元オウム教団幹部 野田成人のブログ

★唯一人の荒らしの為にコメントは承認制になります★ 累積賠償額916万円

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 尊師がすべて、尊師の権威を掲げたA派屁理屈。

 A級戦犯分祀については、神社側が「神道の教義上、分祀は不可能」と主張する。しかし神道門外漢の私が言っては何だが、宗教の世界ではこういう争いはよくあるのではないか?A派の教義こじつけを何度も目の当たりにしてきた私としては、ついそう思ってしまうのだ。

 A派がどんな屁理屈を重ねてきたかを、今回一つ紹介しよう。

 実は、教団が分裂するに当たって、昨年来上祐らがA派経理部に求めてきた主張がある。それは「教団の現預金資産を、脱会する人数相当分割して譲渡せよ」というものだ。上祐としては、新団体移行後の賠償計画を見越して、「分割された資産は、全額賠償に充てる」とも主張した。

 正直これは、上祐側も資金的に見通しが楽でないことを表している。ただ外部から見ても正当性を主張出来るよう、「全額賠償に充当」と大義名分を立てたところもあろう。わざわざオウム真理教破産管財人・阿部三郎弁護士にまで、話を上げたほどなのだ。

 この話が出たのは1年ほど前で、A派は「脱会する者がお金をよこせ、とは滑稽だ」とはねつけていた。しかし現実主義者の私は、A派幹部にこう耳打ちしてやった。

「A派の経理の方でも、年間4000万目途に賠償するわけだろう?だったら賠償で送金予定のお金を、上祐の所に持っていけばいいんだよ。上祐は全額賠償に充てると言ったんだから、そのまま管財人に渡せばいいんだよ。

『上祐さん、これ分割相当資産です。でも確か全額賠償に充てるって事でしたから、そのまま管財人口座に振り込ませて頂きますよ。』って。」賠償説明


 「脱会者に追銭など必要ない」という主張も確かにそうである。だが私の本音としては、くだらない論争・火種を残するより、現実的解決を… なのだ。ところが、A派の幹部は(いや松本家なのか?)、予想通りくだらない論争に拘り続けたのだ。

 上祐らには、管財人含め社会・マスコミにアピールして、A派教団を攻撃する意図が見えた。だからこの問題が再燃するたび、私は現実的解決策をA側に打診した。そのポイントとなる根拠は「どうせ賠償に充てられるお金なんだから、どっちから出ようと一緒じゃないか」ということ。

 この点について、A派幹部と議論をしたことがあった。以下にやりとりを記す。

VT「どうせ賠償として、管財人口座に入るお金だから、一旦上祐の所を経由しても同じじゃないか。」

A派「いや、お金は全て尊師に対してなされたお布施です。その神聖なお布施を、尊師に対して信を失った上祐に渡すこと自体、尊師への冒涜です!」

VT「あ~そうですか。上祐が『尊師は神じゃなくて、ただの人間。』って言ったからですか?だったらあなた方が、尊師への神聖なお布施を、賠償として被害者に渡すこと自体はどうなるの?尊師は賠償しなさい、なんて言ってませんよ。」

A派「……(沈黙)……」

VT「被害者の方が尊師のこと何て言っているか知ってますか?『大バカ者』『極悪人』『麻原こそ地獄に堕ちる』ですよ。こういう被害者に渡すのは、尊師に対する冒涜じゃないんですか?」

A派「……(沈黙)……」

VT「今回上祐にはお金は渡らないでしょ?素通りするだけでしょ?尊師のことを『地獄に堕ちる』と誹謗している被害者にお金を渡すのは良くて、『尊師は人間』と言った上祐には、お金素通りさせるのも駄目なの?地獄より人間は上なんだから、上祐の方がマシだと思うんだけど、どうかな?」

A派「上祐は、今まで尊師を信じてきて裏切ったから、許せないんです!」

VT「それって単なる近親憎悪じゃない?」

A派「いや、私たちは被害者の向こうに尊師を見ているんです。被害者を通して尊師を意識しているんです。」

VT「被害者の向こうに尊師を見るって、言葉は素晴らしいけど、実際あなた方は被害者にどう向き合っているの?あなた被害者の前に出て行って、本当に事件を反省して、謝罪出来るの?」

A派「……(沈黙)……」

VT「『事件のことはよく分かりません』って、全然反省してないんじゃない?A派のグルグルグルで反省もしないなら、賠償なんてやめちゃえばいいじゃん。」

A派「…… いや、賠償は教団を守る為には、必要なんです。」



要約
・内弁慶なA派は、身内には強いが外には弱い
・教団が潰されない為の賠償、被害者の為ではなく
・自己正当化と攻撃・反論・排斥のキーワードは【尊師】

「尊師への布施」
「尊師を意識」
「尊師への冒涜」
「尊師はこう言われた」
「尊師はそんなこと仰ってない」
「あなたは尊師を意識していない」


P.S. 尊師の権威を掲げたA派屁理屈に、昭和天皇の権威を掲げて戦争に突っ込んだ軍部が重なってしまう。8/15に向けてまた記事を書きます(こういうと天皇に失礼?)。

コメント


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VTさん、面白いですよ。これからもA派の矛盾を暴いてほしいです。自身が攻撃される前に爆弾を落としてやってください。時には刺し違える覚悟も必要でしょうが、戦い抜かれることを期待しております。
ひとつお聞きしたいんですが、VTさんご自身は麻原氏への気持ちの整理はどのようにされているのでしょうか?いまだに帰依されているのですか?
かつては、毒を食らわば皿までみたいな発言もありましたよね。

素直に

論理的な矛盾などどうでもよいから、
尊師を否定した上祐に金を渡したくない。
そう素直に言えば沈黙しなくてもすむのに。(笑)

かっこうをつけて被害者の向こうに尊師を見ている
などというからVT正悟師に突っ込まれるんで、
俺たちを裏切った上祐には、びた一文金など出せるか!
と言えば、すっきりするんでしょうね。(笑)

しかし、VT正悟師がこれだけ内部のことを、
白日の下にさらしてくださったということに感謝いたします。
大変勇気のある行為だと思います。
私のブログ内で、正悟師方はだんまりを決め込み、
何もしないと言ったことを謝罪させていただきます。

改名しました。

「ナントカ素寒貧」から改名しました。
どうも、このHN(ハンドル名)は後ろ向きすぎると思いました。
やっぱり、素寒貧よりはお金持ちの方がいいですよねぇ~。
篠沢さんが石川某のHN(ホ~リ~ネ~ム)を「なんとかすかんぴん」とか言っていたので、面白いと思って自分のHNにしたんですけど。
嗚呼。

他の掲示板などでは他のNHを使っております。

それにしても、この頃、シヴァの喜びさんが出てこないですな。

わたしとしては、A派の屁理屈よりも、
オウム・ア~レフ教義の問題点について明らかにして欲しいと思っております。


2ちゃんねる・完璧スレは、教義問題を話し合うというよりはキャンディちゃんや阿佐ヶ谷北氏の日記になってしまっていますからね。

脱会しても、
われわれはいつまで、「三悪趣」や「カルマの法則」というオウム教義に縛られなくてはならないのか!


フムフム。

誰の名義にするとかめんどくさいけども
>『上祐さん、これ分割相当資産です。でも確か全額賠償に充てるって事でしたから、そのまま管財人口座に振り込ませて頂きますよ。』
っていう1ステップ踏めば、賠償にそっくりあてられるんなら、いいきがする。
上祐さん側は、さらにひかりの輪として、
過去の清算、賠償として、被害者に+αな 賠償金を作り支払うということはしないのかな?
経由して払っていくものだけで、賠償抜けって事ではないですよね??
グルグルグルな人たちは、多分、やっぱ戦争下の天皇陛下への異常な崇拝状態と似ている気がします。
グルグルグルな人でなくても、なんか日本人は陥りやすい感じなので、人間・天皇陛下が気になる今日この頃なので、ぜひぜひ書いてみてください。

さいとう様

vv99@yahoo.co.jpまでお電話番号をお願いします。明かしたくない場合、メールアドレスの連絡をお願いします(こちらの電話番号をお教えします)。河本さんには電話回答致しました。

>お金貯めるぞ!さん
シヴァの喜びさんは、サマディ修行没頭中ですよ、聖地にて。

VTさん、幹部の年金保険料支払い、家族支援、N宮派蓄財等、隠されがちな経理問題について実態を明白にした記事を書いていただきたいものです。
A派も公安も教団内外に対し、相変わらずガセネタ吹聴継続中にて、貴ブログの真情報発信に注目してます、なってったって代表♪

口先だけの「グルの意思」

>P.S. 尊師の権威を掲げたA派屁理屈に、昭和天皇の権威を掲げて戦争に突っ込んだ軍部が重なってしまう。
 確かに、戦前の軍部と現在のA派の行為は非常に似ていると思います。
 本来は「立憲君主制順守・天皇機関説容認・対英米戦開戦反対」だった昭和天皇の意思に反し、軍部は「天皇は神だ!、絶対者だ!」と祭り上げる事で結局自分達の都合の良いように利用し、盲目的に戦線を拡大した挙げ句、勝ち目のない戦争に突入して行きました。
 片やA派は口では「グルは絶対」と言いながら、「『全ての魂』をマハー・ニルヴァーナに入れるまで救済活動をし続ける」という尊師の意思を忘れ、少しでも自分達と毛色の違う人間はすぐ「魔境」だと決めつけて嫌悪し排斥してしまう傾向が強いようです。で、自分達だけが救済されるのだと。
 その様な、エゴを背景とした一面的な教義解釈がとみに目立つように感じます。
 でもこれらは何も現在のA派に限った話ではなく、事件直後の10年程前にも見られた今の教団の傾向でしたけど。

 確かに「グルの意思は絶対」です。
 しかしその「グルの意思」にエゴを混ぜる事で結果的に本来のグルの御意志から大きく外れてしまっているのが、今のA派の現状ではないかと思います。
 おそらく口先だけで「グルの意思」と唱えていれば、何をやっても免罪符になるとでも考えているのではないでしょうか?

珈琲さま
>時には刺し違える覚悟も必要でしょうが、戦い抜かれることを期待しております。 
 過去ログ( http://alephnoda.blog85.fc2.com/blog-entry-42.html )では未だに「勿論何でも良いわけじゃなく、相手にもプラス・自分にもプラスなのがベストです。 」などと暢気な事をおっしゃってますね。
 この期に及んで自らが傷つく覚悟が持て無いならば、結局何も為し得ないのでは無いかと思います。

お金貯めるぞ!さま
>われわれはいつまで、「三悪趣」や「カルマの法則」というオウム教義に縛られなくてはならないのか!
 「三悪趣」や「カルマの法則」は「オウムの教義」というよりも真理ですから、いたずらに何もかも否定すべきではないと思います。
 例えばもし「オウムの教義を否定するんだ!」と言って現世で殺生・偸盗・邪淫を行ったなら、すぐに逮捕されて起訴され有罪となりますよ。(同様に妄語や悪口を為しても、速やかに社会的信用を失う事になります。)
 「良い事をすれば良い事が返ってくる」
 「悪い事を為せば、悪い事が返ってくる」
 「為した事しか返って来ない、何も為さなければ何も返って来ない」
の辺りは、現世にどっぷり浸かって生活していても十分に実感できる所だと思いますが、いかがな物でしょうか?

↑  ↑  ↑  ↑

やっとサンちゃんから真っ当な言葉が来たよ。

安心(^_^)

サンディタさん、なるほどその通りですね!

>現世で殺生・偸盗・邪淫を行ったなら、すぐに逮捕 されて起訴され有罪となりますよ。(同様に妄語や 悪口を為しても、速やかに社会的信用を失う事にな ります。)


 尊師は自ら「殺生・偸盗・邪淫」を行なって逮捕され有罪になることによって、「悪業を積むとこんな悲惨なことになるんだぞ。だから悪業を積んではいけないんだよ」と身をもって教えてくれたんですね。

 サンディタさん、なるほどその通りですね!


>同様に妄語や悪口を為しても、速やかに社会的信用 を失う事になります。


 上祐さんは教団が事件を起こしたことを知っていながら教団保全のために「教団は事件を起こしていない!」と大ウソをつき続けました。

 そしてその大ウソが発覚し、「嘘つき上祐」と呼ばれ社会的信用を失いました。サマナ・信徒からも信用を失っています。

 サンディタさん、なるほどその通りですね!


>「良い事をすれば良い事が返ってくる」
 「悪い事を為せば、悪い事が返ってくる」
 「為した事しか返って来ない、何も為さなければ何 も返って来ない」
 の辺りは、現世にどっぷり浸かって生活していても 十分に実感できる所だと思います


 ということは出家しなくても法則の理解・実践はできるということですね。

 サンディタさん、なるほどその通りですね。

 サンディタさん、明快な法則を説いてくださってありがとうございました。

 

サンディタさん

まあ、そうでしょうな。




わたしはそれがオウム・ア~レフ教義の核とか本丸の部分だと思っていますから。


なんとかヨ~ガの成就なんて表皮や外堀に過ぎませんもの。

和井恵さんや、
http://www.geocities.co.jp/WallStreet/1733/aum-3/nagita-1.html

シヴァの喜びさんが
http://blog.goo.ne.jp/sivananda/e/18d36b8862fbabacc34bac202a43c591

教義を批判しているといっても、表皮や外堀の部分だけなんでつ。

わたしは未だに、オウム教義の一部を残していますが、核や本丸の部分ぐらいですな。

再び、改名

「お金貯めるぞ」では、画数判定でよくない結果が出ましたので、

http://www2.mahoroba.ne.jp/~kazu-y/input.html

間に「を」入れて、「お金を貯めるぞ」に最改名いたします。

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A派は賠償やめれば?

>VT「『事件のことはよく分かりません』って、全 然反省してないんじゃない?A派のグルグルグルで 反省もしないなら、賠償なんてやめちゃえばいいじ ゃん。」


 もともと「教団を存続させるために賠償を始めよう!」と言って賠償を指示したのは上祐氏です。

 A派はその上祐氏を「尊師を裏切った!」「教団分裂をもたらし大悪業を積んだ!」「魔境だ!マーラだ!」と言って排斥しました。

 A派はなぜ「尊師を裏切り、教団分裂をもたらしたマーラ」が始めた賠償をやめようとしないのでしょうか?

 A派が掲げている尊師は「被害者に賠償しなさい」という指示を出していません。

 A派は尊師の指示より「マーラ」の指示に従い続けるのでしょうか?

 A派の幹事になったビルパ師は以前
「マイトレーヤ正大師はグルへの帰依より教団保全を優先させ、グルはずしをした。これは大変な悪業だ!」と厳しく批判していました。

 
 ビルパ師、グルへの帰依を教団保全より優先させるなら、上祐氏が教団保全のために始めた被害者賠償をやめさせてください。

 それで教団が崩壊しても、「魔境の上祐が始めた賠償をやめさせ教団は崩壊したが、おれはグルへの帰依を貫いた!おれはすごい!」と自己満足できるでしょう。

 ビルパ師、頑張ってくれ。


 

現実主義者に敬意を

40年を超えようとする種々の宗教経験で、結局一人の方を信じ切るに至れない者。これは、「行」と「識」と称されるものを未だに乗り越えられていないと自覚するわたしのことですけれども、現実的視点の分析的見解は、とても分かり易いような気がします。

むしろ、好きだと思いこんでいる人の言動に権威を保っていたい、そうすれば、とりあえず自らが安泰だ、と近視眼で仰っている方ばかりなのかな、と勘ぐりたくなる、A派屁理屈さま方の発言と感じてしまいます。

無自覚、無意識に、好む好まないは、生じてしまうものなんだと改めて、行→識を考えさせられてしまいました。

幼少の時から、歴史的事実として偉業をなされた方であるのはよく解るけれども、その偉業をなされた実在の人間が、神として祀られてきていることが、よく解らないと思い続けたきた者としては、現実的にみればたとえ神として祀られていようとも、大な功績を成し遂げた人に過ぎないみなしてしまいます。


> 「三悪趣」や「カルマの法則」は「オウムの教義」というよりも真理ですから、いたずらに何もかも否定すべきではないと思います。
> 例えばもし「オウムの教義を否定するんだ!」と言って現世で殺生・偸盗・邪淫を行ったなら、すぐに逮捕されて起訴され有罪となりますよ。(同様に妄語や悪口を為しても、速やかに社会的信用を失う事になります。)
> 「良い事をすれば良い事が返ってくる」
> 「悪い事を為せば、悪い事が返ってくる」
> 「為した事しか返って来ない、何も為さなければ何も返って来ない」
>の辺りは、現世にどっぷり浸かって生活していても十分に実感できる所だと思いますが、いかがな物でしょうか?

この御表現は確かにその通りのところがあると思います。
ただし少し付け加えさせていただくとすれば、

我々まったく事件に直接関与していなくても、良い事だけしてきたと言えますか?
わたしは逆に、なんて「行」「識」に悪いことばかりした要素が詰まっていたのだろう
とついつい自覚させられてしまいます。
だって、良きことばかりしているのなら、何も悪いことしてる自覚が無いのに信者であることだけで、怖がられたり、仕事無くなったり、変な目で見られること経験してきましたよね。
これらはどう贔屓目に観ても、「行」に悪いことしてきた蓄積があったのだと気づかせてくれている証拠ではないでしょうか?少なくともわたしはそう受けとめるようにして、ちょっとでも良いことしたいと思っています。


くーるみんと さま、お金を貯めるぞ さま、河本理治さま

くーるみんと さま
>尊師は自ら「殺生・偸盗・邪淫」を行なって逮捕され有罪になることによって、「悪業を積むとこんな悲惨なことになるんだぞ。だから悪業を積んではいけないんだよ」と身をもって教えてくれたんですね。
 尊師は殺人罪などの「殺生」の罪で有罪となりましたが、「偸盗・邪淫」では逮捕され起訴されておりませんが?

>上祐さんは教団が事件を起こしたことを知っていながら教団保全のために「教団は事件を起こしていない!」と大ウソをつき続けました。
>そしてその大ウソが発覚し、「嘘つき上祐」と呼ばれ社会的信用を失いました。
 それはその通りです。

>サマナ・信徒からも信用を失っています。
 これはどうでしょうか?
 外に向けて吐いた嘘ではなく、内に向けて吐いた嘘によって内部の人間の信用を失ったのだと思いますが。
 これは他の成就者達も同じでしたね。

>ということは出家しなくても法則の理解・実践はできるということですね。
 本来オウムの修行体系は、在家でも成就出来るように作られています。
 しかし、在家で真理を実践して行く事は出家の何倍も大変な事だと思います。

お金を貯めるぞ さま
>わたしはそれがオウム・ア~レフ教義の核とか本丸の部分だと思っていますから。
 確かに「カルマの法則」はオウムの教義の核心部分ですが、同時に仏教やヨーガの核心部分でもあります。
 ですから、そうそう容易には否定出来る物では無いと思います。
 現在物理学ですら、「因果応報」を説いていますし。

>和井恵さんやシヴァの喜びさんが教義を批判しているといっても、表皮や外堀の部分だけなんでつ。
 その人達も、「カルマの法則」などの核心部分については結局は批判出来なくなると思います。

河本理治さま
>むしろ、好きだと思いこんでいる人の言動に権威を保っていたい、そうすれば、とりあえず自らが安泰だ、と近視眼で仰っている方ばかりなのかな、と勘ぐりたくなる、A派屁理屈さま方の発言と感じてしまいます。
 私の場合「好きだと思い込んでいる」のではなく、自身の「行」「識」の深い部分での経験が尊師のそれと一致するので、否定したくとも否定出来ないという事なのですけれども。

>我々まったく事件に直接関与していなくても、良い事だけしてきたと言えますか?
 おっしゃる通り、「良い事だけしてきた」と言える人は一人も居ないと思います。
 もしそう言っている人が居るのなら、その人は非常に無智で傲慢な人なのだと思います。

サンディタさんは

今でも「サンディタよ、サリンを地下鉄に撒きなさい!」とグルに言われたら、サリンを撒きますか?

 サンディタさんにとって「グルへの帰依」とは何でしょうか?

 サンディタさんのコメントを見ていると今でもグルの指示を一生懸命実践しようとする心の働きが見て取れるのですが、どうでしょうか?

 A派のように都合の悪い質問にはお茶を濁したりダンマリを決め込まないで、率直な考えをお聞かせください。

上祐氏 ミクシィより

2007年05月04日
05:52 5月4日
 またまた、ご無沙汰しております。

 GWのセミナーが始まりました。
 
 昨日5月3日は初日と言うこともあり、
 色々ばたばたしておりましたが、
 ようやく一段落となりました。
 本日、5月4日は多少楽な日です。
 
 その後は、東京の本部に戻り、
 5月5日、6日が、クライマックスとなります。
 
 5月7日をはさんで、
 5月8日に記者会見をする予定です。
 
 会見の内容は、またサイトで見ることが
 出来るようにしたい、と思います。

 既に報道されているとおり、新団体の名前は、
 「ひかりの輪」となりました。

 オウム真理教とか、アーレフとか言うのと比べると、
 ちょっと拍子抜けの名前かもしれませんが、
 意味は、サイトでもうすぐ掲示する予定です。

 5月8日が過ぎると、ミクシィでの書き込みも、
 もっと増やしたい、と思っています。
 
 みなさんも、ご自愛下さい。



2ちゃんより転載

632 :新団体名の由来 :2007/05/04(金) 10:56:16 ID:RNK56o8g
>既に報道されているとおり、新団体の名前は、「ひかりの輪」となりました。
 オウム真理教とか、アーレフとか言うのと比べると、ちょっと拍子抜けの名前かもしれませんが、
 意味は、サイトでもうすぐ掲示する予定です。


 アーレフの印刷班の名称は「光輪(こうりん)」です。

 つまり麻原尊師の教えを広めるための出版物を印刷する部署です。

 わたしたちも麻原尊師が説いた四無量心の教えを新団体で実践しようと思っています。

 よってアーレフの印刷班の名称「光輪」をもとにして「光の輪」そして「ひかりの輪」ということで、新団体名を「ひかりの輪」にしました。

 わたしたちは「シヴァ大神・麻原尊師」という名前は出さず、麻原尊師の教えを実践していきます。

 そして麻原尊師の一番弟子である上祐氏についていきたいと思っています。

 これが新団体名「ひかりの輪」の由来です。

お金を貯めるぞさん

お金を貯めるぞさん
こんにちは。

>脱会しても、
>われわれはいつまで、「三悪趣」や「カルマの法則」というオウム教義に縛られなくてはな>らないのか!

動物はともかく、地獄や餓鬼の世界の存在は一般的に証明されてないと思います。さらにはそれらの世界への転生なるものも証明されていないと思います。もしこれらの世界を体験することなく、その存在を信じるとしたら、その人は単に盲信を抱いているだけということになります。また、仮に瞑想中にそれらの世界を体験しても、妄想・幻覚の可能性があります。

もっといえば、「三悪趣」などというものを想定しなくても、我々はじゅうぶん修行することが出来ます。たとえば「自己とは何か」を追求することなどがその一例です。むしろ「三悪趣」があると思い込み、それにこだわる人こそが、それらの世界に赴く可能性すらあります。ならば信じない方がマシともいえます。

またカルマの法則に関していえば、上記の「良い事をすれば良い事が返ってくる」程度の話であれば、とくに「縛られる」というほどでもないと思います。だから論破する必要すらないと思いますが、いかがでしょうか?そもそもお金を貯めるぞさんは、これらの教えのどういったところに「縛られている」とお考えなのでしょうか?

お金を貯めるぞさんは

お金を貯めることに縛られているw

無明の虜

>>むしろ、好きだと思いこんでいる人の言動に権威を保っていたい、そうすれば、とりあえず自らが安泰だ、と近視眼で仰っている方ばかりなのかな、と勘ぐりたくなる、A派屁理屈さま方の発言と感じてしまいます。
> 私の場合「好きだと思い込んでいる」のではなく、自身の「行」「識」の深い部分での経験が尊師のそれと一致するので、否定したくとも否定出来ないという事なのですけれども。

善・悪、好む・憎む、正・邪、苦・楽の弁別をすることは、便宜的に活用されるべき無明から縁起した「行」「識」次元で、特に「識」に振り回されているに過ぎないことではないでしょうか?

少なくとも誰々の「行」「識」の深い部分での経験が一致するから、すなわち正しいから好きだとか、間違っているから嫌いとか・・・・という次元では無い、それを、否定も肯定もしない、善とも悪ともみなさない、ところに真意があるのではないでしょうか?

