである。ひとつの遊戯である。ひとつの自力で回転する車輪。ひとつの第一運動。ひとつの聖なる肯定である。
 そうだ、創造の遊戯のためには、吾が兄弟たちよ、聖なる肯定が必要なのだ。ここに精神は自分の意志を意志する。世界を失っていた者は自分の世界を獲得する。


別訳文で『ツァラストラはかく語りき』
童子は無垢であり、忘却である。新しい発端である、遊びである。みずから回りいずる車輪である。第一の運動である、聖なる肯定である。そうではないか、わが同胞よ。創造の遊びには聖なる肯定を必要とする。かくして精神は、いま、みずからの意志を意志するようになる。世界を喪失していた者よ、いま、みずからの世界を獲得する。


この視点から、ニーチェの格言を読み直すならば、みずから回りいずる車輪の一点を、示しているに過ぎないでしょう。

逆にニーチェ的「永劫回帰」として、すべてを概観する方法論とみなそうとすれば、

> 怪物と戦う者は、その過程で自分自身も怪物になることのないように気をつけなくてはならない。深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ。

も永劫回帰のプロセスとして不可欠とニーチェはみなしたことといえるでしょう。
駱駝、獅子、幼な子の三段階で言えば、獅子の時もあらねばならないということでしょうかね。

精神の三段の変化は、ある意味で華厳経と良く似た過程を文筆家、ニーチェの著作に観ることもできるでしょう。

しかしニーチェが自己の思想構築故に、自業自得で発狂したのも事実だと思います。

ニーチェの素晴らしい思想の中で、キリスト教的・民主主義的倫理を弱者の奴隷道徳とみなし、強者の自律的道徳すなわち君主道徳を説き、その具現者を「超人」とする思想に達し、機械時代・大衆支配時代に対する批判は、一面ファシズムの支柱ともなったもので、これは同時に、科学的思考をすすめる上で有効な側面です。

わたしはニーチェの、『神は死んだ』、に最も根源的発狂の原因をみます。

『ああ、同情者のしたような大きな愚行が、またとこの世にあるだろうか? また同情者の愚行以上に、大きな害悪を世に及ぼしたものがあろうか? およそ愛する者で、同情を超えた高みを持っていない者は、わざわいなるかな! 悪魔がかつてわたしにこう言った。「神もまたその堕ちる地獄を持っている。それは人間への愛だ」。ついこのあいだも、わたしは悪魔がこう言うのを聞いた。「神は死んだ。人間への同情のために、神は死んだ」。

ニーチェは神の理念そのものの存在を否定している訳ではない。つまりここでは、神の理念が人間の生存の力を弱めて希薄にすること、そしてやがては人間の生への意志を窒息させるであろう事への憤りとして、神を否定している訳である。

わたしはここに統合失調症の原点をみます。

これらの堕落こそも『神の愛』とみなすにはニーチェは純粋過ぎたのでしょうか?


Re: ニーチェに思う

理治さん、さすが、毎度くどい文章、すごいです(笑)

>わたしはニーチェの、『神は死んだ』、に最も根源的発狂の原因をみます
>わたしはここに統合失調症の原点をみます。

「神」のような絶対領域の操作は、一歩間違うと人間の目指すべき至高をも壊してしまうことにもなりかねません。荒っぽく神的領域をぶっ壊すようなことをすると人格が壊れるのもわかる気がします。

教団内ではよく、「煩悩と菩提心の置かれるポジションは同じ場所」と言われています。

エックハルトはニーチェとは違うスタイルで、この領域をどのように浄化すべきか考えていたようです。両者非常に近いテーマについて扱っているんですけど。

「お金が貯まっているぞ」さま
>では、彼が人間界からいなくなった後、ヴァジラシァーキニー師が代表になっても機能できるんですな。
>上祐氏自身が神仏からのエネルギー?を会員に分配する仕組みになっていないと。
>以前の組織では破綻するのが目に見えていますからね。
 グルイズムを完全に廃するならば、各自が直接神仏からエネルギーを受ける形になるしかないでしょうね。

