元オウム教団幹部 野田成人のブログ

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◆2003年10月07日
援助交際・ソープランドでご満悦? 本当の幸せ・本当の幸福とは? No.5

 さて、“いかにして欲望をコントロールするか”の続きです。

k5-2.jpg 今度は援助交際の話で、男性側の話です。相手が18歳未満であることを知りながら児童売春した場合は、法律で罰せられるわけですが、これで逮捕された人の中には、医師や政治家などの高い地位にある人のみならず、弁護士や検事、さらには裁判官までいるという有様です。

 人に迷惑をかけないなら、合意の上だし、いいじゃないか……という感覚もあるのでしょう。しかし逮捕されてしまったなら、失う物も大きいです。ではなぜそれほどリスクの高い行動に出てしまうのでしょうか?
 それは一つの大きな原因として、情報に惑わされているということができるでしょう。

 巷に溢れている援助交際に関する情報によって、「みんながやっていることだし……」「若い子と遊べたらきっと刺激的で楽しいんじゃないか……」という考えで、手を出してしまったという方も少なくないのでは? しかし本当に援助交際が楽しいものなのかどうかは、その情報とはまた別物です(実際逮捕なんかされたら悲惨ですし)。

 私は高校時代、兵庫の進学校に通っていました。その学校は校則も厳しく、“不純異性行為は退学”というところでしたが、ほとんど男性ばかりでしたので、皆、異性とは縁がありませんでした(もちろん、その頃は援助交際なんてものもなかったですが)。しかしやはり皆、潜在的に性に対する興味があったのは間違いなく、いろんな情報を入れていました。

 ある時、その学校を成績不振で退学になったW君が、待ちに待ったソープランドに初めて行って来た時の話をしてきました。

「楽しみにしていったけど、射精したら終わりで何かあっけなくて……。こんなことにお金を3万も使ったのも馬鹿馬鹿しくなって……」

k5-1.jpg 異性との交わりは楽しくて素晴らしいかのような情報が、巷には溢れていますが、実際それによって永遠に満足するということはありません。むしろ逆に、常に情報に踊らされて、青い鳥を追いかけて、捕まえたと思ったら「これでもない、これでもない、私の求めていたのはこれでもない……」とフラストレーションに陥っているのが現代人の姿ではないでしょうか?

「幸福度=所得/欲望=物/心」の公式で考えてみると、氾濫する情報によって欲望だけがどんどん増大していけば、欲求不満になり幸福度もどんどん低下していってしまうことになります。
 ですから欲求をコントロールするには、情報遮断も一つの大きなポイントといえるでしょう。知らぬが仏、知らなければ、あるいは情報があっても気にしなければ、翻弄されることはありません。(つづく)

コメント


いまね。

火の鳥の解説本読んでたんだけど、ロボとかコンピュータと日本人はうまく共存してけるだろうでも、寄りかかりすぎてはいけない と書いてあった。
ソープの話なんだけどwなんかピコーンってこれきた。
ネット=情報 みたいなことに実際なってるので、情報の遮断とは、そういう意味合いをさすんじゃないかとおもう=寄りかかりすぎてはいけない。
ちょと野田ちゃんもよんでみてー。わしとこのレビューにあるから!
アマゾンで164円くらいだから!w

情報捨断・情報収集

>ですから欲求をコントロールするには、情報遮断も一つの大きなポイントといえるでしょ 
 う。知らぬが仏、知らなければ、あるいは情報があっても気にしなければ、翻弄されること はありません。


 多くのサマナ・信徒はオウム事件に関して情報捨断の実践をしてきました。情報捨断が修行を進める大きなポイントであると教えられてきたからです。

 その結果、オウム事件によってどれだけ多くの人がどれだけ多くの苦しみを経験することになったのか知ることがなく、「知らぬが仏」の状態になっていました。

 多くのサマナ・信徒は「自己の苦しみを喜びとし、他の苦しみを自己の苦しみとする」という詞章を唱え続けながら、オウム事件の被害者たちの苦しみを見ないようにしてきました。

 サマナ・信徒がオウム事件の被害者たちの苦しみを直視することは苦しい実践ではありますが、これこそ「他の苦しみを自己の苦しみとする」実践なのではないでしょうか?

 情報捨断は寂静の修行には有効な実践ではありますが、情報の欠落によって現実認識を誤らせるという側面もあります。

 上祐さん、野田さんがネットで情報発信しているのは教団を取り巻く現実をサマナ・信徒に認識させるのに大変有効だと思います。 

 わたしはネットで教団の悲惨な現状を知り教団を離れることを決めました。

 そして教団を離れた今もネットで教団の現状を知ることができます。

 ネットが見れるサマナ・信徒の方は教団を取り巻く現実に関する情報をしっかり収集していただきたいです。
 

現在のアーレフ勉強会のレベル

553 :神も仏も名無しさん:2007/05/21(月) 20:05:37 ID:sxPXvouL
5月19日(土)勉強会
東京道場に移動になったナンダカ師
「形のある修行と形のない修行」と言うテーマ。最近の大阪道場での話
矢面に立って住民の対応をされたことのなかった師
「なぜ自分がこのような対応をしなければならないのか?」自問自答
ところが、最近「カルマの流れに任せる」と言う心の働きに変化
本質的にカルマが落ちて、現象が変わった

ここから「本質的にグルが弟子に何を望むのか?」と言う話
つまり、一般的には結果が出せる出せないと言うことにとらわれがち
グルはそこに価値を見出してるのではない
「いかに弟子の修行が進むのか」に重点を置かれてた

関連する様々な例題
エピソードとして、グルがある弟子をチベットの翻訳に現地に行かせた
何の結果も出せなかった。グルは、はじめから結果が出るとは思っていなかったそう
弟子はチベットに行くカルマがあって、それを落とす必要があった
つまり、本質的に弟子のカルマを落として修行を進ませる深遠なマハームドラーの話
何よりも鬱になるくらいカルマ落しが続いている、とてもタイムリーで有難かった

メッターダッシン師やソーパーカ師の補足
結果も大切だが、結果よりもいかに瞬間、瞬間に全力を尽くせるかがポイント

感想
「とても深遠なお話をありがとう。言い訳をせず、与えられたことを淡々となせる強い帰依を培いたい 」
「ナンダカ師が東京道場に来られて、だいぶ雰囲気が変わった感じ、これから楽しみ」
「高度だけど、面白いお話。グルと弟子の関係というものを強く認識。今の環境をカルマに当てはめて苦しい状況に耐えて行きたい」
実践は難しいですが、解りやすい内容。サマナや師の方々から「こうしませんか?、して下さい。」 と言うのも、グルからのお言葉と思って「はい、解りました!」心がけてはいますが、なかなか言えない時もある。増やして行かなければと思います」

皆さん、出来るだけ自己のカルマ落しを心がけて頑張って行きましょうね!

シャンバラPV情報

シャンバラではサマナに来た郵便物をすべて無断開封チェックされる
親などからきた郵便物は中を無断で読まれてかってに破棄される
国民年金の払い込みも破棄
しかし、師は払っている
師に来た郵便物は開封されることはない

親と会って郵便物の返事がないことを言われてやっと気がつく
師に聞くと昔からそうだからという返答
ひどい
本人の了承を得てないのだから違法行為

大丈夫です、「今度勝手に開けたら封印破棄罪(?)で告訴するからな、絶対開けるなよ、ゴルァ!!」で担当サマナも師も何も言わなくなります。実際そうやっている人知っています。

但し脅迫とかにならない程度に。

神は自ら助けるものを助く。

これひどいよね

>国民年金の払い込みも破棄
 しかし、師は払っている
 師に来た郵便物は開封されることはない


 これひどいよね。
 サマナ・信徒から得た布施を師の老後の生活のために使われちゃうんだから。

 それでサマナには年金を払わせないと。信徒でも極限の布施している人は年金払っていないかもしれません。

 これは教団幹部は老後の安泰をはかろうとし、サマナには教団に経済的に依存せざるを得ない状態を作り出しています。
 
 わたしもサマナ生活が長かったのでその間はきちんと年金が納められませんでした。
 脱会してやっとまともに年金が払えるようになりました。不払い期間が長いので、相当減額されます。

 国民年金は満期で納めても月に支給されるのは6~7万円程度です。
 国民年金だけでは少ないので、厚生年金や他の年金型保険、共済などを納めて、月の支給額を20万円以上にするのが普通です。

 地下鉄サリン事件直後には師が財施部サマナからの布施を持ち逃げして教団から出たというケースもありました。

 わたしが教団を離れようと思った動機の一つに
「このまま教団にいたら信仰心も人生も経済もめちゃくちゃにされてしまう!」という大きな危機感がありました。

 脱会したことによってやっとこれからの人生設計ができるようになりました。

 結核患者問題といい、郵便物破棄問題といい、シャンバラ・パールのサマナがいかに虐げられているのか非常によく分かります。

 サマナはもともと「救済されたい、救済したい!」と思って出家したはずです。
 しかし今は「救済される・救済する」どころか、破綻に向かっているように見えます。

「教団に価値を見出し教団に身を委ねる」のも
「教団を離れ社会復帰する」のも自由意志・自己責任です。

サマナの皆さん一人一人の幸福を祈っています。

滝本ブログ転載

http://sky.ap.teacup.com/takitaro/
2007/5/21
「心のあり方、悪しき相対主義」  オウム・カルト・犯罪
上祐さん、5月19日配信の上祐さん説法を聞きましたよ、
楽と苦、悪と善の輪
ふっー、変わっておられないですね。

心のあり方ですか。そして絶対的な悪も絶対的な善もないと。
その発想が、麻原思想の基盤なんだけれどね。

そりゃ、相対的なものの見方は必要さ、
だが、自分は絶対善をしたいんだ、自分は絶対悪をしたくないんだ
とまず前提におかなければ、
そして絶対悪ってなんだろう?、
と自分で考え続けなければ、容易に陥穽に陥るさ。

それが、オウム信者のした極悪非道の行為なんですが。
上祐さんの法友がしてしまったことなんですが。
上祐さん自身が、偽証罪・文書偽造罪をしてしまった原因なんですが。

自分のプライドを守るための説法ごっこにしか見えないです、
悪いけれど、上祐さん。

なさけないよ、相手をしていても余りに。

閑話休題

>これひどいよね

ええひどいです。それに気づけないサマナも哀れだと思います。
VTさん、この年金問題もサマナに知らしめてやってください。
ほんと教団って欺瞞が満ち満ちていますね。
それに気づいて行動ができない廃人のようなサマナ達が哀れでなりません。



そういえば昔其処に

全員分の『選挙のお知らせ』を確認もせず捨ててしまった事務員さんもいました。

当人曰く、どうせ投票には誰も行かないと思った からだそうです。
この人は、聖なるサマナが凡夫に投票すると悪業になるとでも思っているのでしょうか?

悪い事と知っていて犯す犯罪よりも、良い事していると思い込んで犯す犯罪のほうがよっぽいど性質が悪いですね。

スマン ミスタイプ


よっぽいど性質→よっぽど性質

パズルの答え

216 名無しさん@3周年 04/05/16 19:30
>>213
オウム問題は国家権力の介入と切り離して語ることは出来ない
オウム発足時から公安のマークは続いていた
217 名無しさん@3周年 04/05/16 19:34
>>212
ていう事は、裁判所の判断は支持するって事?
218 名無しさん@3周年 04/05/16 19:39
>>216
何でそんなことわかるの?
マークしてたんなら、かりやさん事件もサリンも
未然に防いで欲しかったな。

で、マークされてるって思うような悪いことなんかしたの?
233 名無しさん@3周年 04/05/16 21:12
>>218
>何でそんなことわかるの?

それは信徒への郵送物の発送を手伝った事もあるからだよ
途中で郵送物が抜かれて届かず信徒から問い合わせがあることはしょっちゅうだった
また宅配業者からも「お宅の荷物は途中でこじ開けられている事が多い」と何度も言われた
これは熊本県警が関わった国土法事件より先の選挙後の1990年位から特に酷くなった

>マークしてたんなら、かりやさん事件もサリンも
>未然に防いで欲しかったな。

だから泳がしてただけだって散々これまで言ってきただろう

>で、マークされてるって思うような悪いことなんかしたの?

それは選挙に出た事が大きいだろう
創価学会が本格的に叩かれ出したのも国政に参加しだしてからだし

236 名無しさん@3周年 04/05/16 21:44
郵便局も、運送業者もグル?ちょっと信じがたいけど。

泳がしてたけど悲劇を未然に防げなかったとしたら残念ですね。

でも、結果的にマークするに値する状況があった訳だ。
237 名無しさん@3周年 04/05/16 21:48
>>236
>郵便局も、運送業者もグル?
違うよ
受取手の郵便受けなどで抜き取るのが典型的な公安の手口
宅配便は途中で盗むしかないだろうな

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>シャンバラではサマナに来た郵便物をすべて無断開封チェックされる
親などからきた郵便物は中を無断で読まれてかってに破棄される
師に来た郵便物は開封されることはない・・・
親と会って郵便物の返事がないことを言われてやっと気がつく
師に聞くと昔からそうだからという返答

251さんパズルの答え見つけたかな。




麻原彰晃のシークレットヨーガは3分から5分くらいで3万でした。
あんな詐欺師と面談して金払うなんて、本当に馬鹿馬鹿しい!
洗脳が解けた今は、そう思います。
ソープランド行くほうが遥かにマシです。

ソープランドの功徳

3万使って、ソープがむなしいものであると勉強してきたご友人は、
まことに良い経験をしてこられたようですな。
また、その話を聞いた上で、今度は自分が行かれて、
案に相違して結構満足できた、という人もいたと思います。
結局ソープそのものが良いわけでも悪いわけではなく、
行ったお客の身心の状態、女の子との相性によって
結果は変わってくると思います。

ある一例を挙げると、
疲れやストレスが極端に溜まっている時の方が、
風俗を必要とするし、また満足できる、という友人を知っております。
私は風俗とかお水とか、そういう場所を好まないのでわかりませんけど、
その私の友人の感覚が多くの男性の傾向であるとするならば、
大して疲れやストレスの溜まってなさそうなVT正悟師のご友人(またその年齢)では、
少ない満足感しか味わえなかったのではないか、という予想もできますし。

そもそも風俗は、ある種の人たちにとっては生きた勉強のできる現場でもあります。
あの空海でさえ売春宿に通っていた、という話があるくらいですし、
一休宗純禅師も売春宿に入り浸り、最期まで女性が傍にいたわけで、
一概に不浄な場所、有害な場所として片付けることはできません。
第一、勤務している女性にとっても、仏道修行の場とすることも可能です。
中にはその種の業務に大変向いていて、天職といえる女性もいます。
ダーキニータイプの人とか、ヴァジラヤーナの菩薩タイプ、という感じの人には向いていて、
その他の大半の女性のような、悲惨さや不自然さを伴わずに、
その種の職業であり続けられる人というのがいるものです。
どうやらそのタイプらしい人と、しばらくメル友していたことがありました。
そういうタイプの人には、男性諸氏は本当に癒されるそうです。