不覚と覚の分類だけではない、最も不適切とするのがどちらかに片寄ることでしょ、この善悪、好嫌の偏りを離れる為に、重要視されるのが宇宙法則ともみなされる「中」(片寄りから離れる)の真意に、本質があるのではないでしょうか?

言い換えればどんな正しい識別でもそれに拘泥すれば既に無明に嵌っているのでしょうね。

正しいとか、共通部分が多く感受されるからとかいう次元は、既に無明の闇の中で戯れていることに他ならないでしょう。

この延長線上には、正しいことしている、だから、他者が苦しむのは仕方ないという発想に結びつきやすいでしょう。すなわち「好きだと思い込んでいる」識別に執着していることとの違いは、ほとんどはないとみなされるでしょう。

そうは言ってもみんな識別に依存しているので、識を超えるのは難しいことなので大変な奮闘を要すること、なかなか正邪の観念は超えがたいこと、かえって善の観念にしがみつきたくなる気持ちは私にもまだま根強くあるのを自覚していますから・・・大したこと言える立場にありません。努力あるのみです。

素寒貧からの脱却

確かに今の状態は「素寒貧」ですからね。
「修行するぞ」を連想して付けました。


『創世記』でも、SEXをし始めた神々が、次に貯蓄もし始めたとありますから、
「性欲を捨断出来ない者は貯蓄をすべきである」
と解釈しました。
 

naさん

三悪趣とカルマの法則。

オウム・ア~レフ現役信者・元信者にとって、
これは重要な問題であると思っております。

よって、教義の中核と位置づけたんです。

ATA説法やその他の教団機関誌を見ても分かるとおり、かなりの割合を占めております。
中には「師」ですら、「三悪趣」を脱却できないという体験をした方もいるみたいですな。

わたしも「餓鬼(低級霊域)」の体験は多い方です。
「守護霊もどき」にときどき声をかけられますし。
まあ、「それは幻覚・幻聴だ」と言われればそれまでですけど。
でも、さすがに「地獄」はないですな。

「餓鬼(低級霊域)」については、
さらに、オウム・ア~レフだけでなく、その他の江原氏など霊能者が幽霊の存在を主張していますし、
チベット仏教の行者の方も言っているようです。

こうしたモノに客観性はないですからね。
江原氏やVT正悟師がどうこう言おうと全然信じていない者にとっては馬の耳に念仏のようなモノでつ。


あ、わたしよりも、VT正悟師にそのことについてお訊きになったらどうですか?

たぶん、わたしより体験が豊富だと思いますから。

naさん

つづき


>ならば信じない方がマシともいえます。

↑これはちょっと賛同しかねますな。
もし、本当に地獄なるモノが存在していたら不味いのでは?
あと、人間から動物に転生することの方が多いとか、
タターガタアビダンマ第四誦品にも書かれているでしょう。
あれは、オウムで訳した仏典ですけど、探せば、市販の本でもありそうですな。


>そもそもお金を貯めるぞさんは、
>これらの教えのどういったところに「縛られている」
>とお考えなのでしょうか?

本来は、それほど、「三悪趣」の恐怖を説かなくてもよかったのかも知れません。
教団側がお布施などを取り立てるために利用した節もありますし。
それが「縛られている」という感覚を作り出したのかも知れませんな。

マーフィーさま、naさま、河本理治さま

マーフィーさま
>今でも「サンディタよ、サリンを地下鉄に撒きなさい!」とグルに言われたら、サリンを撒きますか?
 当初に示された目的に対し、あまり意味の無い指示は無視します。
 言われた事に盲目的に従うのが帰依ではありませんので。

>サンディタさんにとって「グルへの帰依」とは何でしょうか?
 グルの意思を理解し実践する事です。
 それは表面的に発せられた言葉だけでなく、その言葉に隠された深い意味をも知る必要が有ります。

>サンディタさんのコメントを見ていると今でもグルの指示を一生懸命実践しようとする心の働きが見て取れるのですが、どうでしょうか?
 私は現在も、12年前にグルが指示した通りの生活を続けています。
 その点、教団の方々は直接与えられたグルの指示を無視してあれやこれやと好き勝手に教団を運営してらっしゃいましたね。
 当然その間に教団から元に戻るよう言われましたが、グルが与えた環境を捨てる必要はないと考えて無視して来ました。

naさま
>むしろ「三悪趣」があると思い込み、それにこだわる人こそが、それらの世界に赴く可能性すらあります。ならば信じない方がマシともいえます。
 修行して自分で体験するまでは、「三悪趣」の存在を確認出来ません。
 それまでは「有るのか無いのか、まだ分からない(確認出来ない)」段階であって、その時点で「三悪趣は有る」又は「無い」と盲目的に信じ込むのは修行の障碍にしかなりません。
 naさんの御指摘は半分正しいのですが、逆にnaさんが「三悪趣が無いと思い込み、それにこだわっている」ようにも思えますが、いかがな物でしょうか?

河本理治さま
>少なくとも誰々の「行」「識」の深い部分での経験が一致するから、すなわち正しいから好きだとか、間違っているから嫌いとか・・・・という次元では無い、それを、否定も肯定もしない、善とも悪ともみなさない、ところに真意があるのではないでしょうか?
 私は「経験が一致する」と述べただけで、それが正しいとも間違っているとも、また善であるとも悪であるとも、また好きだとも嫌いだとも主張しておりませぬが。
 その他の河本さんのお話にについては、ほぼ同意です。

「グルを守ることができない弟子がどーのこーの」という説法が確かありましたが、それの本当の意味はひょっとして「坂本をポアせよ」とか「サリンを撒け」と言われて、その指示を断ればグルを犯罪者にすることなく守ることが出来たのに、断らずにグルを犯罪者にしちゃうことを予見してのことだったんでしょうかね?
だとしたら確かに深遠といえば深遠ですが。
でも犯罪云々以外でも問題だらけですからなー。

サンディタさんへ

丁寧な返答ありがとうございました

お金を貯めるぞさん、サンディタさん

お金を貯めるぞさん

>わたしも「餓鬼(低級霊域)」の体験は多い方です。
>「守護霊もどき」にときどき声をかけられますし。
>まあ、「それは幻覚・幻聴だ」と言われればそれまでですけど。
>でも、さすがに「地獄」はないですな。

なるほど、そうでしたか。


>「餓鬼(低級霊域)」については、
>さらに、オウム・ア~レフだけでなく、
>その他の江原氏など霊能者が幽霊の存在を主張していますし、
>チベット仏教の行者の方も言っているようです。
>

たしかにそうですね。


>こうしたモノに客観性はないですからね。
>江原氏やVT正悟師がどうこう言おうと全然信じていない者にとっては馬の耳に念仏のようなモノでつ。

私は体験したことが無いので、まだ正直よくわからないといった感じです。


>>ならば信じない方がマシともいえます。
>
>↑これはちょっと賛同しかねますな。
>もし、本当に地獄なるモノが存在していたら不味いのでは?
>あと、人間から動物に転生することの方が多いとか、
>タターガタアビダンマ第四誦品にも書かれているでしょう。
>あれは、オウムで訳した仏典ですけど、探せば、市販の本でもありそうですな。

たしかに仏典にも地獄や転生の記述はあります。
でも仏典に書かれているからといって全て信じる必要はないと思います。
そもそも諸々の仏陀方の教えの根本は

「すべての悪しきことを為さず、善いことを行い、自己の心を浄めること」
(七仏通戒偈)

といわれてますが、これをきちんと行っていれば
仮にその人が天界を信じて無くても自然と天界に赴くでしょうし、
地獄があったとしても、やはり地獄に赴くことはないでしょう。


>本来は、それほど、「三悪趣」の恐怖を説かなくてもよかったのかも知れません。
>教団側がお布施などを取り立てるために利用した節もありますし。
>それが「縛られている」という感覚を作り出したのかも知れませんな。

教団の方々には、この点をぜひ改善してほしいものですね。


お金を貯めるぞさんが、これらの束縛から速やかに解放されますように。


サンディタさん

> 修行して自分で体験するまでは、「三悪趣」の存在を確認出来ません。
> それまでは「有るのか無いのか、まだ分からない(確認出来ない)」段階であって、その時点で「三悪趣は有る」又は「無い」と盲目的に信じ込むのは修行の障碍にしかなりません。

その通りだと思います。

> naさんの御指摘は半分正しいのですが、逆にnaさんが「三悪趣が無いと思い込み、それにこだわっている」ようにも思えますが、いかがな物でしょうか?

存在するかどうかは確認できないので、当然のことながら私も地獄等が「無い」と断言することもできません。

ただ私が言いたいのは、三悪趣への転生の恐怖をことさらに煽り立てるのは、弊害が大きいのではないか?ということです。ましてやそれらの世界が無いと考えても修行できるならば、別に言わなくても大丈夫ではないのですか?ということです。

naさん




>>本来は、それほど、「三悪趣」の恐怖を説かなくてもよかったのかも知れません。
>>教団側がお布施などを取り立てるために利用した節もありますし。
>>それが「縛られている」という感覚を作り出したのかも知れませんな。

>教団の方々には、この点をぜひ改善してほしいものですね。


初期の頃、オウムに入会する動機で多かったのは、
現世利益や超能力獲得が多かったと思いますね。
2ちゃんねる・完璧スレのキャンディちゃんも「現世利益」だったと書いています。
わたしは「超能力獲得」かな。

それが「教学だ」「お布施だ」で、三悪趣転生への恐怖をすり込まれ、
さらにセミナ~やイニシエーションでそれが強化される・・・。

何しろ、九四年頃、わたしが南青山へ何か質問しに行くと二言目には「教学しなさい!」ですからね。

嗚呼。


今も、A派セミナ~では同じようなことをやっているんでしょうな。


>お金を貯めるぞさんが、これらの束縛から速やかに解放されますように。


それが出来れば、苦労しませんて。(藁)


大した修行もしないのに、餓鬼(低級霊域)の体験をしているんですから。

書き忘れましたけど、「地獄」らしき世界に入りかける体験もあります。

サクラ~正悟師だったか分かりませんが、
「憎悪や怒りに満ちて瞑想か夢に入ったところ、
黒い穴に脚の方から吸い込まれそうになった」
という体験がありましたね。

それと同じ体験をしたことがあります。
やっとの思いで抜け出しましたけど、怖い想いをしました。
地獄そのものには、行った体験はありません。


サンディタ さんへの質問

>>サンディタさんにとって「グルへの帰依」とは何でしょうか?
>グルの意思を理解し実践する事です。
>それは表面的に発せられた言葉だけでなく、その言葉に隠された深い意味をも知る必要が有ります。

ちょっと意地悪な質問になってしまって申し訳ありませんが、
サンディタさんよりもステージの高い、
正大師や正悟師の方々が、グルの意思の実践として、
事件を行なったわけですから、
それこそが、やはりグルの意思だったのではないですか?
それとも、彼らは皆グルの意思を全く理解しておらず、
サンディタさんのほうが、グルの意思を理解しているとお考えですか?

ご参考までに

ソースは忘れましたが
(多分、宝島か週間プレイボーイ)の記事で
まだ尊師が頭確かだった96年ごろ、弁護士に「ヴァジラヤーナの教えを理解した弟子は誰もいなかった」と意味深なことを話していたというのがありました。

上記の話が本当だ、尊師が命令を下したという前提ですが…
ならば、尊師は自分が本質から離れた命令を下しても、弟子たちは「そんなことできません」と断るはずだと思っておられたのでは?

地下鉄事件前、国土法違反の件で信者たちが連行されたとき、尊師は上祐氏に「トラックに重油を積んで警視庁に突っ込んで取り調べ中の信者を救出したらいいんじゃないか」と話されたところ、
上祐氏は『そんなことやめてください』と否定しています。すると、尊師はにこにこ笑って「そうだ。お前の言うとおりだ」と非常に嬉しそうで、その後ほかのサマナにもそのエピソードを嬉しげに話されたらしいです。

事件を起こしてしまった…。

「ヴァジラヤーナの教えを理解した弟子は誰もいなかった」の言葉からは尊師自身が読み違いを悔いているからこその発言ではないでしょうか?

セイさん

>まだ尊師が頭確かだった96年ごろ、弁護士に「ヴァジラヤーナの教えを理解した弟子は誰もいなかった」と意味深なことを話していたというのがありました。

この話は私も聞いたことがあります。
だとすると、弟子が愚かなのはさて置いて、
弟子がそのような間違いを犯すであろうということを、
見抜けずに、そのような法を与えた、
グルの責任は大きいのではないでしょうか。

>「ヴァジラヤーナの教えを理解した弟子は誰もいなかった」の言葉からは尊師自身が読み違いを悔いているからこその発言ではないでしょうか?

そういう意味で悔いていたかもしれませんね。

白龍さんへ

上のは「セイラ」でしゅ。
名前が途中で切れちょびれ(^^;)

>弟子がそのような間違いを犯すであろうということ
>を、
>見抜けずに、そのような法を与えた、
>グルの責任は大きいのではないでしょうか。

グルといえども間違いを犯します。
それもまた当然のこと。

責任が重かったからこそ、
尊師は死刑という贖罪の罪を与えられたのでしょう。
法則からいうと当然の進行です。

セイラさん

>名前が途中で切れちょびれ(^^;)

名前が切れたのね・・。(笑)

>グルといえども間違いを犯します。
>それもまた当然のこと。

>責任が重かったからこそ、
>尊師は死刑という贖罪の罪を与えられたのでしょう。
>法則からいうと当然の進行です。

なるほど。そうなりますか。

お金を貯めるぞさん

>大した修行もしないのに、餓鬼(低級霊域)の体験をしているんですから。
>
>書き忘れましたけど、「地獄」らしき世界に入りかける体験もあります。

それは大変でしたね。
私自身はこういった経験はないのですが、やはりこのような体験をする方が、世の中に沢山おられるのもまた事実だと思います。

>サクラ~正悟師だったか分かりませんが、
「憎悪や怒りに満ちて瞑想か夢に入ったところ、
黒い穴に脚の方から吸い込まれそうになった」
という体験がありましたね。

私の知り合いに、やはり霊的な体験をする方がいるのですが、怒りや悲しみで精神状態が非常に悪くなったときにかぎって、そういう体験をしてしまうそうです。お金を貯めるぞさんがどうかわかかりませんが、やはり普段から自分の心を守ることが重要ではないかと思います。

ちなみに仏典によると、悪霊に悩まされた比丘が、仏陀のもとに相談に行ったところ、「慈悲の瞑想をしなさい」といわれたそうです。地獄や餓鬼の世界の住民に対して、慈悲の心を向けることによって、攻撃されないようにするというわけです。

オウムでも四無量心の瞑想がありましたが、個人的には仏典の言葉をそのまま利用した方がやりやすくて効果的ではないかと思います。詳しくは「慈経」で検索してみてください。

あと蛇足ですが、陰気なところに行かないようにするのも重要かと思います。最近はお寺などがパワースポットだともてはやされたりもしてますが、こういった場所で変な影響を受けてしまう可能性もありますのでご注意を(もちろんお寺が全て危険なのではありませんよ)。

以上、すでにご存知だったかもしれませんが、参考までに。

naさん

>あと蛇足ですが、陰気なところに行かないようにす
>るのも重要かと思います。最近はお寺などがパワー
>スポットだともてはやされたりもしてますが、こう
>いった場所で変な影響を受けてしまう可能性もあり
>ますのでご注意を(もちろんお寺が全て危険なので>
はありませんよ)。



あと、廃墟もね。

以前、廃墟を特集した番組を見ましたが、
夜にそういうところへ行くのは危険だと思いましたね。

A派屁理屈

う~ん、なんか懐かしい感じのするやりとりですね。。。

A派が嫌いになる原因の一つに、第三者的立場で話を聞くと、この人たちの主義主張のどこに法則があるのか???と疑問がでてくるんですよね。

はたから聞いていると、単に相手が気に食わないから、そこにあてはまりそうな法則を持ってきて説明をして、その主張が正しいように見せているだけで、本心は別のところにあるんではないかと。

Mは嫌だけど、Aもちょっと嫌だと感じている人は結構多いんじゃないかな。

白龍さま、セイラさま

白龍さま
>サンディタさんよりもステージの高い、
正大師や正悟師の方々が、グルの意思の実践として、
事件を行なったわけですから、
>それこそが、やはりグルの意思だったのではないですか?
>それとも、彼らは皆グルの意思を全く理解しておらず、
>サンディタさんのほうが、グルの意思を理解しているとお考えですか?
 既にセイラさんも書かれていますが、ことヴァジラ・ヤーナに関しては私も含めて正確に理解し実践し得た弟子は皆無だったかと思います。
 例えば「ヴァジラ・ヤーナの実践」後に信を失いアンチに転じてしまったような方々は、たとえステージが高くても失礼ながら「グルの意思を理解していた」とは到底言い難いと思います。
 こういう人達に共通して言える事は、「グルの指示に対して一切自分で考えて判断せず、ただひたすら盲目的に従う事」がヴァジラ・ヤーナだと勘違いしてした節があります。
 しかし説法にも有る通り、この程度の実践はヤクザでも出来る事です。
 ヴァジラ・ヤーナの実践に於いては、最低でもグルの指示に隠されたグルの深い意思を瞬時に読み取る智恵が必要となります。
 そう言う意味で言うと、マンジュシュリ・ミトラ正大師やミラレパ正大師あたりはヴァジラ・ヤーナの実践における「カルマ落とし」という意味合いについては十分に理解していたろうと思われます。
 でもその彼等でさえ全部の意味合いを理解していたかどうかは、不明です。 

セイラさま
>「ヴァジラヤーナの教えを理解した弟子は誰もいなかった」の言葉からは尊師自身が読み違いを悔いているからこその発言ではないでしょうか?
 それは無いと思います。
 弟子達の無理解を十分承知した上で、あえて「弟子のカルマ落とし」の為に指示を出したのだと思います。
 

サンディタさんは

アーレフが真理の団体として再生し、自分がアーレフに戻れる日がやってくると思いますか?

まいけるさん

>サンディタさんは
>アーレフが真理の団体として再生し、自分がアーレ
>フに戻れる日がやってくると思いますか?


サンディタさんにとって答えにくい質問じゃないですか?


非常に難しい問題です。

財施部サマナって、ある意味、教団から離された閑職みたいなものでしょう。

ア~レフが再生するとしたら、
麻原氏が娑婆に戻ってくるとか、
猊下方が教祖に復帰される以外考えられませんな。

前者は99%あり得ませんし、後者もア~チャリ~さんが弟さん方を虐待している状況下ではあり得ないでしょう。
わたしは、弟さん方と、ア~チャリ~さんを引き離した方がいいと思いますね。


サンディタさんへ

 度々返信いただきありがとうございます。どうも良く分からないので教えていただきたいのですが、

>例えば「ヴァジラ・ヤーナの実践」後に信を失いアンチに転じてしまったような方々は、たとえステージが高くても失礼ながら「グルの意思を理解していた」とは到底言い難いと思います。

 事件後に信を失いアンチに転じた方が、「グルの意思を理解していた」と、なぜ「到底言いがたい」のでしょうか?それは、グルの否定=「グルの意思を理解していない」という理解なのでしょうか?それとも、何か別の特別な理由等がおありなのでしょうか?

 なぜなら、このように強く否定されるということは、ご自分の中に明確なグルの意思なるものを持っていないと、なかなか否定できないのではないかと思うのですがいかがですか?

>ヴァジラ・ヤーナの実践に於いては、最低でもグルの指示に隠されたグルの深い意思を瞬時に読み取る智恵が必要となります。
>そう言う意味で言うと、マンジュシュリ・ミトラ正大師やミラレパ正大師あたりはヴァジラ・ヤーナの実践における「カルマ落とし」という意味合いについては十分に理解していたろうと思われます。

 マンジュシュリ・ミトラ正大師やミラレパ正大師は、瞬時にグルの意思を読み取る智慧がアンチの方々よりあったということですね。
マンジュシュリー・ミトラ正大師は途中で亡くなってしまわれたので、逮捕後どうなったか知る由もありませんが、ミラレパ正大師に関しては、グルを否定することなく、今に至っております。そのミラレパ正大師をグルの意思の最も優秀な理解者だとした場合、その弟弟子達も、その兄弟子と同じ道を歩もうと努力するのが当然だと思うのです。

 ということは、やはり、グルの指示があった場合には、どのような指示があった場合でも、その指示に従うということになるのではないですか?為した後に、グルを否定しなければ、それでグルの意思の優秀な実践者と認められるとするなら、そのようになってしまうと思うのですが、いかがでしょうか?

まいける さま
>アーレフが真理の団体として再生し、自分がアーレフに戻れる日がやってくると思いますか?
 教団が生まれ変われるかどうかは教団自身の問題なので、私には分かりません。
 今回のGWセミナーの一部を覗いてみた限りでは、さる正悟師の説法中継が場違いに思えるほど、「導き」を題材にして全体的に良い方向で盛り上がっていました。
 ですから今後教勢の拡大のために教団の意識が外に向かう事はあっても、今さら教団内部の過去の悪業を剔り出して改善するような方向へはなかなか向かわないだろうと思われます。

 まあ私自身が現在グルから与えられている課題を全てクリアし、教団の中に入っても周囲の悪影響を受けずに救済と上向が出来る力を身に付けたなら、外側の条件に関係無くいつでも内部に復帰出来るはずだと考えています。
 つまり、結局は私自身の至らなさが一番の原因なんですよね。

白龍さま
>事件後に信を失いアンチに転じた方が、「グルの意思を理解していた」と、なぜ「到底言いがたい」のでしょうか?
 「グルの意思」の意思を理解出来ず「ヴァジラ・ヤーナ」の教義も身に付いていなかったが故に、事件後に信を失い法則の道から転げ落ちてしまった訳です。

>なぜなら、このように強く否定されるということは、ご自分の中に明確なグルの意思なるものを持っていないと、なかなか否定できないのではないかと思うのですがいかがですか?
 私自身は、過去世から今生に掛けてグルから与えられたデータを元に判断しています。
 それに従うのなら、一連の事件については「本来のヴァジラ・ヤーナとは到底言えない事例」が数多く見受けられます。

>そのミラレパ正大師をグルの意思の最も優秀な理解者だとした場合、その弟弟子達も、その兄弟子と同じ道を歩もうと努力するのが当然だと思うのです。
 その「他人がどうだから、自分もこうすべき」という発想自体が、既にヴァジラ・ヤーナとは相容れない物です。
 そういう付和雷同的な意識状態で「何となく」グルの指示に盲従した結果が、一連の事件とそれによる多くの離反者の発生だったかと思われます。
 ヴァジラ・ヤーナにおいては、あくまでもグルと弟子との一対一の関係が基本となります。

>ということは、やはり、グルの指示があった場合には、どのような指示があった場合でも、その指示に従うということになるのではないですか?
 「グルの意思」を正しく理解した上でグルの与える指示に従ったのなら、「グルの意思」を正しく実践した事になります。
 「グルの意思」を正しく理解せずに盲目的にヴァジラ・ヤーナ的な指示に従ったとしても、決して「グルの意思」を実践した事にはなりません。

>為した後に、グルを否定しなければ、それでグルの意思の優秀な実践者と認められるとするなら、そのようになってしまうと思うのですが、いかがでしょうか?
 そんな単純なものでは御座いません。
 単純に外側の身・口の行いを真似ただけでは、ヴァジラ・ヤーナを実践出来た事にはなりませんので。

サンディタさんへ

返信どうもありがとうございます。

>>事件後に信を失いアンチに転じた方が、「グルの意思を理解していた」と、なぜ「到底言いがたい」のでしょうか?
 >「グルの意思」の意思を理解出来ず「ヴァジラ・ヤーナ」の教義も身に付いていなかったが故に、事件後に信を失い法則の道から転げ落ちてしまった訳です。

 それは結果がそうだったということであって、事件に関しての行為自体は「グルの意思」ということではなかったでしょうか?ミラレパ正大師も実際事件に関わったわけですから、その為した行為自体は、グルの意思にそったものだったのではないかと思われます。ただ、結果的にグルを否定するようになってしまった者に関しては、ヴァジラ・ヤーナの教義の根付きが浅かったというサンディタさんの理解のようになるかもしれません。しかし、為した行為自体は、グルの意思の実践だったと考えられませんか?