>事件前のオウム真理教は麻原氏がすべてコントロールしていましたし、エネルギー的な流れも、上から下に流れる仕組みでした。
>A派は今もそうでしょうな。
>小菅にいる麻原氏からのエネルギー?を松本家やアッサ~ジさんが受け止めて、その中継役をしているみたいです。
 大本経系の予言書の一つである「日月神示」に、
 「何処の教会も元は良いのであるが、取次役員がワヤにしているのぞ。今の様は何事ぞ」
という一文が有りますが、まさにアーレフ(A派)の現状をよく現していると思います。

 以下、日月神示から抜粋。
(この内容の真偽の判断については各自でどうぞ。)

 「神から出た教えなら、他の教えとも協力して共に進まねばならん」
 「教派や教義に囚われるは邪の教え」
 (その様な邪な教えに囚われている人に対して)
 「そなたは一度神を捨てよ」
 「神にしがみついているから小さい囚われた、ゆとりのない神をそなたが作り上げているぞ」
 「信ずれば信ずる程危ないぞ」
 「大空に向かって大きく呼吸し、今までの神をすてて心の洗濯をせよ」
 「神を信じつつ迷信に落ちていると申してあることよく心得よ」ect.


蛇足:「さんでぃたー」さま
 貴殿は嫌悪を背景にした綺語妄語に価値を置く方みたいですけれども、コメント内容もHNの付け方もかなり魔境っぽいですね。

一度神を捨てる

>「そなたは一度神を捨てよ」

それによってもう一度神を得ることができる。と続くのだろうか。

> グルイズムを完全に廃するならば、各自が直接神仏からエネルギーを受ける形になるしかないでしょうね。

実際、今までのように入信してすぐ夢見が変わってクリアになったり、エネルギーが覚醒したりとかあるんでしょうかね?何らかの形で高い世界とつながって中の人が幸せになればそれでいいのですが。
「エネルギーが来てるんだ。それを信じろ」では弱い。

他力と自力

> エックハルトはニーチェとは違うスタイルで、この領域をどのように浄化すべきか考えていたようです。

確かに
神との合一、そして神性の無を説く。
「汝の自己から離れ、神の自己に溶け込め。さすれば、汝の自己と神の自己が完全に一つの自己となる。神と共にある汝は、神がまだ存在しない存在となり、名前無き無なることを理解するであろう」

このようにテーマを扱っているようです。それはおそらくニーチェも知っていたかもしれません。
マイスター・エックハルト(1260年頃 - 1328年頃)
     ↓
後世への影響
フリードリヒ・シェリング (1775年1月27日 - 1854年8月20日)
ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル (1770年8月27日 - 1831年11月14日)
アルトゥール・ショーペンハウアー (1788年2月22日 - 1860年9月21日)
フリードリヒ・ニーチェ (1844年10月15日 - 1900年8月25日)

わたしはこの方々すべてを精査した訳ではありませんが、一つだけ共通項を見いだことができると思います。

仏教的無我に近づいたマイスター・エックハルトの卓抜な思想、ネオプラトニズム的な思想は、教会軽視につながるとみなされ、異端宣告を受けることとなったようです。

日本では原始親鸞さんの教えが消えていくことを嘆いた唯円房の『歎異抄』があります。親鸞さんのもとでつくられた教義を根底として本願寺教団を設立し組織化した覚如、そして蓮如によって一躍大成した教団となったが、徳川の中期まで、長い間『歎異抄』は秘本として秘されている。

この二つには極めて良く似た部分があります。
エックハルトは神の本質を神性の無と表現する。有として形ある神は突破されなくてはならない。純粋な有たる神が本質的には無であり、無に徹した我が最高の存在になるというのは無と有を峻別しながらも一体化した境地である。「生むもの」と「生まれるもの」は、一方が能動、もう一方が受動であるという以外は全く同じ一つの「生」であると言われる。エックハルトは一切の神の像から脱し、神と合一した自己をも捨てた究極の無を目指している。

