元オウム教団幹部 野田成人のブログ

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 経済シリーズ再開です。今回は信用創造(お金が増える仕組み)について。

「ドルや米国債が暴落したら、アメリカ政府はお金を返さないのですか?」

 いや、返そうと思えば返せるんです。印刷機でひたすらドル札を刷りまくればいいんです。ただその場合どうなるかというと、ハイパーインフレになります。昔社会の教科書で、第一次大戦後ドイツのハイパーインフレのことが書いてあった筈です。パンを買うのに、リヤカー一杯のお札が必要になったりします。

 そういう可能性もなくはない。でも実際には、急激な信用創造の縮小が起こると思います。それによって、みんながお金を返せなくなってしまうのです。


「信用創造の縮小??」


 ちょっと専門の話になりますが、今の資本主義経済は、銀行にお金を預けることで、見かけ上のお金が増えていくんだね。これを信用創造というんだ(以下ウィキペディアから勝手に転載)。

=信用創造=

銀行は預金を受け入れ、その資金を誰かに貸し出す。その過程で信用創造は発生する。以下は、そのプロセスの例である。

1. 銀行は、X社から預金1000円を預かる。
2. 銀行は、1000円のうち900円をY社に貸し出す。
3. Y社は、Z社に対して、900円の支払いをする。
4. Z社は、900円を銀行に預ける。

この結果、預金の総額は1900円となる。もともと1000円しかなかった貨幣が1900円になったのは、Y社が900円の債務を負い返済を約束することで900円分の信用貨幣が発生したことになるからである。
======



「ふーん、お金が増えるんだ。じゃあみんな豊かになるってこと?」


 そう、資本主義経済が、借金を通してお金を増やして豊かにするシステムなんだ。これはお金を貸した相手が、きちんと返してくれるという信用を前提に、みんな豊かになるんだね。

 でもこれは人間同士の信頼関係での貸し借りとは違っている。銀行や証券会社・金融市場を通して貸し借りする信用だから、相手の顔が見えない、いや相手そのものが特定されない。システムに参加する者同士の信頼と言ったらいいかも知れない。このシステムは、時として全員が同じ錯覚に陥って失敗することがあるんだ。


「どういう錯覚で、どういう失敗をするんですか?」


 物の価値に対する錯覚だね。例えば、20年ほど前のバブル景気ってのは、土地やマンションの価値が、異常に高く評価された為に起こったんだ。「もう今の時期を逃すとマイホームは買えない」って慌てて買った人も多かった。どんどん土地の値段が高騰してくると、転売で金儲けしようという投機が始まった。銀行も土地を担保に、どんどんお金を貸して、地価高騰に拍車をかけた。沢山の人が借金して土地や家を買ったんだね。

 しかし株の暴落と、大蔵省の不動産融資・総量規制が切っ掛けで、地価は暴落。土地を担保にお金を借りていた人の多くは、土地の値段が下がって借金が返せなくなっちゃったんだ。

 似たようなことはよく起こるよ。10年ほど前、たまごっちがブームになったことがあったよね。みんなが欲しがるもんだから、定価2000円くらいのものに、数万円の値段がついたことがあった。でもみんなが飽きてしまったら、在庫の山だけが残っちゃった。みんなが欲しがっている時は、値段は高騰するけど、みんなが覚めたら暴落しちゃう。そういう大衆の熱狂に惑わされる危険性があるんです。不特定多数の熱狂でシステムもおかしくなる。でも誰もそれに対する責任は取ってくれません。


「でも長い目でみれば、そういう熱狂もないんじゃないですか?」


 ところが私はそうは思わないんだな。日本を始め先進国の人たちは、豊かな生活に慣れすぎてしまった。そこから後戻り出来ずに、「豊かさを維持したい、もっと豊かになりたい」って考えている。だから政治家も「経済の発展。経済成長、経済成長」って繰り返す。「質素・倹約・禁欲生活しましょう」なんて言う政治家は見たことないね。

 その豊かさを求めるみんなの気持ちが、借金の連鎖を少しずつ大きくしてきているんだ。その一つがアメリカ政府の借金や日本政府の借金に現れている。でも民間人も同じなんだね。今はアメリカが、20年前の日本のバブルに似てきたと言われている。住宅の値段が異常に高騰してきているんだね。そういう点からも、アメリカ発で世界恐慌が起きるんじゃないかと心配する人もいるんだよ。ふくれあがった借金が、ドミノ倒しのように貸し倒れになる。そこで起きる不信の連鎖が、世界恐慌を招く可能性だな。