>>なぜなら、このように強く否定されるということは、ご自分の中に明確なグルの意思なるものを持っていないと、なかなか否定できないのではないかと思うのですがいかがですか?
 >私自身は、過去世から今生に掛けてグルから与えられたデータを元に判断しています。
 >それに従うのなら、一連の事件については「本来のヴァジラ・ヤーナとは到底言えない事例」が数多く見受けられます。

 サンディタさん自身の中にある、「グルの意思」と思われるものが、判断基準だとした場合、少なくとも、サンディタさんよりステージが上だった成就者の方々も、それぞれがそれぞれの、「グルの意思だとする判断基準」を持っていたのではないかと推測されるわけです。彼らの「グルの意思の判断」を否定するとするならば、その方達より自分の判断基準がより的確で、優れているとする根拠がなくてはならないと思われます。そのためにも、サンディタさんが考える「本来のヴァジラヤーナ」とは、どのようなものであるか提示していただければ大変ありがたいです。

>ということは、やはり、グルの指示があった場合には、どのような指示があった場合でも、その指示に従うということになるのではないですか?
 「グルの意思」を正しく理解した上でグルの与える指示に従ったのなら、「グルの意思」を正しく実践した事になります。
 「グルの意思」を正しく理解せずに盲目的にヴァジラ・ヤーナ的な指示に従ったとしても、決して「グルの意思」を実践した事にはなりません。

 事件後12年過ぎた、今の感覚ではなくて、当時の感覚で、グルや正大師、正悟師から秘密のワークを与えられて、そのワークは間違っているから私はやりませんなどということが、果たして師に言えたでしょうか?私は、はなはだ疑問なのですが、いかがでしょう?

 当時そのようなことを言えば、スパイ容疑がかけられかねなかったのではないですか?まあ、スパイはともかく、非常に断りにくい状況にあったのではないでしょうか。ある意味、後出しジャンケンは、誰でもできますが、その時点でも、上からの秘密のワークとして与えられた指示に対して、サンディタさんは、きっぱり断れたと思われますか?

 「グルの意思の正しい理解」これが、教団の先駆者のほとんどが出来ていなかったのですよね?ケイマ正大師ですら出来ていなかった(グルを否定したという点から判断して)とするならば、今後もグルの意思を正しく理解できる人が出てくる可能性は、非常に少ないということになりませんか?「グルの意思の判断基準」が個人の判断基準に委ねられている限り、グルの意思の曲解はなくならないと思うのですが、いかがでしょうか?

 そのように考えると、サンディタさんは別にしても、また、サリン事件が、ヴァジラヤーナの実践として、実は正しいグルの意思であったと言う者が現れる可能性も十分有り得るのではないかと思うのですがいかがでしょうか?

 そこに私は、「グルの意思」を振りかざす人達の危うさを感じてしまいます。この「グルの意思」という呪縛から離れ、自らの足で歩みだし解脱に向かおうとする方向に意識を向けない限り、分裂を伴った教団の混沌はいつまでも続くと思われます。

興味深いやり取りですね

サンディタさんと白龍さんの「ヴァジラヤーナ論争」興味深く読ませてもらっています。

白龍さんは、サンディタさんのヴァジラヤーナ論の問題点を、非常に分かりやすく指摘しておられますね。
まさに、私も問題だ、と思っていたところです。(笑)

これからのやり取り楽しみにしています。


サンディタさんへ

 それに従うのなら、一連の事件については「本来のヴァジラ・ヤーナとは到底言えない事例」が数多く見受けられます。

サンディタさんへ

> それに従うのなら、一連の事件については「本来>のヴァジラ・ヤーナとは到底言えない事例」が数多>く見受けられます。

凡夫の私から見ても「どこがヴァジラヤーナなの?」の事柄が多いです。

これはヴァジラヤーナだと自分に言い聞かせた時点で
ヴァジラヤーナでなくなる。
ポアも然り。確実に死亡させなくてはいけないのに、
不確かな手段(ガスを撒く)に及んでいる。
だから裁判動向も「危険な教義がベースにあった」になったり、「洗脳されていて開祖の命令は絶対服従状態だった」になったり。
しかしどちらにしても矛盾があるのに、
この二つの説を行ったり来たり。
この矛盾を突くジャーナリストはいまだ出てこない。

サンディタさんは

ご自身のステージは

ヒナヤーナ
マハーヤーナ
タントラヴァジラヤーナ

のどの段階にあたると考えていますか?

サンディタさんがタントラヴァジヤーナの段階に
入っていなかったらタントラヴァジラヤーナについて
正確に理解し解説することはできないと思うのですがどうでしょうか?

皆さん

サンディタさんのことはもうそっとしといてあげましょうよ。
「グルの意思を正しく理解できているのは今のところ自分だけだ、しかし理解はできているものの実践は伴いきれていない」ってことでいいじゃないですか。現役幹部が今もってそう思っているなら問題ですが、ホサれて教団から距離を置いている方が思ってる分には実害はないでしょうし、思ってるだけなら自由ですから。
おそらくそれが唯一の心の拠所なのでしょうから。

麻原氏への帰依

サンディタさんて、A派寄りの中間派というところでしょうか。
多少、麻原氏に帰依を持っていらっしゃるみたいですな。


「我こそは、真理の御魂・最聖・麻原彰晃尊師に身を挺して帰依し、タントラヴァジラヤ~ナを実践するA派なり!」なんて方は来ないのかな?






第三者はどこへ行ったの?

つらつらと以下のご発言を拝読して感じるのです。

> ですから今後教勢の拡大のために教団の意識が外に向かう事はあっても、今さら教団内部の過去の悪業を剔り出して改善するような方向へはなかなか向かわないだろうと思われます。

>  まあ私自身が現在グルから与えられている課題を全てクリアし、教団の中に入っても周囲の悪影響を受けずに救済と上向が出来る力を身に付けたなら、外側の条件に関係無くいつでも内部に復帰出来るはずだと考えています。
>  つまり、結局は私自身の至らなさが一番の原因なんですよね。

> ヴァジラ・ヤーナにおいては、あくまでもグルと弟子との一対一の関係が基本となります。
>  「グルの意思」を正しく理解した上でグルの与える指示に従ったのなら、「グルの意思」を正しく実践した事になります。
>  「グルの意思」を正しく理解せずに盲目的にヴァジラ・ヤーナ的な指示に従ったとしても、決して「グルの意思」を実践した事にはなりません。

> 私自身は、過去世から今生に掛けてグルから与えられたデータを元に判断しています。
> それに従うのなら、一連の事件については「本来のヴァジラ・ヤーナとは到底言えない事例」が数多く見受けられます。


ようは内的体験が素晴らしいものになるなら第三者は関係ないと感じられる文章ですね。
内的経験、高い霊性の維持は素晴らしもので、体験できるものなら至るべきものでしょう。
一定の霊性を保たれておられる方に、完全に称賛と敬意を持っています。

しかし、眼耳舌身意で識別する外界のすべての現象は、個我の要素である部分はどこへ置き忘れたのでしょう。

現実に身近で起こっているあらゆる事象を認識しようとする事を意識的に拒絶していたとしても、現象は川の流れの如く融通無碍に流れています。その川の水は、激流や曲がりくねった河川をなんら俺はこちらに行くといって、流路をはみ出しません。(たいがいの時は)
これと同じように、身近の環境、出来事、置かれた社会的状況などといったものは、個我の「行」の現象したものの一部でしょう。これらより、過去世からの記憶に基づく信念の方が大切だとされるのかも知れません。

ましてや日々接し、日々浴びせかけられる社会の一般の方の言動、感情と関係なく、自らの内的高い霊性の向上と維持に努めるだけに専心していて、他で起こるすべてを置き残しても、大切とみなしているように勘ぐってしまうのは、間違っているのでしょうか。

もう一点、過去世から今生に掛けてどうのこうのというのは、たいがい心が造りだしている個人に都合の良い妄想です。

何故なら輪廻転生というものがあるとしても、それは特定の魂のようなものが永遠に生まれ変わりをくり返していると見なせないからです。しかし輪廻はしているのは間違いないでしょう。しかし仏教的になにかの自立した実体は決して認めません。従ってすべての要素、地水火風空が集まったり、またバラバラになり、また再びの寄せ集められるに過ぎません。

よってすべての他人、池、山、空気、なんでもが、いつか私の部分になり得る意味で転生をくり返しているのは真実でしょう。

一つの魂が死に、また別の身体を纏うという不変に続く魂の連続のようなものはあり得ないのでしょう。

よって過去世で誰であったなどという記憶や体験は、一部真実でしょうが、一部まったくの妄想である事になります。

大変失礼な表現かも知れませんが、サンディタが考える過去世から今生に掛けてグルから与えられたデータを元に判断してるという表現は、単にあなたの心の「行」が造りだしている妄想ビジョンに基づく考えに過ぎないと断定できます。

私の知る限り金剛乗はバレたら既に金剛乗になり得ない。よってバレ密教は既に仏教でなくなっているものだと思います。そして本当に他者を苦悩から解放しようと意思があるなら、殺しても行き還らせなければならないのに、誰も行き還らせていない、故にまったく真実の金剛乗が実践できたいたとは言えませんので、誰かの真実の意思がどうのこうのという以前に、それらは偽ヴァジュラヤーナであって、手前の団体を姑息に存続させたい欲求が偽装されていたに過ぎないでしょう。ただその指示を出された方は本当に、心から内側の神をお信じになっていたのは確かかも知れません。

白龍さんの質問
> サンディタさんが考える「本来のヴァジラヤーナ」とは、どのようなものであるか提示していただければ大変ありがたいです。

私も白龍さんと同じようにお伺いしたいでしょう。


白龍さま

白龍さま
>それは結果がそうだったということであって、事件に関しての行為自体は「グルの意思」ということではなかったでしょうか?
 確かに、そう言う意味でしたら指示に従って事件を行うという行為についても「グルの意思」と言えると思います。
 ただ「グルの意思」という言葉自体がその時の状況や各人各様で意味が違って来る物ですので、私が前回のレスで不用意に「グルの意思」という言葉を使ってヴァジラ・ヤーナの説明をしてしまったのは、あまりにも意味が曖昧になりすぎて不適切だったと反省しています。

 例を挙げるなら(このblog内からの引用ですが)、尊師がアーチャリー正大師に「今後の救済のために勉強しなさい」と言われたと。
 このグルの意思を仮に「グルの意思(A)」とします。
 次に、それを聞いたアーチャリー正大師は「絶対に勉強したくない、勉強するくらいなら死んだ方がマシだ!」とまで言われて何度も拒否されたと。
 それを受けて尊師もとうとう「じゃあ、勉強しなくても良いよ」と言ったと。
 これを「グルの意思(B)」とします。
 そしてアーチャリー正大師は「尊師からも『勉強しなくなくていい』って言われたーっ!!」とおっしゃって、結局勉強しなかったと。
 さてこの時のアーチャリー正大師は、果たして「グルの意思」を実践しているのだろうか?という問題です。
 確かに「グルの意思(B)」は実践しています。
 でも、本来のグルの意思である「グルの意思(A)」は全く実践していない事になります。
 私が一連の事件(特に地下鉄サリン事件)を「本来のグルの意思ではない」と言ったのは、そういう意味です。
 でも確かに白龍さまの言う意味では「グルの意思」を実践している事になると思います。

>そのためにも、サンディタさんが考える「本来のヴァジラヤーナ」とは、どのようなものであるか提示していただければ大変ありがたいです。
 過去の御説法でも触れられたようにヴァジラ・ヤーナにも各段階があり、私はその全てを把握している訳では御座いません。
 私が理解出来ているのは、全体のほんの一部です。
 その点を承知頂いた上でお話しさせて頂きますが、本来のヴァジラ・ヤーナでは「外側の現象を動かす」事を目的とした場合、「けっして失敗するような方法は取らない」という鉄則があります。
 しかし、「地下鉄サリン事件の前後では失敗を目的としているような指示しか出ませんでした。
 確かに「強制捜査を成功させ、世論を反オウムにし、教団を逆境に追い込む」あるいは「弟子のカルマ落とし」という目的においては大成功でしたけど。
 しかしその上記の目的自体が、当初の「力によって世の中を変えて、真理を広める」というヴァジラ・ヤーナ本来の目的から完全に外れた物だった訳です。
 そして私は教団がヴァジラ・ヤーナを実践する際はその「本来の目的」でしかグルと契約しておりませんので、地下鉄サリン事件のような目的の指示には従えない、と申した次第です。
 たとえサリンを与えられても、おそらく勝手に別の所に撒きに行くと思います。

> 事件後12年過ぎた、今の感覚ではなくて、当時の感覚で、グルや正大師、正悟師から秘密のワークを与えられて、そのワークは間違っているから私はやりませんなどということが、果たして師に言えたでしょうか?
>私は、はなはだ疑問なのですが、いかがでしょう?
 私はその「秘密のワーク」に下っ端ながら幾つか参加させて頂きましたが、一応指示には従っていました。
 でも明らかにおかしな指示(そのワークの達成に支障が出るような指示)には何だかんだと言って従いませんでしたけれども。
 
>「グルの意思の正しい理解」これが、教団の先駆者のほとんどが出来ていなかったのですよね?
>ケイマ正大師ですら出来ていなかった(グルを否定したという点から判断して)とするならば、今後もグルの意思を正しく理解できる人が出てくる可能性は、非常に少ないということになりませんか?
 その言い方も正確ではありません。
 例えば上記のケイマ正大師の例でいうなら、「ある程度まではグルの意思を正しく理解していたけれども、全部は理解出来ていなかった」とした方がより正確だと思われます。

>「グルの意思の判断基準」が個人の判断基準に委ねられている限り、グルの意思の曲解はなくならないと思うのですが、いかがでしょか?
 その時は、既存の法則(ヴァジラ・ヤーナの教義も含む)の範囲内で判断すれば良いと思います。

>そのように考えると、サンディタさんは別にしても、また、サリン事件が、ヴァジラヤーナの実践として、実は正しいグルの意思であったと言う者が現れる可能性も十分有り得るのではないかと思うのですがいかがでしょうか?
 その人の法則の理解度、グルの意思の理解の程度を尋ねれば、自ずとそういう主張の真偽が判断出来ると思います。
 実際には、肯定派にしろ否定派にしろ、部外者が生半可な知識で主張している例が多い訳ですけれどもね。

>そこに私は、「グルの意思」を振りかざす人達の危うさを感じてしまいます。
>この「グルの意思」という呪縛から離れ、自らの足で歩みだし解脱に向かおうとする方向に意識を向けない限り、分裂を伴った教団の混沌はいつまでも続くと思われます。
 それはその通りだと思います。
 私は、その「(既存の様々な呪縛から抜け出して、)自らの足で歩みだし解脱に向かおうとする」のが現在グルから与えられた意思だと認識しておりますので、未だに「グルの意思」「グルの意思」と申している次第です。
 「グルの意思」に自分のエゴを混ぜている人は明らかに身・口・意の行いが法則から離れていきますので、少し追求するだけですぐに判明します。

真理を広める目的

> 当初の「力によって世の中を変えて、真理を広める」というヴァジラ・ヤーナ本来の目的

これって、自分たちが大悪業をなし三悪趣に赴き、他の日本の人が高い世界へ赴いて頂くために我々が甘んじて苦のただ中に転落ましょうよ、という決意でしょ。(違法行為実行者の場合)(成功しても団体構成員は悪趣)

どっちみち真理を広めるのは団体構成員以外の幸せのためであったのでしょ。

失敗した今は団体構成員以外の幸せのためになすべきことを模索するべきではないですか?

> 「外側の現象を動かす」事を目的とした場合、「けっして失敗するような方法は取らない」

これって成功事例があったのですか?わたしの印象では失敗しかない印象ですが(破戒力を行使しようとした場合に限っては)

90年波の村に進出するとき必ず悪化する日時を意図的に選択して入っていますね。

その意味では、

> 「強制捜査を成功させ、世論を反オウムにし、教団を逆境に追い込む」あるいは「弟子のカルマ落とし」という目的

このような意図が働いていたと憶測も可能でしょうね。

しかし本人の意思が、なへんにあったかはこと破戒力の行使については不可解以外の何ものでもない印象がありますね。(真理の団体だから潰されてはならないという意思でしょうか?それは成功ではなく逆に成就していますね)

(ほとんど失敗、大成功は強制捜査の成功を呼び込んだ事実だけでしょう)。

殺してその人を生き返らした事実は全くなかったのでそれがヴァジラヤーナの条件を満たしていないのは明白でしょう。
生き返らすことがないなら、その殺した人を高い世界へ誘えることは不能という基準があるので、信者側に高い世界へ誘える能力があると思いこみの妄想があっただけでしょう。

(そういうわたしも、当時は誰でも殺した相手を高い世界へ誘える能力があるかも知れないと思っていました。)

どんなヤーナであっても「法」はあくまで手段であって目的ではないものでしょう。目的が団体構成員以外の幸せにあったのであれば、あの逮捕時(とその後現在まで)の状況は演技なの?それともありのままのあの方の実像なの?わたしはあの方のありのままの実像を如実に象徴していると思います。
優れた瞑想者であったでしょうがそうでない普通の人の部分も間違いなくありました。

よって手段は手段であって、目的とは異なります。
その手段に汚名を付けてしまった、我々はその手段の法(ヴァジラヤーナ)は選択の権利はもうとっくに喪失しているのではないでしょうか?

ただし真実のものであれば上手に活用できる手段であるでしょうが偽ヴァジラヤーナを使い悪名高くなっている現在は、少なくとも我々はあの種の活用はなすべきでない。

よってグルの意思云々は死語にすべきであると思量します。

しかしすべての事柄をどのように感受し認識するかは、すべて個々人の内側でなされるもの以外は生じません。
内心の自由も法的にあることですから、感受し認識するのは個々人の自由な選択に委ねられています。その識別が個々人の苦楽を決定する多大な影響力をもっていますから、できれば苦に至る妄想的識別は避けて頂きたいと願うだけです。

こんばんわ

みなさま、こんばんわ。

なんだか長々と議論が続いてますね。
でも要点は以下の点にあると思います。

>>「グルの意思の判断基準」が個人の判断基準に委ねられている限り、グルの意思の曲解はなくならないと思うのですが、いかがでしょか?
> その時は、既存の法則(ヴァジラ・ヤーナの教義も含む)の範囲内で判断すれば良いと思います。


この「既存の法則の範囲内で判断する」段階で
それぞれの人が、再び好き勝手な法則を持ち出す可能性があるのですから。
結局また同じことの繰り返しです。
答えになっておりません・・・。

そもそもサンディタさんの場合、
サンディタさんによる「グルの意思」の理解が正しいかどうかは、
サンディタさんご自身が、
サンディタさんによる「既存の法則」の理解の範囲内で
判断しているのではないですか?


つまり外にある判断基準なるものは、
実は自分の内側以外の何ものでもないわけです。

だからオウムに限らず、
宗教的な信仰によって、自己の外側に何らかの真実があるとみなす行為は、
盲目であると同時に、精神分裂的と言わざるを得ません。
(というか自己を見失ってる時点で既に分裂なのですが・・・)

それゆえ、グルや教義といった、外側に判断基準を置く行為は、
本質的に間違っているといえます。

我々の外側に何らかの判断基準を保ち続ける限り、
判断という行為は永遠に続いていきます。
判断という行為が永遠に続いていく限り、
自我意識は永遠に消えません。
なぜなら判断=自我意識だからです。
我々が自己を見失い、外側に真実があると見なす限り、
自我と自我との争いは永遠に続きます。


P.S.
白龍さんや河本さんがいいたかったのは
こういうことじゃなかったのですか?

卓越した見解ですね。

こういう議論ができればいいですね。

naさん

すっきりまとめてくださってありがとうございます。
結論としてはそういうことです。

サンディタさんへ

サンディタさん、毎回丁寧な回答ありがとうございます。
回答に対して、また、書き込もうかと思いましたが、
naさんが、まとめとして非常に的確なコメントをされておりますので、
私が、くどくど書く必要もないかと思います。
naさんの
「グルや教義といった、外側に判断基準を置く行為は、
本質的に間違っているといえます。」
という言葉に、私の考えも集約されると考えていただいて結構です。

河本理治さま、naさま

河本理治さま
>失敗した今は団体構成員以外の幸せのためになすべきことを模索するべきではないですか?
 私も本来ならそうすべき筈だと思います。
 でも現在の教団ではその段階に達していない、つまり未だに救済されていない又は救済する力のない人達ばかりになっているのではないでしょうか?

>これって成功事例があったのですか?わたしの印象では失敗しかない印象ですが(破戒力を行使しようとした場合に限っては)
 「力ずくで現象を好転させた」事例は多いと思いますが、「破壊力」を使った事例は私もあまり知りません。

>90年波の村に進出するとき必ず悪化する日時を意図的に選択して入っていますね。
 これは私は初耳です。
 その情報源をお訊きしてもよろしいでしょうか?

>(ほとんど失敗、大成功は強制捜査の成功を呼び込んだ事実だけでしょう)。
 ’95年以降は、ほとんど「強制捜査を成功させるのが目的」としか思えないような指示ばかりでした。

>殺してその人を生き返らした事実は全くなかったのでそれがヴァジラヤーナの条件を満たしていないのは明白でしょう。
>生き返らすことがないなら、その殺した人を高い世界へ誘えることは不能という基準があるので、信者側に高い世界へ誘える能力があると思いこみの妄想があっただけでしょう。
 生き返らせなくても、相手を高い世界に誘う事は可能だと思いますが。
 そうではなくて、それは「生き返らせる能力がなければ、相手を高い世界に誘う事が出来ない」という程度の話だと思われますが。

>どんなヤーナであっても「法」はあくまで手段であって目的ではないものでしょう。目的が団体構成員以外の幸せにあったのであれば、あの逮捕時(とその後現在まで)の状況は演技なの?
 逮捕時の状況は、まさに「強制捜査を成功させる」為にあえて教団施設内に留まっていたとしか思えませんでしたが。


>優れた瞑想者であったでしょうがそうでない普通の人の部分も間違いなくありました。
 それはその通りです。

>ただし真実のものであれば上手に活用できる手段であるでしょうが偽ヴァジラヤーナを使い悪名高くなっている現在は、少なくとも我々はあの種の活用はなすべきでない。
 私はあれは「偽ヴァジラ・ヤーナ」だったとは思いません。
 でもあの様な手法が一切使えない、使うべきでない状況であるという点には同意です。

>よってグルの意思云々は死語にすべきであると思量します。
 それを実践してらっしゃるのが、M派の方々ですね。

>しかしすべての事柄をどのように感受し認識するかは、すべて個々人の内側でなされるもの以外は生じません。
>内心の自由も法的にあることですから、感受し認識するのは個々人の自由な選択に委ねられています。
>その識別が個々人の苦楽を決定する多大な影響力をもっていますから、できれば苦に至る妄想的識別は避けて頂きたいと願うだけです。
 妄想的識別も何も、私の内側の経験は教団が出来る遥か以前から有る物ですので、それを変えたり捨てたりする事は出来ませんね。

naさま
>この「既存の法則の範囲内で判断する」段階で
>それぞれの人が、再び好き勝手な法則を持ち出す可能性があるのですから。
>結局また同じことの繰り返しです。
>答えになっておりません・・・。
 好き勝手な法則を持ち出しているかどうかは、既存の法則全部に照らし合わせれば容易に分かる事なのですが。

>そもそもサンディタさんの場合、
>サンディタさんによる「グルの意思」の理解が正しいかどうかは、
>サンディタさんご自身が、
>サンディタさんによる「既存の法則」の理解の範囲内で
>判断しているのではないですか?
 それは違います。
 「既存の法則で判断すれば」という話は、あくまでも内側の経験が無い人が判断せねばならない時の場合です。

>だからオウムに限らず、
>宗教的な信仰によって、自己の外側に何らかの真実があるとみなす行為は、
>盲目であると同時に、精神分裂的と言わざるを得ません。
>(というか自己を見失ってる時点で既に分裂なのですが・・・)
 宗教的な信仰というのはあくまでも内側の経験から始まると思っていたのですが、違うのでしょうか?