売買春は犯罪です

売買春を肯定される事に強い不快感を感じます。

 情報の無いアフリカのど真ん中でも、売買春は行われ、性行為を金銭で買うという経済行為は人身売買にとつながり、人権を抑圧し、衛生環境を破壊しています。

 売春をして生きざるを得ない人達の状況と修行はまったくちがいます。一度女性センターなどにいって職員に話を聞かれるのが良いのではないですか。

絶対善絶対悪

>「幸福度=所得/欲望=物/心」の公式
>欲求をコントロールするには、情報遮断も一つの大きなポイントといえるでしょう。知らぬが仏、知らなければ、あるいは情報があっても気にしなければ、翻弄されることはありません。

情報遮断が、際限もなく増大する性質の欲求を、制限することで、幸福度の増大に役立つのは全くその通りでしょう。
これは手段であって最も簡単な方法であるに過ぎません。←それによって個々人の幸福度を増して行きましょうという手段です。

満たせる欲求の量に、物質的個人所有或いは性的歓喜の量が喜ばしいものとすることで、公式の結果は、際限もなく増大するの欲求の本来的性質があるので、同じ物質的個人所有或いは同じ性的歓喜の享受では、幸福度は経験の回数が増せば増すほど低下するよ。
という公式に過ぎません。

物質経済的的個人所有或いは満たせる欲求の量を個人の所有できる欲求の量とせず、

すべての衆生の共有物或いはすべての衆生の共有される満たせる欲求の量だとみなし得るならば、

幸福感は無限大になることになります。
非常に難しそうですが、これが易行道の本質であると思量できます。

個人所有が幸福の目安とする資本主義社会では、他者所有より自己所有物の多い方が幸せだと考えてしまいます。

満たせる欲求の量を個人の所有から切り離し得るなら、もし仮に欲望が際限もなく増大するもののままであっても、幸福感は際限もなく大きいものとなるでしょう。

しかし、欲望を際限もなく増大させないで知足に努める
と同時に
個人の感覚的喜びや、個人が所有することが無益徒労の実体のない妄念であることを、確信するなら、その人は常に本当の幸せの中に安住できているのでしょう。

個人所有が喜びの源泉であるという観念がある限り、分母の欲望を限りなくゼロに近づけ、無限小にすれば、幸福感は無限大になるという小乗の手段(方便)であるに過ぎません。

逆に、知足を努力しながらも、更らに宇宙全体がこの宇宙に存在する個々人にとって、共有物であるという観念が個々人の心に満たされるならば、ここでの幸福感の公式の分子が無限大化するということで、同じように幸福感は無限大になる、との違いがあるだけです。

聖者ぼんちリンポチェさんの記述
>結局ソープそのものが良いわけでも悪いわけではなく、
>行ったお客の身心の状態、女の子との相性によって
>結果は変わってくると思います。
>あの空海でさえ売春宿に通っていた、という話があるくらいですし、
>一休宗純禅師も売春宿に入り浸り、最期まで女性が傍にいたわけで、
>一概に不浄な場所、有害な場所として片付けることはできません。
>第一、勤務している女性にとっても、仏道修行の場とすることも可能です。
>中にはその種の業務に大変向いていて、天職といえる女性もいます。
>ダーキニータイプの人とか、ヴァジラヤーナの菩薩タイプ、という感じの人には向いていて、
>その他の大半の女性のような、悲惨さや不自然さを伴わずに、
>その種の職業であり続けられる人というのがいるものです。

ところで、
----------
仏陀は娼婦のアンバパーリの供養を受けた。娼婦は自分の園林を仏陀や仏弟子達の教団へ献じました。仏陀は快くこの申し出もお受けになっている。

仏陀は増水していたガンジス河を無事渡りヴァッジ国のコーリー城に着いた。ここで亡くなった人々の運命について、阿難の質問に答えながら、最後に人々が運命を知る標準となるものとして法鏡の説法をする。
仏陀はこの法鏡を説いてから、四諦を説いて「苦悩と苦悩の起源と、苦悩の絶滅と苦悩の絶滅への道との尊い真理を洞察し悟った。そして生存への渇望を根絶し、生存への誘惑をうちほろぼしたから、もはや生存に戻ることはない」と説法した。

次に仏陀は、このコーリー城を出発しナディカガーマを経てヴァイシャーリー 着いた。ここはヴァッジ国の首都であり、アンバパーリという遊女のマンゴー林に滞在し、戒律や生天の教え、四諦を説いた。やがてここを去ってヴェールバ村に進み、ここで最後の雨期を過ごすことになる。すなわち仏陀はここで阿難などとともに安居に入り、他の弟子たちはそれぞれ縁故を求めて安居に入った。

この時、仏陀は死に瀕するような大病にかかった。しかし、雨期の終わる頃には気力を回復した。この時、阿難は釈迦の病の治ったことを喜んだ後、「師が比丘僧伽のことについて何かを遺言しないうちは亡くなるはずはないと、心を安らかにもつことができました」と言った。これについて、仏陀は

「比丘僧伽は私に何を期待するのか。私はすでに内外の区別もなく、ことごとく法を説いた。阿難よ、如来の教法には、あるものを弟子に隠すということはない。教師の握りしめた秘密の奥義(師拳)はない。

自分はすでに八十歳の高齢となり、自分の肉体は、あたかも古い車がガタガタとなってあちこちを草紐で縛り、やっと保たれているようなものである。だから、阿難よ、汝らは、ただみずからを灯明とし、みずからを依処として、他人を依処とせず、法を灯明とし、法を依処として、他を依処とすることなくして、修行せんとするものこそ、わが比丘たちの中において最高処にあるものである」

と説法した。これが自帰依自灯明、法帰依法灯明の教えである。
----------
ここで法鏡の教えとはなにか?

さて、阿難よ、人間たるものが死ぬべきものであるということは何も不思議なことではない。しかし、もしも各々が死んだとき、その度毎に如来の所にきて、その意味を尋ねるとしたら、それは如来にとって煩わしいことである。阿難よ、それ故に、私はここに法鏡という名の法門を説こう。それを体得した聖弟子で望むものは、自己の今後を見極めることが出来るであろう。

 「私に地獄は消滅し、畜生として生まれることは消滅し、餓鬼の境遇は消滅し、苦しいところや悪いところに堕することもない。私は聖者の流れに入ったものであり、悪いところに堕すはずのないものであり、必ず覚りを究めるものである」と。(中村元訳 ブッダ最後の旅p.49)

 法鏡の教え(中村元訳 ブッダ最後の旅p.49~51)

阿難よ。その〈法の鏡〉という名の法門とは何であるか? それを具現したならば、立派な弟子は、もし望むなら、みずから自分の運命をはっきりと見究めることができるであろう。
1) ブッダへの浄信を具足している
2) 法への浄信を具足している
3) 僧への浄信を具足している
    →後に「戒」が加わり、「四不壊浄」という教義に発展。

老と病、現実世界の讃美、死の予告 -死ぬほどの苦痛と別れ行く世界への感慨-

病と生命力〈ベールヴァ村〉
さて、尊師が雨安居に入られたとき、恐ろしい病が生じ、死ぬほどの激痛が起った。しかし、尊師は、心に念じて、よく気をつけて、悩まされることなく、苦痛を堪え忍んだ。
そこで、尊師は、元気を出して、その病苦をこらえて、生命の衝動を留めて(加持して)いらっしゃった。すると、尊師のその病苦は鎮まった。(ブッダ最後の旅p.61)

老いと死の自覚〈ベールヴァ村〉
 阿難よ、私はもう老い朽ち、齢を重ね老衰し、人生の旅路を通り過ぎ、老齢に達した。我が齢は80になった、例えば、古ぼけた車が革紐の助けによって、やっと動いていくように、おそらく如来の身体も革紐の助けによってもっているのだ。しかし、阿難よ、如来があらゆる思惟の対象を心に止めることなく、一部の感受作用を滅し、思惟の対象のない精神の統一に達して住するときに、阿難よ、そのとき、如来の身体は安穏となる。(ブッダ最後の旅p.62~63)

人生の拠り処〈ベールヴァ村〉
 それ故に、この世で自らを島とし、自らを帰依処とし、他人を帰依処とせず、法を島とし、法を帰依処とし、他のものを帰依処とせずにおけ。そういう人々がいるならば、彼らは私の比丘として最高の境地にあるであろう。(ブッダ最後の旅p.63)

現実讃美〈ヴェーサーリー〉
 阿難よ、ヴェーサーリーは楽しい。ウデーナ霊樹の地は楽しい。ゴータマカ霊樹の地は楽しい。7つのマンゴー霊樹の地は楽しい。バフブッタ霊樹の地は楽しい。サーランダダ霊樹の地は楽しい。(ブッダ最後の旅p.66)
→老いを告白した釈尊が、現実を讃美する姿は、死ぬ前に人生を回顧する人間の姿そのものを示しているのではないだろうか

これより前に、

彼岸(涅槃)への道 -ゴータマ渡し-

パータリ村での休息:生天の教えと神々への賛嘆(ブッダ最後の旅p.32~39)
福祉の目標(涅槃の意味):川を渡る行為による涅槃の示唆【筏の譬】(ブッダ最後の旅p.40~41)→原始仏典では珍しく、神通力が使われている。

水面に触れずに、橋を架けて、大河や湖を渡る人々がある。人は筏を組んでいるのに、智慧ある人は既に渡り終わった。
→川を渡る行為で、涅槃とは何かを示そうとしたのではないか。また、「易行道(順風を得た海の乗船)こそが彼岸へと渡ることができる行である」という大乗仏教的な思想を読みとることができるのではないだろうか。

深い淵を放棄して、橋を作って海や沼を渡る人々もある。筏を作って渡る人々もある。聡明な人は既に渡り終わった。

尊き師・ブッダは渡り終わった。ブッダは陸上に立っている。比丘らは河を泳いで渡る。弟子たちは筏を結んで作っている。

もしも至るところに水が満ちているならば、泉に何の用があろうか。ここで妄執の根を絶ち切ったのだから、いまさら何を求めるのであろう。→より大乗仏教的な思想が見受けられる。

仏教には八万四千の教えがあるといわれますが、その目的は仏になるということです。これに至るまでには、難行と易行のふたつの道があることを、龍樹は「易行品」に説かれます。

難行道とは、厳しい自力の修行によって長い時間をかけてさとりに至る道です。それはちょうど山あり谷ありの厳しい陸路を歩くようなものです。易行道とは、本願他力の法によってさとりに至る道です。南無阿弥陀仏を船にたとえ、易行道とは水の上を船で渡って行くようなものだといわれます。

船のたとえは、乗る人の自力は何の役にもたたないことの意味と同時に、健康に修行ができるものだけでなく、身体が弱くて厳しい修行ができないものも、子どもも大人も、女性も男性も、一切分け隔てなく平等に救われていく旨をあらわしているのです。

どんなに厳しい修行を行っても、死ぬまで消えない煩悩をかかえた私にとって、さとりに至るすべは全くありません。そのような人間の力の限界を知らせてくださるのもまた、易行の水道であります。

>滝本ブログ転載
>そりゃ、相対的なものの見方は必要さ、
>だが、自分は絶対善をしたいんだ、自分は絶対悪をしたくないんだ
>とまず前提におかなければ、
>そして絶対悪ってなんだろう?、
>と自分で考え続けなければ、容易に陥穽に陥るさ。

ここにお書きになられている自分は絶対善をしたいんだ、自分は絶対悪をしたくないんだという観念が何を基準に決められ得るかが問題の主題であるんだよね。

国家という体制下における法律を基準に生業をなさっておられる方には

みずから自分の運命をはっきりと見究めることに興味はないのかもしれません。

絶対悪というものがあるとみなそうとすることに問題があることを知って頂きたいものだとと思います。絶対悪・絶対善というものを限定すれば、即座にそれは普遍的悪、普遍的善は変わらない実体であるとみなす陥穽に嵌ります。

如何に悪であろうが、如何に善であろうが普遍的に変わらない実体としてあるのではない。

ここにそもそもの法身信仰の真価があるのだよね。


おもしろい

マルグレット・ポーレットの修徳論を読んでいるようでおもしろいですね。こういったエックハルト的な精神形而論は道徳観を極端に低めるという事で中世ヨーロッパでは排除されたのですけれど・・・。





絶対悪に関して

絶対という言葉は僕も嫌いですけれど、自然法的な解釈から考えれば、事の善し悪しというものは、それが妥当であろうという生活慣習によって数世代かかってくみ上げられたものだとおもいます。いきるため、そして人と関わっていくうで絶対(つかっちゃった!)にみおとしてはいけないというものはあると思いますよ。

また非常におもしろい作業仮説なのですが、善悪を実体あるものとしてかんがえてはいけないという考えは、考えてはならないという善悪が存在するということになり、非常にアイロニーにみちたものになると僕は思います。

時空を飛び越えて

時空をとびこえ千年も生きる人間はいませんよ。これは悪いだろう、これは良いだろうという一般常識のレベルのものまで永遠の真理を求められると困ってしまいますよ。

ひかわさん

>また非常におもしろい作業仮説なのですが、善悪を実体あるものとしてかんがえてはいけないという考えは、考えてはならないという善悪が存在するということになり、非常にアイロニーにみちたものになると僕は思います。

ですから、言語による二元的思考には、限界が出てくるのだと思います。
どこまでいっても相対の世界から離れられないのです。
上祐氏が、一元的思考を推し進めれば、一元へ至るという主張も、
残念ながら、二元世界の否定の形で、一元世界を捉えている限り、
やはり、相対の世界から離れることは出来ないということになります。
そこから離れるには、正しい、仏教的・ヨーガ的アプローチが必要なのだろうと思います。
その相対の世界を超えた方が解脱者という存在なのではないでしょうか。

最高のサマディには、思惟作用すら、認識作用すら、働かないそうです。
ですから、そこにはたぶん、これは正しいとか悪いという、判断すら
存在しないんです。

しかし、そのレベルでは、(つまりサマディに入った状態では)身体的仮死を経験させられます。その状態で、人殺しはできません。。

あるいはオウム用語でいったら、コーザル(無色界)は身体がなく、形状がなく
観念のみに囚われている魂が存在するんだそうですが、
彼らは身体がないから、観念でよしあしを判断しようとも
人を殺したり、殺されたりするような身体がすでにありません。。

そういう観念的なもの、を観念の範囲で考えることは可能でも
実際の身体でやってしまっていいものだろうか
どの宗教家も、善悪の観念すら最後は捨ててしまうものだと
教説上、しっていても、それでも、善行をなせ、悪を捨てろと
教えているようですけど。。

てか、絶対悪がないなら、親の首切り落として、かばんに入れて
カラオケ行ってもいいじゃんか、と。

>また非常におもしろい作業仮説なのですが、善悪を実体あるものとしてかんがえてはいけないという考えは、考えてはならないという善悪が存在するということになり、非常にアイロニーにみちたものになると僕は思います。

その部分を、仏道修行者はずっと考えて、超えたいと思って、禅問答みたいに
超えたいと思うこと自体が、思いという思惟作用、じゃないかって、エンエンやるんでしょうけど、
たぶん、サマディ入れば解決するんだと。。

でも、教組はサマディ入った記録がないと。。 ぷ

まぁ

言葉に重きをおけば実念論争的な議論になってしまうし、身体性をどう理解するかという意味においてヨーガというものもいいかもしれませんね。今度、野田さんにすこし教えてもらいましょう。

サマディやりながらぁー  お電話かけちゃうとかぁ

                    ナハハハハハ   バンバン!!(←机叩く音)

ああ

水野さんと会った時に上祐さんが麻原さんの指示で箱詰めにされた上で土中にうめられて、仮死状態になったという話を聞きました。

すると上祐さんは解脱者でしょうか・・・。

そのあとで偽証とか文書改竄?????