コメント


穀物バブルに思う

> アメリカ発で世界恐慌が起きるんじゃないかと心配する人もいるんだよ。ふくれあがった借金が、ドミノ倒しのように貸し倒れになる。そこで起きる不信の連鎖が、世界恐慌を招く可能性だな。

そうかな?確かに急激な信用創造の縮小の結果として世界恐慌の可能性があり得ることを否定できないかもしれません。

そこにある本質的問題が信用創造の縮小によって引き起こされるのだとした場合、「質素・倹約・禁欲生活しましょう」で信頼の回復になるという、直接性の回路が明白に見えない気がします。

世界がヴァーチャル化している事実を止められないでしょう。
--------------------
資本主義によって形作られる世界がバーチャル化する必然性は、
一神教の純正のドグマからの逸脱からキリスト教のおこなった経済的現実が、資本主義に今日言われている普遍性があるからでしょう。

礼拝や祭りの場に集まった人々の上に降りてくる「霊」が、人々を結びつける愛の力に満ち、人々の心を幸福感で満たすばかりでなく、穀物や果実や動物の豊かな増殖をもたらしてくれるという考えは、キリスト教が始まる遙か以前からありました。『贈与論』に扱われているのは、ほとんどがこの典型の「霊」で、贈与の行為がおこなわれるとき、人の間を流動していくもののようです。この「霊」は人間の間を流動して、なにかが豊かに膨らんでいく、増殖していくいくという感情を生み出すが、またそれは神的な存在が人間にもたらす賜物に化体(受肉)して、生活を物質的にも豊かにする。ある人は、こういう典型の「霊」は、「浮遊するシニフィアン(能記・記号表現)として特徴を持つとみなしています。

それは商品同士の出会いの最小単位とも言うべき状況の中で既に発生します。このとき等価形態は相対的価値形態に対するシニフィアンの地位に立ち、しかもそこではほとんど感知できないほどの微妙さで「商品の魅惑」が表象として作動しているのが気付かれます。

「記号表現」「能記」と「記号内容」「所記」の間、シニフィアンとシニフィエの間には、決定的なずれが存在しており、そのずれを埋めるかたちで、等価形態は水増しされた浮遊シニフィアンを、身にまとうことになります。
貨幣の萌芽が芽生えるその瞬間に、一種の魔術が働いているのが確認できることになります。
このとき商品の価値形態の内部に起こったかすかな「水増し」の効果は、いずれ全商品世界に波及して、ついに貨幣を通じた余剰価値を発生させ、資本の全体運動を開始させたのでしょう。

「資本主義的生産様式が支配的におこなわれている社会の富は、一つの『巨大な商品の集まり』として現れ、一つ一つの商品は、その富の基本形態として現れます。」資本主義の社会の富の基本形態である商品は、その細胞にいたるまで、いやその分子や原子にいたるまで、浮遊するシニフィアンの発生装置としてつくられているので、そうした商品の巨大な集積体である社会は、象徴界と現象界との蝶番を喪失していく強い傾向を持っていることを否定できません。そして、愛と欲望によって動く浮遊シニフィアンは、容易に想像界の結びついて、そこで膨大な数の快楽的イメージを生産していくことになるのでしょう。こうして、「すべての芸術、すべての詩、すべての神話的・美的創造」が、浮遊シニフィアンの働きから生み出すものとして。尤も魅力的な商品の数々に姿を変えていくこととなるのだろう。

キリスト教は「三位一体」の構造として自らを作り上げることによって、一神教のドグマに自動制御の要素(「父」と「子」に遺伝情報を正確に伝達する機構)と浮遊するシニフィアンの要素(「聖霊」のおこなう愛と意志にみたされた増殖の機構)を組み込むことになりました。
前者は貨幣の本質に、後者は商品と資本との本質につながりを持ち、それらがボロメオの輪のように結合して、キリスト教的西欧は、社会の富の集積として生み出す資本主義を発展させてきたのです。

そこには常に「キリスト教徒の羊的性質が神の子羊とのその同時性に現れる」ようにして、商品に内在する余剰価値を生み出そうとする性質が、神の「三位一体」との同等性として現れることになります。しかも商品に体化した「聖霊」の発動は強烈なのである。
こうして資本主義の初期にプロテスタントの「自由霊運動」がボロメオの輪から「聖霊」の解き放ちをもたらしたように、利潤の追求が目的となった社会では、あらゆるシニフィアンが法と現実世界のつながりを失って、浮遊化し、ついには無意味化していく傾向が深まっていくことになりました。つまり、資本主義は必然的にバーチャル化していくのです。