>それゆえ、グルや教義といった、外側に判断基準を置く行為は、
>本質的に間違っているといえます。
 私はグルの経験や教義が自分の内側の体験と一致しているという点を、判断基準にしています。
 内側の経験だけでも「絶対に正しい体験」だという確信が御座いますが、それはあくまでも主観的な物なのでグルや教義といった外側の物でもそれを補完する判断材料としている次第です。
 その他に、外側の現象と照らし合わせて正しいかどうかを判断をする方法も御座います。
 これだと客観的にも真偽を判断出来るかと思います。

>我々の外側に何らかの判断基準を保ち続ける限り、
>判断という行為は永遠に続いていきます。
>判断という行為が永遠に続いていく限り、
>自我意識は永遠に消えません。
>なぜなら判断=自我意識だからです。
>我々が自己を見失い、外側に真実があると見なす限り、
>自我と自我との争いは永遠に続きます。
 頭の弱い私には難しい事はよく分かりませんが、正しく修行を進める限り自我意識は消滅するはずです。
 そう言う意味で言ったら、確かにいつまでも「グルの意思」「グルの意思」と言い続けるだけで自己の内側を見ずに外側に判断基準を設けている限りは、永遠に自我意識の消滅は起きないでしょうね。
 でも本来ならば、正しく「グルの意思」を実践する限り自我意識は消滅していく筈なのですけれども。
 もし自我意識が消滅しないならば、矢張り何処かで間違っていたと言わざるを得ません。

見習いたい

naさん

そう、naさんが要点を分かり易く手短かに表現されている能力に敬意を表します。

>我々の外側に何らかの判断基準を保ち続ける限り、
>判断という行為は永遠に続いていきます。
>判断という行為が永遠に続いていく限り、
>自我意識は永遠に消えません。
>なぜなら判断=自我意識だからです。
>我々が自己を見失い、外側に真実があると見なす限り、
>自我と自我との争いは永遠に続きます。

少し仏教教義との繋がりをもって補足すれば
無明・行・識・名色・・・・・
この縁起の法で苦の生起があると同時に、苦からの解放もだれでも可能とされているのです。

判断というものが識に当てはまることになります。
業=(行・識・名色)
だとすれば、言葉やイメージの表象を、使わなければ、
無明・行・識すら明示できないのです。
言葉やイメージの表象は二元相対のものにすぎません。

従って、無明と明を対置した場合
識=判断=自我意識がある限り、無明からの縁起のただ中であることになります。
しかも無明のすぐ次は潜勢力ですから、それから縁起し、識が生じるとされています。

よって無明を払う覚の状態は少なくとも

表象と識別と潜勢力が、外側の対象だけに真実があるのでも
表象と識別と潜勢力が、内側の認識主体だけに真実があるのでもない

内外が異なるもの・違うもの・敵対するもの・名によって表現されるような区別されるもの
として本来はあるのではないと言うことを体験的に知ることを「覺」と呼んでいるだけでしょう。

覚と不覚、或いは、明と無明は名色に基づく表象以外の何者でもないのです。

我々が自己を見失い、外側に真実があると見なす限り、苦悩は永続することとなるでしょう。

ここでの自己は自我意識・自我執着の存在しない状態の総称として述べられているのでしょう。
覚の体験的感得の手段として五蘊無我があるということでしょう。

グルイズムはこの内外の無明・行・識・名色の迷いを素早く払う手段の一つであるだけであって、目的は自己を覚として体験的な感得に至り皆が幸せを実感することにあるということを、単的にnaさんは、7行の短い言葉で表現して下さいました。見習いたいものです。


サンディタさんへ

私などは、naさんの説明が大変理解しやすかったのですが、サンディタさんは、しっくりこなかったようですね。そこで、また質問をさせていただくことにします。

前回の回答で、
>本来のヴァジラ・ヤーナでは「外側の現象を動かす」事を目的とした場合、「けっして失敗するような方法は取らない」という鉄則があります。

とおっしゃっていました。これは、何か仏典に載っているのでしょうか?それとも、尊師の説法によるものですか?何に記載されているか教えていただければありがたいです。

 >しかし、「地下鉄サリン事件の前後では失敗を目的としているような指示しか出ませんでした。

とするならば、弟子に失敗させることが「グルの意思」であった可能性もあるのではありませんか?失敗を通して、弟子を成長させることこそが目的だったのではないですか?

> 確かに「強制捜査を成功させ、世論を反オウムにし、教団を逆境に追い込む」あるいは「弟子のカルマ落とし」という目的においては大成功でしたけど。

ですよね。とするならば、弟子を成長させるために与えたマハームドラーであったわけですから、まさにこれこそ「グルの意思」であったのではないでしょうか?

> しかしその上記の目的自体が、当初の「力によって世の中を変えて、真理を広める」というヴァジラ・ヤーナ本来の目的から完全に外れた物だった訳です。

尊師は最初からそんなことを目指していなかったのかもしれませんよ。この世の中は、とてつもない大きな力で動かされているわけですから、一教団の力程度で世界を動かせるようなものではないということを、尊師自身がよく理解していたはずです。この言葉は、弟子を、一つの流れに引き込むための布石であったのかもしれません。

尊師は、歌や説法の中で、弟子の救済のために降りてきたと言っているではありませんか。ようは、弟子を一人前の救済者にするために降りてきたのです。数々の事件を起こしたのは、弟子にマハームドラーをかけ、一人歩きできる、一人前の修行者にするためです。

サンディタさんが、失敗だと捉えているのは、今生しか見ておらず、長い輪廻の救済を考えていないから出てくる発言であって、長い輪廻の中で、多くの救済者を輩出することこそが、衆生救済の実現のためには必要なのです。よって、今生のこの事件は、多くの衆生とグルとの逆縁が深まっただけでなく、試練を与えたことで弟子のステージが飛躍的に引き上がったという二つの目的において成功を収めたことになるのです。よって、ヴァジラヤーナの救済である、諸々の事件は、失敗ではなく成功なのです。だいたい、マイトレーヤ菩薩が失敗するようなことをするわけがありません。違いますか?

というような見解を持つ、正大師や正悟師が仮に3人いたとしましょう。彼らは、アストラルでもグルからそのことに関して、三人とも同様の示唆を受けていたとしたら、この見解が、グルの意思ということになりませんか?

↑ ↑ ↑
こちらにありますので、できたら回答お願いします。

白龍さま

白龍さま
>とおっしゃっていました。これは、何か仏典に載っているのでしょうか?
>それとも、尊師の説法によるものですか?何に記載されているか教えていただければありがたいです。
 事件前に上長(成就者)から聞いた話ですが、いつ説法されたのかは存じません。
 私が過去世で与えられたデータと一致するので、紹介しました。
 ところで教義の真偽を客観的に知るために出典を求めるのは通常行われる事ですが、ヴァジラ・ヤーナを理解するためにはそういう「スートラ乗」的な思考には限界があると思います。

>とするならば、弟子に失敗させることが「グルの意思」であった可能性もあるのではありませんか?
>失敗を通して、弟子を成長させることこそが目的だったのではないですか?
 ですから私はその可能性を否定していませんし、事実そう言う部分もあったと申しています。
 事実、ミラレパ正大師などは事件後でも大きく成長されました。
 でも事件自体は本来の「グルの意思」とは違うのではないかというのが、私の意見です。 
 そもそも「グルの意思」は各人各様に与えられる物であり、特にヴァジラ・ヤーナに於いては各々で「グルの意思」が異なったとしても当然といえば当然なのです。
 ですから私は「グルの意思という言葉も曖昧な表現でしたね」、と過去レスで申した次第です。

>ですよね。とするならば、弟子を成長させるために与えたマハームドラーであったわけですから、まさにこれこそ「グルの意思」であったのではないでしょうか?
 私が申しているのは、教団武装化のそもそもの目的である「政権奪取」が地下鉄サリン事件当時には既に失われてしまっていたという事です。
 つまり一連の事件は「弟子を成長させるために与えたマハームドラー」という意味合いしか残っていなかったという事です。
 それは確かにグルの意思だったでしょうけれども、果たして本来の「グルの意思」だったかどうか?という事です。
 最初の最初から大失敗を目的にして教団を武装化したので有れば、それは「弟子を成長させるために与えたマハームドラー」では有っても「武力で世の中を変える」という本来の意味でのヴァジラ・ヤーナではないという事です。
 たとえ(当初から成功させる気がない)が「グルの意思」であったとしてもそれは本来のヴァジラ・ヤーナでは有りませんし、本当にグルが本来のヴァジラ・ヤーナを実践する気が全くなかったかどうかは、また別問題だと思います。
 何故なら、世紀末に現れる救済者の役割の一つとして「本来のヴァジラ・ヤーナの道」も存在するからです。

>尊師は最初からそんなことを目指していなかったのかもしれませんよ。この世の中は、とてつもない大きな力で動かされているわけですから、一教団の力程度で世界を動かせるようなものではないということを、尊師自身がよく理解していたはずです。
>この言葉は、弟子を、一つの流れに引き込むための布石であったのかもしれません。
 数々の予言書にもある通り、末世に現れる救済者が真理を実践する集団の一群を率いて乱れた世界に戦いを挑んで勝利するという道(選択肢)が有ります。
 現実問題としては、オウムの信徒が数十万人以上に増え、何らかの手段で政権を奪取出来ていたらそれも可能でした。
 実際には我々の力がまるで足りずに全く達成出来ませんでしたが、それを最初から不可能だと考えていたとすると尊師は予言されていた救済者では無かたっという事になってしまいます。
 A派の師からも、全く同じ現実論を聞きました。
 でも、それは予言という物を全く理解していない人達の見解だと思います。
 まあ’97年や’99年のハルマゲドン説を信じて自分達だけが救われるべく右往左往するようなレベルの低い人達ですから、仕方が無いのかもしれませんが。 
 
>尊師は、歌や説法の中で、弟子の救済のために降りてきたと言っているではありませんか。ようは、弟子を一人前の救済者にするために降りてきたのです。
>数々の事件を起こしたのは、弟子にマハームドラーをかけ、一人歩きできる、一人前の修行者にするためです。
 それはその通りです。
 尊師の指示は、全て弟子の成長のために出されました。
 でも、それらは本来のヴァジラ・ヤーナの道では無かったと申している次第です。
 大いなるマハー・ムドラーの道ではありましたけれども。
 
>サンディタさんが、失敗だと捉えているのは、今生しか見ておらず、長い輪廻の救済を考えていないから出てくる発言であって、長い輪廻の中で、多くの救済者を輩出することこそが、衆生救済の実現のためには必要なのです。
>よって、今生のこの事件は、多くの衆生とグルとの逆縁が深まっただけでなく、試練を与えたことで弟子のステージが飛躍的に引き上がったという二つの目的において成功を収めたことになるのです。
>よって、ヴァジラヤーナの救済である、諸々の事件は、失敗ではなく成功なのです。だいたい、マイトレーヤ菩薩が失敗するようなことをするわけがありません。違いますか?
 幾らマイトレーヤが偉大であっても、我々弟子のレベルが目も当てられないほど低いのですから、救済が失敗しても仕方がありません。
 もちろん、上記の「多くの魂に逆縁を付ける」という意味での救済は一応成功しました。
 「逆境を与えて弟子のステージを上げる」という方は、一部しか成功しませんでした。(これは弟子のステージが低いために失敗例が続出したのです)
 でも、それらは本来のヴァジラ・ヤーナの実践ではなかったという事です。

>というような見解を持つ、正大師や正悟師が仮に3人いたとしましょう。彼らは、アストラルでもグルからそのことに関して、三人とも同様の示唆を受けていたとしたら、この見解が、グルの意思ということになりませんか?
 正大師や正悟師が何人居て何を言おうとも、ヴァジラ・ヤーナはグルと弟子との一対一の関係が全てなので、一切関係有りません。
 白龍氏は、未だ旧教団の権威主義的な考え方が抜けていないように見受けられますね。

 「少しでも霊性の高い者に帰依をする」がヴァジラ・ヤーナです。
 尊師とその正大師や正悟師方とではどちらが霊性が高いのでしょうか?
 また尊師とシヴァ大神とでは、どちらが霊性が高いのでしょうか?

サンディタさんへ質問

どうも、白龍です。
大変丁寧な回答をありがとうございます。今まで、「グルの意思」やヴァジラヤーナについて、詳しく語ってくれる人がいなかったものですから、サンディタさんの回答には、大変感謝しておりますし、また、大変興味深く感じてもおります。

>そもそも「グルの意思」は各人各様に与えられる物であり、特にヴァジラ・ヤーナに於いては各々で「グルの意思」が異なったとしても当然といえば当然なのです。

そうしますと、教祖が発した言葉に対して、各自がそれぞれに「グルの意思」を判断して良いのだという事ですね。100人いれば、100通りの「グルの意思」が存在してもおかしくないということですか?

私は今まで、「グルの意思」というのは、ある統一した一つの見解に集約されるものだとばかり思っていましたが、そうではないということですね?だとすると、「グルの意思」を掲げて、好き勝手な行動をする方達がいたとしても、各自の考える「グルの意思」を実践しているだけであるということで説明がつきます。

これは、サンディタさんだけの見解ですか?それとも、ほとんどのサマナの方々も、このように捉えているのでしょうか?

>たとえ(当初から成功させる気がない)が「グルの意思」であったとしてもそれは本来のヴァジラ・ヤーナでは有りませんし、本当にグルが本来のヴァジラ・ヤーナを実践する気が全くなかったかどうかは、また別問題だと思います。

>何故なら、世紀末に現れる救済者の役割の一つとして「本来のヴァジラ・ヤーナの道」も存在するからです。

サンディタさんは、「本来のヴァジラヤーナの道」は、「力によって世の中を変えて、真理を広める」というものだとおっしゃっていました。今回の事件では、この「力によって世の中を変えて、真理を広める」という点と、『「外側の現象を動かす」事を目的とした場合、「けっして失敗するような方法は取らない」という鉄則』に基づいて、明らかに「本来のヴァジラヤーナの道」から外れているのだというのが、サンディタさんの主張でした。

そこで質問なのですが、では、例えば、信者が数十万人、あるいは数百万人規模でおり、社会の各方面に信者がいたとします。政府内部にも、軍関係にも信者がいたとして、武力を使っても、明らかに失敗せずに、国家転覆が可能であるとした場合は、サリンを撒けと言われたら、その時には実行するのでしょうか?

すなわち、「力によって世の中を変えて、真理を広める」という「本来のヴァジラヤーナ」に基づき、「けっして失敗するような方法は取らない」という条件もクリアできるとした場合において、サリンを撒くように指示があれば実行するのでしょうか?という質問です。ご回答いただければありがたいです。

白龍さま

白龍さま
>そうしますと、教祖が発した言葉に対して、各自がそれぞれに「グルの意思」を判断して良いのだという事ですね。
>100人いれば、100通りの「グルの意思」が存在してもおかしくないということですか?
 そうでは無く、グルから複数の弟子達に与えられる共通の意思も有れば、個々に与えられる細かな意思も有るという事です。
 つまり「全ての弟子達の成長」は全ての弟子に与えられている共通の「グルの意思」ですが、それを達成する迄の道のりは個々の弟子達のカルマがそれぞれ異なる以上当然違う訳で、その時点に於いては個々の弟子達に与えられる「グルの意思」が異なって来るという事です。
 特にヴァジラ・ヤーナに於いてはグルと弟子のと一対一の関係が重要視されますので、各々の弟子達にそれぞれ違った「グルの意思」が与えられることが良くある訳です。
 例えばある弟子には「罪を犯したら出頭しろ」という指示を出し、他の弟子には「最後まで逃げ続けろ」という全く異なった指示を出す事も有る次第です。
 「ことヴァジラ・ヤーナに於いては『グルの意思』は各人各様に与えられる物である」というのは、そういう事です。

>私は今まで、「グルの意思」というのは、ある統一した一つの見解に集約されるものだとばかり思っていましたが、そうではないということですね?
 もちろん、弟子の集団全体に与えられる「グルの意思」という物も当然御座います。
 例えばワークなどで「○○班は~~をしろ!」などがそれですね。

>だとすると、「グルの意思」を掲げて、好き勝手な行動をする方達がいたとしても、各自の考える「グルの意思」を実践しているだけであるということで説明がつきます。
 グルから与えられた「意思」を弟子が判断する訳ですが、その際には当然自分のエゴでは無く自分の中にある「真理の法則」を元にして

「グルの意思とは何か?」を考えて判断する事になります。
 その際に自身の貪・瞋・痴にまみれたエゴを交えてしまうと、結果的にグルの意思から大きく外れて大悪業になってしまう次第です。
 逆に自分の培って来たエゴを捨てて法則に則って判断し、グルの意思する所を理解し実践するなら、大きな善業となる次第です。

 この「法則に則って考える」という点が重要で、ヒナ・ヤーナ。マハー・ヤーナでは否定されている事でもタントラ・ヤーナ、ヴァジラ・ヤーナの法則では肯定されているという事もありますので、その点は十分に注意が必要です。
 「結果のためには何をしても許される」とされているヴァジラ・ヤーナですら、「不慳貪・不瞋恚・不邪見」の三つの心の戒律だけはいついかなる場合でも墨守する事が求められています。
 そういう意味で言うと、教団の中には「グルの意思」「グルの意思」と言いながら結局自分達の貪・瞋・痴を満足させているだけの方々が多くいらっしゃるように見受けられますね。
 少なくとも、四無量心を実践せず他を嫌悪し蔑んで排斥したりするような行為は、絶対に「グルの意思」ではないと断言出来ます。
 また救済者の本分を忘れて怪しげな予言解釈で不安を煽り、信徒を捨てて自分達だけが避難して助かろうとしていた人達も、同様にグルの意思から大きく外れてしまった人達だと思います。

>これは、サンディタさんだけの見解ですか?それとも、ほとんどのサマナの方々も、このように捉えているのでしょうか?
 それは個々のサマナの内側の話ですので、さすがに私も詳しい事は存じません。
 ただ教団内ではグルの出した指示を「グルの意思」だと言う時が多かったですね。
 その場合には部署ごとに共通の指示である場合が多いので、「グルの意思」は(その部署内では)共通の物と認識する事が多かったように記憶しています。
 それ故に、「グルの意思」とは「ある統一した一つの見解」だと誤解する人も生じてしまったのかもしれません。
 実際にはグルは弟子達の救済のために個々のカルマやその場その場の状況に応じて様々な指示を出しますから、その都度微妙に異なった「グルの意思」が存在しても当然な訳です。 

 問題は現在のように身近にグルが存在しない時に「グルの意思」をどう考えるかですが、それは個々がその場その場の状況に応じて自分自身の内側の法則に則り判断するしかない、という事になります。
 もちろんアストラルやコーザルでグルと繋がっている人は、そのグルとのパイプを利用して「グルの意思とは何か?」を判断する事となります。 
 私の知る限り、A派はA派で「自分達はグルの意思を実践している」と思い込んでいるようですし、M派はM派で同様に(表には出しませんが)「自分達はグルの意思を実践している」と認識して活動しているようです。
 でも本当に「グルの意思」を実践出来ているかどうかは、実際にその人達が真理を実践をして上向し他を救済出来ているかどうかによると思います。

>そこで質問なのですが、では、例えば、信者が数十万人、あるいは数百万人規模でおり、社会の各方面に信者がいたとします。
>政府内部にも、軍関係にも信者がいたとして、武力を使っても、明らかに失敗せずに、国家転覆が可能であるとした場合は、サリンを撒けと言われたら、その時には実行するのでしょうか?
>すなわち、「力によって世の中を変えて、真理を広める」という「本来のヴァジラヤーナ」に基づき、「けっして失敗するような方法は取らない」という条件もクリアできるとした場合において、サリンを撒くように指示があれば実行するのでしょうか?という質問です。
>ご回答いただければありがたいです。
 サリンの散布自体は、あくまでも生物戦に於ける軍事行動の一つと認識しています。
 従って国家転覆が目的ならば、決して地方の裁判官宅や首都の地下鉄などには撒きません。
 軍事行動として必要な場合にのみ、敵軍の無力化のために散布する事となると思います。

 ただし実際には現在の状況から言って今生では「政権を奪い、真理に基づいた国家運営をする」事は既に不可能で有ると判断しているので、あえてこの様な「本来のヴァジラ・ヤーナ」の話を此処で披露している次第です。
 また「力で奪った政権は、(カルマの法則に従って)同様に力によって奪い取られる」という法則も御座いますので、私自身、この「力による政権奪取」を絶対視している訳でも御座いません。
 あくまでも「救済が最も成功した時の、選択肢の一つ」であったという認識です。
 もちろん予言通り日本が真理の国家となり、救済者の率いる軍勢が世界中の悪の勢力を次々と打ち破って地球全体を真理で覆う事が出来たなら、最も良かったのですけれども。

サンディタさんへの返信

 サンディタさん、毎回の丁寧なご回答ありがとうございます。

>>そうしますと、教祖が発した言葉に対して、各自がそれぞれに「グルの意思」を判断して良いのだという事ですね。
>>100人いれば、100通りの「グルの意思」が存在してもおかしくないということですか?

> そうでは無く、グルから複数の弟子達に与えられる共通の意思も有れば、個々に与えられる細かな意思も有るという事です。
> つまり「全ての弟子達の成長」は全ての弟子に与えられている共通の「グルの意思」ですが、それを達成する迄の道のりは個々の弟子達のカルマがそれぞれ異なる以上当然違う訳で、その時点に於いては個々の弟子達に与えられる「グルの意思」が異なって来るという事です。

 ということは、漠とした共通の大きな「グルの意思」があって、その他に、個々に与えられた「グルの意思」というものがあるということですよね。そして、個々に与えられた「グルの意思」は、各自が、それぞれの体験や、教義によって判断するということでよろしいですね。そうしますと、やはり、個々人に与えられた「グルの意思」が、各自の判断に委ねられている以上は、100人いれば、100通りの「グルの意思」が出てくることになりますよ。

>>だとすると、「グルの意思」を掲げて、好き勝手な行動をする方達がいたとしても、各自の考える「グルの意思」を実践しているだけであるということで説明がつきます。

> グルから与えられた「意思」を弟子が判断する訳ですが、その際には当然自分のエゴでは無く自分の中にある「真理の法則」を元にして
>「グルの意思とは何か?」を考えて判断する事になります。

 いえいえ、その真理のデータを選択するのが自分である以上、そこにはエゴが存在します。

> そういう意味で言うと、教団の中には「グルの意思」「グルの意思」と言いながら結局自分達の貪・瞋・痴を満足させているだけの方々が多くいらっしゃるように見受けられますね。

 それはなぜかというと、選択・判断という行為そのものがエゴの介在する行為だからです。

> 私の知る限り、A派はA派で「自分達はグルの意思を実践している」と思い込んでいるようですし、M派はM派で同様に(表には出しませんが)「自分達はグルの意思を実践している」と認識して活動しているようです。

 これもまさに、個々人が個々人のエゴによって、「グルの意思」を判断しているからに他なりません。

 ですから、「グルの意思」を判断するという作業を繰り返した場合、
「グルの意思」を判断している主体は、自分自身ですから、いつまでたっても、自我意識が消滅することはありません。

 別な言い方をすると、二元の言語、思考というツールを使って、「グルの意思」を判断するわけですから、二元の世界から離れることが出来ません。当然一元に到達することは出来ないということになります。
一元に到達できないということは、解脱に至らないということです。

 ここが、「グルの意思」を、絶対のものと捉えている方達の限界ではないかと考えます。

>>すなわち、「力によって世の中を変えて、真理を広める」という「本来のヴァジラヤーナ」に基づき、「けっして失敗するような方法は取らない」という条件もクリアできるとした場合において、サリンを撒くように指示があれば実行するのでしょうか?という質問です。
>>ご回答いただければありがたいです。
 サリンの散布自体は、あくまでも生物戦に於ける軍事行動の一つと認識しています。
 >従って国家転覆が目的ならば、決して地方の裁判官宅や首都の地下鉄などには撒きません。
 >軍事行動として必要な場合にのみ、敵軍の無力化のために散布する事となると思います。

 なるほど、条件が整えば、指示によって、軍事的な力による行動も採り得るということですね。
 これを言うと、アーレフ本体の人達が顔を青くするのではないですか。(笑)

> あくまでも「救済が最も成功した時の、選択肢の一つ」であったという認識です。
 もちろん予言通り日本が真理の国家となり、救済者の率いる軍勢が世界中の悪の勢力を次々と打ち破って地球全体を真理で覆う事が出来たなら、最も良かったのですけれども。

 現在では、そのような考えは、ほとんど妄想の産物ということにされてしまいました。
しかし、かつての教団の人達の潜在意識にはそのようなデータが、色濃くあったのかもしれませんね。

 VT正悟師のブログをお借りして、サンディタさんと大変楽しいやり取りをさせていただきました。ブログ冒頭には、いつのまにか「ヴァジラヤーナ屁理屈掲示板でも作ろうかと検討中(爆」などという一文が加わってしまいましたが(笑)、このような場を提供していただいたVT正悟師に感謝申し上げますとともに、相手をしていただいた、サンディタさんにもお礼を申し上げます。ありがとうございました。一応この件に関しては、ここで区切りとさせていただきます。

サンディタさま

すでに時間と記事の追加により後続ページになっています。

それでも聞いておきたいと思うので質問します。

> その際に自身の貪・瞋・痴にまみれたエゴを交えてしまうと、結果的にグルの意思から大きく外れて大悪業になってしまう次第です。
>  逆に自分の培って来たエゴを捨てて法則に則って判断し、グルの意思する所を理解し実践するなら、大きな善業となる次第です。

>  この「法則に則って考える」という点が重要で、ヒナ・ヤーナ。マハー・ヤーナでは否定されている事でもタントラ・ヤーナ、ヴァジラ・ヤーナの法則では肯定されているという事もありますので、その点は十分に注意が必要です。

>  「結果のためには何をしても許される」とされているヴァジラ・ヤーナですら、「不慳貪・不瞋恚・不邪見」の三つの心の戒律だけはいついかなる場合でも墨守する事が求められています。
>  そういう意味で言うと、教団の中には「グルの意思」「グルの意思」と言いながら結局自分達の貪・瞋・痴を満足させているだけの方々が多くいらっしゃるように見受けられますね。

>  少なくとも、四無量心を実践せず他を嫌悪し蔑んで排斥したりするような行為は、絶対に「グルの意思」ではないと断言出来ます。
>  また救済者の本分を忘れて怪しげな予言解釈で不安を煽り、信徒を捨てて自分達だけが避難して助かろうとしていた人達も、同様にグルの意思から大きく外れてしまった人達だと思います。

とても素晴らしい解説だと思います。
ただ一つよくわかりません。

弁護士を殺し、弟子を殺し、他の教団の教祖の殺害計画を行ない、他の多くの人を殺したり傷つけたのは、純粋な四無量心の発露だと見なせるのですか?本当に慈悲殺人になるのですか?