「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずればひとへに親鸞一人がためなりけり」

この両者を押し進めると、教会軽視、本願寺教団軽視となりかねない落とし穴もありそうです。また方便である象徴的な種々の聖なる形あるものを、すべて排除しようとする危ない落とし穴がありそうです。

この両者は、懺悔において異なり、ひとたび罪深い人間が念仏をして仏の光に包まれたらもうそれで良く、何度も個々の罪の懺悔をしないと許さない道徳的な神ではなくて、こざかしい道徳理性のはからいを捨てて自然に生きることこそ他力の教えであるとし、自然法爾を強調した部分があります。ここで、唯一日本的霊性・東洋的霊性とも言えるかもしれない部分で、一神教的要素と極端に異なります。

そしてどこにも書かれていませんし誰も明言しないと思いますが、親鸞さんの生き様は、密教の処し方としか解し得ない部分が見え隠れしています。

やり過ぎは、結局なんであってもの変化への可能性をはらむのでしょう。

この対比的相異は日本哲学の祖、西田幾多郎と田邊元の対比としても現れているのかもしれません。

それは他力の西田、自力の田邊の両方からの、調和を保って生み出すこととなった『絶対無』、西田は「絶対矛盾的自己同一」を本質として自然な叡智性が他力をもって有を肯定し、田邊は「種の論理」の有の世界から自力をもって有の殻を破って、中から、無即有にして有即無の『絶対無』の姿を現そうとしているのかもしれません。

様々な差異性があってそれで良いのではないかなぁ。

しかし、狂気と叡智を別けるとすれば、それは個別的潜在意識に深く根ざす無意識の状態の違いに、どのように衝撃を与えるか?に依存してることに違いはないでしょう。

「記号表現」「能記」と「記号内容」「所記」の両者の中で能記と訳されることもあるシニフィアンに、絶対者、普遍者、「父の名」のような、体系性・真理性を支えるものの機能を、解除や取り外しを行ってしまうと、狂気にはまる場合が往々にして西洋では生じているようです。それはフロイトとラカンによって指摘されています。

ところが日本的霊性・東洋的霊性の視点を鳥瞰すると、もともと、仏教的接近、特に日本においては、どんな「神」にも「仏」にも、すべてを理解したり、すべてをおこなったりする力は与えられていなかった。このような世界では、いまだかつて「神は死んだ」と言われるような事態は起こることはなかったのです。なぜなら日本(東洋)ではいつも「神は不確固である」という事態が続いていたのですから、日本ではずっと無神論を生きてきていたともいえる長い集合的無意識の状態があるのです。

そこへ、マハー・ニルヴァーナは絶対的に、自由・幸福・歓喜の実体がある場所がこの心の外側のどこかにあるかのような、謬見解の観念を植え付けられるような無意識の状態を構築されてしまった者達にとって、この拠り所である、体系性・真理性を支えるものの機能を、解除や取り外しを行ってしまう働きかけが起きれば、そこに大きな動揺が生じるのは必然でしょう。

本来的に集合的無意識中に有害ピースが混入して、その有害物に依存している限り安穏であるかのような錯覚が供与されているのに気付かないか限り、その有害ピースを除こうとすれば混乱が生じるのでしょう。

しかしそれは有害ピースです。それは、なにかに不変の実体があると思い込むことでしょう。

それは手段であって目的にはなりえないピースなのです。

不変の実体を設定しようとすることから離脱を果たそうとするのがダルマであるはずなのに!
ややもすると、これは変化しないものだというものを設定してしがみつこうとする。我々は弱い生き物なでしょうね。


空っぽという本質

相変わらずヘビーですね。
うう、修行者の胃袋には重い。

>純粋な有たる神が本質的には無であり、

教団内では「無」という表現は肯定的に用いられていません。どちらかというと「虚無」という意味で用いられます。
なので、この文脈では教団内の表現では「空」と置き換えるとしっくりきます。固定的な実体が詰まっているわけではない、ブッダの本質としての空性等。

>この両者を押し進めると、教会軽視、本願寺教団軽視となりかねない落とし穴もありそうです。また方便である象徴的な種々の聖なる形あるものを、すべて排除しようとする危ない落とし穴がありそうです。