イスラームには一神教内部での原理上の深刻な対立が横たわっていました。原理におけるイスラームは一神教純正の理論のよって、象徴界と現実界を直接的に結びつけ、想像界(これは女性のものである)のおこなうシニフィアンの戯れを象徴界にしっかりとピン留めすることによって、この現実世界を確かに意味で満たそうとしてきたのであった。

イスラームの論理は、世界がヴァーチャル化していくことを許さない。風のそよぎも光の瞬きも、そのままにしてアッラーであり、心に浮かぶとりとめもないイメージも、アッラーの意志のあらわれなのである。イスラームは資本主義を嫌悪し、自分たちの世界にそれが侵入してくることを、重大な悪ととらえるだろう。原理におけるイスラームは、利潤が生み出す豊かな社会を拒否してでも、世界が意味に満たされてあることのほうを、選びたいと考えるのである。その世界はなにからなにまでが直接的で、資本主義の目からすれば、遅れた貧しい社会と映るかも知れないが、人間が意味に生きる生き物であるかぎりにおいては、張るかに豊かな世界であるといえるのではないだろうか?
--------------------
上記は大旨、中沢新一氏の『緑の資本論』からの引用です。けれども一部、私的に変更を加えて記述しました。

ヴァーチャル化が進んでいること停止することはできません。
等価形態と相対的価値形態を具体例で、上着とリンネルで示しています。
上着の生産でもリンネルの生産でも、支出されてるのは同じ人間労働である。しかし、リンネルと上着ではそれぞれの使用価値がまったく違う。リンネルはごわごわした安価な素材にすぎないのに対して、上着のほうは「金モール」が縫いつけてあったり、素敵なデザインがほどこしてあったりして、消費の欲望を誘う商品である。その二つの商品が、相手の価値を値踏みして、それに見合う自分の価値との間に、この等式を成り立たせているわけだ。もちろん、それぞれの商品の背後には売り手と買い手の役をつとめる人間がいる。その人間達の意識の中で怒っていることが、問題となっているのである。

と説明されているように、ヴァーチャル化しているシニフィアンとシニフィエの間、で生じている決定的なずれを埋めるかたちで、浮遊シニフィアンの水増しを制御でき得る何かが必要でしょう。それが、結局は「質素・倹約・禁欲生活」であるであろうということを、すべての人々に納得させられるかどうかにかかっているでしょう。



私的な結論を纏めれば、二大『一神教』のどちらかに、偏っても結局適切な解決策に近づかないであろうと思われます。
アッラーのようなイスラーム的一神の絶対性を残して「質素・倹約・禁欲生活」を目指しても、或いは現在資本主義思想のままでも、結局は巧みな解決は見出せないのではないでしょうか?

これらはいずれも二元論的思考ですからね!


穀物バブルに思う

修行者をいまだに自認しているつもりの私としては、とても気がかりな世界的規模の現象として、バイオエタノール燃料開発にともなって、穀物価格が高騰している現象に、快感原則の獲得を目標とする安全球体内部で起きている、人間そのものの停滞と廃退の再度のバブルの萌芽をみます。

発端はトウモロコシからエタノールを作り、ガソリン等の化石燃料の代替品として開発されて、そのバイオエタノール生産を今後10年間で7倍に増やすと合衆国大統領が政治決定したことが引き金となり、世界規模で大豆その他多くの穀物価格が高騰し、食品価格までにも影響をし始めています。

技術革新の基づく循環エネルギー(燃料)の開発そのものは素晴らしい可能性があるでしょう。日本の研究者は商品生産に至ってはいませんが、合衆国のように酒製造の延長線の手法ではなくて、葦・藁・樹木からそれこそバイオ技術を駆使してバイオエタノールを生産しようと研究に努力しているようです。

ハルマゲドン危機感と密接に関係あるこの燃料、世界のエネルギー循環体系の変革が過渡的に着々と進んでいる現実をみて、エネルギー制御は修行者の視点からみても重要な要素ですので少々試論を展開ししてみたいと思います。

穀物バブル試論

エネルギー制御は一面で、浮遊シニフィアンの制御とみなし得るでしょう。これまで通りの資本主義的思考で、浮遊シニフィアンを増殖させ続ければ、世界的エネルギー循環体系が確立されるのが早いのか?穀物バブルが膨れあがり泡が弾けるのか?どちらが先に訪れるかは不透明でしょう。
おそらく、非二元の視点が解決してくれる望みを持っているでしょう。