サリンなんてものを、まく場所そのものが、そこで被害に遭われる人に対して、慈悲があったと口が腐って裂けても、言えないでしょう。
言えるのですか???

松本氏のエゴ殺人以外の何ものでもないのではないですか?

その指示者の転生先を操作できる能力を信じるのは自由ですが、その客観的証明は不能ですね。被害者のひとりひとりが別の条件下で亡くなられたのと、現実に松本氏の指示で殺害されたのを比較して、その方が高い世界へ誘われたのだと比較確認はまったく不可能です。

一億歩譲って、その殺害相手のすべての転生先を高いところへ誘えたとしても、弟子でもないのに、まったくわけの判らない理由で殺されてしまい高い世界へ誘われたとして、それが本当に純粋にその被害者に対して四無量心の発露になるという論理的根拠を教えていただきたい。

また、かつての教団によってなされた殺害あるいは傷つけた行為がすべて、松本氏の不慳貪・不瞋恚・不邪見による行為だったと言えますか?

単に松本氏にとって真理の団体だから、それに対しての邪魔者を力によって排除しようとする瞋恚に基づくだけではないのですか?

或いは真理を実践するものに仇なすものにまったく邪魔者の意識、排除意識がなくて、弁護士を殺害したのでしょうか?

救済者の本分とは自分以外の人の苦悩からの解放に尽力することでしょう。苦悩からの解放の為に苦悩を与えても善いのは、苦悩からの解放されるために今の苦を甘んじて受け入れるべきであることが理解できているものにしか、まったく意味を待たないでしょう。

再度書きます。とても素晴らしい解説だと思います。

しかしここで、あえて「グルの意思」と表現する必要性は全くなく、ダルマに素直に従えば当たり前のことですね。

力を使う場合、それは勝って官軍、負ければ賊軍です。
事実は仮に高邁な理想があったとしても現実は計画は完全に失敗したのが事実です。
現実は素直に受け入れるべきです。

そして官軍になっていないことも素直に受け入れるべきでしょう。勝っていたら、成功していたらというのはもうないのです。
力は二度と行使してはならないのです。
その計画はもはや二度と選択できないのです。

現実を正しく素直に受け入れ、もって、今なおできる他人の苦悩からの解放の為に、できるかぎりの現実的実践をおこなうことに真剣に取り組むべきではないでしょうか?


白龍さま

白龍さま
>ということは、漠とした共通の大きな「グルの意思」があって、その他に、個々に与えられた「グルの意思」というものがあるということですよね。
 漠とした物も有れば、明確に示された物も御座います。

>そして、個々に与えられた「グルの意思」は、各自が、それぞれの体験や、教義によって判断するということでよろしいですね。
 それも少し違います。

>そうしますと、やはり、個々人に与えられた「グルの意思」が、各自の判断に委ねられている以上は、100人いれば、100通りの「グルの意思」が出てくることになりますよ。
 それは白龍さんの大きな勘違いです。
 そもそも「グルの意思」とはグルが弟子に指し示す物であって、各弟子が未だ煩悩にまみれた思考によって解釈し創り出す物ではありません。
 私が「判断」と言ったのは、あくまでも「法則に則ってその深い意味を理解する」という意味であって、白龍さんの言うような「己のエゴによって自分に都合良く解釈する」という意味では御座いません。
 法則が一つである以上、「グルの意思」が一つならば一通りの解釈しか無い筈ですが。

>いえいえ、その真理のデータを選択するのが自分である以上、そこにはエゴが存在します。
 自我意識を超越した意識状態で法則により判断するならば、そこにはエゴは存在しません。
 もし白龍さんの言う通りだと、如何なる修行・如何なる真理の実践であれ自分自身が行うものであるからにはそれは白龍さんの表現では「自己の判断によって行われる物」になってしまい、どの様な修行をしても永遠に自我意識を越えられない事になりますよ。
 しかしそれは解脱を説く仏教・ヨーガその物の否定に他なりません。
 例えばミラレーパは最終的に師であるマルパから離れた所で独居修行して大いなる達成を得ましたが、白龍さんの理屈だと彼もまた自分の判断で修行をし続けている訳だからそこにはエゴが存在し続けて結局「自我意識を越えられなかった」という事になってしまいますね。
 これはミラレーパだけでなく、サキャ神賢などの他の成就者も同様にそう言わざるを得なくなる次第です。
 そしてそれは「エゴのない意識状態」の存在を否定する所から生じる誤謬だと思います。

>それはなぜかというと、選択・判断という行為そのものがエゴの介在する行為だからです。
 我々が為すべき道の選択は、グルが行います。
 我々が為すべき事の選択も、グルが行います。
 そこにエゴが介在する余地は御座いません。
 我々が「グルの意思」を判断(=認識、理解)したとしても、それが法則に則った正しい判断(=認識、理解)であるかそれともエゴに基づく間違った判断(=認識、理解)であるかは、やはりグルが判断してそれ相応に対処します。
 先に話した「グルが存在しない時の場合」は、非常に得意で希な例ですね。

>これもまさに、個々人が個々人のエゴによって、「グルの意思」を判断しているからに他なりません。
 それはその人達の内側に真理の法則や「グルの意思」が存在しないという事に過ぎません。
 
>ですから、「グルの意思」を判断するという作業を繰り返した場合、
>「グルの意思」を判断している主体は、自分自身ですから、いつまでたっても、自我意識が消滅することはありません。
 正しく「グルの意思」を理解し実践し続けるならば、自我意識は消滅(或いは超越)していきます。
 そもそも「グルの意思」の実践は、エゴによって構成された自我意識の拡大とは全く逆方向の物だからです。
 そして「グルの意思」を理解し実践する事を通じて、我々は自我意識を超越し高い世界に到ったり解脱・悟りを得たりする次第です。
 でなければ、わざわざ苦しい思いをして「グルの意思」を実践する意味が御座いません。
 
>別な言い方をすると、二元の言語、思考というツールを使って、「グルの意思」を判断するわけですから、二元の世界から離れることが出来ません。
>当然一元に到達することは出来ないということになります。
>一元に到達できないということは、解脱に至らないということです。
 正しく「グルの意思」を理解し実践する限り必ず一元の世界に向かいますので、その心配は御座いません。
 未だ煩悩にまみれた思考で「一元だ二元だ」と頭だけで考えても、法則の真実を理解する事は出来ませんよ。
 そう言う意味では、白龍さんは結局自分自身の識別(=判断、認識)を越えられ無かったように見受けられますが、いかがな物でしょうか?

>ここが、「グルの意思」を、絶対のものと捉えている方達の限界ではないかと考えます。
 「グルの意思」は、あくまでも我々を最終地点に至らしめるための物です。
 絶対の物として崇拝する対象では御座いません。

>なるほど、条件が整えば、指示によって、軍事的な力による行動も採り得るということですね。
>これを言うと、アーレフ本体の人達が顔を青くするのではないですか。(笑)
 教団の人達はヴァジラ・ヤーナの教義を否定しておりますので、一切関係無いと思います。
 (確かグルが獄中から出した指示では、ヴァジラ・ヤーナの「否定」ではなくて「封印」だけだったはずなのですがね)

>現在では、そのような考えは、ほとんど妄想の産物ということにされてしまいました。
>しかし、かつての教団の人達の潜在意識にはそのようなデータが、色濃くあったのかもしれませんね。
 「本来のヴァジラ・ヤーナの道」を明確に認識している人はほとんど居なかったと思います。

>VT正悟師のブログをお借りして、サンディタさんと大変楽しいやり取りをさせていただきました。
 少しでもヴァジラ・ヤーナに対する理解を広め誤解を解こうと勤めましたが、残念ながら私の力が足りずに果たせなかったようです。

>ブログ冒頭には、いつのまにか「ヴァジラヤーナ屁理屈掲示板でも作ろうかと検討中(爆」などという一文が加わってしまいましたが(笑)、
 きっと彼にとっては、ヴァジラ・ヤーナの議論は「屁理屈」であり「爆笑」の対象なのでしょうね。
 真理を理解し実践出来なかった人の愚かさに対し、深い哀れみを感じます。

>このような場を提供していただいたVT正悟師に感謝申し上げますとともに、相手をしていただいた、サンディタさんにもお礼を申し上げます。
>ありがとうございました。一応この件に関しては、ここで区切りとさせていただきます。
 図らずしもこの様な議論が長々と続いてしまいましたが、これは私や白龍さん、naさん、河本さんなどの法則を求める心が共鳴し有った結果だと思います。
 もしこのblogの管理人がこういう法則に関する議論を単に笑いの対象と捉えて茶化すことしか出来ないのならば、このblogは再び非難・中傷を垂れ流し、いい加減な流言飛語の飛び交うだけの芥溜めのような場所となるでしょうね。

サンディタさん、遅ればせながら
今回は色々とありがとうございました。

私はサンディタさんとは意見が違いますが、
話し合える機会があったというだけでもよかったなあと思います。

野田さんの冗談は、案外彼のひがみも含まれているのかもしれませんよ?
なにせ自分のいないところで一番盛り上がっているのですから。
ブログの管理人としてはちょっと複雑なものがあるでしょう。(笑)

ただ、彼の冗談をより肯定的にとらえてみてみますと。
やっぱり今回のここでのやり取りは、
まだまだ理論偏重な部分があったのではないか?という気もいたします。

そもそもここでのやりとりを読んだ人が、
果たしてヴァジラヤーナのことをちゃんと理解できるだろうか?と考えても、
「うーんどうだろうなあ・・・」というのがホンネではないでしょうか。

まあ、これについては野田さんから提出された
「今後の課題」という風にしておきましょう。


追記)
サンディタさんはいま財施部なのですか?
それともCBI(まだ存在するのかな・・・)なのですか?
ちなみにわたしは昔CBIにいました。
サンディタさんともワークしたことあります(笑)
あと、A派副代表の萩原さんにもお世話になりました。

以上、遅ればせながら簡単な自己紹介でした。m( )m

面白そうなので反論

>ということは、漠とした共通の大きな「グルの意思」があって、その他に、個々に与えられた「グルの意思」というものがあるということですよね。
 漠とした物も有れば、明確に示された物も御座います。

それは誰が判断しますか?

>そして、個々に与えられた「グルの意思」は、各自が、それぞれの体験や、教義によって判断するということでよろしいですね。
 それも少し違います。

上の俺の質問と趣旨が同じ質問がされていますね。
誰がその「グルの意志」とやらを判断するのですか?どのように解釈するのですか?



>そうしますと、やはり、個々人に与えられた「グルの意思」が、各自の判断に委ねられている以上は、100人いれば、100通りの「グルの意思」が出てくることになりますよ。
 それは白龍さんの大きな勘違いです。
 そもそも「グルの意思」とはグルが弟子に指し示す物であって、各弟子が未だ煩悩にまみれた思考によって解釈し創り出す物ではありません。

それはサンディタさんの大きな勘違いです。
それではグルは弟子に「何も考えるな!ロボットの如く与えられた意思(プログラム)をこなせ!」と言っていることになり、各自の判断という思考の放棄と自分の判断の中に潜むカルマやサンスカーラの傾向を自己認識するという機会をグル自体が奪い取るという本末転倒的なこうとになってしまいます。これではマハームドラーもなにもあったものではありません。


>私が「判断」と言ったのは、あくまでも「法則に則ってその深い意味を理解する」という意味であって、白龍さんの言うような「己のエゴによって自分に都合良く解釈する」という意味では御座いません。

その法則とやらが正しいという保証はどこに?


>法則が一つである以上、「グルの意思」が一つならば一通りの解釈しか無い筈ですが。

その法則が一つである保証は?
グルの意志が正しい保証は?
グルが正しい保証は?


>いえいえ、その真理のデータを選択するのが自分である以上、そこにはエゴが存在します。
 自我意識を超越した意識状態で法則により判断するならば、そこにはエゴは存在しません。

弟子は自我意識を超越していません。
その中で判断しているのだからエゴは存在しています。


>もし白龍さんの言う通りだと、如何なる修行・如何なる真理の実践であれ自分自身が行うものであるからにはそれは白龍さんの表現では「自己の判断によって行われる物」になってしまい、どの様な修行をしても永遠に自我意識を越えられない事になりますよ。

いいえ。
自我意識があるから自我意識を超えられるのです。
その方法こそ真のヨーガでは説いているのであって、それが理解できていないのはあなた方の方法に問題がある証拠です。


しかしそれは解脱を説く仏教・ヨーガその物の否定に他なりません。

いいえ。
否定になりません。
逆に肯定になります。
オウムの教義の否定にはなります。
自己の認識、深い認識、気付き無くして、ヨーガも仏教も成立はしないから。
あなた方の方法論では単に石が座っているのに他ならない。
瞑想ではない。石がそこにあるだけでしかない。
瞑想は、修行とは石になることではない。


>例えばミラレーパは最終的に師であるマルパから離れた所で独居修行して大いなる達成を得ましたが、白龍さんの理屈だと彼もまた自分の判断で修行をし続けている訳だからそこにはエゴが存在し続けて結局「自我意識を越えられなかった」という事になってしまいますね。

大きな勘違いです。
ミラレパは悩んだ。
とても悩んだ。
その中で自分の内側に自ら入って行き、己を理解し、気付き、解脱しました。
マルパは彼に「グルの意志に従え。己の思考を捨てよ」とは言いませんでした。



>これはミラレーパだけでなく、サキャ神賢などの他の成就者も同様にそう言わざるを得なくなる次第です。


上記と同じように釈迦牟尼もまた己の内側に己自身で入って行き、気付き、理解し、決して思考の放棄を行った訳ではありません。


>そしてそれは「エゴのない意識状態」の存在を否定する所から生じる誤謬だと思います。

あなたはこの文面からしてもマインドというものの機能を理解していないように思います。

>それはなぜかというと、選択・判断という行為そのものがエゴの介在する行為だからです。
 我々が為すべき道の選択は、グルが行います。
 我々が為すべき事の選択も、グルが行います。
 そこにエゴが介在する余地は御座いません。

それは外部に頼ることで内部の探求では無く、思考放棄であって、自己灯明という釈迦牟尼の教えからも外れた邪見解です。

そして再度問います。

そのグルの判断が正しいという保証はどこに?
グルが解脱しているという保証はどこに?


>我々が「グルの意思」を判断(=認識、理解)したとしても、それが法則に則った正しい判断(=認識、理解)であるかそれともエゴに基づく間違った判断(=認識、理解)であるかは、やはりグルが判断してそれ相応に対処します。
 先に話した「グルが存在しない時の場合」は、非常に得意で希な例ですね。

上記の文を繰り返します。

それは外部に頼ることで内部の探求では無く、思考放棄であって、自己灯明という釈迦牟尼の教えからも外れた邪見解です。

そして三度問います。

そのグルの判断が正しいという保証はどこに?
グルが解脱しているという保証はどこに?






>これもまさに、個々人が個々人のエゴによって、「グルの意思」を判断しているからに他なりません。
 それはその人達の内側に真理の法則や「グルの意思」が存在しないという事に過ぎません。

それが真理であるという保証はどこに?
あなたの内側にグルの意志が存在するという保証はどこに?

 
>ですから、「グルの意思」を判断するという作業を繰り返した場合、
>「グルの意思」を判断している主体は、自分自身ですから、いつまでたっても、自我意識が消滅することはありません。
 正しく「グルの意思」を理解し実践し続けるならば、自我意識は消滅(或いは超越)していきます。

判断・認識作用がある以上それは自我意識です。

>そもそも「グルの意思」の実践は、エゴによって構成された自我意識の拡大とは全く逆方向の物だからです。

そのグルの意志とやらがエゴでない保証はどこに?

>そして「グルの意思」を理解し実践する事を通じて、我々は自我意識を超越し高い世界に到ったり解脱・悟りを得たりする次第です。
 でなければ、わざわざ苦しい思いをして「グルの意思」を実践する意味が御座いません。

その前にグルが正しいという検証はなされましたか?
 

>別な言い方をすると、二元の言語、思考というツールを使って、「グルの意思」を判断するわけですから、二元の世界から離れることが出来ません。
>当然一元に到達することは出来ないということになります。
>一元に到達できないということは、解脱に至らないということです。
 正しく「グルの意思」を理解し実践する限り必ず一元の世界に向かいますので、その心配は御座いません。

一元に向う保証は?
外側(二元)の意志で内側(一元)に向えるという保証は?
そのグルの意志が正しい保証は?


>未だ煩悩にまみれた思考で「一元だ二元だ」と頭だけで考えても、法則の真実を理解する事は出来ませんよ。

いいえ。
逆です。
煩悩があるから逆に一元に向えるのです。

>そう言う意味では、白龍さんは結局自分自身の識別(=判断、認識)を越えられ無かったように見受けられますが、いかがな物でしょうか?


いいえ。
サンディタさんこそご自分の見解に酔っておれるナルシストでしかありませんよ。

>ここが、「グルの意思」を、絶対のものと捉えている方達の限界ではないかと考えます。
 「グルの意思」は、あくまでも我々を最終地点に至らしめるための物です。
 絶対の物として崇拝する対象では御座いません。

その指し示された最終地点が確かに最終地点である保証は?

>なるほど、条件が整えば、指示によって、軍事的な力による行動も採り得るということですね。
>これを言うと、アーレフ本体の人達が顔を青くするのではないですか。(笑)
 教団の人達はヴァジラ・ヤーナの教義を否定しておりますので、一切関係無いと思います。

いいえ。
逃げないで頂きましょう。
教団はかつてヴァジラヤーナを実践していました。
そしてアッサージ正悟師は未だに「ヴァジラヤーナだ!」と叫んでいます。

 (確かグルが獄中から出した指示では、ヴァジラ・ヤーナの「否定」ではなくて「封印」だけだったはずなのですがね)

どっちにしてもそれがほんとに有益な道だった保証はどこに?



>現在では、そのような考えは、ほとんど妄想の産物ということにされてしまいました。
>しかし、かつての教団の人達の潜在意識にはそのようなデータが、色濃くあったのかもしれませんね。
 「本来のヴァジラ・ヤーナの道」を明確に認識している人はほとんど居なかったと思います。

本来のヴァジラヤーナとやらが本当に存在していた保証はどこに?

>真理を理解し実践出来なかった人の愚かさに対し、深い哀れみを感じます。

いいえ。
あなたには結局他人の所属物、麻原の所属物に成り下がった哀れな魂、解放と所属を履き違えた、支配されることに喜びを見出す愚かなな魂の深い深い憐れさを感じます。
あなたは結局、グルの所属物になることで「他人と自分は違う。自分は優秀な魂なんだ」というエゴを満たすためだけの持論展開しているだけ、エゴを満たそうとしているだけという気付きの無い人でしかありません。
つまり一番たちの悪いナルシストなんです。
自分のエゴを満たすためにグルの意志という言葉を利用していることすら気付いていない。
真に憐れで、真に慈悲を注がれねばならないのはあなたのような愚かな魂なのでしょう。

へぇ~

やっぱり、シヴァの喜びさんだった者さんは、サンディタさんに参戦しましたな。(藁)



お金を貯めるぞさんへ

だって馬鹿なんだもん

シヴァの喜びだった者さんへ

正直、どういう流れでこういう話になったのか、途中のところは長くて読めていませんが(^^;)

シヴァさん、返答お疲れ様ですm(ーー)m

教団と関わってきて思うのは
「思考放棄」や「観念の崩壊」という言葉を悪い意味でしか使い得ない
そういう悲しい状況ですかね
シヴァさんも悪い意味で使われていると思いますけど
本当の意味でなら「思考を放棄」してもそこに感じ、判断する自分がいる訳で・・・・・皆経験があまりないのか、こういう話はしがたいので、書きたくなったので、唐突に書いてみました。

腹筋さん

思考を放棄するのではなく「思考」という波に「気付く」必要があるのです。
その「気付き」がいつか思考と自分自身を切り離すキッカケになる。
これを「越える」というのです。

「自分の思考・判断は間違っている」なんてことはありません。
それはたんに生じたもの。波。
そ波は波と感じ取って、見つめて、それが自分だというのが幻想だと「気付き」切り離していく。

「思考の放棄」と「思考を見つめて、その原理原則を理解して、切り離し、超える」のとでは意味が違います。
「思考の放棄」は外側に委ねることで、従属と縛鎖の道です。
「思考を越える」のは内側を見つめ、それを本来の自分自身の支配下に置くことです。
我々はマインドの下僕になっています。
だから、我々は瞑想の力でそれを逆転させないといけないのです。
それは放棄・従属する道ではありません。

自己・心・および外界の対象

これはとてもわかりやすい待機的説明だと思います。

> それではグルは弟子に「何も考えるな!ロボットの如く与えられた意思(プログラム)をこなせ!」と言っていることになり、各自の判断という思考の放棄と自分の判断の中に潜むカルマやサンスカーラの傾向を自己認識するという機会をグル自体が奪い取るという本末転倒的なこうとになってしまいます。これではマハームドラーもなにもあったものではありません。

> 思考を放棄するのではなく「思考」という波に「気付く」必要があるのです。
> その「気付き」がいつか思考と自分自身を切り離すキッカケになる。
> これを「越える」というのです。

> 「自分の思考・判断は間違っている」なんてことはありません。
> それはたんに生じたもの。波。
> その波は波と感じ取って、見つめて、それが自分だというのが幻想だと「気付き」切り離していく。

> 「思考の放棄」と「思考を見つめて、その原理原則を理解して、切り離し、超える」のとでは意味が違います。
> 「思考の放棄」は外側に委ねることで、従属と縛鎖の道です。
> 「思考を越える」のは内側を見つめ、それを本来の自分自身の支配下に置くことです。
> 我々はマインドの下僕になっています。
> だから、我々は瞑想の力でそれを逆転させないといけないのです。
> それは放棄・従属する道ではありません。



言葉は隠喩と換喩から出来上がっていますから、
とても適切、かつ真実をついている説明と共感しました。

ただ、本来の自分自身が何なのかということで皆異なるでしょう。

釈迦牟尼は、私を拝むな、自己を灯明とし法を嶋としてただひとり歩め
と臨終に言ったとされます。

しかし、これは相当に難しいので、
自己より霊性と心の進化する外側の対象を探し、
その対象を手段として使うのがグルイズムであるわけです。

波はヨーガスートラにおいてヴァリティとされていて
同じようにこれらを、静め制御することと明言されています。
これらとは、

pramana-viparyaya-vikalpa-nidra-smrtayah
正しい知識、無差別、ことばのまどわし、眠りおよび記憶である。

これら5つは、すべて(波)ヴァリティとされていてます。

ですから、シヴァの喜びだった者さんの表現は、とても適切な表現だと思います。

tatah pratyak-cetana-adhigamo'py-antaraya-abhavas-ca
それによって、内観の知識と、障害物の破壊が得られる。

この場合のそれによっての対象に、イーシュワラ・・・・・
などなど、数種が掲げられ、その先に、

ksina-vrtter abhijatasya-iva maner grahitr-grahana-grahyesu tat-sth-tad-anjanata samapattih
そのヴリッティスがこうして無力になった(制御された)ヨーギーは、(さまざまの色の対象の前におかれた)水晶のように、うける者、うけること(の道具)、およびうけられるもの、(「自己」・心・および外界の対象)が集中して同一になる。