外枠を失うと、その本質である空性も失われる危険がはらみます。

>「記号表現」「能記」と「記号内容」「所記」の両者の中で能記と訳されることもあるシニフィアンに、絶対者、普遍者、「父の名」のような、体系性・真理性を支えるものの機能を、解除や取り外しを行ってしまうと、狂気にはまる場合が往々にして西洋では生じているようです。それはフロイトとラカンによって指摘されています。

虚無はすぐにぺしゃんとつぶれる。本質が空である存在は、その場の空間、空性を保ち続けることができる。

>不変の実体を設定しようとすることから離脱を果たそうとするのがダルマであるはずなのに!
>ややもすると、これは変化しないものだというものを設定してしがみつこうとする。我々は弱い生き物なでしょうね。

以前、ある成就者が深い瞑想の中で「最終解脱するにはどうしたらいいのだろう?」と問うと、天から「無常」と一言聞こえてきた、というエピソードがあります。

>虚無はすぐにぺしゃんとつぶれる。本質が空である存在は、その場の空間、空性を保ち続けることができる。

空性についてもっと細かく言うと、器に満たされた透明な水のようなもの、と言われていますが、ここはまだ自分の中では理解、説明できていません。

サンディタさまへ

 貴殿は嫌悪を背景にした綺語妄語に価値を置く方みたいですけれども、コメント内容もHNの付け方もかなり魔境っぽいですね。

みなさま、わたしのように日月神示を読みましょう!!

 大本経系の予言書の一つである「日月神示」に、
 「何処の教会も元は良いのであるが、取次役員がワヤにしているのぞ。今の様は何事ぞ」
という一文が有りますが、まさにアーレフ(A派)の現状をよく現していると思います。

 以下、日月神示から抜粋。
(この内容の真偽の判断については各自でどうぞ。)

 「神から出た教えなら、他の教えとも協力して共に進まねばならん」
 「教派や教義に囚われるは邪の教え」
 (その様な邪な教えに囚われている人に対して)
 「そなたは一度神を捨てよ」
 「神にしがみついているから小さい囚われた、ゆとりのない神をそなたが作り上げているぞ」
 「信ずれば信ずる程危ないぞ」
 「大空に向かって大きく呼吸し、今までの神をすてて心の洗濯をせよ」
 「神を信じつつ迷信に落ちていると申してあることよく心得よ」ect.


警告!
神の道「日月神示」に触れると、現世的な不幸が一気に訪れます。
だから、丑寅(艮)の金神は恐ろしい(正確には「国常立大神」という大変厳し
い正神)。
丑寅の方位に当たる北東を汚してはならない。
鬼門だ、とされてきたのです。(そうやって正神が押し込められてきたのです)
現世利益を求める人々(と神)によって。
しかし、そんなことは言っていられなくなっています。


心の平安を、真の幸せを求めたければ、お読みなさい。
http://mo-v.jp/?90e6
http://mo-v.jp/?90ec

『この道に入ってはじめの間は、かえって損したり馬鹿見たりするぞ。
それはメグリとっていただいているのぞ。それが済むと苦しくてもどこか光見出
すぞ。
お陰の始め。次に自信ついてくるぞ。』


本格的に知りたい人はこれ。
http://mo-v.jp/?90ed

『この神示読んでうれしかったら、人に知らせてやれよ、しかし、無理に引っ張
ってくれるなよ』




これがサンディタが日月神示をすすめる理由です!!