----------
アドワイタ(非二元)は、どのようにして無限なるもの、すなわち絶対者が有限なるものになったのか、という問題に次のように答えています。

アドワイタは、非二元という意味です。二つはない、あるものはひとつなのです。しかしわれわれはここに、絶対者は時間、空間および因果律というベールを通してそれ自身を多者としてあらわしている、という命題を見ています。それゆえ、ここに絶対者とマーヤー(時間、空間および因果律の総合計)との二者がある、というようにも思われます。

時間、空間および因果律の中に見いだされる一つの独特の性質は、それらは他のものからはなれては存在することができないというものです。色とか限界とか、周囲にあるものとの関係のまったくない空間、まさに抽象的な空問というものを考えようとこころみてごらんなさい。できますまい。空間を考える場合には、二つの限界の間、または三つの物体の間にあるもの、として考えるほかはないのです。それは、とにかく存在するためには、何かの対象物とむすびつかなければなりません。時間にしても同様です。みなさんは決して、抽象的な時間というものを考えることはできません。一つはさきだち、他はあとにつづくところの二つのできごとをとりあげ、この二つを継続という観念でつながなければなりません。


二つの要素、とは何でしょうか。みずからをあらわそうとつとめつつある巨大な潜在力と、それをおさえつけようとする環境、すなわちそれに自己表現をゆるすまいとするその周囲です。そこで、これらの周囲とたたかうために、その力はいくたびもいくたびも身体を更新します。アメーバは、努力して別の身体を得、若干の障害を克服します。それからまた別のからだを得、同様のことをくりかえしてついに人間となります。さて、この考え方を論理的な結論にまですすめて行くなら、アメーバの中にあって人間にまで展開したその力が、自然が提出するいっさいの障害を克服しつくして、それをとりまく環境から完全に脱出するときがくるにちがいありません。形而上学に示されているこの思想は、つぎのような形をとるでありましょう。あらゆる活動には、一つは主体、もう一つは客体という二つの構成要素があり、生命の唯一の目的は、主体を客体の主とならせることです。たとえば、ある人が私にこごとを言ったので私は不愉快です。私の努力は、環境を克服するほど自分をつよくすること、すなわち彼がこごとを言っても自分が不愉快に感じないようになることでょう。われわれはみなこのようにして、かとうと努力しているのです。
 道徳とは何か。絶対者に同調させることによって、主体をつよくすることです。
 それによって、有限なる自然はわれわれを支配することをやめるでしょう。われわれがいっさいの環境を克服するときがかならずくる、というのが、私たちの哲学の論理的な結論です。なぜなら、自然は有限なのですから。

 ここにもう一つ、学ばなければならないことがあります。自然は有限だ、ということがどうしてわかるのでしょうか。形而上学を通してはじめて、これを知ることができます。自然は、限定されているあの無限者です。それだから有限なのです。それゆえ、われわれがいっさいの環境を克服するときはくるにちがいありません。またどのようにして、われわれはそれらを克服するのでしょうか。われわれはとても、客観的環境のすべてを克服することはできません。そんなことはできません。小さな魚が、水中の敵からのがれたいと思います。どのようにしてそれをしますか。つばさをはやして鳥になることによってです。

魚は水をかえることも空気をかえることもしませんでした。変化はそれ自身の中におこりました。変化はつねに主体におこります。進化の全過程を通じて、自然の克服は主体内の変化によってなされる、ということをみなさんは見いだされるでしょう。この事実を宗教と道徳にあてはめてごらんなさい。悪の克服は、主格の内部の変化によってのみ成就する、ということを見いだされるはずです。アドワイタの教理は、このように見ることによって、人間の主観的な面にくわわる力のすべてを得ているのです。悪や不幸を云々するのはナンセンスです。それらは外部に実在するわけではないのですから。もし私がすべてのいかりに対して免疫になっているなら、私は決していかりを感じません。もし私がすべての憎悪に対して耐力保証つきであるなら、私は決して憎悪を感じないでしょう。

 そういうわけでこれが、あの征服をなしとげる方法です。主体によって、主体を完全にすることによって、おこなわれるのです。私はあえて申しあげますが、物質的道徳的両面において近代の研究に一致し、また多少はそれよりすすんでさえいる唯一の宗教は、アドワイタでしょう。それがこんなにも現代の科学者たちにうったえる理由は、ここにあると思います。彼らは、昔の二元論は自分たちの要求をみたさない、としてこれに満足しないのです。人は単なる信仰だけでなく、知的信仰も持たなければなりません。