ですから、手段として活用される対象が、目的である
yogas citta-vrtti-nirodhah

これを行なう目的に叶うなら、すべて手段としては、OKであるということです。

本来の自分自身の支配下に置くことがどこで立ち止まるか、
その手段を目的と勘違いし、従属と縛鎖の道にはまり込んで
シヴァの喜びだった者さんが表現さてている「思考の放棄」で安住したがっている方々は、

目的と手段を取り違えているに過ぎませんね。

グルイズムという手段を使って、すべては心の現われである
ことに接近し「思考を越える」ことに至れるなら、その手段であるグルは感謝すべき対象となるでしょう。

しかし、手段の選択は、目的の心の解放に必須であるわけで、心の解放しつつあるものにとっては、その手段は大切で貴重なものであり、尊敬される対象であることは間違いないでしょう。

ところが、内心の自由によって信頼を寄せる対象は何であっても侵害されるべきものではないけれども、同じ理由によって、他の衆生の心の解放の目的に、お手伝いしようとする場合、これも手段ですが、自らにとって最高の手段であっても、多くの他者にとっては適切な手段になり得ない現実があるのです。

pramana-viparyaya-vikalpa-nidra-smrtayah

これはみな個々人それぞれに異なるのです。
もしも他の衆生の心の解放の目的に対してお手伝いしようとするならば、

内心の自由によって他者の好みに配慮することなく、
その他の人の心の解放の目的に助力できることは極めて可能性が低くなっているのが現実でしょう。

水戸黄門の印籠が効果を発揮するのは、徳川家が威勢がある時です。
グルイズム或いは特定の導師を印籠の如く顕示することが、目的の多くの他者の心の解放に役立つときは、その顕示、或いは勧める導師が、個々人にとって、心の解放に役立つという知識記憶などのヴァリッティがなければ、役立たない手段です。

手段はとても大切ですが、あくまで手段は手段であって、決して万能ではなく
しかも目的ではないということでしょう。


河本さま

長い。

河本理治さん

>ただ、本来の自分自身が何なのかということで皆異なるでしょう。

釈迦牟尼は、私を拝むな、自己を灯明とし法を嶋としてただひとり歩め
と臨終に言ったとされます。

しかし、これは相当に難しいので、
自己より霊性と心の進化する外側の対象を探し、
その対象を手段として使うのがグルイズムであるわけです。


河本理治さん

ごめんなさい。
ミスタッチして二重投稿になってしまいました。
前のやつを削除よろしくです。

河本理治さん。
俺はあなたほどは頭が良くありませんが、こう答えましょう。

>ただ、本来の自分自身が何なのかということで皆異なるでしょう。

だからこそ、自分自身の内側に潜っていかなければならないし、自分とは何か?自分自身を構成しているものは何か?どんな原理原則で成り立っているのか?本来の自分とは何か?を知らなければなりません。
そして、その皆異なるものの現われである外界に何も重きを置いてはいけない。
自分自身を信頼できない者がグルを信頼できるはずがない。出来ているはずがない。
もし、自分を信頼していない者が「自分はグルを信頼している」と言った場合それは嘘になる。なぜなら信頼していない自分の言葉など信頼できないから。
あるヨーギーは11年間あるグルに師事したが、結局自分自身を完全に信頼した時にサマディへの扉が開かれたそうです。その11年間、弟子入りした日以外は一度もグルには会えず、指導も受けられず、サマディに入ったその日、「弟子よ。元気かね?」と彼の前にグルは現れたそうです。


>釈迦牟尼は、私を拝むな、自己を灯明とし法を嶋としてただひとり歩め
と臨終に言ったとされます。

>しかし、これは相当に難しいので、
自己より霊性と心の進化する外側の対象を探し、
その対象を手段として使うのがグルイズムであるわけです。

そこが間違いです。
結局のところグルなる存在(それが完全に解脱しているならば)は自己探求をやり終えて、自分の家に安住している存在です。すなわちマインドよりも奥深く、魂の源泉に浸かる者、ワンネスの頂に到達した者、全てを包含する種になった存在。
つまり、その存在の本来の居場所は内側にいるのです。
我々は内側に自分自身を見つけ出し、内側にグルを見出さないといけないのです。


>波はヨーガスートラにおいてヴァリティとされていて
同じようにこれらを、静め制御することと明言されています。
これらとは、

pramana-viparyaya-vikalpa-nidra-smrtayah
正しい知識、無差別、ことばのまどわし、眠りおよび記憶である。


ここで俺が言う波は、
肉体のエネルギー、感情のエネルギー、思考のエネルギー、意志のエネルギー、感動のエネルギー、愛のエネルギー、などなどの我々を構成しているいろんな層のエネルギーのことで、我々はそのエネルギーに惑わされ、これを自分自身だと勘違いしています。
これは同時に存在し互いに影響しているので、愛だと思っていても実は性欲だったり、というような混乱も引き起こしています。
その波は自分(自分だと思っているもの)を構成していることに気付き、そこから離れていく(越えていく)作業が瞑想でありヨーガであり仏教です。


tatah pratyak-cetana-adhigamo'py-antaraya-abhavas-ca
それによって、内観の知識と、障害物の破壊が得られる。

この場合のそれによっての対象に、イーシュワラ・・・・・
などなど、数種が掲げられ、その先に、

恐らく、現代日本人にはそのようななじみの薄い対象よりももっと別の方法が適していると思います。
なにしろ日本人はあまり神というものを信じてはいないし、そのせいで神の加護が少ないのも事実でしょうから。

>ksina-vrtter abhijatasya-iva maner grahitr-grahana-grahyesu tat-sth-tad-anjanata samapattih
そのヴリッティスがこうして無力になった(制御された)ヨーギーは、(さまざまの色の対象の前におかれた)水晶のように、うける者、うけること(の道具)、およびうけられるもの、(「自己」・心・および外界の対象)が集中して同一になる。


>ですから、手段として活用される対象が、目的である
yogas citta-vrtti-nirodhah

>これを行なう目的に叶うなら、すべて手段としては、OKであるということです。


グルイズムも本来の姿でやるならば問題ないと思います。
ですが、現代のグルイズムは一部の心無い者たちのせいで「支配・コントロール」の手段と化しています。
現代では各人が自分の内側に入っていき、自分自身を取り戻す道が向いていると思います。


>本来の自分自身の支配下に置くことがどこで立ち止まるか、
その手段を目的と勘違いし、従属と縛鎖の道にはまり込んで
シヴァの喜びだった者さんが表現さてている「思考の放棄」で安住したがっている方々は、

>目的と手段を取り違えているに過ぎませんね。

本来のヨガは創造・維持・破壊というリズムを重視します。
これは呼吸においては吸う・止める・吐く、あるいは掴む・保持・手放す・・・
思考を超えていく場合でも、まずは自分の思考という波をきっちりと掴み、それを理解して、そこではじめてきっちりと手放す(越えていく)ことができると教えます。

>グルイズムという手段を使って、すべては心の現われである
ことに接近し「思考を越える」ことに至れるなら、その手段であるグルは感謝すべき対象となるでしょう。

でも、それはまず最初に自分自身を信頼する、自分自身にサレンダーできないことには何もはじまりません。
全ては内側から生じ、外側に向っていく。ならば内側から整理していかなければ。


>しかし、手段の選択は、目的の心の解放に必須であるわけで、心の解放しつつあるものにとっては、その手段は大切で貴重なものであり、尊敬される対象であることは間違いないでしょう。

しかし、問題はその対象が本当に解放に向かわせてくれる存在かどうかです。
その保証はどこにもない。
だからこそ最初に自分自身を信頼する必要があるのです。


>ところが、内心の自由によって信頼を寄せる対象は何であっても侵害されるべきものではないけれども、同じ理由によって、他の衆生の心の解放の目的に、お手伝いしようとする場合、これも手段ですが、自らにとって最高の手段であっても、多くの他者にとっては適切な手段になり得ない現実があるのです。

菩薩修行はその辺のバランスを考えてやらないといけないと思っています。


>pramana-viparyaya-vikalpa-nidra-smrtayah

>これはみな個々人それぞれに異なるのです。
もしも他の衆生の心の解放の目的に対してお手伝いしようとするならば、

>内心の自由によって他者の好みに配慮することなく、
その他の人の心の解放の目的に助力できることは極めて可能性が低くなっているのが現実でしょう。

命というものはいずれ創造・維持・破壊そして再生というサイクルに従い、収斂されて自分の内側を目指すようになっていると言います。
強制的に道に引きずり込むのが正しいとは俺は思いません。個人のカルマの問題もあるからです。


>水戸黄門の印籠が効果を発揮するのは、徳川家が威勢がある時です。
グルイズム或いは特定の導師を印籠の如く顕示することが、目的の多くの他者の心の解放に役立つときは、その顕示、或いは勧める導師が、個々人にとって、心の解放に役立つという知識記憶などのヴァリッティがなければ、役立たない手段です。

本来のグルイズムはそれを行えるグルが前提で、現状そういうグルは皆無に等しいし、日本では絶無に等しいと思います。


>手段はとても大切ですが、あくまで手段は手段であって、決して万能ではなく
しかも目的ではないということでしょう。

然り。だと思います。

シヴァの喜びだった者さん

ちょっと質問させていただきます。

>だからこそ最初に自分自身を信頼する必要があるのです。

ここで言う自分自身を信頼するというのは、
サマディに入って、自己の本質を知った後に起きる、
自己に対する信頼という意味なのでしょうか?
通常の意味での自分に対する信頼だと、
自分自身が煩悩まみれで、それほど信頼できる人間に思えないのですが・・。

白龍さん

今の自分を信頼するということです。
もっと詳しく言うと「自分自身のカルマを信頼する」ということでしょうか。
修行という道に、自身の内側への旅に、誰も連れて行くことは出来ません。
グルはたんに最終地点を「あの方向だよ」と指し示すだけ。
誰も内側の旅に連れてはいけません。それは自分が一人で旅するもので、そこには「自身の能力や運命に対する信頼」が無いととてもやっていけない「孤独の旅」です。
しっかりと地面に足をつけて立って、自分で歩いていかなければならない。

あるテーラヴァーダの僧がこんな話をしてくださいました。
彼は随分長い間僧として生きてきたので死ぬ瞬間はお釈迦さまの名前を唱えながら死んでいこうと思っていました。
ある日、突然彼は心臓発作で倒れました。
彼は薄れいく意識の中で自分の前に死の扉が開くのを見ました。
彼は一回もお釈迦様の名前を呼ぶことなくその扉の中に引き込まれました。
後に彼は病院のベッドで自分が蘇生されたことを知るのですが、一回もお釈迦様の名前を呼べなかったこと思い出し「死の前には法則だろうが、お釈迦様だろうが、他者は全く無意味。糞の役にも立たない」と悟ることになりました。

そして、サマディは死の技術でもあります。
結局そこへは自分自身しか持っていけません。
そして、その死の扉を潜り抜けるには「自分自身の運命」に対する絶対的な信頼」が無いといけません。
人は何かをなそうとするとき、その「自分自身の運命」に対する絶対的な信頼」があってこそ素晴らしい結果をひきだせます。
その時だけ、全てのカルマは、白であろうが黒であろうが、その人を望むところへと運んでいきます。
つまり、全てのカルマはこの瞬間のために機能する。

釈迦牟尼は自分の運命を信じ、それを受け入れました。
イエスもまた然り。ラーマも。その他の聖者も。

自分に対する絶対の信頼が無いかぎり、起こることを受け入れることはできません。

サマディへの道は全てを受け入れる道でもあるのですから。

シヴァの喜びだった者さん

シヴァの喜びだった者さん、丁寧な回答ありがとうございます。

>グルはたんに最終地点を「あの方向だよ」と指し示すだけ。
>誰も内側の旅に連れてはいけません。それは自分が一人で旅するもので、そこには「自>身の能力や運命に対する信頼」が無いととてもやっていけない「孤独の旅」です。
>しっかりと地面に足をつけて立って、自分で歩いていかなければならない。

グルに全ての意思決定を委ねてしまうのではなく、
最終地点まで、自分の足で歩いていくぞという決意とともに、
その地点に、自らの足で立てるはずだという、
自分に対する自信と信頼を持つという解釈でよろしいですか?

白龍さん

その解釈でも構わないと思います^^

シヴァの喜びだった者さん

>その解釈でも構わないと思います^^

微妙にちょっと違うのかもしれませんが、そんなところで解釈しておきます。(笑)

白龍さん

「立てるはず」では弱く、

「自分はそこに至る運命にある」

が、一番いいと思います^^

シヴァの喜びだった者さん

>「自分はそこに至る運命にある」

>が、一番いいと思います^^

なるほど、なるほど。

諦観

>長い

との御指摘がありました。

シヴァの喜びだった者さんの発言に私自身、偏りを感じたので、パタンジャリのヨーガ・スートラを引用しました。

>その皆異なるものの現われである外界に何も重きを置いてはいけない。

これはそうですが、否定(排除)しても善くないと思います。

そして
決して各個人にそれぞれによって、ある特定の方を導師として尊敬することは不可侵であることであるということ。

しかし、師弟関係は現実の生身との現実の交流を欠くことは、すでに師弟関係は終わっているということ。(師弟関係でなく仲間としてならばよいかな)

特定の周知となってしまった師弟関係をダークイメージ化したのは我々すべての関与者であるということ。

などを前提として、尚かつ、

>などなど、数種が掲げられ、

これの一つがイーシュワラであるに過ぎません。それらは

イ 至高の支配者、「彼」のあらわれたことばはオームであるこれをくりかえし、それの意味を瞑想すること
ロ 友情、慈悲、喜ぶこと、および無関心がそれぞれに、幸福な、不幸な、よい、そしてわるい対象に関して思われれば、チッタをしずめること
ハ いき(呼吸)をはき出し、そしてとめることによって
ニ 「まばゆいばかりの光明」の瞑想によって
ホ または睡眠中にくる知識を瞑想することによって
ヘ または何であれ、よいものとして自分にうったえるものの瞑想によって

などなどです。これはすべて個々人が感受するものです、そして

>「自己」、心、および外界の対象が集中して同一になる

を引用した意図は、菩提達磨によせられる「無心論」というものがありますが、基本的に普通の人は心があるように感じています。

したがって、すべては心の現われである

このことを感受することは、自己、心、外界の対象これらは本来すべて、あるがままに仏性の現われ以外ではないことを理解する事になる、という意図で引用しました。

これを推し進めますと、確かに、諦かにし、諦める意味において、

>その死の扉を潜り抜けるには「自分自身の運命」に対する絶対的な信頼」が無いといけません。

この認識の仕方が出ます。

運命は私の専門分野ですから、一言、運命について、
変えられるものと変えられない運命があります。

変えられないのは生老病死などの四苦八苦ですね。

そして変えられる運命は、あるように思える「心」の受け止め方から派生する事柄すべてです。
もちろん、病にならない人もいるでしょう。しかし
生老死は避けられません。

だが「心」の受け止め方を変えると相当部分の苦が苦でなくことができるとするのが本質でしょう。

そのとき、運命、或いは自己・心・外界も実は、

連動しているということです。だから
まず、自己より霊性進んでいると思える対象に依る手段はよい
しかし、それは別にそうではなくて、最も自己より霊性の劣っている対象も
その他どんな人でも、仏の種子はみんな備えているということと

現状があたかも良さそうに見えるのも
あたかも極悪に見えるのも

すべては観ている者の心の現われなんだよ
ということで、
否定すべき外界
感受するものは、否定すべきなにひとつないということです。

だってすべての自己・心・外界はみな連動し
相互依存でしか、なにも生起しないのだから・・・

>>その皆異なるものの現われである外界に何も重きを置いてはいけない。

>これはそうですが、否定(排除)しても善くないと思います。

いえ。
否定しているのではないのです。
何を言いたいのかというと「居つくな。一つの場所に居つくな。それは変化転変を繰り返す実体無きもの。マーヤー(幻)だから、そのマーヤー惑わされることなく心の内側に一人赴け」と言っているのです。
外側の否定をしているのではありません。
外側の何かに捉われるな、執着するなと言っているのです。

>そして
決して各個人にそれぞれによって、ある特定の方を導師として尊敬することは不可侵であることであるということ。


それは確かにそうです。
ですが、その導師を信じるということの前に自分自身を信じなければそれは嘘だと言っているのです。
そして、自分自身を信じずにマスターに全てサレンダーしろというタイプの導師に捕まるなということがいいたいのです。


>しかし、師弟関係は現実の生身との現実の交流を欠くことは、すでに師弟関係は終わっているということ。(師弟関係でなく仲間としてならばよいかな)

よく意味をつかみかねますが、現実の生身を越える絆が生じるからこの瞑想の世界は面白いのでは?^^

>特定の周知となってしまった師弟関係をダークイメージ化したのは我々すべての関与者であるということ。

だからこそ本来の師弟関係というものを提示していきたいと俺は思っています。


>連動しているということです。だから
まず、自己より霊性進んでいると思える対象に依る手段はよい
しかし、それは別にそうではなくて、最も自己より霊性の劣っている対象も
その他どんな人でも、仏の種子はみんな備えているということと

勘違いして頂きたくないのは俺は「グルは持つな」と言っているのではありません。
現に俺はグル持ちです。
問題は、グルを信頼する根拠として自分自身の運命を信じている、何が起こっても受け入れられる、という心の覚悟をいいたいのです。
それが無くてグルに100%サレンダーなんてできるはずないのです。


>現状があたかも良さそうに見えるのも
あたかも極悪に見えるのも

>すべては観ている者の心の現われなんだよ

然り。
付け足すと良さそうも極悪も実は存在しない。
それはマインドの判断機能が働いているせいで、本来の自分とはまるで関係の無い出来事。
それを観ているだけなのですが、自分自身が分らなくなっているのでその良し悪しの二元世界に巻き込まれているのです。



>ということで、
否定すべき外界
感受するものは、否定すべきなにひとつないということです。

繰り返します。
否定しているのではありません。
感受しているのは単に波で、波に良い悪いを意味づけしているのはマインドです(波を作り出しているのもマインドだったりしますが)。
波に良い悪いもありません。
波は波です。
その波に翻弄されないようにしましょう。と説き、実際の方法を提供しているのがヨーガなのです。

>だってすべての自己・心・外界はみな連動し
相互依存でしか、なにも生起しないのだから・・・

その中に自性存在としてのセルフ(真我)があるわけです。
セルフ自体はその良し悪しの世界にいないので、それに到達したいのならばその良し悪しの世界に重きを置いて、執着し、コネクトを強くしてはいけない。とヒマラヤ・ヨーガでは教えるのです。

>外側の何かに捉われるな、執着するなと言っているのです。

補足するならこれは否定ではなく、楽しんでも構わないけど終着はするな。常にそこから自由でいろ。ってことですね。
人は何かに執着しがちですから。

生身について

> シヴァの喜びだった者さんの発言に私自身、偏りを感じたので、

どうもこの偏りを感じたのは、書き込みの走り読みによる私の思いこみであったようです。
近来の書き込みを熟読しました。私への返信ももう一度精読しました。

> とても適切、かつ真実をついている説明と共感しました。

で終了しておけば良かったかなと思います。

ただ最近思うのですが、生身に関わる部分を軽視(無視)してならないのではと

> 現実の生身を越える絆が生じるからこの瞑想の世界は面白いのでは?^^

現実の生身を越えるのは面白いものです

ところで生身を有して生きている間だから、

>肉体のエネルギー、感情のエネルギー、思考のエネルギー、意志のエネルギー、感動のエネルギー、愛のエネルギー、などなどの我々を構成しているいろんな層のエネルギーのことで、我々はそのエネルギーに惑わされ、これを自分自身だと勘違いしています。
>これは同時に存在し互いに影響しているので、愛だと思っていても実は性欲だったり、というような混乱も引き起こしています。
>その波は自分(自分だと思っているもの)を構成していることに気付き、そこから離れていく(越えていく)作業である瞑想

この自分だと思っているものから離れていく瞑想作業に戯れていても

生身の軽視はまずいのではと感じているのです。
自分のものだと思っている肉体への執着は離れねばなりません

しかし、肉体も真我の現われの一部でもあるのだから、

常にそこから自由でいるためにも

現象世界の肉体を、あるがままの顕れとみなすように
他者の肉体も同じく、

まぁ、肉体のエネルギーに含めることもできますが、

現象界、色界、無色界(身・口・意)で言えば
色界、無色界に偏重するのはバランスを崩しているのではないか

基本的にエネルギーは色界優位だと思うからです。

河本理治さん

>どうもこの偏りを感じたのは、書き込みの走り読みによる私の思いこみであったようです。
近来の書き込みを熟読しました。私への返信ももう一度精読しました。

> とても適切、かつ真実をついている説明と共感しました。

で終了しておけば良かったかなと思います。


いえいえ。
俺も言葉が足りない方なので。
それに説明することは自分の内部の整理に繋がりますので^^


>ただ最近思うのですが、生身に関わる部分を軽視(無視)してならないのではと

> 現実の生身を越える絆が生じるからこの瞑想の世界は面白いのでは?^^

現実の生身を越えるのは面白いものです

ところで生身を有して生きている間だから、

>肉体のエネルギー、感情のエネルギー、思考のエネルギー、意志のエネルギー、感動のエネルギー、愛のエネルギー、などなどの我々を構成しているいろんな層のエネルギーのことで、我々はそのエネルギーに惑わされ、これを自分自身だと勘違いしています。
>これは同時に存在し互いに影響しているので、愛だと思っていても実は性欲だったり、というような混乱も引き起こしています。
>その波は自分(自分だと思っているもの)を構成していることに気付き、そこから離れていく(越えていく)作業である瞑想

この自分だと思っているものから離れていく瞑想作業に戯れていても

生身の軽視はまずいのではと感じているのです。
自分のものだと思っている肉体への執着は離れねばなりません

しかし、肉体も真我の現われの一部でもあるのだから、

常にそこから自由でいるためにも

現象世界の肉体を、あるがままの顕れとみなすように
他者の肉体も同じく、

まぁ、肉体のエネルギーに含めることもできますが、

現象界、色界、無色界(身・口・意)で言えば
色界、無色界に偏重するのはバランスを崩しているのではないか

基本的にエネルギーは色界優位だと思うからです。


肉体を疎かにせよ。と言っているのではありません。
この肉体は神殿なのですからいつもキレイに整えておかなければなりません。
が、
執着してもいけない。
また、肉体とのコネクトが強すぎるとそこに引き摺られて瞑想がうまくいきません。
すべてはバランスで、そのバランスは自分が思っているようなものではなく、かなり繊細で微妙なもののようです。
その辺は、行法や瞑想を深めていくと各エネルギーをハッキリと掴めていくのでその妙を自分で探し出していくことになると思います。
なにぶん、そのバランスは個人のよって違うのですし。

シヴァさんへ

丁寧な返答ありがとうございます

大体の区分けがつかめました

・・・・・とお礼を言おうとしたら、またものすっごい進んでますね(^^;)

いずれ機会があったら直接お話させていただけたらなぁ、と思います
文章打つのが、そもそもあまり得意ではないので

腹筋さん

いえいえ。
拙い説明ですいません。

よろしくお願いします。

naさま

naさま
>サンディタさん、遅ればせながら
>今回は色々とありがとうございました。
>私はサンディタさんとは意見が違いますが、
>話し合える機会があったというだけでもよかったなあと思います。
 こちらこそ、有り難う御座いました。
 謀らずしもこういう機会を頂いた事に対して感謝しております。

>野田さんの冗談は、案外彼のひがみも含まれているのかもしれませんよ?
>なにせ自分のいないところで一番盛り上がっているのですから。
>ブログの管理人としてはちょっと複雑なものがあるでしょう。(笑)
 ひがむくらいならVT正悟師も議論に参加すればよろしかったのですにね。

>ただ、彼の冗談をより肯定的にとらえてみてみますと。
>やっぱり今回のここでのやり取りは、
>まだまだ理論偏重な部分があったのではないか?という気もいたします。
 単に質問の回答に振り回されただけで、なかなか深い議論にならなかった事が悔やまれます。

>そもそもここでのやりとりを読んだ人が、
>果たしてヴァジラヤーナのことをちゃんと理解できるだろうか?と考えても、
>「うーんどうだろうなあ・・・」というのがホンネではないでしょうか。
 ホントに全体の極々一部分にしか触れられませんでした。
 白龍さんも、結局御自身の謬見解から抜け出せなかったようですし。
 グルの意識は二元の世界の物では無く一元の世界の物であるというのが、そもそもヴァジラ・ヤーナの基本的な条件なのですが。

>まあ、これについては野田さんから提出された
>「今後の課題」という風にしておきましょう。
 またこの話題で盛り上がった際、彼が再び気を悪くしなければ良いのですが・・・

>サンディタさんはいま財施部なのですか?
 現在は一応そうなっています。
 少額ながら、毎月お布施もしていますよ。

>それともCBI(まだ存在するのかな・・・)なのですか?
>ちなみにわたしは昔CBIにいました。
>サンディタさんともワークしたことあります(笑)
>あと、A派副代表の萩原さんにもお世話になりました。
 それならば、私が知っている方だったのですね。
 今後もし仮に直接お会いするような時が御座いましたら、その時は又よろしくお願い致します。

シヴァの喜びだった者さま

>>漠とした物も有れば、明確に示された物も御座います。
>それは誰が判断しますか?
 当然受け手側ですけど、質問の趣旨がよく分かりません。
 「受けてである弟子の判断は汚れているから、正確に判断出来ない」とでも言いたいのでしょうか?
 でもこんな基本的な事というか常識的な事も理解出来ないのなら、そもそも修行どころか日常生活すら送れないようなレベルだと思いますが?