絶対悪ってないのかニイ

だって、パーフェクトサルベーションで、絶対解脱するって信者に勧めて
実際は誰一人も解脱認定が降りなかったんだけどお
それで苦情がきたのか
教組は
(今度は必ず、解脱できる奴を作る)、、と自分に言い聞かせるようにぶちぶち
言っていたんだけどお
次に出たのが、LSDを使ったキリストのイニシエション、、

そら、嫌でも神秘体験しますわ
で、ソンシ、すげー、ってみんな納得!
んーー これって、絶対悪でない、ってどうして言えるんだろうか
自分に、(必ず全員に)霊的経験させるだけのパワーがないと判断しながら
でも、金ホシーんで、 そういうズルをやったんじゃねえのかすらん

まあ、教団に金が入れば、善なのよねえ
そうなのよ、、、
そうよね、人殺しも善だ、って言う人に、こう問い掛けても無駄か、、

上優が、心拍停止、呼吸停止で、かなりの時間いたと、いうことですか?
詳細なデータが必要ですが、、

しかも、データの編纂があったとか、なかったとか、噂する人もいたようですが

やっぱし

修行をしようとしまいと「悪い」と「良い」はあるような気がするな。

箱の中にはいって

土に埋められたという事を彼の団体の副代表と雑談をしていた時に聞いたんですよ。まっ、真空にしたわけじゃないでしょうし、雪崩遭難とおなじような状態になっていただけだとおもいますよ。徐々に酸素を奪えば六時間前後はもつと思いますよ。

興味深い記事を見つけました


http://inochi.jpn.org/hitoiki/C02.htm

少しばかり引用してみます。

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解決の糸口さえも、つかめていないようです。これで、オピニオン・リーダーとしての新聞の責務を果たしうるのでしょうか。いやそれよりも、これが、日本の代表紙の論説委員たちの結論なのかと思うと、暗然たる思いに沈んでしまいます。なぜなら、これではオウム信者のだれ1人説得することはできないでしょうし、第2、第3のオウムの悲劇を食い止めることはできないと確信するからです。

(オウムから)抜け出せなくなってしまった多くの若者の存在は、この文明の何か根本的な欠陥の表れではないのか。

まさに、そのとおりでしょう。しかし、その根本的欠陥が何かは、余禄子も示し得ないようです。

事件が起きた当初、この問題の本質を、私はこう書きました。

大衆はノドの渇きに苦しんでいる。オウムの泥水を飲むなと、いくら言っても、飲料水を与えねば、他の泥水に走るだけだろう。速に、清らかな水を徹底提供することこそ急務である。「ノドの渇き」とは何か。これこそ、万人が持つ精神の飢渇であり、人生の目的が知りたいという、強烈な魂の欲求にほかなりません。

「何のために生まれてきたのか。生きているのか。苦しくとも生きねばならぬ、真の理由は何か」

「この社会のどこに、生きる意味があるというのだ」人間存在の意味を問う、この根本問題に対し、世の学問も仕事も恋愛も、レジャーも快楽も、その他いかなる生きがいも、解答しえなかったのです。

いや、病気直しや出世、金儲けなど、現世のご利益を売り物にする新興宗教も、見てくればかりでまったく中身のない既成伝統教団も、真摯に人生の意義を求める人々には、何の魅力も感じられないでしょう。

人間の奥底には、生きる意味を「死に物狂い」で知りたがる願望が、激しく鳴り響いている、と不条理の哲学で有名なアルベール・カミュは言っています。どうしても生きる目的を知りたい、いや知らなかったら生きていけないのが人間です。

意味なき人生に耐え切れない、人生の目的に渇き切った心は、オウムの泥水でもすすらずにいられなかった。

社会復帰を呼びかけても一向に応じない彼らの心は、「この社会のどこに、生きるに値するものがあるというのだ」と、反問しているに違いありません。

決して、オウムに迷った若者たちだけではない。世界一の豊かさと自由を享受しているかのようなこの日本で、毎年3万人以上もが自殺してゆく現実は、何を物語っているのでしょう。

真に重大な哲学上の問題はひとつしかない。自殺ということだ。人生が生きるに値するか否かを判断する、これが哲学の根本問題に答えることなのである。(カミュ『シジフォスの神話』冒頭より)

なぜ生きる。人生の目的は何か。

この究極の問いに答ええない人類は、今もなお深い闇の中にいます。

親鸞聖人は、主著『教行信証』の冒頭に、その解答を次のように明示されています。

難思の弘誓は難度海を度する大船、無碍の光明は無明の闇を破する慧日なり"弥陀の誓願は、私たちの苦悩の根元である無明の闇を破る太陽であり、苦しみの波の絶えない人生の海を、明るく楽しく渡す大船である。この船に乗ることこそが、人生の目的なのだ"と。

難度海(苦しみの人生)からの救出の叫びは、今なお充満しているのです。
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愚禿親鸞さんに好意を抱く方の書かれたページでしょう。
わたし自身が浄土真宗の信奉者ではないのだが
他の同じ人の記事に

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しかし、懺悔だけでは、あくまで他力信心の一面に過ぎない。

無論きわめて重要な一面ではあるものの、この懺悔と表裏一体をなすもう1つの重要な面が、この書には、決定的に欠けているのである。

それは、何か。

歓喜である。

『教行信証』とは、親鸞聖人の他力信仰が余すところ無く語られた書であり、それはすなわち、懺悔と歓喜とが渾然一体となった希有の書なのである。

もちろん、田辺氏のいくつかの言及は散見される。しかし、親鸞聖人の「慶ばしきかなや」のわき上がるような生命の歓喜、「慶喜いよいよ至る」という人生の喜び、これらが、懺悔と同時に、かつ永遠にあることを理解しないかぎり、真の『教行信証』理解にはならないのだ。

それはすなわち、他力信心の本質・二種深信の真の理解に他ならない。

註:田辺氏とは『懺悔道としての哲学』を書いた日本の代表的哲学者田辺元さんです。
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これには、賛同できうる部分がある。
また、
>「何のために生まれてきたのか。生きているのか。苦しくとも生きねばならぬ、真の理由は何か」

これに実際的に納得しえる「答え」を見つけられるなら
懺悔と歓喜とが渾然一体となった状態も経験可能なことなのだろう。

ただし、愚禿親鸞さんの時代における現実の世の中という条件下では、とても有効に機能した方便であったのは間違いないだろう。

しかしそれは、その時代に適切であったに過ぎず、現在ただいまに合った実際的に納得しえる「答え」が、個々人にとって見つけ出されなければ、

絶対悪は悪のまま変わらないものだから排除せよとの思想の優位性に基づく『悪いことしたものは消滅して無くなるべし』の基準は、今後も引き続いて存続するのだろう。

愚禿親鸞さんに学ぶべきところは大きいと思う今日この頃です。


ひかわさん

>すると上祐さんは解脱者でしょうか・・・。

上祐さん自身が、
麻原さんは、一般的な意味での解脱はしていなかったと認めていますので、
当然弟子の上祐さんも解脱者ではありません。

解脱は、識別を超えるサマディである、
ニルヴィカルパ・サマディに入らなくてはなりませんが、
教団のかつての機関紙のどこを見ても、
ニルヴィカルパ・サマディに入ったとみられる記述は出てきません。

>サマディやりながらぁー  お電話かけちゃうとかぁ

これは、教団の機関紙に出てくる記述なのですが、
水中エアタイト・サマディで、ニルヴィカルパ・サマディに入っていた麻原さんが、
電話で何度も外部の者と話をしたということに基づくコメントだと思います。

ニルヴィカル・サマディでは、外界意識がなくなるので、
このように外部と電話連絡など出来るわけがありません。
よって、麻原さんはニルヴィカルパ・サマディには、入っていなかったと推察されます。

なおこの実験後、ニルヴィカルパ・サマディに関して、
ほとんど話を出さなくなったところをみると、
これ以降も、ニルヴィカルパ・サマディには入れなかったのだと思います。

もし、何度もニルヴィカルパ・サマディに入っていたなら、
その事に関して、何度も説法にも出てきたはずですし、
入り方の秘儀伝授が、必ず行なわれていたはずです。

小さな悟りでさえも、弟子のためにと、
何度も説法で取り上げ、弟子に伝えていた現実から考えると、
その境地を得ていたのならば、
オウムの教義を貫く柱として、
ニルヴィカルパ・サマディに関して、何度も説かれていたはずです。

それが、ほとんど為されていなかったということは、あまりにも不自然です。
それこそ、彼が、その境地を、経験していなかったという状況的な証拠と言えるかもしれません。

漏れは、単純だけど、なぜ生きるのかってのは、修行して三昧入って
解脱すればいい、て 仏教徒ははなから結論づけているんだと思う
それではいかんのか

だって、なぜ生きるのか、と考える、それを考えているのも
その人の思惟作用でないの?

あるいは、その人が自分を、(存在している)とみなすから
存在する自分が、苦悩する自分を認識するんであって
自分という存在、を完全に認識しえなくなる、サマディに入れれば
おのずと氷解してしまうんじゃないのかすら

自分が苦悩していると感じるのは、心であって、外から感受したデータで
ああ、私の心は苦しんでいると、、
しかし、心というのは、色受想行識の想、にあたるけど
これら五ウンは、はなから無常だと、だから価値ないから捨てよと
心も苦悩の因だと認識して捨てよ、、
これで、ひとつ解放がされると、、もし、実行できるなら

悩みは、そう経典に書かれていても、それを実行することが極端に難しいと
ほとんどは諦めていると、

心すら、自分と呼べるものでない 心も苦悩の原因となる だから捨てよ


自殺は、また生まれ変わる(転生があると、仮定すれば)と
聞いたです オウムで

>もし、何度もニルヴィカルパ・サマディに入っていたなら、
その事に関して、何度も説法にも出てきたはずですし、
入り方の秘儀伝授が、必ず行なわれていたはずです。


そそそ、教組はすぐ威張る人だから、もし、サマディ入れていたら
耳にタコができるほど、その話を吹聴されたに違いないですね
一度失敗して以来、二度とやってないのは
また失敗するとヤバイからだと思うねー

ニルヴィカルパサマディって、呼吸停止しているはずなのに、
電話でしゃべっていたっていうのよ、、

漏れ、その記述を読んだのが、入ったばかりのときで、まったく知識が無かったし
うやむやに気が付かずにずっと過ごしたんだよね、、

後になって、(オウムのだめ、って言っている、本屋にあるよその本)で
サマディってこういうものって知ったのよ~ん

まあ、漏れは、サマディに入れる行者なんて、ほとんどいないんだろうから
教組が入れなかったからといって、それで団体をやめる決め手には
ならなかった、というか、深く考えなかったのね
どこの坊主だって、入れないからね、、

しかし、最終解脱者って豪語して殺人するのは、ちょっとやめてほしいなあ

教組も、そんなものを機関紙に載せるなんて、どうせダレもわかんないだろって
なめていたんだろうねえ
あるいは、まさか、自分で知らなかったってことは、ないよねえ

なるほど

解脱者と呼ばれる人はアーレフにいないし、そのような修行は現状では行われていないという事ですね。

だったら、荒木さんとかヌンチャクさんとかを埋めてみたらどうでしょうか。何度かうめればきっと解脱者になって、解脱とはこういうものですよ。人々には幸福を与えるものであり、自分もこれほど幸福になれますおと言えるんじゃないですか 笑

ついでに松本家の淑女の方々も埋めてしまう。

僕は信者でもなんでもないからいえないけれど、信者のみなさん特にA派の方々はそういう要求を出してもいいんじゃないですか。

信じて奪われた人々にはそれをいう権利があるし、A派の幹部にはその責任があるとおもいますね。

関係ない事ですけど・・・・ちょっと
少なくとも実際に上祐氏の話を聞いた限りでは彼は必死になって麻原氏を自分の心から切り離そうとしているように僕には見えました。非常に苦しんでいると思いますよ。

>荒木さんとかヌンチャクさんとかを埋めてみたらどうでしょうか。何度かうめればきっと解脱者になって

解脱者になる前に、即身仏になっちゃう・・・。

ひかわさん

彼らを土に埋めれば、生き埋めになり、
水中に放り込めば、土左衛門 になります。
入れた方が、犯罪者にされてしまいますよ。(笑)

そこはね

ナチの大虐殺よろしく自分で穴をほって自分で埋まってもらうということで、もちろん僕とかが言ったという事は口外せずにしていただきたい。笑

まぁ、彼らがすることはない。笑い話にしかならない現実というものがあるって事ですね。

>まぁ、彼らがすることはない。笑い話にしかならない現実というものがあるって事ですね。

そういうことです。

ならば・・・

この三文王家芝居の皆様がたがた、厳密にいうと友愛も無く、教義に強い信念をもつわけでなく、また、共同生活体の指導力も不足している走狗どもを信者のかたがたがは付き従うのか。非常に不思議ですね。


善悪は存在する

>絶対という言葉は僕も嫌いですけれど、自然法的な解釈から考えれば、事の善し悪しというものは、それが妥当であろうという生活慣習によって数世代かかってくみ上げられたものだとおもいます。いきるため、そして人と関わっていくうで絶対(つかっちゃった!)にみおとしてはいけないというものはあると思いますよ。

>また非常におもしろい作業仮説なのですが、善悪を実体あるものとしてかんがえてはいけないという考えは、考えてはならないという善悪が存在するということになり、非常にアイロニーにみちたものになると僕は思います。

だからこそ「過ぎたるは猶及ばざるが如し」度を過ぎてしまったものは、程度に達しないものと同じで、どちらも正しい中庸の道ではないということが重要な物差しになっているのだと思います。

心理学者の一人にイグナシオ・マテ・ブランコさんという方が提唱している二重論理構造という視点があります。

これは単的に言えば、アリストテレス論理学が否定する背中律、矛盾律を完全に、人の心は内包している。だから善悪はアリストテレス論理学に従えば明確存在する。

しかし、無意識の層構造を深く調べていくと、人や事物の区別のないただひとつの不可分な単一体とみなし得る、古典理論〔二価理論〕と対称原理が相矛盾しながら共存していると展開しています。

”無意識の思考には《対称原理》と非対称的な「古典理論」の結合に基づく二重論理構造”
----------
二重論理構造には非常に豊かなものがある。それらは人間生活、宗教・芸術・政治・科学でさえも、それらの全ての側面を認識し具現化させる様々な方法の中に、精神分析家の中に、そして生活の他のあらゆる側面の中に、認められる。一度それを認識することに馴染んでしまえば”我々は、人や事物の区別のないただひとつの不可分な単一体であるかのような世界に生きている、という驚くべき結論を、もはや避けることはできないのである他方では我々は世界を、普通は二重理論の見地で、或るわずかな機会だけは古典理論〔二価理論〕の見地で、思考している”。
----------