二元論者たちと、アドワイタは決してあらそいません。一方は、神はこの宇宙のそと、天界のどこかにいると考えます。そしてもう一方は、彼は彼自身のたましいなのであるから、もっとはなれているものとして彼をよぶのは不敬であろう、と考えます。すこしでもはなれている、と考えるのはおそろしいことでしょう。彼は近いものの中のもっとも近いものなのです。一体ということば以外には、この近さを表現することばはどこの国語にも見いだすことはできません。

二元論者がアドワイタの概念からショックをうけてこれは不敬だ、と思うのとおなじように、アドワイティストは他のどんな思想にも満足はしないのです。同時にアドワイティストは、これらの他の思想も存在しなければならない、と考えます。それゆえ、正しい道をあゆんでいる二元論者とあらそうようなことはしません。二元論者はその立場からすれば、多者を見ないわけには行かないでしょう。それは彼の立場の体質的な必然なのです。それはそれでさしつかえない、どのような説をとく人も、結局は自分とおなじゴールに達するのだ、ということをアドワイティストは知っています。その点では、彼は二元論者とはまったくちがいます。二元論者はその見地からして、自分とことなるすべての見解はあやまりである、と信じないわけには行かないのです。世界中の二元論者たちは当然、ある人びとに対しては機嫌がよいが、ある人びとに対しては腹をたてるこの世の大権力者のような、神人同形同性的な人格神を信じます。

【スワミ・ヴィヴェーカナンダ『ギャーナ・ヨーガ』6章 絶対者と現象 より抜粋】
----------
ちょっと長い引用をしてしまいました。すみません。

解決策は、克服は主体内の変化によってのみなされるのであると語っています。それは主体の内部に生じている浮遊シニフィアンの制御によってということでしょう。


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↑みたよ

( ̄▽ ̄;) ウーン  ( ̄▽ ̄;) ウーン

理治さん

理治さん、お疲れ様です。
でも野田さん困ってますよ(笑)

過去に理治さんと直接会ったこともあり、
また何度もメールや掲示板でやりとりしたこともあるnaから、
僭越ながら以下のような提案をさせていただきたいと思います。

・一文をできるだけ短くしましょう。
・抽象的な言葉は極力避けましょう。
・引用はほどほど(3~5行程度)にしましょう。

naさん

>過去に理治さんと直接会ったこともあり、
>また何度もメールや掲示板でやりとりしたこともあるnaから、

どうも(^_^)
だいたい想像つく方ですね(二人中どちらかな?)

提案いただき有難う御座います。ただ当方としては、もうほとんどネタ切れぎみでもあります。

従って、よっぽどそれは・・・ではないかと、強く意にそぐわないなと思わないかぎり書き込むこともないかもしれません。
その意味で相当、わたしに意にそぐわない。平たく言えば気にくわないものを感じたものがあったのかも知れません(修行が足りませんね)。
抽象的内容表現を意図的にしているわけではないのです。思考した結果選んだものが結果的に抽象表現になっているのでしょう。

それらを完全に具体例で表現するには、批判的表現にならざるを得なくなる面が多い。疑問に思った事を表現する時に往々にして、毒舌の潜在的余力を有すると自覚するものとしては、できるだけ批判的表現はしたくない思いが手伝っているでしょう。
それよりも、抽象的表現を好む習性がわたしにあるのが大きく作用しているのかも知れません。
どうもご提案有難う御座います。おそらく静観を暫く続けるでしょう。悪しからず。

念のため

「ウーン」は、管理人のみ閲覧できます、のコメントに対してです

野田さん
上記の件了解しました。
理治さんすいません。

理治さま

naさんが言ってるのは批判的表現云々じゃなくて「長いよ~」ってことであると。どうだこれは。
あんまり長かったら今度は縛り蓮華座1時間だからねっ!
いいねっ!

理治さん、懐かしい

日非の頃から、似たような話をしたり、似たようなご忠告をされたりと、今回の一件で懐かしく思い起こされました。

阿修羅なところは変わってないようで。

武術の教え方は簡潔明瞭なんだけどなぁ。

およつ

さいもんさま

わたくしめの武道家の側面をご存じの方、ということはかれこれ13~14年前の知古の方ですね。

そう本質はなかなか変わりませんね。武術は言葉を必要としないところに、真髄があるようです。

言葉を操るのはとても至難ですな~っ。

>あんまり長かったら今度は縛り蓮華座1時間だからねっ!

との御指摘の通り、威圧的言行は変わっていないようです。反省<(_ _)>
ただ相当腹に据えかねた見方を感じたのは事実です。だからついつい長~い文章になったのでしょう。

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