>上の俺の質問と趣旨が同じ質問がされていますね。
>誰がその「グルの意志」とやらを判断するのですか?どのように解釈するのですか?
 「意志」ではなくて「意思」ですね。
 当然「グルの意思」は受け手である弟子が判断する訳ですが、弟子の意識に汚れが有れば当然正しく判断する事は出来ず失敗する事になります。
 そしてその失敗を何度も繰り返しながらも出来るだけ正確に「グルの意思」を実践しようと努力し続ける事で、徐々に自己の汚れを落として透明なグルの意識に近付いていく次第です。
 
>それはサンディタさんの大きな勘違いです。
>それではグルは弟子に「何も考えるな!ロボットの如く与えられた意思(プログラム)をこなせ!」と言っていることになり、各自の判断という思考の放棄と自分の判断の中に潜むカルマやサンスカーラの傾向を自己認識するという機会をグル自体が奪い取るという本末転倒的なこうとになってしまいます。
>これではマハームドラーもなにもあったものではありません。
 この御質問の内容は上記の二つの質問と矛盾してますけど、御自分で気付きませんでしたか?
 「グルの意思とは何か?」を考える際には当然各自で「判断」せねばならない部分も御座いますので、「思考の放棄」云々は的が外れた認識だと言わざるを得ません。
 またマハー・ムドラーを受けている最中は弟子が汚れを落としている段階ですから、まだ「カルマやサンスカーラの傾向を自己認識する」事が出来る段階では御座いません。
 もちろんマハー・ムドラーを受けてカルマを落としている内に、現れた現象を通じて「カルマやサンスカーラの傾向を自己認識する」事が出来るようになる訳ですけれども。

 「思考の放棄」も「自分で判断」も全て途中のプロセスですので、お間違えなきよう。
 でも無智な人がその点を間違えて「無思考なロボット」に陥ってしまう可能性も確かにありますね。
 だから最初の最初に「ヴァジラ・ヤーナを実践するには深い智恵が必要だ」と申した次第です。
 
>その法則とやらが正しいという保証はどこに?
 それは自分で修行して確認していく物だと思いますけれども。

>その法則が一つである保証は?
 私には宇宙の法則は一つにしか見えませんが、シヴァの喜びだった者さんには幾つもあるという事なのでしょうか?

>グルの意志が正しい保証は?
>グルが正しい保証は?
 正しいか正しくないかではなく、「ヴァジラ・ヤーナとは何か?」という普遍的な話をしているのですが?
 この話では、「ヴァジラ・ヤーナによって成就させる事が出来る正しいグルが居る」という事が一応の前提になっています。   

>弟子は自我意識を超越していません。
>その中で判断しているのだからエゴは存在しています。
 だから弟子の自我意識を超越させるために、グルはあえて弟子の観念を崩壊させるような(つまり弟子の既存の自我意識を壊すような)指示を出す次第です。

>自我意識があるから自我意識を超えられるのです。
>その方法こそ真のヨーガでは説いているのであって、それが理解できていないのはあなた方の方法に問題がある証拠です。
 その自我意識を超越する方法が例えば「ヴァジラ・ヤーナ」であり「マハー・ムドラー」であり、なんですけど。
 それに「あなた方の方法」ではなく、普遍的な話をしています。

>いいえ。
>否定になりません。
>逆に肯定になります。
 そこで白龍さんの言っている事は、要するに「自分で判断する限り自我意識を超越出来ない」という事です。
 その白龍さんの理屈だと、貴殿の言う「自己の認識、深い認識、気付き」も同様に自分で判断しているからエゴが存在している、故に間違っていると言う事にしかなりませんよ。
 もう少し話の流れを正確に読み取ってから意見を出すようにしましょうね。

>あなた方の方法論では単に石が座っているのに他ならない。
>瞑想ではない。石がそこにあるだけでしかない。
>瞑想は、修行とは石になることではない。
 そういう禅的な瞑想は、オウムでの初期の頃から否定していたはずですけど?

>例えばミラレーパは最終的に師であるマルパから離れた所で独居修行して大いなる達成を得ましたが、白龍さんの理屈だと彼もまた自分の判断で修行をし続けている訳だからそこにはエゴが存在し続けて結局「自我意識を越えられなかった」という事になってしまいますね。

>大きな勘違いです。
>ミラレパは悩んだ。
>とても悩んだ。
>その中で自分の内側に自ら入って行き、己を理解し、気付き、解脱しました。
>マルパは彼に「グルの意志に従え。己の思考を捨てよ」とは言いませんでした。
 私が言っているのは、ミラレーパも自分の判断で修行に入ったにもかかわらず大いなる達成を得ましたよね?という事なのですが。
 貴殿は、何か大きな勘違いをしているようですね。

>上記と同じように釈迦牟尼もまた己の内側に己自身で入って行き、気付き、理解し、決して思考の放棄を行った訳ではありません。
 だからここでは「思考の放棄」などの話は誰もしていませんが?

>あなたはこの文面からしてもマインドというものの機能を理解していないように思います。
 その「マインドというものの機能」を詳しく御説明願えませんか?

>それは外部に頼ることで内部の探求では無く、思考放棄であって、自己灯明という釈迦牟尼の教えからも外れた邪見解です。
 これは自己の汚れを落とす段階なので、それで良いのです。

>そして再度問います。
>そのグルの判断が正しいという保証はどこに?
>グルが解脱しているという保証はどこに?
 だから「正しいグルが居る」という前提で話をしているのだから、それは愚問なんですって。

>それが真理であるという保証はどこに?
>あなたの内側にグルの意志が存在するという保証はどこに?
 上記の通り、自分で修行して御確認下さいませ。
 
>ですから、「グルの意思」を判断するという作業を繰り返した場合、
>「グルの意思」を判断している主体は、自分自身ですから、いつまでたっても、自我意識が消滅することはありません。
 正しく「グルの意思」を理解し実践し続けるならば、自我意識は消滅(或いは超越)していきます。

>判断・認識作用がある以上それは自我意識です。
 それならば今回貴殿がインドの山奥で得られた体験も、同様に「判断・認識作用がある以上それは(汚れた)自我意識」ですね。

>そのグルの意志とやらがエゴでない保証はどこに?
 上記の通り、そういう前提で話をしています。
 実際にオウムのグルが本物であったかどうかという話をしているのでは御座いませんので。



>一元に向う保証は?
>外側(二元)の意志で内側(一元)に向えるという保証は?
>そのグルの意志が正しい保証は?
 一旦汚れた自分の意識(二元)を放棄して、グルの意識(一元)をインストールする次第です。
 正しい正しくないの話は、上記の通り此処では愚問ですね。 

>いいえ。
>逆です。
>煩悩があるから逆に一元に向えるのです。
 向かえる向かえないではなく、頭だけでは一元の世界を理解出来ないという話をしているのですが?

>サンディタさんこそご自分の見解に酔っておれるナルシストでしかありませんよ。
 で?

>その指し示された最終地点が確かに最終地点である保証は?
 上記の通り、そういう前提でそれ以外の話をしていますので。

>いいえ。
>逃げないで頂きましょう。
>教団はかつてヴァジラヤーナを実践していました。
 当該の白龍さんのコメントを読めば分かる通り、ここでは現在のアーレフ教団の話をしています。
 「かつて教団は」という話は場違いなので、悪しからず。
 
>そしてアッサージ正悟師は未だに「ヴァジラヤーナだ!」と叫んでいます。
 これは興味深い話なので、いつどこでどの様な場面で叫んだのか、情報源は何処なのかなどの詳しい所をお教え頂けないでしょうか?
 
>どっちにしてもそれがほんとに有益な道だった保証はどこに?
 教団内では、ミラレパ正大師などは高い成就を果たされていますよね。
 
>本来のヴァジラヤーナとやらが本当に存在していた保証はどこに?
 数々の予言書に書いてあります。 

>あなたには結局他人の所属物、麻原の所属物に成り下がった哀れな魂、解放と所属を履き違えた、支配されることに喜びを見出す愚かなな魂の深い深い憐れさを感じます。
>あなたは結局、グルの所属物になることで「他人と自分は違う。自分は優秀な魂なんだ」というエゴを満たすためだけの持論展開しているだけ、エゴを満たそうとしているだけという気付きの無い人でしかありません。
>つまり一番たちの悪いナルシストなんです。
>自分のエゴを満たすためにグルの意志という言葉を利用していることすら気付いていない。
>真に憐れで、真に慈悲を注がれねばならないのはあなたのような愚かな魂なのでしょう。
 お得意の悪口の羅列、御苦労様です。
 こういう意識状態でインドの山奥で修行されたようですが、サマディには入れましたでしょうか?
 あと、ヴァジラ・ヤーナの目的はグルのクローンになる事であって、決してグルの所有物やロボットになる音では御座いませんので、お間違えなきよう。

 貴殿への上記の回答は、教団機関誌にも掲載されている程度の内容ばかりです。
 如何に自分自身が教学が足りていなかったのか、オウムの教義を理解出来ていなかったのかを今一度御自戒下さいませ。
 ま、基本的な教義が理解出来ていなかったからこそ、今の状況に到るのでしょうけれども。
 兎に角、わざわざコメントするのも馬鹿馬鹿しくなるような誤読と誤解が多すぎます。
 先の白龍さんとの議論よりも空しく感じるのは、その為だと思われます。

サンディタさんへお願い

サンディタさんの数々のコメント興味深く拝見させてもらっています。

サンディタさんが長い間「グルの意思とは何か?」「ヴァジラヤーナとは何か?」という難しい命題を真剣に探求し続けてこられたことがよく分かり、大変感銘を受けております。

またホーリーネームを明かし、堂々とご自身の見解を述べられていることにも感銘を受けております。

このブログでサンディタさんは質問されたことに対して答えるということをなさっています。

それではサンディタさんの宗教的理解・実践の断片しか知ることができません。

そこでサンディタさんにお願いがあります。

サンディタさんも白龍さん、シヴァの喜びさん、VT正悟師のようにブログを出して、ご自分の見解を系統立てて発信していただけないでしょうか?

単に質問や批判に対して答えるだけでは、はたから見ているとお互いの揚げ足を取っているように見えてしまいます。

ご自分の主張を単なる揚げ足取りに見られるのはサンディタさんの本意でもないでしょう。

サンディタさんがブログを出し、ご自分がなぜ今のような宗教的見解に至ったのか系統立てていただくことを切に希望します。

サンディタさんもブログを持つことによって、白龍さん、シヴァの喜びさん、VT正悟師と同じ土俵に立てるのではないでしょうか?

ブログを出しましたら、URLの告知をお願いいたします。

よろしくお願いいたします。

サンディタさんへ

私も元サマナさんの意見に賛成です

現役の方がワークの側らでしっかりとしたものを作るのは大変でしょうが
貴方がもし全ての他者の為にヴァジラヤーナでの解脱への階梯を事細かに解説してくれるのなら、それは貴方にとっても他者にとっても利益のあるものとなるでしょう


ただ、ここに書かれている事だけを取り上げるのなら
チベット僧のいう事とは違うなぁ、と自分は考えてしまいますし、ヨーガ的にも違うといわれてしまう事でしょう

ついでに教祖のいう事ともどっか違っちゃってるんじゃない?
と、いう疑問も起きるかもですし
終いには「グルを小さくする実践だ」とまで言われるかもしれません
腹筋はヴァジラヤーナ知りませんし

俺は文章打つの苦手ですし、基本怠け者なので、自分の見解をブログにまとめるような事はいたしませんが、サンディタさんには是非やっていただきたいと思います


あとそれから、ぶしつけな質問で申し訳ないのですが

上記の「マハームドラー」を受けている最中に、もしくは受けた後に瞑想状態には入りました?
腹筋の仮説、というか経験ではその場で瞑想が起きます

そういうものを教団にも求めていたのですが、どうもそういう要素を感じさせてくれる人があまり・・・というかほとんどいなくて

「これはグルのマハームドラーなんだー!!」
っていう観念で頑張っちゃう人はいっぱい聞きますが


あとマハームドラーの瞑想をやられている方は今教団にどのぐらいいるのですかね?
あんまそーいう話も聞かなかったもので 

>グルが解脱しているという保証はどこに?

だから「正しいグルが居る」という前提で話をしているのだから、それは愚問なんですって。

盲信と言いませんか?
盲信のどこが悪い!と言われればそれまでですが。

サンディタさん

>当然受け手側ですけど、質問の趣旨がよく分かりません。
 「受けてである弟子の判断は汚れているから、正確に判断出来ない」とでも言いたいのでしょうか?

読解力不足です。
もう一度読んでください。


 でもこんな基本的な事というか常識的な事も理解出来ないのなら、そもそも修行どころか日常生活すら送れないようなレベルだと思いますが?


でもこんな基本的な文章すら理解出来ないのなら、そもそも修行どころか日常生活すら送れないようなレベルだと思いますが?


繰り返します。
それは誰が判断しますか?
つまり、あなたです。
汚れているからうんぬんではなく、判断機能というマインド、特にエゴの根幹に関わるものを使っています。
この時点であなたのいうグルの意思とは「グルの意思と名づけられたあなたのエゴ」になります。
そこで、「それは誰が判断しますか?」と聞いています。


> 「意志」ではなくて「意思」ですね。
 当然「グルの意思」は受け手である弟子が判断する訳ですが、弟子の意識に汚れが有れば当然正しく判断する事は出来ず失敗する事になります。
 そしてその失敗を何度も繰り返しながらも出来るだけ正確に「グルの意思」を実践しようと努力し続ける事で、徐々に自己の汚れを落として透明なグルの意識に近付いていく次第です。

いえ。
それは無理です。
外側に求めている限りそれは失敗の連続になるだけです。
必要なのは内側に求めることで、この場合で言えば「何故ここで失敗するのだろう?これは自分のサンスカーラの傾向だろうか?それともカルマか?」と内部を探求することが必要です。
ですが、オウムの場合「救済だ!グルの意思の実践だ!」で外側にのみ追い求めてしまう。
あなたは「同じことを言ってるのに過ぎない」と言うでしょうが、内部探求の場合は受け入れるという姿勢で、オウムの場合はグルの意思という外側の探求になっている、しかもそれは自分たちは修行者で救済者だというエゴを満足させる道になっていることに気が付いていない。
この両者は大きく違います。
 
> この御質問の内容は上記の二つの質問と矛盾してますけど、御自分で気付きませんでしたか?
 「グルの意思とは何か?」を考える際には当然各自で「判断」せねばならない部分も御座いますので、「思考の放棄」云々は的が外れた認識だと言わざるを得ません。

あなたは自分たちの実践が思考の放棄であることに気が付いておられない様子ですね。
「グルの意思とは何か?」もうこの段階で思考放棄です。
本来修行者が思考せねばならないのは「Who I am」であってグルはその手助けをするだけの存在です。
一日中「グルグルグル」とやっているのは内部探求にはなりません。


>またマハー・ムドラーを受けている最中は弟子が汚れを落としている段階ですから、まだ「カルマやサンスカーラの傾向を自己認識する」事が出来る段階では御座いません。
 もちろんマハー・ムドラーを受けてカルマを落としている内に、現れた現象を通じて「カルマやサンスカーラの傾向を自己認識する」事が出来るようになる訳ですけれども。

いいえ。
瞑想中にカルマやサンスカーラの傾向は立ち現われるものですから十分「気付き」をもって瞑想に励むなら割と初学から自分のサンスカーラの傾向を知ることができます。
石のように座っているだけの瞑想だから自分の傾向は見えてこないのですよ。


>「思考の放棄」も「自分で判断」も全て途中のプロセスですので、お間違えなきよう。
 でも無智な人がその点を間違えて「無思考なロボット」に陥ってしまう可能性も確かにありますね。
 だから最初の最初に「ヴァジラ・ヤーナを実践するには深い智恵が必要だ」と申した次第です。

「気付き」を持って修行、瞑想する。
「気付き」をもって日常生活を送る。
本来、修行生活で求められる思考とは「気付き」であって、またこれは思考の波から自分を切り離す行でもあるので「思考がありつつも、思考から離れている。思考そのものに影響されない」という「思考を超えた」状態になれます。
グルの意思という外側に追い求める思考を続けるかぎり思考を超えることはできません。
なぜなら外側にはたくさんの刺激とその無限のバリエーションがあるので思考の波はその刺激で動き続けるからです。
本来のグルイズムの型から言えば「Who I am」無き「グルグルグル」など毒でしかありません。

>それは自分で修行して確認していく物だと思いますけれども。

だとしたら、確認できていないものを絶対としてお話しするのはいかがなものかと思いますけど?
あなたは「これは絶対」として話しておられるようですから。

 
>私には宇宙の法則は一つにしか見えませんが、シヴァの喜びだった者さんには幾つもあるという事なのでしょうか?

ですから、一つであることを確認したのですか?
あなたご自身で?
そうでない場合は確認できている内容のみで話をされた方がよろしいですよ。

俺の場合はいろんな原理原則が複雑に絡み合い相互作用している。これが宇宙の実相であると瞑想によって確認しました。
まるで正確な時計の歯車のように。
ですから、全体で一つとも言い切れるし、いくつもの法則があるとも言い切れます。



>正しいか正しくないかではなく、「ヴァジラ・ヤーナとは何か?」という普遍的な話をしているのですが?

そのヴァジラヤーナが本当に本来のヴァジラヤーナである保証はどこに?

>この話では、「ヴァジラ・ヤーナによって成就させる事が出来る正しいグルが居る」という事が一応の前提になっています。 


ヴァジラ・ヤーナによって成就させる事が出来るグルという保証はどこに?

>だから弟子の自我意識を超越させるために、グルはあえて弟子の観念を崩壊させるような(つまり弟子の既存の自我意識を壊すような)指示を出す次第です。

その答えの前提には「正しいグル。その力をもったグル」というものがあります。
その前提は本当に正しいのかはどうやって確認するのですか?サンディタさんは確認しましたか?


>その自我意識を超越する方法が例えば「ヴァジラ・ヤーナ」であり「マハー・ムドラー」であり、なんですけど。
 それに「あなた方の方法」ではなく、普遍的な話をしています。

自我意識を超越するのは別にヴァジラ・ヤーナやマハー・ムドラーじゃなくてもヨーガでも十分しますが?
わざわざ「あなた方の方法」と言ったのは「オウムのヴァジラ・ヤーナやマハー・ムドラーじゃないと」というあなたの考えが混ざっているからです。


>そこで白龍さんの言っている事は、要するに「自分で判断する限り自我意識を超越出来ない」という事です。
 その白龍さんの理屈だと、貴殿の言う「自己の認識、深い認識、気付き」も同様に自分で判断しているからエゴが存在している、故に間違っていると言う事にしかなりませんよ。
 もう少し話の流れを正確に読み取ってから意見を出すようにしましょうね。

瞑想が浅いようですね^^
体験が無いからこういう判断になるのでしょうけど説明しましょう。
「自己の認識、深い認識、気付き」とくに気付き。
これは意識的に観ていく。あるいは100%ここにいる状態をキープするとでも言いましょうか。
痛い、暑い、苦しい、痒いその他の判断が瞑想中には生じてきます(マインドの機能なので日常生活でさえ生じます)
その時にその判断に乗っかって無意識に痛みをかばったりする、これが通常の反応です。
ですが、気付きをもって行う場合、その痛みをじっと観ていきます。
判断を加えずに見ていきます。
最初は痛みに翻弄されますが、そのうち痛みそのものからは意識が切り離されていつか痛みは流れて消えていきます。
この状態には判断機能は静まって限りなくフラットな状態なのでエゴもまたかなりフラット、つまりノーマインド状態です。

あなたはもっと精一杯話の流れを正確に読み取ってから意見を出すようにしましょうね。

>そういう禅的な瞑想は、オウムでの初期の頃から否定していたはずですけど?

でも実際あなたがたは気付きもなしに座っている。
アストラルに飛んで「化身の体験をした!」で喜んでいる。
それは自分のイメージの体験をしただけで、意識的であった訳ではない。
石が座ってるのとなんら変わらない。
意識的に自分のイメージを見ていき、かつそこから離れた状態で、それを通り過ぎさせなければサンスカーラ内の傾向なんて消えません。


>私が言っているのは、ミラレーパも自分の判断で修行に入ったにもかかわらず大いなる達成を得ましたよね?という事なのですが。
 貴殿は、何か大きな勘違いをしているようですね。

勘違いしてませんよ。
結局自分の意思や判断が大事だといっているのです。


> だからここでは「思考の放棄」などの話は誰もしていませんが?

いえ。
俺はあなたがたの「思考放棄」の状態を問題としています。
最初から。


>その「マインドというものの機能」を詳しく御説明願えませんか?

ここでは長くなるので今度ブログに書いておきましょう。
あるいはオウム以外の書籍にも目を通すといいでしょう。
テーラヴァーダの書籍などはその辺を詳しく紹介しているものもあります。
心理学的にもオウムはかなりの遅れがあります。
現代心理学の方がはるかに心の機能について詳しくなっている部分もありますよ。


>これは自己の汚れを落とす段階なので、それで良いのです。

ですから、他人を信頼する前に自分自身が信頼できていないとそれは嘘になってしまう。
だから釈迦牟尼は「自己灯明」を説き、それから法を拠り所としなさい、と説いたのです。
自分自身を信頼していないのに三宝に帰依なんて嘘になるでしょう。


>上記の通り、自分で修行して御確認下さいませ。

これは修行を始める前段階の問題です。
これが確認できないでどうして修行できるのですか?
何をもってグルを信頼・帰依していると言えるのですか?

 
>正しく「グルの意思」を理解し実践し続けるならば、自我意識は消滅(或いは超越)していきます。

その「正しい」は自分の判断でしょ?
ということはあなたは心で心を消そうとしている。止めようとしている。
これは無理なのは理解できますか?
つまり、鶏と卵の関係にも似た話なのですよ。
心で心を止める。でも、その心は止めようと動いている。で、その心を止めようと・・・・・

>それならば今回貴殿がインドの山奥で得られた体験も、同様に「判断・認識作用がある以上それは(汚れた)自我意識」ですね。

ふう・・・。
いいですか?
判断(能動的)と受け入れる(判断を加えずに受け入れる)は意味が大きく違います。


>上記の通り、そういう前提で話をしています。
 実際にオウムのグルが本物であったかどうかという話をしているのでは御座いませんので。

その前提を疑うことは無しにお話しを進めるのはどうかと思いますが?



> 一旦汚れた自分の意識(二元)を放棄して、グルの意識(一元)をインストールする次第です。
 正しい正しくないの話は、上記の通り此処では愚問ですね。 

いえ。
大きな問題です。
我々の魂に関わる問題ですから。
そのインストールする意識が本当に解脱した意識かどうか保証もないのにどうしてそれをインストールするのですか?




>向かえる向かえないではなく、頭だけでは一元の世界を理解出来ないという話をしているのですが?

それはその通りですが、頭なくして一元には向えませんよ。
二元にいるから一元に向えるのです。



> で?