従って調和・中・中庸という「過ぎたるは猶及ばざるが如し」の真意は、二価理論だけでも、対称原理だけでも片方だけでは極端に偏ってしまうということでしょう。


ひかわさん

基本的に、アーレフを、純粋に真理の団体と信じているからだと思います。
グルは最終解脱者であり、偉大なマイトレーヤ菩薩であると信じていますので、
グルとの縁を傷つけることを恐れ、
真理との縁を傷つける、
教団からの下向(現世に戻ること)という行為に恐怖を感じます。
(自分の未来際に大きな悪影響を与えると考えます。)

ですから、外部からどのように働きかけても、
彼らの、心理的な恐怖を上回る事態が起きない限り、
教団から積極的に離れようとはしません。

今いる成就者に関して、いろいろ問題があるということは、
それぞれ分かっていても、最終解脱者に至っていない以上、
汚れがあるのは当然であると言うことで、許容している部分もあると思います。

それに、彼らは、「自分達の真理」に反した情報を、意識的に遮断しますから、
他の情報との比較検討も難しく、気付きも当然遅れます。
これは、在家の信徒も同様です。

それと、サマナの場合は、
行き場がないというのも、
付き従っている大きな要因になっているのかもしれません。

とにかく

とにかく団体を早く解体しないといけないよ。



イグナシオ・マテ・ブランコ

えらい名前がでてきましたね。びっくりしました。
本来的に彼の二重性はデビットボームjrの形態形成の場の理論に限りなく近似するものですが、彼の創作ノートの領域をでません。一部仏教関連の人々が取り上げているとは聞いていましたが、形態形成論をここで論じなければならなくなるとは・・・
まぁいいですけどね。

>しかし、無意識の層構造を深く調べていくと、人や事物の区別のないた
>だひとつの不可分な単一体とみなし得る、古典理論〔二価理論〕と対称
>原理が相矛盾しながら共存していると展開しています。

幾つかの質問をこれからさせていただきますが。

まずは第一点として

アドラー的な展開になって僕にとっても心地よい部分なのですが、ここでいう無意識とはどのような臨床統計にもとづいたものでしょうか?医学的な無意識とは可塑的に学習された精神作用とR核から精神作用のどちらかだとおもうのですが。それとも、チョムスキーが言うような文法性を説かれているのでしょうか。

引用は読むのに時間が少しかかりますので、私見でもいいですので、その点ご教授ください。上述を確認させていただいた上で再度質問させていただきたいと思います。


なるほど

白龍さん
教団の人の心というものもなんとなく理解できました。どもです。
彼らの幸福ってなんなんでしょうか?
僕にとってはたまの休みに子供たちと公園でひなたぼっこをしながら、昼寝をする。家内におべんちゃらをいって笑ってもらう。そんなのが幸福なんですけどね。

師と呼ばれていた人

ひかりの輪にいちゃったひとなんですけどね。skypeなんかで話していると、普通のヒトと幸福の観念はあんまし変わらない。そこんところでこんがrがるんですよね。もちろん、それがA派と光の輪の差異なのかもしれないけれど。

ひかわさん、って修行の話は、あんまりされたことがないんだっけか。
おべんちゃら言ったら、ワラってくれる家内も、自分も、子供も、
時がたては、老いてきて、どっちか先に死にますわね。

それをいつも頭のどこかに置いているので、その一緒に過ごすひと時が
楽しいけれど、そのうち終わっちまう、ってのを、空しく観じて
入れ込めない、、
そういう感覚を持っているんですよ

会者定離といって、出会ったものは必ず別れる
家族も、いつまでも一緒にいない
たいていは、だから、一緒に過ごせるこのときを大事にしようって
結論になるんでしょうが
修行者の場合そうでなくて、
人生に生老病死があると、
生まれたら、誰でも必ず、老い、病み、死なないといけない
あるいは、愛するものとはいつか、別れないといけない

なんでこの、苦悩する存在に生まれちまったのかと
原因をさぐって、取り除きたいんです
その原因を、なんとしても探って、滅ぼさないと安心できないって

なんでなら、その(生まれてきた)原因を滅ぼさないと、また生まれて
同じ苦悩を味わうと言われているので、。

仏教では、この世に生まれ出でてしまう原因を、欲望があるからだと
説いています。
つまり、修行者にとって、安楽であるのは
欲望を除去して、もう再生を得ない、と確信できること、です。

自分のブログコメントからの転載です

「現世で言えば殺人だ
だが真理の教えから言えば救済だ」

というのが悪しき相対化の極限でして
上祐の立場で
よくもまあ、こんな説法をできるななぁ
と不思議です。

ひかわさん

>彼らの幸福ってなんなんでしょうか?
>僕にとってはたまの休みに子供たちと公園でひなたぼっこをしながら、昼寝をする。家内におべんちゃらをいって笑ってもらう。そんなのが幸福なんですけどね。

一応教義どおりの理屈をこねてみますね。
教団では3つの救済というものを掲げています。
1、 病苦からの解放。
2、 現世での幸福
3、 悟り・解脱
です。

2、で示している通り、現世的な幸福を本来否定しているわけではありません。
しかしながら、現世的な幸福は、
瞬間瞬間の喜びであり、永遠に続くものではないと捉えます。
現世的な幸福感の根本は、愛著(執着)であり、煩悩的喜びです。

我々が、対象に強く愛著すればするほど、
それが求めても得られない時、
あるいは、得ていたものを手放さなくてはならない時、
大変不条理な感覚や、強烈な苦痛を味わいます。
そこから、対象に愛著することは苦しみであるという法則が導き出されます。

よって、修行者は、そのような愛著や煩悩を超え、
「カルマの制約を受けない、一切の苦しみが生起しない」境地こそ、
絶対的な幸福であると捉えています。

と理屈的には、このようになると思います。
しかし、現実的には、その幸福に至る道と逆行しているような・・。

釈迦の悟ったところによると、天上においても、地上においても、地下においても
(形成された事物はすべて、滅びる性質のもの)であるので、
それらにたいして、頓着こだわりを持たないように、、

形成された事物とは、もう全部のことです。
我らの体も、細胞分裂してできました。
心も、いろんな外界の影響を受けながら形成されました。
人間関係も、形成されたものです
あるいは、物質もすべて、堅固に見えても、いつか風化します
すべてが、形成されたものであり
それらは、いつか古びて消滅します
たとえば良好な人間関係をきずくと、それは結構ですが
いろんな場面で、別れや変化は避けられません

これら、もともと(消滅する性質のあるもの、変化を避けられないもの)に対して
いつまでも、こうあってほしい、そのままであってほしいとか
愛着するとか、が 人間苦の原因であると、、説きます。
たとえば、家族もいつまでも一緒にいたいと でも無理ですよね
一人ずつ、いなくなります
それを漏れらは避けることはできないんで

だって、もとが、変化して果てるようにしかできていないもので
諸事物が構成されているのですから
そこに愛着を見出して生きるのは、(かえって危険)なんです
仏教の教えでは、、
釈迦は、世界は燃えているといいました
安住の地はないと、
どこも、老いと病、苦悩が染み付き、安心できる場はない

もともと安住の地は、世俗に無いんです
それと知りながら、世俗で暮らすことはできますけど

漏れには親がいます、だいぶ年です、後何年一緒に生きられるか、、と
シワシワになった顔を見ながら思う

とりあえず愛しているので、健康で長生きしてくれたらいいと、
しかし、そう思う半面で、もうそんなに長くは一緒にいられないかもと

あるいは、結婚しているなら、愛する妻と年を取り、あとどのくらい一緒に
生きられるかとか
あるいは病気したので心配するとか
喜びの反面、苦悩もあると、、

それは、接触したからで、愛を感じてしまったからなんです
何も無い人は最初から、失う機会すらありませんで
現世は喜びと苦悩が半々にあって
そこで、心を揺らしながら生きるのは、突き詰めれば苦しみなんです

楽しそうにみえるので、手を出した、けど、あとで失うようにしかできていないもので
すべて構成されている、とこの世をみるのが、仏道やヨガの見解です

そこから出離したところに、愛欲を離れたところに、静けさがあり、安定があると
それを着々やりたいのが、修行者です。。

無意識とは

>イグナシオ・マテ・ブランコ
>えらい名前がでてきましたね。びっくりしました。
>本来的に彼の二重性はデビットボームjrの形態形成の場の理論に限りなく近似するものですが、彼の創作ノートの領域をでません。一部仏教関連の人々が取り上げているとは聞いていましたが、形態形成論をここで論じなければならなくなるとは・・・
>まぁいいですけどね。

>>しかし、無意識の層構造を深く調べていくと、人や事物の区別のないた
>>だひとつの不可分な単一体とみなし得る、古典理論〔二価理論〕と対称
>>原理が相矛盾しながら共存していると展開しています。

>幾つかの質問をこれからさせていただきますが。

>まずは第一点として

>アドラー的な展開になって僕にとっても心地よい部分なのですが、ここでいう無意識とはどのような臨床統計にもとづいたものでしょうか?医学的な無意識とは可塑的に学習された精神作用とR核から精神作用のどちらかだとおもうのですが。それとも、チョムスキーが言うような文法性を説かれているのでしょうか。

>引用は読むのに時間が少しかかりますので、私見でもいいですので、その点ご教授ください。上述を確認させていただいた上で再度質問させていただきたいと思います。

この文章を拝読する限りにおいてわたしなどより遙かにこの分野に御精通なさっておられるように感じました。

わたしは原文を精査する能力も知識もありませんが、あることがキッカケで、この本と格闘中の身です。
「無意識の思考」岡達治訳

IMブランコ氏が仏教的知識があったのかどうかはわたしは知りません。しかしながら、彼の記述はわたしが最も多くの時間学習してきた唯識派(ヨーガチャーラ)の捉え方に共通性を感知しました。従って問われている『無意識とはどのような臨床統計』に基づくかに適切に答えるのは非常にわたし個人の現時点の知識ではかなり困難な業だと思います。

ご存じのようにフロイトの無意識の再定式化とメラニー・クラインの投影同一化の概念と数学的無限の概念により、二重論理構造が認められるとするものです。

IMブランコ氏の展開は、わたし個人の印象はユングの集合的無意識を、表現の異なるかたちでなしているように感じています。

チョムスキー階層と類似性もあるが少し異なると思われます。

アドラーの個人心理学「我々は運命の人質ではないし、人生のゲームにおいて犠牲者の役割を演じるには及ばない」というのとも類似性もあるがちょっと違う印象があります。

臨床家ではないのでどのような臨床統計に基づき、無意識なるものを表現すればよいのかわかりません。個人的認知経験としては、

仏教的に場を掌握することを空性理解とするならば、

IMブランコ氏の集合論と幾何学を駆使した、事物の不可分の性質を「加算無限集合の部分集合の濃度がもとの無限集合と等しい」という無限集合の性質に求め、そして内部/外部の交代、無時間性/非両立性の共存を、n次元の幾何学に求め、これから精神分析の”動的な『場』”を規定する要素を抽出しようと試みていることは、非常に唯識派の仏教との整合性或いは類似性を感じているのです。

すべては無常

すべては~ すべては~ 無常なんだよ~ ♪
今とらわれている~ 喜びや快楽も~ 無常なんだよ~ ♪
さあ~ 頑張ろう~ さあ~ 捨断しよう~ 無常の喜びを~ ♪

でもわたし、今のぜいたくな生活捨てられませ~ん!
取り巻きのみんな、わたしにいっぱい布施してね。大いなる功徳になるわよ。


て、説教されて、何もかも捨てて出家しようと、
したはずなのに、なんでだか、この教団では偉くなればなるほど

(私は前世で恋人が500人いた、だから今生たくさんいてもいい)だの
勝手なことを吼える人がいるんですよね、、、

形成された事物であり、不浄で無常な存在の女性をそんなにかき集めて
どうするつもりなんでしょうかね
エセ仏道者なんじゃねえの?

それも、タントラだって言えばいいんかの、、
どうせ年取れば、廃棄するつもりだったんだろ、、

質問の前に(明日しますね)

僕は人生は有限であり、肉と皮で出来た外皮で覆われているから、自分以外の誰かと出会い、誰かと泣きながら別れて、自分という個性をつくりだしていくんだとおもいますよ。永遠の命で肉の呪縛から解かれた途端に人は個性をうしない自我というものもなくなり、自分以外の誰かとの間に心を育む事もできないと思います。それが無というものならば僕はいらないな。

まず、誰か自分以外のだれかを愛して、その先に輪廻があり、愛した誰かともう一度出会いたいとおもうならばまだしも、愛する前から失う事を考えるのてっていうのは僕は苦手ですね。

有限でも

> 僕は人生は有限であり、肉と皮で出来た外皮で覆われているから、自分以外の誰かと出会い、誰かと泣きながら別れて、自分という個性をつくりだしていくんだとおもいますよ。永遠の命で肉の呪縛から解かれた途端に人は個性をうしない自我というものもなくなり、自分以外の誰かとの間に心を育む事もできないと思います。それが無というものならば僕はいらないな。

> まず、誰か自分以外のだれかを愛して、その先に輪廻があり、愛した誰かともう一度出会いたいとおもうならばまだしも、愛する前から失う事を考えるのてっていうのは僕は苦手ですね。

この文章を5回ほど読み返しました。明日は夜は返信可能ですが、おそらく昼間はお返事できませんので、この御文章からわたしが類推可能な事柄を単的に述べさせて頂き、あわよくば、わたしが考えていることの参考になればと望みます。

先ず、後半の御文章に関係して、
愛する前から失う事を考えるのが苦手なのはよく解ります。だって違法行為凶悪的テロ行為をなした集まりであると薄々知りながら、自分たちが愛したものにしがみつき、その対象を愛し続けているのがアーレフの既存の構成員である客観的事実が証明しているように、失うかもしれない自分たちの支柱をはじめからこれっていずれ崩壊する運命にあったのだ。愛する前から失うと思って信仰しているものがほとんどだったら、今の現状はあり得ないでしょう。

ところが、愛した誰かともう一度出会えるものだとおもう妄執に囚われているがゆえに、アーレフの既存の構成員は留まり続け信じ続けている側面があるのだろうとみなしています。(それこそ来世という意味で)

前半の御文章に関係して、
永遠の命で肉の呪縛から解かれた途端に人は個性をうしない自我というものもなくなる、という流れの論理には、二元対立の片方が肯定されるなら、必然的に他方が否定されるものだけに従った場合の必然的論理構造だと想像できます。

ところがそのように出来上がっていないとするのが仏教的視点あり、心理学的経験的観察の事実であろうと感じています。

人生は有限であり、肉と皮で出来た外皮で覆われている側面が確かにある部分と同時存在的に、もう一つの側面にすべての存在者(生き物と物事)の法身性が共存してあると言えば良いでしょうかね。
だから矛盾性と二価理論(古典論理学)が共存しているという視点に共感を感じるのでしょう。
また無と空は良く似ていますが微妙に異なる概念でもあると思います。

ひかわさんへ

亀レスごめんなさい。
「肯定」と言われてもちょっと困ります。
私にとって「肯定」とは、積極的肯定、
つまり、「売春は必要悪だ」とか、そういう見解をさすのであって、
「否定」以外は肯定、という二元論では考えていないのです。