以下の文章は地下鉄サリン事件直後、教団のHP http://aum-internet.org/aum7/1/01/ で紹介された投稿です。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

以下、この文内容は私の友人和田氏よりあずかったもので、かわりに何度かここへアップしてみますのでよろしく。m(_ _)m
--------------------------------------------------------------------------
始めに断っておきますが私はオウム信者でも俗にいうシンパでもありません。
たぶんみなさんと同じような意見(すべての事件はオウムの仕業)の持ち主だと思います。

しかし、これからお話することは実際に家であったことで、いまだ信じられないというか、不思議な最近の出来事です。

この事は私の友人(通信をしている本人です)だけにはなんとなく話していました。
私はパソコン通信ができませんが、その友人が「オウム関連の事ならパソコン通信で結構よく論議されているよ。その事を通信にあげてみようか」と言ってくれたので友人の通信をかりてこの事を話してみようと思い、文にしました。

私は和田と申します。(フルネームはごめんなさい)

最近になって仕事で都内に出てきております。さて、実家の父の祖父(つまりひい爺ちゃん)は一般の私達から見ると実に変わった人でした。

私も詳しくはわかりませんがひい爺ちゃんは中国仙道密教というらしいのをやっていて、私が小さい時にたまに「おもしろいものを見せてあげよう」といって気の力を使って(気功?)窓にかかっている長いカーテンを浮かせて幼い頃、わたしを驚かせ喜ばせてくれました。そのカーテンは今でも家の窓にかかっていますが
かなり厚手で長く重いので静電気等などの仕掛けで浮くようなシロモノではありません。それをほぼ床と水平になるまで(60度~70度くらいかな)浮かせ持ち上げてしまうのです。

そして、不思議なことにひい爺ちゃんの言うことは必ず現実のものとなりました。

たとえば、日本にバブル経済が襲ったときもひい爺ちゃんはその7ヶ月くらい前から「もうすぐこの国のお金はナベの泡のごとく消えてゆくことになる」(その後のバブル崩壊、つまり”泡”という表現まで当たってた事にはさすがの私もたまげました)


日航機の墜落の3ヶ月位前にも「空を飛ぶ乗り物が落ちて、大事になるゾ。それも一度だけではない」(つづいてその後、中華航空機墜落などの大惨事があったのでビックリした)神戸の地震の時もその前の年から「国の西方で大地が揺れ落ちて多くの人に悲しみが襲いかかるから旅には出るな」と言っていたり、米不足のときもその前年から「国が冷え、米がなくなる。1年分位は買いだめしておきなさい」と家族や親戚のものに言っていたり、猛暑での水不足など・・・。

小さなことから大きなことまでいくつかあります。
しかも、ひい爺ちゃんはほとんど睡眠なし(1日平均すると1、2時間睡眠)で生活しており、寝るときも横にならず、座椅子(お年寄りがよく使っているやつ)
で動かず目を閉じているだけでした。食事も一日に一度少量しかとりませんでした。

このような力はさることながら、100歳以上にもなるのにボケの症状も全くなく、言葉も聞き取れるほどシッカリしており、杖なしで歩けるのには家族共々いつも驚かされていました。

さて、それらは前おきとしてこれから家のひい爺ちゃんから聞いた信じがたい話をします。(いまだに私も半信半疑です)

私は宗教にもさほど興味もなく、よく知りませんが、ひい爺ちゃんの話しによると昔、戦前に大本教というのがあってそこの教祖に”出口オニサブロウ”という人物がいたそうです。話しによるとその出口オニサブロウという方と家のひい爺ちゃんは深い交友関係にあったみたいです。(ひい爺ちゃんはそこの信者ではなかった
そうですが、出口オニサブロウと肩を並べてとっているモノクロ写真が実家にあります)

当時、その大本教は世界を支配する組織の事や世界大戦などが起きる事を予言したため国家から激しい弾圧を受け崩壊、教祖たちは投獄へと追い込まれてしまったそうです。

以下、出口オニサブロウの事を私に話してくれたひい爺ちゃんの言葉から断片的にあげると、

「出口はかなりの力を持っている人物じゃった。しかし、イシャ(どうやら世界を
 支配する大組織?を指している言葉のようです)の力と能力は並大抵のものでは
 ない。普通の人間が何千何万と、かかっていっても勝てるような相手ではない。
 ・・・・・しかし、出口はわしだけにはこう言っておった。
  わし(出口オニサブロウ)は多くの民のため世直しをしようと思ったが完全な成功までにはいたらないようである。しかし、そう遠くないうちにわしの意志を実現させてくれる人物が現れるであろう。そのお方は世直しだけでなく、悪に染められた多くの人々の心を正せる偉大なる人物じゃ。わし(出口)はそのお方
 にお会いできるまで生きてはおれぬだろうが、お前(家のひい爺さんのこと)はそのお方を目にする事になるはずじゃ。と・・・・・」