基本的に私の人生とは関わりのない業界だから、
「この私が」否定しなければならない理由も、肯定しなければならない理由もないと。
それゆえに、この部分はこうだね、その側面はこうだね、と、
現象や人の経験との接点について論評するくらいしか出来ないのです。
つまり、私に社会学的観点を求められても困るわけですね。

社会学的に「悪とすべきもの」がここにあるとして、
それと人間が接点をもったことにより、その人間の受けた影響が、
100%悪いものであるかどうかは、そのものの良し悪しとは全く別問題でしょう。

少なくとも私は、かなりフワーッとした視点で、
この問題含め、いろんな現象を眺めております。

一言

失う事に関しては恐れがありますが、まずは人を愛する事に原則であり、団体や教義等に関して、その重心はあるべきじゃないとおもうんですよね。
人を愛する事から始める。人と会話をする事から始まる。

>心理学的経験的観察

果たしてそうでしょうか、仏教の発生から現代に至るまで、その裾野においてその観察が一貫して整合性をもって観測できたということはあるでしょうか、あくまでも精神論を主張する一部に偏在する人達のゲッチンゲンであり、事実性は僕には観察できないように思われます。

明日は自我と定位置連合野の関連性そして遺伝的な移送体の側面から、深層意識が実存するか否かを、すこし質問させていただきます。

幸福

「俺には俺の幸福があるのと同様に、君には君の幸福がある。その点において俺と君は全く同じだ」ってことでいいじゃねえかと思いますがねぇ~。
それが実は一元のホントの意味だったりするんじゃないかと。
案外単純に。
然しながら「俺の言う幸福が真の幸せだ」「いや俺のだ」とやりあってる。
唯物論者には唯物論者の幸福があって、唯心論者には唯心論者の幸福がある。それで困る者は誰もいない。
自分の幸福を相手に押し付けない限り。
ひたすら押し付け続けたのがオウムでした。

ひかわさん

>永遠の命で肉の呪縛から解かれた途端に人は個性をうしない自我というものもなくなり、自分以外の誰かとの間に心を育む事もできないと思います。それが無というものならば僕はいらないな。

「無」や「空」に関して語るつもりはないですが、
解脱の境地とは、識別を超えると言われます。
識別を超えるとは、自と他の区別が無くなる境地です。

すなわち、あなたは私であり、私はあなたであるという境地に至ります。
そうすると、本当の意味で、
自分を愛するがごとく、他者を愛することが出来るようになるのではないでしょうか。

けっして、人間の結びつきを否定するものではなく、
人間同士の、本当の理解を生み出す手段となり得るのではないかと思います。

これはオウムでさんざん、叩き込まれたんだけど
人は、誰かを愛するってことに関して、美化して考えすぎなんだよね

たとえば、恋愛するでしょ
なんで恋するか、自分が楽しみたいってのがまずある
相手のために、相手を愛するんです、なんて
高尚な人はまずいない

ひどく皮肉に聞こえるかもしれないけど、自分が楽しみや安らぎを得たいから
相手の存在を利用しているんです。
自分の為に、そばにいてほしい、って。
そういう、心の、いうなれば下心なしに、相手のために純粋に相手を思って
愛せるなら、それは苦悩が伴わないんです。
でもそれはすでに、世俗の恋人とか夫婦愛じゃないですよね、、

いつも腹が立つのは、失うことを恐れて、愛さないのは臆病者だって奴
歌謡曲の歌詞みたいにね、、
これ、嫌なんですよね
ヘタレ、じゃないんです
純粋に、人間が苦悩するのはなぜか、釈迦が突き詰めていった結果
欲望の除去が、苦悩の除去と気が付いたんで

失うことを恐れているのは、自分の安らぎのために、あるいは甘えたいとか
相手にそばにいて欲しいと思うから、相手がいなくなると困る
ですから、そういう個人的エゴを放棄した形で、愛するなら問題ないんだけど
なかなかそんな、高尚な気持ちにはなれないですよね

でまあ、語っている麻原も、そんなに高尚じゃないんです たぶん
立派なことを言ったら、尊敬されるかなと思ったんじゃないかね
あの素行を見る限りでは

漏れは、愛して(自分のエゴで、ですけど)狂うほど苦しんだので
愛するのが楽しいって意見の人とは、違いますね
経験の違いからくる、意見の差はあると思います

でもね、転生があると、仮定した場合の話だけど
お互い愛して楽しかった、と いう経験をするでしょう
すると、死んでも、また同じ楽しみを味わいたいという 気持ちが生じて
再生してしまうって、いうんです

欲望によって、生まれる、とありますから
すると、何に生まれるかわからんけど、人間だったら、また生老病死を経験させられて
苦悩すると、、面倒でしょう
輪廻は燃えているし

仏道は、情動じゃないんですよね 情動を鎮めていく道
あの、不気味に聞こえるかもしれないけど 愛欲の興奮って、いうんです
人が愛し合うのを、、仏教では
綺麗に捕らえないんです 愛欲の憤激とか、いうの

外側に興味をもつ、というのが、悪なんです、小乗仏教においては
愛する人も、自分の外側にいるの
完璧に自分の外側に、意識がむかない状態をつくるんです
それはひかわさんから見ると、ヒッキーで不健全にみえるのかもしれないけど
修行のプロセスとして、必要なんです
別に不健全ではないんです

それはオウムの修行者が変人なんじゃなくて
釈迦だって、犀の角(さいのつの)のように一人行け、って言ってますから
悪いことじゃない

>すなわち、あなたは私であり、私はあなたであるという境地に至ります。
>そうすると、本当の意味で、
>自分を愛するがごとく、他者を愛することが出来るようになるのではないでしょうか。

そ~ゆ~境地に至ってみたいですね~。

ココでは現役オウム脳の方も、卒業なさった方も発言されているので
念のため申し添えますと、
もちろんオウムの修行でそこにいたれるとは思ってません。








あーさくらさんみっけ

そ、オウムじゃなくてぜんぜんいい 
わざわざ爆弾抱えて修行せんでも、

漏れは小乗思考だから、ふーと消えていきたいわね
もうすーっと、
漏れは疲れたから、オウムに金をぶち込んだのも、
愛する人を手に入れたいがため、、
欲があったから、あくせくしたのさ、   冷めてから思うとね
疲れすぎて、 もう二度と誰か好きになんかなるものかと

相手から手紙がこないかこないか、って 絶対きているはずないんだけど
ポストをのぞくのが、習慣になってたときがあって
ワレながら岸壁の母状態でした
何年か、寂しさで身が切れそうだと、いう時間を過ごして
ものすごくつらかったわけ

どうしても欲しいものが、どうしても絶対に手に入らない


愛されることを諦め、愛することをやめたとき、ふっと肩が、
比喩ではなくて、本当にふーっと、軽くなったのを感じたときがある
一度には捨てきれなかったけど、、だんだんに軽快になりましたわ
からくりがわかったので、もう二度と同じことはしたくないと、、

男より金が欲しいぞ

今は自分の趣味とかで、十分楽しいです
そのときは、好きな人と一緒になれなければ死のうと思いつめたけど
怖がりの漏れが死ねるわけないしよ、、
結局生きていて、割と元気ですわ

捨てて楽になった まだ潜在に残っているのが、なんとなくわかるんで
あとはこれを消したいと、、どうしていいか、よくわかんないんだけど
あとはお金が欲しいぞ

さくらさん

>もちろんオウムの修行でそこにいたれるとは思ってません。

その境地に至った方がいたとすれば、
教団のこのような惨状は見なくても済んだはずです。

あんまりにも極端に不幸な人を、例にあげるのもどうかと思うんだけど
テレビでみた
三人、小さい子供がいる親御さんが、ふたりを車の後部座席に乗せていたのかな
親御さんはくるまの前に座って

後ろからタンクローリーにぶつけられて、炎上したんだと
親は脱出して助かったけど、子供二人、ぼうぼう燃えて死んでしまった
助けられなかった

もう憔悴しきっているんです 自分も大やけどで
インタビューを受けていたんだけど、うつろな感じで、、
残った一人の子供を、育てているんだけど、子供ってすぐ大きくなるじゃないですか
普通の親は、大き目の服を用意するんだけど、
その人は買えないんですって

来年生きているか 自信が持てないっていうの
目の前の子供が生きているのが、なにか信じられないというか
この子も死んでしまうんでないかと、、そういう感覚があって
成長を楽しむ云々じゃないんですって

極端な例だけどね  出会わなければ、苦はなかったの典型みたいで
そういう両方を見るようになる
いつもうまくいく人ばかりじゃないから


絶対的無駄行為さん

>からくりがわかったので、もう二度と同じことはしたくないと、、

この気持ちは、よ~く分かる。
少なくとも今生はもういいという感覚になるね。

>愛されることを諦め、愛することをやめたとき、

これって、傍からみると、とってもかわいそうに見える。
やめたのは、愛じゃなくて、愛著なんだけどね。
そこから、さらに一歩前進させると、
本当の愛が出てくるかもしれない。

白龍さんどうも、

オウムも昔はそういう、すごく真剣な部分があったんだけどね
なんでだか、お薬とかばい菌作るほうが
大事になっちゃったんだよね

郵便物開封問題と年金問題

亀レス失礼。

名無しさま
>シャンバラではサマナに来た郵便物をすべて無断開封チェックされる
>親などからきた郵便物は中を無断で読まれてかってに破棄される
 それは成就前のサマナなら有り前では?

>国民年金の払い込みも破棄
 私は免除申請されてましたけど、今は免除申請すら為されてい無いのですか?

>しかし、師は払っている
 その情報が正しいという仮定の上で述べさせて貰います。
 事件後の教団で顕著に見られた「将来自分達だけが楽をしたい」「将来自分達だけが助かりたい」という傾向は、現在は一部の師や正悟師の方々が引き継いでいらっしゃるという訳ですね。
 ともかく、如何なる理由が有れ年金を支払うという行為は一種の「蓄財」です。
 全額御布施が最低条件であるサマナが蓄財をした場合、その貪りのカルマ・現世への執着によって修行はなかなか進まないでしょうね。
 事実、あれだけ恵まれた環境に居ながら師や正悟師の修行が飛躍的に進んだという話を私はほとんど聞いた事が有りません。
 
>師に来た郵便物は開封されることはない
>親と会って郵便物の返事がないことを言われてやっと気がつく
>師に聞くと昔からそうだからという返答
>ひどい
>本人の了承を得てないのだから違法行為
 それも当たり前。
 貴殿はそういう規則を承知の上で出家されたのではなかったのですか?
 もしそういう規則を承伏出来無くば、出家生活を諦めるか最初から出家せねばよろしいのです。

VT正悟師さま
>大丈夫です、「今度勝手に開けたら封印破棄罪(?)で告訴するからな、絶対開けるなよ、ゴルァ!!」で担当サマナも師も何も言わなくなります。
>実際そうやっている人知っています。
>但し脅迫とかにならない程度に。
 出家教団で決められた規則を守らないというのならともかく、決められている規則通りに為した人を責めるというのはナンセンスです。
 もしその規則が現状にそぐわない、或いは「肉親への情を断つ」という修行目的に役立っていないので有れば、その規則その物を問題視し改善すれば良いだけの話です。
 現世的な価値観を捨てた者達による出家教団である以上、あくまでも現世的価値観や社会的な規則より教団内の価値観・規則が優先されねばなりません。
 もしそれが出来ないのなら出家教団としての意味は有りませんので、さっさと解散するなり現世教団となって生き残るなりするべきです。

 教団の人達、特にA派の方々の唯一の価値観は「グルの意思」であり「グルの説いた法則」である以上、BBさんの投稿のように彼等の行動原理である「グルの意思」や「法則」を根拠にして彼等の矛盾点を指摘しない限り、彼等は絶対に聞く耳を持つ事は有りません。
 つまり「グルの意思や法則に則って、矛盾点を指摘する」以外に、A派を叩く・或いは改善する事は不可能なのです。
 VT正悟師のように出家の身でありながら現世の思想や規則を振り翳して出家教団で定められた規則を責める行為は、教団内部の人達からは「魔境」としか見えないでしょうね。
 そして双方が各々異なった価値観で「これが絶対に正しい」と主張し合う限り、何をしても永遠に和合も改善も改革も出来ずに徒労に終わるでしょう。

怒られる方もいるかとおもいますが 

フロイトやユングそしてここにブランコを混ぜてもいいでしょうが、臨床と大脳生理によってささえられた進化心理学は潜在意識というものを実際に患者にたいしてどのような投薬や治療が有効であったかという統計、そして、光トポグラフィによる脳機能の検証によって否定する方向へ遷移させてきています。旧皮質の基本神経作用である「生存」という生物として、もっとも大事な機能に多くの他の神経作用が可塑によりまきつけられ(この巻き付けこそ新皮質の役割といってもいいでしょう)肉付けされ一個の人格を形成している(注:巻き付け論に関しては氷川の作業仮説であり、まだどこでも発表はされていません)。人との出会いや新しい事物と出会い、それが何度かくりかえされ、記憶される過程において「生きる」という本則に対して有効であると旧皮質が認定した場合にA10神経(快楽神経)が励起し快楽を呼び起こす。これが幸福感というものだろうとおもいます。また、それに対しての欲求があるにも関わらずそれが成就できない場合には調整的な伝達物質であるセロトニンが低下し不安が引き起こされる。つまり、生きるという本則から外れないように脳は生理調節されている。宗教的な不安を覚える人がいれば概ね、セロトニンを増大させる投薬をおこなえば解消される(脅迫神経症と同じですね)ということは海外のカルト治癒研究でも徐々に解ってきました。仏教的にいえば本覚といえばよろしいでしょうか「生きる」という本則から全ては端を発しているといってもいいと僕は考えています。また、多くの人が考える程に僕は脳の機能は複雑かつ神秘的な存在としても捉えていませんし、文学としてパズルとして愛しこそすれ心理学を科学とは考えてもいません。

不安をつくりだすのは生に対しての危機感がそれを受容するセロトニンの量を下回った際に生み出されるものである。ここで麻原さんが言ったハルマゲドン、仏教の末法思想、それにキリスト教の世紀末思想や黙示録思想など生命危機を煽る言説が多くの信徒を集う事に成功した原因として認識し、信頼にたる作業仮説がたてることが出来るかと思います。特に思春期においてセロトニン等は非常に不安定な状況にもありますので、それにつけこみ生に対する恐怖を植え込んだ。そして、そのうえで自我崩壊をひきおこした。自我崩壊に関して、少し説明をさせてもらうと、仏教研究家であり生理学者でもある人々が、定位置連合野という領域があり、その野が異常反応した時に自我崩壊や瞑想がおこるのではないかという仮説をたてています。この定位置連合野は身体の部位がどこにあるか、そして、自分がどこにいるかという事を認識させるとともに「私は誰であるか」「あなたはだれであるか」自他の境界線をひくものだと彼らは言っています。光トポグラフィのデータを見た限り、彼らの仮説は非常に信憑性の高いものだと僕も考えています。

ここで彼らの理をつかうとヨーガも科学になってくる。身体を不自由な格好で折り曲げ、そして暗闇などに投げ込んだ上で、六時間も誰かの説法をぶっ続けで聞かせたとする。すると定位置方向連合は機能不全になり、自我境界線をくずす、もちろんそれは日常とは違う光景が演出されるわけであり、身体的な苦痛を伴うものですから防御的に脳内麻薬を発生させる。至高体験といってもいいものがここで発生するわけです。別に自己葛藤や精神世界の助けを得ずとも自我は崩壊し至高体験を得、その再現に関して対象者は非常に積極性を帯びる。私見となり不快な方もおられるでしょうけど、自我崩壊というものはストレス性の障害だと僕は考えています。そのなかで見られるビジョンというものも自己もしくは他者暗示による幻覚ではないかとも考えています。

あくまでも仮説なので怒らないでいただきたいのですが、もし、自我が崩壊したという状況において、なんら暗示の無いなかで相関性のない二人以上の人間のビジョンを一致(どんな暗示でもビジョンが一致するという科学性の確保)させることが可能だとするならば、そのデータを見せていただけないでしょうか。存在し、そのデータに妥当性が確認できるならば、その場で僕は持論を放棄してもかまいません。

すこしゲッチンゲンするために仮定をつくりますが、もし、地球外の何処かの惑星にニューロンネットワークが成熟した人間がたったひとり突然現れたとする。そのひとに深層心理と心理学者が呼ぶものはあらわれるでしょうか。言葉を知らず会話をもたない人間、それは単に生きる為に機能する生物であり、自己会話すら存在しない。つまり自己会話によって生じるとされる深層心理というものは存在しないということになるのではないでしょうか。もっというならば、「生きることによろこびをかんじるという」本覚といってもいいもの以外にあらかじめ秘められた深層心理などというものはない。

顔細胞(脳細胞の一群)や言語連合野といったもの、そして定位置連合野を駆使して人は会話をおこなう。もしも、すべてが同じ、つまり自己が拡張した自我崩壊というものが成立するならば、そこには会話というものの必然性はなく、全てが同じものであるとするならば生と死すら意味のないものとなる。しかし、それは脳が基本的にそなえている自我崩壊を抑止し個別識別を作り出す機能を著しく低下させる可能性が非常にたかいように僕には思えます。

人は比較的大きな大脳を所有していますが、その機能はそれほどに高くなく、社会に身を委ね依存することによって群虫論的に機能を補完する生物です。おろかな事も人はするけれど、多くの場合は慈愛をみせ会話を行い共存しようと必死になって喘いでいる。私見を極論すれば人は会話によって成立する社会を連語野のように使い生き、人の生に祝福をあたえ、他者との違いをみつけ、そして生きる事を絶対的に善としてつくられている生き物だと考えています。

最後に断っておきますが、僕は無神論じゃでもなければ唯物論者でもありません。神は人智の及ばぬところにいる。ただし、人智の及ぶところは人智で考えるように神は僕たちをつくられた。そう信じています。


なんか

ひどいことをかいてしまったような気がする。
みなさん、もうしわけないです。

ひかわさん。

どこがひどい事なのでしょう、とても勉強になります。
有難うございます。

>神は人智の及ばぬところにいる。ただし、人智の及ぶところは人智で考えるように神は僕たちをつくられた。そう信じています。

私もそう信じています。
それが、智慧を磨くという事なのだろうと思っています。

ひかわさん

え?
とても正論を書いてらっしゃると思いますよ^^

ただし、ヨーガでは「脳」はマインドと身体を繋ぐ橋のようなものでそこにマインドがあるわけではない、とヒマラヤ聖者たちは説明します。

>身体を不自由な格好で折り曲げ、そして暗闇などに投げ込んだ上で、六時間も誰かの説法をぶっ続けで聞かせたとする。すると定位置方向連合は機能不全になり、自我境界線をくずす、もちろんそれは日常とは違う光景が演出されるわけであり、身体的な苦痛を伴うものですから防御的に脳内麻薬を発生させる。至高体験といってもいいものがここで発生するわけです。別に自己葛藤や精神世界の助けを得ずとも自我は崩壊し至高体験を得、その再現に関して対象者は非常に積極性を帯びる。


これを聖者たちの説明でヨーガ的に言い直すと

身体を不自由な格好で折り曲げ、

(ヨーガ的には安定した座法やヨーガニドラー(シャヴァアーサナでの瞑想)の状態で)、そして暗闇などに投げ込んだ上で(目をつぶって瞑想などをして)

長時間自分の内側に意識を向けて外側からの感覚情報を制限すると、定位置方向連合は機能不全になり、

(マインドと身体を繋ぐ脳の機能の一部が不安定化、または一時的に意味消失し)自我境界線をくずす(まず最初に崩れるのは身体的自我境界線。マインドの自我境界線はまた別のアプローチ)

もちろんそれは日常とは違う光景が演出されるわけであり、身体的な苦痛を伴うものですから、

(ヨーガ的にはその苦痛が伴わない状態を作り上げます)

防御的に脳内麻薬を発生させる

(なので防御反応とはまた少し違います)

至高体験といってもいいものがここで発生するわけです

(究極的には体験を伴わない。体験の無い体験ともいうべきものが生じます。便宜上「生じる」としていますが、至高体験や経験できるものがなくなった状態。つまり、体験を発生させ体験させるのが目的ではなく、体験を落としていくのがヨーガです)

別に自己葛藤や精神世界の助けを得ずとも自我は崩壊し至高体験を得、その再現に関して対象者は非常に積極性を帯びる

(ヨーガではあくまで受け入れることに主眼をおきます。積極性は捉われ。なので再現に拘るなと教えます)

そのなかで見られるビジョンというものも自己もしくは他者暗示による幻覚ではないかとも考えています。

(先に述べたようにヴィジョンやイメージは落としていきます。多くのヒマラヤ聖者は体験について説明を加えません。評価もしない。暗示性をできるだけ避けます。それが他人の支配にならないように)


ひかわさん

>神は人智の及ばぬところにいる。ただし、人智の及ぶところは人智で考えるように神は僕たちをつくられた。そう信じています。

その人智の背景に神が浸透しているし、ありとあらゆるものには神が浸透しています。
我々は神の現われで、及ばぬのではなく、忘れているが正解だと思います^^

>この定位置連合野は身体の部位がどこにあるか、そして、自分がどこにいるかという事を認識させるとともに「私は誰であるか」「あなたはだれであるか」自他の境界線をひくものだと彼らは言っています。

お医者さんでしたっけ、ちょっと(たぶん、漏れの話が、ひかわさんにわかりにくかったように
ひかわさんの話もわかりにくいんだけど)
ひかわさんは、自我崩壊という単語を、”危険物”として扱っていますが、宗教分野においては比較的好ましいこと、好ましい言葉として使っているんです。

心理学とかよくしりませんが、自我が崩壊するというのを、精神病として捕らえているんでしょう。宗教ではそれは、進化なのですわ。てか、同じ言葉だけど、イメージするものがかなり
違う。

ここはオウムですから、たぶん強制的に修行させられ、自分というものを捨てさせられ、グル麻腹を自分の自己と入れ替え、クローン化させられる、と、言った現象を指して、それは
危険だと、おっしゃっているんでしょうが。。
確かにオウムはそういう修行法をして、問題をかもしました。これをいいことだと、感じているのはたぶん、現役信者だけでしょう。

漏れはオウムにいましたけど、その修行を、ある部分はできたかもしれないが、ある部分ではしなかった。たとえば、教団が金もってこい、と嫌なんだけど、もってきてやったと、一種の自我放棄です、自分の考えを捨てました。。
でも、すべてを捨てるのは、自分のすべてを捨ててまで、グルに入れ込むなんてのは、
漏れにはできない。したくもない、教組の顔だけでも、うんざりするという人でしたから。

しかし、こんな極端はオウムにだけあるんであって、、あるいはチベット仏教にもあるのかも
しれないけど、漏れが話すときはもっと、一般的な(漏れもまだまだ、ちゃんとした知識が足りないんだけど)仏教の話です。。

ひかわさんは、あなたと私、という別を認識できないのは病気だと、いいます。
しかし、宗教的には、ある意味最高の境地であるわけです。。

ただ、指導する人によって、妙なもって生き方をして、犯罪に発展させたわけ。

好ましい考え方の例としては、自分に進学をする年の子供がいたと。
競争率の高い学校を目指して勉強する、10人のうち、半分しかうからないと。
みんな自分の子供を入れたがります。自分のこどもが受かるとよくやったと
しかし、それは残念ながら、他人の子供はけり落とせ、というのと同じです。
子供は失敗すれば悲しみます。
自分の子供が受かったので、手を叩いて喜びますが、他人の子供は悲しんだと
いうことは思い至りません。。

それはなんででしょうか、子供が、自分の子供だからです。
自分の子供が大事なのは、それが自分の子供だからです。
仏教やヨガではよく言うことですが、
(私は~である) (コレは私のものである)

”私、と、私のもの” この認識が、悪なのです、ひかわさんのいうことと全く逆ですが。
私と私のもの、という感覚から、所有感が生まれるのです。
で、人は必死で私と私のもの、を守ろうとしますが、それがかえって
本人を苦悩させる原因なんです。

たとえば、車で人が惹かれて死んだと、気が付いたら、自分の息子だったと。
ものすごく悲しみます、でも、それが他人の子供なら、かわいそうだけど、すぐ忘れます。
それが、(自分のもの)ではなかったから。。

人は、自分のもの、と思ったもののために悲しみます。
そして、自分のもの、という考えを起こすのが、自我意識なんです。
自我意識があるので、私、があり、私のものが起こり、
その私や私のもの、が傷つけられれば苦悩します。
逆にいえば、私、を捨ててしまえば、そこには苦悩がないのです。

それが、仏教やヨガの共通した見解です。
病院のセンセには、ちっと精神病にみえるのかもしれませんが、高度な哲学であり
実践できるものだと、難しいけれど、思います。

それはセンセの考えるような病気ではないんですよ、この分野では当たり前です。。
病気だって言われると、非常に不服ですね(笑)

漏れは完全に、この理屈には論破されましたよ、病院のセンセがなんていおうが
気になりません。だって、考えたら、当たり前だと思うし。

脳のどこかがぶっ壊れて、今自分のいる位置が認識できない、それは精神病かも
しれませんが、修行においては、それとはちょっと違うと思う。

てか、センセは、外界と接触しなかったら、正確な外界認知ができないじゃないかと
心配されているようだけど、宗教的には、外界的事物にあまり、価値を置かないんです。
それは、生きるために最低限対処すればいいと、いうように考えられていて
なんでなら
外界の(もっといえば、自己の内面すら)変化してしまう無常のものなんで、
そう割り切って捕らえる修行者には、たいした問題じゃないんです。

それが、社会悪を生み出さない限りは、とやかく言われる問題じゃないと。
たとえば、キムタクはすごいハンサムでもてると、
一般的認知だと、、しかし、男に興味なければ、どうでもいいと。
同じ者を見ても、認知に個人差はあるわけ。
つまり、個人の内面の様相によって、外界を見る目線が変わるというか、
同じように見えないと、(平均的でなくて悪だ)という考え自体に
漏れは疑問があるわけ。
そういう世界です。

それは、丸いものが四角に見えるとか、そういうのは病気でしょうが。

オウムは自我崩壊させるプロセスのなかに、
お前、自分がなかったら、オレのいうことを聞けるだろ
じゃ、サリン撒けるよな、と
いうのを入れたので不健全ですが

釈迦はんなこと一言もいいません、自我が苦悩をもたらすからよく考えて
放棄せよと言ったまでで
その代わり俺を拝め、とかいいません

オウムのグルイズムは危険なので、しかも漏れはああいう
暑苦しい関係が嫌なので、できませんでした
情優なんかは考えられないくらい、洗脳されているのかもしれない
在家なんかには、あんなに恐ろしいいいつけを恐怖しながら聞くというのは
ちっと、わかんないです

>お医者さんでしたっけ、

ひかわさんは、著述家です。
物書きをされている方です。
お医者はあべるさん。

ほう。

ひかわさんは「あなたと私、という別を認識できないのは病気だ」という立場なのか。

どちらかというとヨーガで認識作用をストップさせて自我境界線を崩すのは個人個人というパーソナリティの崩壊ではなく、「私という個人」と「神」との境界線の崩壊を狙っているのです。
先ほど述べたように、ありとあらゆるものには神が浸透しています(と、ヨーガは教えます)
我々の背景にも、ありとあらゆる事象にも、宇宙の全てに神は溶け込んで浸透している・・・

でも、我々は「自己」という認識・判断があるために自覚できない。
なのでこの神との境界線を崩そうとするのがヨーガです。

なので、聖者を見ていると個人個人というパーソナリティの崩壊はさほど起きているようには見えません(逆に個人を大切にします)消えているのは個人に対しての「好き・嫌い」や
「優劣」で観ることなどのようです。

また聖者にも見た目のパーソナリティは存在しているように見えるので(これを神が奏でる楽器の音色の違いと表現する方もいました)自己認識の消失というような病気の類ではないように思います^^

最近

というか、ここ五年程サンスクリット古典を読んでいるんですよ。非常に苦労して読んでいるし、いつ納得できるのか解らないんですが、阿含などをよんでいるかぎりは、仏陀はそれほど難しいことは言っていない。実にシンプルなんですよ。仏陀その人がなにをいいたいか飽くまでも印象なのですが・・
「人のいやがる事はするな、命を大事にしろ」それだけのような気がするんですね。これに対置するものは悪である。これは、キリスト教でも根本思想として存在するものだと思っています。

仏教そのものは、浅学ですが僕の認識では檀家と出家という支配の補助システムとして進化してきた側面が非常に高い。特にチベット密教は民間の神秘主義をもとりこみながら、曼荼羅で整合性をとってきた非常に不安定な信仰であるという印象が強いです。(これを変えようとしているのダライ・ラマでしょう)

キリスト教にしてもユダヤ教にしても仏教にしても妙なくらいに修行にたいして非常に執着し、解脱とか成就者と一般ピーとのあいだに大きな格差をつけようとする。古代文明における法学官として聖職者が役割をになってきた時代にはそれもいいでしょうけれど、現状においては無形な知的カーストの力の源泉として修行があるように僕には見えるし、修行を通じた特殊意識の植え込み、それは非常に危険なようにもみえるんですよ。

また、僕は障害といいましたけれど、病気とはいっていません。

このへんの表現は難しいですね。

漏れは、ひかわさんが何かしてくれるかと思ったけど
ちっと、手を引いて欲しくなりましたね

修行者を馬鹿にする権利はないでしょうが
助けてもラワンでもけっこうさ、、、
漏れはオウムは世間に迷惑をかけた、だから無くていいと思うが
修行そのものを否定する人は嫌いでス

助けてくれなくていい

「人のいやがる事はするな、命を大事にしろ」それだけのような気がするんですね。
ほんとにちゃんと理解しようとしているんですか
宗教なんて、その程度でいいという軽侮が感じられますが
もっとずっと深いと思いますね
馬鹿にするなら、手を引いてください