とうてい私はこの話しを聞いていたとき、まさかこの先にあげるような出来事になるなどと想像すらできなかったし、しなかった。

数ヶ月位前かのある夜。「テレビを見たい」といって(ひい爺ちゃんは今まで何故かテレビや新聞雑誌など全くといっていいほど見なかったのだが...)夕食後の私のいる部屋へひい爺ちゃんがきた。

以下、その時の会話を思いだしてできるだけ再現してみます--(ちなみに祖父の事を小ちゃい爺ちゃん、ひい爺ちゃんの事を大っきい爺ちゃんと家族では呼んでます)

私 「今、面白い番組はやってないよ。どこもオウムのニュースばかりやってるから、いいの?」

曾爺「・・・・・・・」

しばらくオウム特集のニュースを見ていて....

私 「まだやってる。早く、麻原白状すりゃいいのに。幹部たちはもう白状しだしたのにいつまで黙っているつもりなのかね・・・信者も信者だ。まったく!
   でもほんと、この事件の被害者はかわいそうやね・・・大っきい爺ちゃん」

曾爺「・・・・この人物じゃ」

私 「えっ、何が?」

曾爺「・・・・この人物が出口が言っておった人物じゃ!」

私 「???!えっ?この人って・・・この麻原のこと・・・これが前に話してくれた出口さんの意志をつぐような偉大な人のこと?」

曾爺「そうじゃ!この人物に間違いない!」

私 「?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!」(この時ばかりはさすがの私もひい爺ちゃんもついにボケが始まったのか、あるいは頭がおかしくなってしまったのかと真剣に思ってしまった)

私 「だって!大っきい爺ちゃん。こいつはサリン事件や殺人事件や国家転覆を企てたテロ集団のうそつき教祖なんだよ!・・・シッカリしてよ。爺ちゃん
   ずっと新聞やニュース見てなかったから知らないんだよ。
   出口さんの言ってた人物はきっとほかの人だよ。こいつじゃないって!」

   (と、私はかなり息巻いてました)

曾爺「(目を閉じて)・・・このお方に間違いない。
   お前にはわからなくて当然じゃ・・・出口もどんなお方か、見たかったに違いない・・・」

と言い残して自分の部屋に戻ってしまった。

わたしはそのニュースの続きを終始隅々まで見て、どこにひい爺ちゃんが言ったようなことが感じられるのか探そうとしたが全くもって理解に苦しむどころかサッパリわからなかった。それからひい爺ちゃんの部屋へ行き・・・・・

私 「大っきい爺ちゃん。さっきの話し、どうしてか?どういう事か聞かせてよ」

曾爺「・・・・・・あのお方(麻原の事)には敵、味方の区別すらない。
   普通の人にはあの人物の内(?)なる真の姿は見えないだろう。ただ心をカラにしてのみ、その光(?)が見れるようになる。・・・・出口もかなりの人物じゃったが、あのお方とは比較にならない。
   ただ、あのお方のみに確信を持ち、ついていけばよいであろう」

私 「ついて行くって!こんな事件を起こして、誰があんな人について行くの!
   洗脳された信者は別として誰もあんな奴についてなんかいくわけないよ!
   ・・・みんなはほかの宗教や教祖の方がまだマシだっていってるよ。
   ・・・だってあのサリン事件やリンチ殺人の事実は何なの、元信者や幹部といわれている人たちの証言は何なの?新聞やニュースで言われている事はウソだというの?」

   (と、老人相手に私はまたも息巻いてしまった)

曾爺「今の世・・・・・真とよばれるものは偽であり、偽とよばれるものは真である。すべては壮大なカラクリじゃ、それ以外に真実はない・・・・・
   どのような学者や知識ある者が考えようが、イシャがこしらえた囲いから抜け出すことは難しい。イシャのカラクリを理解することは不可能に近い
   じゃろう。真に理解しえている者はあのお方以外に存在しないだろう」