だから、あなたがくだらないと感じるからといって
やめろ、という権利はないでしょう
それが、他人を害しない限りは

逆に著述家だかしりませんが、社会的に認知されやすい権威みたいなものを
宿した立場で、これはくだらない、なくていい、しなくていいと
あなたはいいたいんじゃないんですか

あなたに勧めるつもりはありませんが、それが後生大事な人も多いんです。

なぐりつづけるかどうかの問題

障害とはいっていますが、日常生活がおこなえないほどにはおこない、障害が固定されるような状況ではない。そういうことでしょう。
DSMに記載されるような症状も出ていない。

それをやったのは麻原さんであり苛烈な修行を象徴として多くの人をっ牛耳ってきた権力者でしょうということですよ。

僕自身、むかし西洋医学を補完する為にアユール・ヴェーダを研究していた人間です。ヨーガを否定はしていません。ただ、そこにある精神主義にあまりにも重きをおくのは危険だと言ってるにしかすぎないんですよ。

20年以上経過していますが

いまだに当時つきあっていたサドゥーやヴェーダー医とは付き合いがありますよ。とくにサドゥー達はみなさんより激しい修行もしていますが、ぼくはとめもしませんし、それを忌避することもありません。

また、ヴェーダー医たちが千年以上かけて伝承し、何十年もまなんで始めてつかえるような治療法がアーレフで行われている。これには強い憤りも感じている。
そんだけですよ。

教組のやったことは、ひどいです。それで、中の人が虐待されていると、、
あるいは洗脳されていると、、
それをなんとかしてあげたいと、、いうのはありがたいんですけど

確かに難しいんですよ 
オウムは問題です。漏れも吼えますが、修行そのものの完成を目指して
精神的に生きることを望む人に
方向転換しろとか、命令する権利はないでしょうね、、

ほいじゃあ、永平寺の坊主とかにも、解雇命令出して欲しい

まあ、野田氏のブログで漏れが書いたのが、そもそも間違いなんでしょうね
ここはオウム問題の場所だから

漏れは一般的に修行には素晴らしいものがあると、主張したいだけで
オウム擁護したいわけじゃないです
他人に迷惑かけることを望みません

ただ、ひかわさんが、修行をあなどる、くだらないというなら
そんな人に手を貸してもらってどう、とは思わんわ
なんか、考えてくださるみたいだけど、修行者が何を考えるか、
根本的に理解できない人が、手を貸してくれるといっても
解体は早くなるかもしれないが
中の人の心情はわからないよ

焼き場を歩くサドゥー

友人のサドゥーの中に全裸で一年中あるきまわり焼き場の泥を体にぬって修行している人がいます。他のサドゥーにも忌避される人だったのですが、その人と話すとまともにはなせるし、社会を認めている。また、もどりたくなったらいつでも戻るといっていた。ぼくはそういう人にはなにもいいませんよ。社会を認めず人を巻き込みながら過去の宗教史から見ると非常に規模は小さいけれど、いびつでみにくいカーストを作り、小さな支配欲と私益の中で人を虐げている連中。そういう奴は殴っても仕方ない。
また、そういう連中は過度に精神主義を題目として、人格破壊の道具に使っている。過去にもそれはあったし、その機序はこういうものだといってるんですよ。

郵便物開封問題

教団の財施部で郵便物を無断開封しているのはシャンバラだけ
同じく財施部がある帰依・慈愛・サンサンでは無断開封・破棄はしてない
同じ法則に基づいているのなら、なぜシャンバラだけ?
親から会いたいと言ってきたときも、シャンバラの師も会うように勧める

実は郵便物無断開封はお金のため
親からの手紙で危篤と書いてあれば遺産が入りそうだねと言う
もちろん、教団に布施させるため

税務署から通知で収入を全額布施をしてるかチェック
もちろん、預金通帳とキャッシュカードを強制的に預かって管理している

なお、師ではないA派大物サマナの荒●正大師代行の国民年金は教団の金で払っている

僕は

くだらないとはいっていませんよ。苦行もそれは社会性を破壊せずにおこなえるならばなんら問題はないとおもっています。それどころか僕自身がアメリカインディオや日本のマタギ達に伝わる精神修養もしていますし、子供の頃から多くの武道にも身をしずめています。

「人のいやがる事はするな、命を大事にしろ」それだけのような気がするんですね。


これは仏典の受け取り方でしょうね。
俺には「内側に入っていけ。自分の内側に。そこに全ての回答があるし、平穏も結局そこにしかない」それだけしかないような気がします。

>また、僕は障害といいましたけれど、病気とはいっていません。

これは失礼しました。

しかし、やはり障害の類でもありません。
むしろ彼らは我々などよりも平穏だし、他人に優しく(自分に対するように)、あなたと私という個体認識を失っている訳ではありませんでした。
その意味でも「クローン化」などというSF漫画じみた妄想は、キチガイの妄想、最近のキチガイですらそんな妄想は既にしないくらいにカビの生えた妄想でしかありません。
(あえて差別用語を使わせて頂いております。色んな意味で)


>檀家と出家という支配の補助システムとして進化してきた側面が非常に高い。

現代の生きたヒマラヤ聖者たちは
「出家はあくまで特殊な形態。これが全てでは無いし、在家でも霊性を極めることは可能」との見解を示します。
そして、奉仕、というのが在家にも出家にも共通のテーマなので在家に出来る奉仕、出家にできる奉仕、在家者が在家者(あるいは社会に)行う奉仕、在家者が出家者に行う奉仕、出家者が在家者(あるいは社会に)行う奉仕、出家者が出家者に行う奉仕をすすんで行う、そこにはカーストや支配・コントロールが無い。
少なくても俺が見たヒマラヤ聖者の在家・出家の関係はそんなものでした。


>無形な知的カーストの力の源泉として修行があるように僕には見えるし、修行を通じた特殊意識の植え込み、それは非常に危険なようにもみえるんですよ。

まず、カーストの放棄。
ここから本来的な修行があります。
そして、特殊な意識と申しますが、それが危険とされる根拠はどこに?
我々修行者、あるいは精神世界を旅するものにとって、常態の意識はこそは本質的ではない。(これは仏典を読めば分りますよ)ここから出発点とする以上その特殊意識を目指すのは当然ですからひかわさんの認識はまだ浅いように感じられます。

ひかわさん

社会を認めず人を巻き込みながら過去の宗教史から見ると非常に規模は小さいけれど、いびつでみにくいカーストを作り、小さな支配欲と私益の中で人を虐げている連中。そういう奴は殴っても仕方ない。
また、そういう連中は過度に精神主義を題目として、人格破壊の道具に使っている。過去にもそれはあったし、その機序はこういうものだといってるんですよ。


だとすればお話しは分ってきます^^

>いびつでみにくいカーストを作り、小さな支配欲と私益の中で人を虐げている連中。そういう奴は殴っても仕方ない。
また、そういう連中は過度に精神主義を題目として、人格破壊の道具に使っている。過去にもそれはあったし


それは漏れも同感です。難しいことは知らないけど、極度な精神主義が、人を巻き込んで
大きくなり、暴力になるってことは、他にもたくさんあるんでしょう。
組織になると、狂うって印象があります。。
金は入るし、権力が持てるし、しまいには捨てようと思った欲まで拾い上げるんじゃないかと。トチ狂うというか。

ただ、社会を傷つけない限りにおいては、社会を捨てて拒絶して、
森にでも入る権利は、修行者のために、残してやってほしいんですよ。
それは、結局、権威を担ぎ出しますが
釈迦だって、そういっているんです。
ひとりでいけ、って
独居せよとか。。

それは社会の拒絶、というと悪徳に聞こえるのかもしれないが、
修行に没頭したいんです。
没頭しても、今生で終わるか、わかんないほど、達成するのが
難しいんで、
ひかわさんが大事に思うもの、とは別のもの、を大事に考えているだけで
あんまり、変人みたいに言わないで欲しいんですけど。

絶対的無駄行為さん

>あんまり、変人みたいに言わないで欲しいんですけど。


え?
変人って言われる方が良くない?
「個性的」って言われている気がするだけなんだけど・・・。

釈迦牟尼だって何不自由なく育てられ育ってきた一国の王子なのに悩んで出家するような変人なのだしw

僕が見たのは

聖者でもなんでもない、ひょっとしたらそうなのかもしれないけれど、ただのサドゥーでした。彼らは深く社会を理解していました。そして、社会が悪くないものだという事も知っていました。彼らに「どうしてするの」と聞けば「やってみればわかるよ」じゃぁやってみるかと僕が言うと彼は「お前はマザー(テレサ)のところにいけ、そっちほうが役に立つ」それ以来、僕はずっとさまよっているし、旅をつづけていますよ。僕の苦行は現実の社会にあります。その意味では僕は理解できないかもしれない。

変人扱いはしていません!

野田さんにおくるために出版を封印した僕の原稿です。すこし読んでみてください。



かみなりごろすけ

ゴロ助はいつも、お山のてっぺんから
ごろごろと転がっておりてきて、みんなをびっくりさせます。
雨の日も、晴れの日も、いつでもゴロゴロと、おやまのてっぺんからでんぐりがえりでおりてきます。

ゴロ助はお山の上にあがるとうたをうたいます。

おれはゴロ助ドンガラゴロゴロ
おやまのてっぺんからおりて
村のみんなをびっくりさせる

草を刈るおじいさんも
こもりをする女の子も
キツネもたぬきも
ゴロ助がころがってくるとびっくりしてしまいます。

ある日、とってもびっくりしてしまったおばあさんが腰をぬかして寝込んでしまいました。

それを聞いたおじいさんとおんなのことキツネとたぬきが、ゴロ助のうちにいきました。

『やい!ゴロ助、お山のうえからゴロゴロするんじゃない』みんなが声を合わせていいました。

でも、ゴロ助はだんまりを決めてかまどの後ろでオムスビを食べていました。それをみていたゴロ助のお母ちゃんがいいました。

どうして、おまえはそんなことをするんだい。ごろごろしないでみんなのためになることをしなさい。

ゴロ助はうるさいというとオムスビをお母ちゃんにぶっつけて『おれは、もっと高いところからゴロゴロしてやるんだ』といいました。

お母ちゃんは泣きながらおじいさんや女の子やキツネやたぬきに謝りました。

それから何百もゴロ助がゴロゴロするくらいに日がたったある日、いつものようにゴロ助がお山にのぼるためにオムスビをつくろうとするとお米がありませんでした。

おかあちゃん、米がないじゃないか、ゴロ助がそういうとお母ちゃんは困った顔をしていいました。

何日も何日も雨が降らないからお米がとれないんだよ。おまえがゴロゴロばっかししているから、だれもお米を貸してくれないから、食べ物はもうないんだよ。

ゴロ助はそれを聞くと怒ってしまって、お釜の蓋をお母ちゃんに投げつけてお母ちゃんを殺してしまいました。

殺すつもりはなかったのにお母ちゃんが死んでしまってゴロ助は『おれがゴロゴロばっかししてるから、おかあちゃんを殺してしまったよぉ』といって大きな声で泣きだしました。

何日も何日も泣いて暮らしたある日、ゴロ助はぺこぺこのおなかをしながらお山のてっぺんに上っていきました。いつもよりもずっとずっと高い雲がかかるくらいに高い山です。

ゴロ助は泣きながら、雲より高いところからゴロゴロと転がって降りていきました。

たくさん泣いたのでゴロ助の涙は大雨になりました。
高いところからゴロゴロしたのでゴロゴロは大きな音になり、ゴロ助はカミナリさまになりました。

そうして村には雨が降りお米ができるようになりました。でも、ときおり、おじいさんやおばあさんの腰をぬかさせたり、大きな木の上に落ちて山火事をおこしたとさ。

>僕の苦行は現実の社会にあります。その意味では僕は理解できないかもしれない。

あなたの目の前に広がっているものだけが現実の社会ではないと思います。
サドゥにはサドゥの現実の社会があるし、俺には俺の、他人には他人の。
それぞれの「現実」の中でそれぞれの道を歩いている。
そして釈迦牟尼やヒマラヤ聖者、多くのサドゥ、ヨーギーが「心の内側に入っていけ。そこにしか全ての答えはない。平穏もそこにしかない」と言っているのはその「現実」は心が作り上げているからなのです(そういう風に思うし、仏典もヒマラヤ聖者たちも、サドゥも言います)それは多くの心で出来上がっていて複雑に絡み合い、転変していく・・・。
なので、本質を掴む為には自分の心の内側に入っていき、よりシンプルなものを見つけ出すしか無い。外側には無数のパターンの刺激とその無限のバリエーションがあるために混乱状態に陥るから。混乱状態にあることする認識できなくなるほど混乱状態になるから。

考えのあまり違う人と話すのは、面倒に感じる、、(笑)

無常観が、ないんだよねえ
存在は恒常じゃない、ってのが、行者のベースなの

たとえば、日本人貧しかったときは、働けと、
しかしみんなが中流になると、大学行けと
ネコもしゃくしも
しかし、バブルのときは良かったが、今じゃ大学でたって就職難と
就職しないのに大学いっても大して役にたたんわ
社会って 早いペースで、ころころ変わるじゃん

それを観察して、こんなころころ変わりやすいものに、人生かけるのか、っていう
それは、ここで、2,3度いわれても、ピンとはこない 
しかし、もっと恒常のものがないかしらん、って
悩むと、こういうほうに流れたりするわけ

教組が社会が悪だと、吹き込んだのは、戦争を画策したからです。
仮想敵を作って、ぶち壊し、自分が支配する、あるいは
ときどき言われるように、他人の悪事の片棒でも担がされたのかもしれないけど
社会は悪だから捨てろ、というと
出家という タダ働きしてくれる人が集まって、しかも全財産没収なんで
儲かるんです。
在家も外に金を落とさず、中に落とすしね。
で、社会に対してテロをして、自分が支配するのか、背後の別の組織のためかは
しらないけど、そう吹き込んだほうが、教団がわに得だったと。。

うまく、修行者が世を厭う心情を操って、使いまわした。
修行のためというより、北朝鮮みたいに情報操作して、思うように動かしたいとか。

現実は心が作り出している

僕はそういう意見には同意できません。
苦痛は普遍的なものです。
苦しいものは苦しい
叫ぶものは叫ぶ
余り口にしたくない話ですが、僕はアフリカでしっかりと心が作り出したものではない苦しみをこの目で見てきたつもりです。そのなかでも数十名でも助けられた。しかし、いまだに叫び声も残っているし後悔も残っている。

実際に苦しむ人はいない。自己さえ救済すればいい(上祐も同じ事をいっていたような気がする)。僕は同意できませんね。苦しむ者がいれば努力し助ける。

ここで精神世界と現実の話は打ち切らせてください。僕の方からは発言しません。貴方達が心がみせているという人の苦しみには僕にはどうしても現実にしか見えない。自分が救われれば人の苦しみも解消されるとは僕にどうしてもおもえません。このままでは平行線を走るだけです。

ひかわさん、十分すぎるくらい変人扱いしていると思うけど、それ、、、

それから、社会が善だって、言い切りすぎると思う
日本はとりあえず、平等主義というか自由だけど
みんなが平等に幸せになんかなれんわ

ある哲人の言葉を借りれば、世の中はあっちで問題が解決すれば
こっちで問題が沸き起こり、、
して、いくら駆けずり回っても、きりがないわ

かけずりまわって、一生終わるより、見定めたほうがいいって
思って、内面を探求するんでつ

世の中を良くすることは素晴らしいけど、いずれにせよ
欲がある人間がうごめいているんだから
金の取り合い、地べたの取り合い、権力の奪い合い
たかをくくっているうちに、多民族に支配されては困るこけども
あんまり、いいところでもないみたいな、、

でも、宗教団体もいいところではなかったみたいだけど

>僕はそういう意見には同意できません。
苦痛は普遍的なものです。
苦しいものは苦しい
叫ぶものは叫ぶ
余り口にしたくない話ですが、僕はアフリカでしっかりと心が作り出したものではない苦しみをこの目で見てきたつもりです。そのなかでも数十名でも助けられた。しかし、いまだに叫び声も残っているし後悔も残っている。


でも、その苦しみを苦しみとして認識しているのは実際心だったりします。

俺らが「苦しみ」として認識するようなヒマラヤの高度での寒さもそこで修行しているヨーギーたちは「寒いよ。でも問題ない。寒いのと苦しいのとはまた別問題」と言います。

心が無いなら苦しみも感じない。
認識しない以上は無いも同じ。
認識する心が無いのだから。苦自体は認識された「現象」で実体がある訳ではありませんし、苦痛は普遍的ではありません。それは薬でだって散らせられるし、脳内麻薬でだってその領域の外に出られる。また、そういう刺激は波の性質があってピークが痛いだけだし、慣れてしまうと感じにくくなる。普遍性は存在しません。




>実際に苦しむ人はいない。自己さえ救済すればいい(上祐も同じ事をいっていたような気がする)。僕は同意できませんね。苦しむ者がいれば努力し助ける。

俺は苦しむ人はいないとは言っていません。
また自己さえ救済すればいいとも言っていません。
「苦しむ者がいれば努力し助ける」
でもそれは「自分が現在苦痛の中にいない」という条件を満たしていないと意味はありません。
苦痛という岸に苦痛にのた打ち回っている人を引き上げても意味はないですから。


>ここで精神世界と現実の話は打ち切らせてください。僕の方からは発言しません。貴方達が心がみせているという人の苦しみには僕にはどうしても現実にしか見えない。

現実と心は同一。
これは少し掘り下げて考えるだけで分ると思うのですがね・・・。
精神世界的でなくても。
むしろ、心と現実との関連性を無視して「心」「現実」と分離して考える方が非科学的な気がしますが・・・。


>自分が救われれば人の苦しみも解消されるとは僕にどうしてもおもえません。このままでは平行線を走るだけです

そうは言っていません。
先に述べたとおり苦しみの岸に苦しんでいる人を引き上げても無意味。それどころか悪化するケースだってある。
ってことです。

極限的状況ってのは、救われるべきだと思う
飢えで死にかかっているとか、そういうのは

でも、他人と平等になれば、次には他人より多く欲しくなるとかね
物質もいいけど、豊かになるときに、精神論がないとさ
パンが食えればいいってのが
バッグはグッチじゃないと嫌ってなって
豊かになっても、不満が抜けないの

ダチがグッチもっているから、自分もって不満になって眠れないより
パン食えれば幸せだったときのほうが、幸せだったかもって
欲を減らせば不満がヘリ
しまいには楽が訪れるってのは永遠の真理

>でも、他人と平等になれば、次には他人より多く欲しくなるとかね
物質もいいけど、豊かになるときに、精神論がないとさ
パンが食えればいいってのが
バッグはグッチじゃないと嫌ってなって
豊かになっても、不満が抜けないの

ダチがグッチもっているから、自分もって不満になって眠れないより
パン食えれば幸せだったときのほうが、幸せだったかもって
欲を減らせば不満がヘリ
しまいには楽が訪れるってのは永遠の真理


そうそう。
これこそが「心が苦痛を作り出している」ってね。
肉体的苦痛だって「ボディは自分ではない。これは自分の持ち物でしかない」と自覚していると苦痛はだいぶ減ります(これは自分の経験上からも自信を持って言えます)

指を失ってとてつもない苦痛を感じる人もいれば、覚悟していたのでそれほどの苦痛を感じない人もいます(なかには名誉に思う人もw)これは心が現実を作り出している一例だと思います。
自分の現実を。

なんていうか、それぞれのおかれた場所で、できるだけ良くなるように
すればいいんじゃないかと

修行者って、精神論はひねくるけど、現実対処は苦手な人がいて
それが、かえって、困りごとを作るとかね、

アフリカにいって何かされたようだけど、そういう努力をする方がおられるってのは
救いだと思う 飢餓とか、戦争とか、
誰かが介入してくれないと、そのまま死んでしまう人らがいたとして
遠くで精神論ひねくっているより、パンもって現地行くほうが偉いってのは
わかる。

漏れさん

漏れさんなかなかいいこと言う。寂静なときはさすが。
タイガージェットシンが正統派ストロングスタイルで闘ってるみたい。
下手なサマナに漏れさんの御宝髪でも煎じて飲ませてやりたい。

怒りませんよ

著述家でいらっしゃる氷川様に敬意を表します。
文筆業にも種々雑多あることでしょうけれども、この世に生息する人間の最も素晴らしい機能は言葉をもって他者と交信し意思伝達できる部分であろうという思いからです、ある意味では芸術家でもありますからね。しかしロゴスは二元相対なんですよね。聖書にあるとおり神とロゴスを同一視している側面もあるでしょう。わたしなど未熟者で極悪人の部類に入る者から言わせて頂けるなら、とてもバランス感覚が自然に身に染みてお有りの方かなという印象です。サンスクリット原文を悪戦苦闘されながらゴータマブッダが何を言ったかを探られておられるとのこと、再び頭が下がります。←アーレフ信者に爪の垢煎じて飲ましてあげたいと思うくらいです。

わたし自身大方の返信内容を構想していました。しかしそれは少し長いので核心部分のみにした方が良いかなと思います。少し舌足らずになりますが、おそらく科学的思考を評価してしまっている我々にとって陥る陥穽がある部分ですので、最も適切であろうと思量して単的かつ手短に表現させて頂こうと思います。

他の投稿者の方々も触れられています内容ですが、

宇宙の中には、心の外にあって心を証明、対象化・測定できる場所は存在しない。人は心をつかむことはできない。なぜならつかむことそれ自体のなかに心はあるからだとされているからです。

なぜ個人的にIMブランコ氏の手法に興味を抱いているかと言いますと、ケン・ウイルバーのアプローチ方法の方が感覚的にわたしは好きなのですが、科学的思考という観点により沿った形では、科学的証明がかなり原初の二元論に基づく解説が真実に近い印象を抱いているからです。
近いと思うから使わしていただこうと思っています。

しかしながら本質的に、この区分は心には無縁なものです。心は道に従うものに同意する人になら誰でも実体験的に「証明?」しうるものですが、この「証明?」は外的なものではありません。
解脱とか成就者と一般と差別を付けようとするのはまずいのだが、そんな傾向は出てしまいがちですね。松本氏も最悪がそこにあるとわたしは感じています。しかし上下の優劣を付けることを望むのが世間八法ですから、それをステージ別けのようなものに取り込んだのは、手段として(皆の努力の活力になるのは良いので)間違いはないが、それがドグマに成ったら最悪な状態と巨悪事件の引き金になっている部分であろうと反省できます。


>神は人智の及ばぬところにいる。ただし、人智の及ぶところは人智で考えるように神は僕たちをつくられた。

これで良いのです。しかし宇宙外に人が触れもできない彼方にいて何もしない存在でも、人間の姿をした特定の人として一身に顕現するものでも無く、ただただ自然にこの世にもその神性はいらっしゃいますと捉えるのが、
意識というものとか心の本性ですよというだけでしょう。

>ゲッチンゲン

これは「根底に横たわる合一のプロセス」を露呈させることを指しておられるのかもしれません。
また
>観察が一貫して整合性をもって観測できたということはあるでしょうか、あくまでも精神論を主張する一部に偏在する人達のゲッチンゲンであり、事実性は僕には観察できないように思われます。

これは仕方ないでしょう。少なくともわたしは、

個的に分離した存在を越えて広がるアンデンティティの深さを認識すれば個はより簡単に個的に分離した神経症を乗り越えることができると経験的に感じている現実性であって、それが例えば人類共通の原型や神話的象徴(イメージ)、言葉(種字)の目を通して人生を考えるように馴れてくると、そのもの自身の経験的自覚は、必ず普遍的な視点-超越的、脱個人的、超個人的観点(それは、個人、民族、領域によってそれぞれ異なるものであり、尚かつ、類似性のあるものに感応する共通性のある表象であります)-へと転換し始める経験をするものだとリアリティを持って感じています。
いったんこういった過程が活性化してしまうと個人はもはや分離した自己の感覚だけに独占的に同一化しなくなる傾向が増していき、これによって、純粋に個人的な問題ばかりに縛られなくなる心理経験をして行くことがリアルだからです。
この過程が同時に
恐怖・不安・憂鬱・執着といったものを手放してしまって、これらのものが空に浮かぶ雲や小川を流れる水を見るのと同じような透明さと公平さをもって眺めているのに気付くようになります。だから結果的に心理経験的観察で苦から離れた(聖)楽なる感じを感受している状況に現実性を抱いているに過ぎません。ですからみずからの経験を他者に強制する必要は全く無いが、私はこのようにして癒しを感じられたので試してみては如何でしょうかというのが原則的には仏教的な宗教の本質にあると思っています。(まだまだ個的に分離した存在に執着する意識が残っている未熟ものです。片鱗の説明に過ぎません。)

しかし、

>おろかな事も人はするけれど、多くの場合は慈愛をみせ会話を行い共存しようと必死になって喘いでいる。

だから、釈尊は極端はダメだと説き、二元の世界でも、上手に和をもって生きる術を教えているのだと思います。なした努力の果報しか享受できませんよとね。法鏡の教えが典型的ですね。

ただし源信やかつての当該団体のように地獄を脅迫の道具に使うのは間違っていると思います。その意味では愚禿親鸞さんに大いなる敬意抱いています。


>なんていうか、それぞれのおかれた場所で、できるだけ良くなるように
>すればいいんじゃないかと

簡単に言えば、そういうことでしょうね。
何を、どう良くするのかは、通常、それぞれの価値観があるので、
自らの価値観に従って、良くなるであろうと思うことを行なうしかないのでしょう。

我々は、それぞれに他者と係わりながら生きていますから、
互いの信頼を深める上で、
互いに意見の交換を行い、互いの価値観の違いを確認し、
互いの違う価値観を認め合いながら、生きていかなくてはなりません。

その過程で、互いの価値観を押し付けあっても、
相手の見解が、自分と違う場合、嫌悪が出てきてしまい、
あまり物事の解決、進展には繋がらないような気がします。

ここでの共通認識は、教団はこのままではどうしようもないだろうという点で、
皆さんの見解は一致していますので、
改善か、解散に向けて足並みをそろえるのが、
得策ではないかと思います。

付け足し

>苦しむ者がいれば努力し助ける。

>ここで精神世界と現実の話は打ち切らせてください。僕の方からは発言しません。貴方達が心がみせているという人の苦しみには僕にはどうしても現実にしか見えない。自分が救われれば人の苦しみも解消されるとは僕にどうしてもおもえません。このままでは平行線を走るだけです。


おそらく返信は望めないのでしょう。
それでも書いておきたいです。
少なくとわたし自身は、苦しむ者がいれば努力し続け、その対象が助かってもらいたいが為に必死の努力することにしか興味がありません。これがなかったら生きている価値はないと思うくらいです。その手段に何を使うかに違いがあったとしても触れ合う他者の苦悩を軽減するべく尽力せず、私には関係ないとするなら、それは自分自身を殺そうとしていることに等しいと思うからです。なぜなら、我々が知っている法がそう語るからです。(お節介が過ぎて逆に困らす失敗は数知れませんがね)

触れ合う身近な者の苦悩を軽減もできない者は、少なくとも一緒に苦を分け合うぐらいをしないならば宗教を語る以前に人としてさえ疑問に思います。

ただ、こころの問題について少し付け加えますと、

たとえ仏へと向かう菩薩の段階を、一つ一つすべて通過したとしても、完全に覚醒に到達する最後の一瞬にだれでもが悟るのは、仏性が常に自分と共のあったということだけです。そしてそれまでのすべての段階で、自分が〈それ〉に何も付け加えてこなかったことを悟るだろう。『黄檗』

自分に仏性が欠けていると信じるなら、唯一の現実的選択は旅に出ることです。心に「向かう」旅の方法は、専門的には方便(ウパーヤ)「巧妙な手段」と呼ばれています。方便はしばしば「ぺてん(トリック)」という意味を持ちます。それは、我々が自分自身をぺてんかけ、決して失ったことのないものを探し求めるためです。

ウパーヤ「巧妙な手段」は、個人の内なる実験室で行われれば、自分自身で心が存在するか否かを決定することを可能にする実験の形式をとっています。

 この実験はあらゆる科学的実験と同様、従うか否かは個人の裁量に委ねられた一連の命令、ないし指示からできています。けれども、もしそれらを拒絶すれば、科学的誠実さの精神に則って、唯心の体験に関する判断を差し控えなければなりません。もし、ある科学者が自らその実験を行わずして、唯心を単なる神秘的なまがいものとして退けたとすれば、同僚の実験データを自ら追試せずして、非難するのと同様、きわめて非科学的にふるまっていることになるでしょう。

ですから心或いは潜在意識は、従来方の証拠主義的二者比較的科学的方法では扱えない代物ですから、証明科学的にみて心理学などを科学と認めにならないのはそれは当たり前のことで、なんら対立する意見衝突になり得ません。
ただ接近方法の異なるものであるが上記のようにすれば、心理学も科学的な部類といえますというだけで、宇宙物理学や生物科学のような、対象科学では近づき得ないものになっているに過ぎないのです。


> 僕の苦行は現実の社会にあります。

私も自己の心の本性に帰るのは現実の社会でなされるべきだと思います。

> 相手の見解が、自分と違う場合、嫌悪が出てきてしまい、
> あまり物事の解決、進展には繋がらないような気がします。

この側面はあるでしょう。しかし見解が異なるから面白いのであって、異なるからその相互の共通点も探す糸口を見つけ出す楽しみがあるのではないでしょうか?
本来みんな仏性・こころのなかからでることは能わない。
孫悟空が釈迦の掌から決して出られなかった比喩と同じように
すべての生きとし生ける者は、こころから外に飛び出すことはできない共通項をみんな備えているのだから。

> ここでの共通認識は、教団はこのままではどうしようもないだろうという点で、
> 皆さんの見解は一致していますので、
> 改善か、解散に向けて足並みをそろえるのが、

先ずは関係者個々がこれまでのすべての事柄を、正しく認識することと、問題点を改善できることから始めるべきでしょう。その結果集まりが崩壊するのか変化するのかは、その先のことで、解体前提でものを考えるのは、少し乱暴な気がします。端の方々から見れば存続を望まれていない傾向あるでしょうが、
なぜ存続を望まれないのかを、真剣に内部の方々が意識していただき、現実を直視し、ありのままを認識して頂きたいとと節に望みます。


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