私 「・・・?、じゃあ私たちはこれからどうすればいいの?どうなるの?」

曾爺「そう遠くないうちに多くのものたちが、真に気づかされるような大変動がこの世に起きるだろう。それがあのお方を指し示すことになるだろう。
   そして、必ずや大きな力を見せてくれるに違いない・・・・・・しかし、それまでには多くの惑わせが現れよう。お前も騙されぬよう十分気をつけなさい」

私 「???・・・」(このあたりで、もうすでに私は何を信じていいかわからず、唖然としていたように思う)

曾爺「・・・わしは、もうすぐ行かねばならないだろう。出口の言っておったあのお方をこの目で見れただけでも、この長きを生きてきたカイがあったというものじゃ・・・・」

私 「行くって?・・・・」

それから3日後、ひい爺ちゃんは亡くなってしまった。

不思議な事に亡くなる時もひい爺ちゃんはいつもの座椅子にかけたまま静かに眠るようにして呼吸が止まっていたのです。

実家にはひい爺ちゃんが大切にするようにといって持っていた「日月ノ神ノ啓示」と書かれた桐箱に入った巻物みたいなのがあり、内容は昔の言葉で表現されているので私にはよくわかりませんが、ひい爺ちゃんによるとすべてのことがそこには記されているのだそうです。


今までのひい爺ちゃんをよく知ってるので私はその言葉がウソとも思えず、なにか不思議なような・・・どうなっているのだろうかという感じです。
みなさんもウソだと思うでしょうが、(話している本人が信じられないのだから)家であったひい爺ちゃんと私のあいだの出来事です。


さんでぃたー さま
>これがサンディタが日月神示をすすめる理由です!!
 その記事は未だに裏が取れていない故、私の中では「真偽不明」に分類されておりますので。
 ご愁傷様。

サンディタさんへ

>ご愁傷様。

誰も身近な人死んでませんから~、残念!!




絶対の肯定と否定、その固さ

> ただ、私はM派で「絶対に絶対はない」などと主張している人を見た事がありません。
> VT正悟師は、いつどこで誰からこの様な話をお聞きしたのでしょうか?
> 私が直接M派と接して感じている事は、「A派上層部や一部のアンチのような狂信的な人達は少ない」という事です。

上祐氏が「人は神になることは出来ない」とはっきり強調して言っていたことは憶えています。この場合の「神」は文脈上、絶対的存在という意味合いでしょう。よく寺社仏閣巡りをされているようですが、この場合は「神」というより「上」(人間より高い存在)という意味で捉えているのでしょう。

「人は神になることは出来ない」
これはちょっと微妙ですね。なぜ微妙かは、ここのコメントを追っかけてもらえばだいたいわかると思いますが。この絶対者否定は、Mグループの「固い」パートです。

上祐氏の「人は神になれない」としつつも、自分を神格化しつつある、っていう指摘は複数から聞きます。「なんだかんだ言って彼が教祖ですから」といってあげると、みんな「そうだよね」って納得します。

機関車教団

>上祐氏の「人は神になれない」としつつも、自分を神格化しつつある、っていう指摘は複数から聞きます。「なんだかんだ言って彼が教祖ですから」といってあげると、みんな「そうだよね」って納得します。

上祐氏の結論も、それまでの本人の経験からか、相当な信念に基づいていると感じました。むしろ周りが上祐氏に絶対者のように自分たちを引っ張っていってほしいと思っている、その現象化という側面もあるかと。救うほうと、救われるほうのギャップというのはイエス・キリストの時代からありますよね。
『だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。』

自力と他力のクロスオーバーする領域に、解決の糸口があるのではないかと思っています。

先頭車両だけが牽引力、駆動力を持つ機関車列車
個々の車両が自走力を持つ電車列車
仮に十万両、百万両編成と、どんどん大きくしていって、実際に「大きな乗り物」として走る事が出来るのはどちらの方式かをイメージすれば自ずとわかることだと思います。

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