ナルシストでは解脱できません。


>上記の通り、そういう前提でそれ以外の話をしていますので。

上記の通り、その前提に問題があると話しております。

>当該の白龍さんのコメントを読めば分かる通り、ここでは現在のアーレフ教団の話をしています。
 「かつて教団は」という話は場違いなので、悪しからず。

いいえ。
あなたはヴァジラヤーナを話しに出してきている。
それに俺にとってはオウムもアーレフも変わらない。
全部「麻原オウム」です。
麻原をグルとしている限り、その教義を残して実践している限り、それは「オウム」以外の何ものでもありません。
そしてあなたはヴァジラーヤーナやグルの話をしている。
あなたは確実に一人オウムと呼ばれる存在です。

 
>これは興味深い話なので、いつどこでどの様な場面で叫んだのか、情報源は何処なのかなどの詳しい所をお教え頂けないでしょうか?

俺は教団内に残っている友人たちがまだ多くいます。
彼らからの情報です。


 
>教団内では、ミラレパ正大師などは高い成就を果たされていますよね。

それが本当に成就な保証はどこに?
サマディすら証明できないのに?

 
> 数々の予言書に書いてあります。 

結局また外部ですか・・・
・・・いいでしょう、続けます。

預言書に書かれているのが本当に麻原やオウムだという保証はどこに?

>お得意の悪口の羅列、御苦労様です。
 こういう意識状態でインドの山奥で修行されたようですが、サマディには入れましたでしょうか?

コンシャスネスワンネスにはたどり着けました^^



>あと、ヴァジラ・ヤーナの目的はグルのクローンになる事であって、決してグルの所有物やロボットになる音では御座いませんので、お間違えなきよう。

それのどこが所属物と違うのですか?
命令はオリジナル麻原がくだすのでしょ?
りっぱに下僕です。


>貴殿への上記の回答は、教団機関誌にも掲載されている程度の内容ばかりです。
 如何に自分自身が教学が足りていなかったのか、オウムの教義を理解出来ていなかったのかを今一度御自戒下さいませ。


ふう・・・。
負け惜しみはよした方がいいですよ。
俺に言わせれば「あなたは気付き」が足りない。
それに教団のどの部部にも書いてないこと俺は言っているはずです。
機関紙に載っている程度ならなぜあなたが俺を折伏できないのですか?
おかしいでしょう?




>ま、基本的な教義が理解出来ていなかったからこそ、今の状況に到るのでしょうけれども。
 兎に角、わざわざコメントするのも馬鹿馬鹿しくなるような誤読と誤解が多すぎます。
 先の白龍さんとの議論よりも空しく感じるのは、その為だと思われます。

それはどうも。
あなたはどうにも思い込みが激しいだけの夢想家のようですが、基本的な教義というよりも基本的な心構えや思考を磨かれた方がよろしいのでは?
過去のどなたとの議論よりも空しく感じるのは、その為だと思われます。

>だから「正しいグルが居る」という前提で話をしているのだから、それは愚問なんですって。

ですから、その前提に問題を投げかけているのですよ。
繰り返すことで気付くこともあるのでねw


>盲信と言いませんか?
盲信のどこが悪い!と言われればそれまでですが。

盲信は悪いですよ。
信頼というものの本質を知らずして相手に全てを委ねているのですから。

↑それ

サンディタさんに宛てたレスです。

でも

シヴァの喜びだった者さん、さんくす

そうだよね~
盲信は怖いよね~

ありゃ

それは失礼しました

サンディタさんを知る方から彼のことでメールがありました。

どうも特殊な方みたいなのでもう彼との対話はやめておくことにしますw

シヴァの喜びだった者さん

そんなことも分からないんですか。



な~んだ

これから特設掲示板作ろうかと思ったのに…

>そんなことも分からないんですか。

そうやたらと特殊な方はいないと思ってるのでw

無心論

個人的印象を述べ、もって
より多くの精進と反省を深めることを行ないたいと今思います。

幸か不幸かよく分からないがサンディタさん、シヴァの喜びだった者さんのご見解を拝聴することができました。
拝聴できたことのみをもって、深く感謝致します。

抱いた印象は、う~ん。なんか違うような?
これ以上は表現不能かな。

そうは言っても、我々の周りの整えられるすべての現実の現象は、個々人にとって、自らの心の現われ以外は、感受不能なんだから、
私自身の傾向を教えてくれる導師であることに変わりはありませんので、心より、深く感謝致します。

ちょっと気になる主題にコメントして、今後はロムに徹しようかなと思っています。

> その「マインドというものの機能」を詳しく御説明願えませんか?

菩提達磨「無心論」 には、

---------
 (真)理はものをいわぬ。人の言葉に託して(真)理をあらわにせねばならぬ。大道は固有の形をもたない。俗を導くには人の身体があらわとなる。今は二人に託して、お互いに無心の道理を語らしめよう。
弟子は先生にたずねる、「心は有るのですか、ないのですか」
答え「無心だ」
問い「無心なら誰が見たり聞いたり記憶したり判断したりするのです。誰が無心だと判断します」
答え「やはり無心が見・聞・覚・知する。無心が無心だと判断する」
問い「無心なら見・聞・覚・知することは無いはずです。どうして見・聞・覚・知することができます」
答え「わたしは無心でも、見ること、聞くこと、記憶すること、判断することができる」
問い「見・聞・覚・知できるからには、つまり心が有るでしょう。どうして無いといえます」
答え「ほかでもない、見・聞・覚・知することがつまり無心なのだ。見・聞・覚・知するもの以外に、どこに無心があるものか。君には恐らくわかるまいがゆえに、ひとつずつ君に説明して、道理を悟らせてあげよう。まず、見るといういうのは、一日じゅう見どおしでも見るものが無いのであって、見ていて無心なのだ。聞くというのは一日じゅう聞きどおしでも聞くものが無いのであって、聞いていて無心なのだ。記憶するというのは、一日じゅう記憶しどおしでも記憶するものがないのであって、記憶して無心なのだ。判断するというのは、一日じゅう判断しどおしでも判断するものが無いのであって、判断して無心なのだ。一日じゅう意志を働かせどおしで、意志しながら意志するものが無いのであって、意志して無心なのだ。これを見・聞・覚・知しながら全く無心だという」
問い「どうして無心だとわかるのです」

答え「君ひとつ、くわしく探してごらん。心はどんな顔をしている。またそいつは見つかるのか。心なのか、心でないのか、内にいるのか、外にいるのか、それともその辺いるのか、そんなふうにして三方に心を探して求めても、さっぱり見つかりはせぬ。してみると、それが無心だとわかる」

・・・・・・・・

弟子はここに至って、忽ち大いに悟る。はじめて、心のほかに物なく、物のほかに心のないことに気づく。起居動作のすべてが思いのままとなり、もろもろの疑いが吹っきれて、何のさまたげもない。すぐに起ちあがって敬礼すると、彼は「無心」と題して次のような歌をよむ。

 心とはいとも静かで、いろかたちが無い。
 眼をすえても見えず、耳をかたむけても聞こえぬ。
 暗いようで暗くはないし、明るいようで明るくもない。
 捨てようとしても無くならないし、取ろうとしても姿を見せぬ。
 大きいとなると法界にゆきわたり、小さいとなると毛の端ほども姿を留めぬ。
 迷いがかきみだしても濁らないし、寂滅の境におちついても、済まぬ。
 真なるものとして、もともと分別することなしに、
 心あるものと心なきものをちゃんと処理する。
 しまいこむ何も残らないし、散らばると一切の生き物にゆきわたる。
 不可思議は智恵ではかれず、大覚は修行のみちをたちきる。
 姿が消えても壊れたわけではないし、姿が現われてもできあがったわけでもない。
 大道はひっそりと、固有の形がなく、現実はとほうもなくて、名づけようがない。
 かくて自由に運動するもの、これぞすべてが無心の精だ。
---------

わたしはこのやり取りにとても深いものを感じます。
すべての人は、心をあると感じているという意味で無心ではないのですが、それでも菩提達磨の系統はこのような方向で進みます。マハームドラ・ゾグチェン・アティヨーーガ・古神道などなどの真実に達したその人たちそのものとの類似性をみます。

松本氏はガンコトリから還ったとき故ダンテスダイジ氏に会って、報告していますが、ダンテスダイジ氏はまったく相手にしませんでした。ガンコトリでの松本氏の体験に対して少なくとも称賛も非難もしませんでした。

当時86年頃から95年頃までの松本氏の到達していた境地に対して、否定も肯定も称賛も非難も私はするつもりはありません。
ただし、導き手としてわたしが松本氏を選んだ事実は認めます。

今も導き手か?と問われれば、違うと答えるだけです。
なぜなら直接問答不能な相手を未来を選択する導き手と認められないからです。
他の人を探すつもりもありません。
しかし松本氏への感謝はありますが、
彼の間違いをよく知っています。よって、わたしはその間違いを彼への感謝故に
同じ迭踏まないために教師にしているに過ぎません。

よって、グルの意思なるものは松本氏の言動や親族血族の言動にあるのではなく、わたし自身が真実と認められるダルマに従うのみです。


> ヴァジラ・ヤーナの目的はグルのクローンになる事であって、決してグルの所有物やロボットになる音では御座いませんので、お間違えなきよう。

クローンとはなにを意味するか知って書いているのかな?
論破する気力も涌きません。

> そのインストールする意識が本当に解脱した意識かどうか保証もないのにどうしてそれをインストールするのですか?

解脱した意識かどうか保証があるべきである
必要がどこにあるのかな?

解脱したとか悟りを得た意識なるものは、それに触れるか接するか話せば感じ取る直感がみなすもので、実体はないものです。

しかし渇望と落胆の除去したものであれば、
かならず他者が好意を示し

「あなた何かしてますか?良かったらわたしに教えて下さい」

と聞いてくるその人に真実があるものでしょう。

そのときはじめて他者の苦悩からの解放にお手伝いできる状態が構築されていることになる客観的証明となるのでしょう。



河本理治さん

>解脱した意識かどうか保証があるべきである
必要がどこにあるのかな?


俺が保証は?と繰り返すのは、当然そんな保証など存在しないことを承知の上です。
では何故繰り返すのか?
これは他人を信じるためには自分を信じなければならいことの気付きを生じさせるためにやっています。
そして、自分自身を信じることができると他者への依存とその中毒(つまり洗脳から)から解放されるキッカケが生じるからです。
自分認識する、信じる、自分で感じる、自分で考えるということは自分を取り戻すことに繋がるからです。

元サマナさま、腹筋さま、VT正悟師さま

元サマナさま
>サンディタさんも白龍さん、シヴァの喜びさん、VT正悟師のようにブログを出して、ご自分の見解を系統立てて発信していただけないでしょうか?
 申し訳有りませんが、私は未だに公の場で系統立てて紹介出来るほど法則を体現しておりませぬ故、御希望の件については折角ですが遠慮させて頂きます。
 VT正悟師も何か勘違いされているようですが、私は別に自分自身の見解を不特定多数の他者に向かって公表したいという希望は一切御座いません。
 ただ僅かでも真摯に法則を求める人がいらっしゃるのなら、私の拙い経験がその人の一助になれば幸いだという思いで投稿させて頂いている次第です。

 ただし、別の趣向の個人blogを出す計画は有ります。
 それは未だ全貌が明らかでない一連のオウム事件について、連絡の取れる教団側の事件関係者に直接会ってその人がどの程度事件に関わったのかについてインタビューを行い、それをまとめて公表するという物です。
 それらの一次証言によって未だ解明されない部分が多い一連の事件に光を当てて教団の裏の姿を明らかにすると共に、当人達の贖罪の場を与えるというのが目的です。
 ただし今は私も日々の生活に追われて余裕が無いので、この計画が実現するのは早くても来年以降になるかと思います。

腹筋さま
>貴方がもし全ての他者の為にヴァジラヤーナでの解脱への階梯を事細かに解説してくれるのなら、それは貴方にとっても他者にとっても利益のあるものとなるでしょう
 この談義の最初の最初に書かせて貰いましたが私はヴァジラ・ヤーナについては全体の極一部しか存じませんので、「ヴァジラヤーナでの解脱への階梯を事細かに解説」する事は今の私には出来ません。

>上記の「マハームドラー」を受けている最中に、もしくは受けた後に瞑想状態には入りました?
>腹筋の仮説、というか経験ではその場で瞑想が起きます
 粗雑次元で日常生活を送りながら瞑想状態に入っていた事は御座いますが、綺麗に瞑想状態に入った事はあまり有りません。
 
>そういうものを教団にも求めていたのですが、どうもそういう要素を感じさせてくれる人があまり・・・というかほとんどいなくて
>「これはグルのマハームドラーなんだー!!」
>っていう観念で頑張っちゃう人はいっぱい聞きますが
 そういう一種の勘違いも帰依を培う意味に於いては良いのかも知れませんが、「これはグルの意思だ!マハームドラーだ!」と言いながら他のサマナに邪悪心を向けて非難罵倒するような人は困りものでしたね。

>あとマハームドラーの瞑想をやられている方は今教団にどのぐらいいるのですかね?
>あんまそーいう話も聞かなかったもので 
 私も誰それがマハームドラーの瞑想をしているという話はあまり聞きませんでした。

VT正悟師さま
>これから特設掲示板作ろうかと思ったのに…
 どうせなら教義問題全般についての特設掲示板を開設された方がよろしいのでは?

シヴァの喜びだった者さま、名無しさま

>読解力不足です。
>もう一度読んでください。
 「それは誰が判断しますか?」だけでは何度読んでも深い意味合いまではとても理解出来ないから質問しているのですが、それに答えられないという事は要するにシヴァの喜びだった者さんは自分の発した言葉に付いてすら上手く解説出来ないという事なのでしょうか?

>繰り返します。
>それは誰が判断しますか?
>つまり、あなたです。
>汚れているからうんぬんではなく、判断機能というマインド、特にエゴの根幹に関わるものを使っています。
>この時点であなたのいうグルの意思とは「グルの意思と名づけられたあなたのエゴ」になります。
>そこで、「それは誰が判断しますか?」と聞いています。
 ではシヴァの喜びだった者さんは判断機能は全てエゴだという御見解なのですね。
 それならば、生物の行為には必ず判断機能というマインドが働きますから、シヴァの喜びだった者さんの行う全ての行為も全てエゴだという事になりますな。
 そしてその見解は上記の通り仏教やヨーガの否定に繋がっていく次第です。

>いえ。
>それは無理です。
>外側に求めている限りそれは失敗の連続になるだけです。
 ここでいう成功や失敗は「グルの意思の達成」についてであり、シヴァの喜びだった者さんのいう内部探求の事では御座いませんので、悪しからず。

>必要なのは内側に求めることで、この場合で言えば「何故ここで失敗するのだろう?これは自分のサンスカーラの傾向だろうか?それともカルマか?」と内部を探求することが必要です。
>ですが、オウムの場合「救済だ!グルの意思の実践だ!」で外側にのみ追い求めてしまう。
>あなたは「同じことを言ってるのに過ぎない」と言うでしょうが、内部探求の場合は受け入れるという姿勢で、オウムの場合はグルの意思という外側の探求になっている、しかもそれは自分たちは修行者で救済者だというエゴを満足させる道になっていることに気が付いていない。
>この両者は大きく違います。
 グルの意思を実践している途中で自分の内側の汚れが表出して現象が進まなくなる事があります。
 その時に受け手である弟子は「何故ここで失敗するのだろう?これは自分のサンスカーラの傾向だろうか?それともカルマか?」と内部を探求する次第です。

>あなたは自分たちの実践が思考の放棄であることに気が付いておられない様子ですね。
>「グルの意思とは何か?」もうこの段階で思考放棄です。
>本来修行者が思考せねばならないのは「Who I am」であってグルはその手助けをするだけの存在です。
>一日中「グルグルグル」とやっているのは内部探求にはなりません。
 「自分達の実践」ではなく、普遍的な話をしているのですが?
 シヴァの喜びだった者さんのそのお考えだと、例えばチベットのミラレーパがグルであるマルパの意思を実践しようとした事でさえ「思考の放棄」だったという事になってしまいますね。
 おそらくシヴァの喜びだった者さんは未だにオウムの事ばかりが頭にこびり付いているので、私が普遍的な視点で話をしている事が理解出来ないのだと思われます。

>いいえ。
>瞑想中にカルマやサンスカーラの傾向は立ち現われるものですから十分「気付き」をもって瞑想に励むなら割と初学から自分のサンスカーラの傾向を知ることができます。
 その瞑想中に知る事が出来る事を現実生活の中で証知させるのがマハー・ムドラーなのですが。

>石のように座っているだけの瞑想だから自分の傾向は見えてこないのですよ。
 オウムの修行にはその様な物は無かったと思いますが。
 シヴァの喜びだった者さんは尊師から個人的に瞑想を伝授されていながら一体何を修行してきたのでしょうか?
 それとも単にシヴァの喜びだった者さんが邪悪心から白かった物を黒かったと虚言を吐いているだけなのでしょうか?(そういう傾向で発言するというコメントはこのblogにも御座いましたが)

>「気付き」を持って修行、瞑想する。
>「気付き」をもって日常生活を送る。
>本来、修行生活で求められる思考とは「気付き」であって、またこれは思考の波から自分を切り離す行でもあるので「思考がありつつも、思考から離れている。思考そのものに影響されない」という「思考を超えた」状態になれます。
>グルの意思という外側に追い求める思考を続けるかぎり思考を超えることはできません。
>なぜなら外側にはたくさんの刺激とその無限のバリエーションがあるので思考の波はその刺激で動き続けるからです。
 その「気付きを持って修行・瞑想し、日常生活を送る」というのは、あくまも基本中の基本に過ぎません。
 マハー・ムドラーなどはそれ以上の段階の話です。

>本来のグルイズムの型から言えば「Who I am」無き「グルグルグル」など毒でしかありません
 それはその通りです。(オウムでも「Who I am」は修行の基本だと説かれていました。)
 それを踏まえた上でグルイズムを主体とした修行に入る訳です。
 
 
>だとしたら、確認できていないものを絶対としてお話しするのはいかがなものかと思いますけど?
>あなたは「これは絶対」として話しておられるようですから。
 何か勘違いしていらっしゃるようですが、法則については私はあくまでも自分で確認した上でお話ししておりますが?
 
>ですから、一つであることを確認したのですか?
>あなたご自身で?
>そうでない場合は確認できている内容のみで話をされた方がよろしいですよ。
 はい、私自身で確認した上でお話ししております。
 未だサマディに入れずコーザルを体験出来ない人には理解出来ないかも知れませんが。
 サマディに入れないなら宗教的に無意味ですので、私はそういう人は宗教論議をする資格が無いと思います。
(と言っても私も突発的にしかサマディに入れませんでしたけれども)

>俺の場合はいろんな原理原則が複雑に絡み合い相互作用している。
>これが宇宙の実相であると瞑想によって確認しました。
>まるで正確な時計の歯車のように。
>ですから、全体で一つとも言い切れるし、いくつもの法則があるとも言い切れます。
 私はそれを全体で一つだと認識している次第です。

>そのヴァジラヤーナが本当に本来のヴァジラヤーナである保証はどこに?
 過去の聖者方の例も踏まえた上でお話しさせて頂いております。

>ヴァジラ・ヤーナによって成就させる事が出来るグルという保証はどこに?
 特定のグルが「ヴァジラ・ヤーナによって成就させる事が出来るグル」かどうかという話をしているのではなく、ヴァジラ・ヤーナというものはどういう物かという話をしている次第です。
 「本当にヴァジラ・ヤーナによって成就する事が出来るかどうか」という話すらしておりません。
 もしそういう事に疑問を持たれたのでしたら、白龍さんとの会話に横から割り込んで来て自分勝手な設問をするのではなく、改めて質問をし直すべきではないのでしょうか?
 でないと、こちらも回答のしようがありません。
 
>その答えの前提には「正しいグル。その力をもったグル」というものがあります。
>その前提は本当に正しいのかはどうやって確認するのですか?サンディタさんは確認しましたか?
 だからあくまでも「正しいグル、その力をもったグルが居る」という前提でヴァジラ・ヤーナの解説をしているだけですので、ここではそんな質問は全く意味が無いです。
 もし「本当に正しいのかはどうやって確認するのですか?」と質問したければ、白龍さんとの会話に割り込んで来るのではなく、また項を改めてから御質問し直して下さいませ。

>自我意識を超越するのは別にヴァジラ・ヤーナやマハー・ムドラーじゃなくてもヨーガでも十分しますが?
 それはそうですが、ヴァジラ・ヤーナやマハー・ムドラーは非常に早く結果が出ます。

>瞑想が浅いようですね^^
>体験が無いからこういう判断になるのでしょうけど説明しましょう。
>「自己の認識、深い認識、気付き」とくに気付き。
>これは意識的に観ていく。あるいは100%ここにいる状態をキープするとでも言いましょうか。
>痛い、暑い、苦しい、痒いその他の判断が瞑想中には生じてきます(マインドの機能なので日常生活でさえ生じます)
>その時にその判断に乗っかって無意識に痛みをかばったりする、これが通常の反応です。
>ですが、気付きをもって行う場合、その痛みをじっと観ていきます。
>判断を加えずに見ていきます。
>最初は痛みに翻弄されますが、そのうち痛みそのものからは意識が切り離されていつか痛みは流れて消えていきます。
>この状態には判断機能は静まって限りなくフラットな状態なのでエゴもまたかなりフラット、つまりノーマインド状態です。
 そのプロセスを現実生活の中で体現するのが、マハー・ムドラーです。
 その為の方法が「グルの意思の実践」だという事です。

>でも実際あなたがたは気付きもなしに座っている。
>アストラルに飛んで「化身の体験をした!」で喜んでいる。
>それは自分のイメージの体験をしただけで、意識的であった訳ではない。
>石が座ってるのとなんら変わらない。
>意識的に自分のイメージを見ていき、かつそこから離れた状態で、それを通り過ぎさせなければサンスカーラ内の傾向なんて消えません。
 随分浅い瞑想修行をされていたのですね。
 「自分のイメージを見ていき、かつそこから離れた状態で、それを通り過ぎさせる」ような修行はオウムでも行われていましたけど。



>勘違いしてませんよ。
>結局自分の意思や判断が大事だといっているのです。
 で、他方では「判断機能は全てエゴ」だと全否定なさると。
 それを矛盾だと申している次第です。

>俺はあなたがたの「思考放棄」の状態を問題としています。
>最初から。
 だから的外れな質問ばかりしているのですね。
 「ヴァジラ・ヤーナとは何か?」という命題で話をしている所に勝手に横レスをして来て、勝手に「私の主張」をし始めると。
 これはカルト信者の典型的な例ですが、何か変な宗教でもされていたのですか?


>ここでは長くなるので今度ブログに書いておきましょう。
>あるいはオウム以外の書籍にも目を通すといいでしょう。
>テーラヴァーダの書籍などはその辺を詳しく紹介しているものもあります。
>心理学的にもオウムはかなりの遅れがあります。
>現代心理学の方がはるかに心の機能について詳しくなっている部分もありますよ。
 その記事が書けましたら、是非御紹介下さいませ。

>ですから、他人を信頼する前に自分自身が信頼できていないとそれは嘘になってしまう。
>だから釈迦牟尼は「自己灯明」を説き、それから法を拠り所としなさい、と説いたのです。
>自分自身を信頼していないのに三宝に帰依なんて嘘になるでしょう。
 「自己を帰依処とする」は基本中の基本です。
 それが出来た人がヴァジラ・ヤーナを実践する次第です。
 オウムの例でも、「ヴァジラ・ヤーナの基本は自分だ」と説いている説法も御座います。

>これは修行を始める前段階の問題です。
>これが確認できないでどうして修行できるのですか?
>何をもってグルを信頼・帰依していると言えるのですか?
 誰でも修行を始める前は、グルに対する100%の信は持ち得ないはずです。
 修行などで得た自分の体験によって、信や帰依を深め培っていく次第です。
 
>その「正しい」は自分の判断でしょ?
 法則に則ってグルが判断すると書いたはずですが?
 
>ということはあなたは心で心を消そうとしている。止めようとしている。
>これは無理なのは理解できますか?
>つまり、鶏と卵の関係にも似た話なのですよ。
>心で心を止める。でも、その心は止めようと動いている。で、その心を止めようと・・・・・
 また誤読の挙げ句に袋小路に迷い込んでしまわれたようですね。

>ふう・・・。
>いいですか?
>判断(能動的)と受け入れる(判断を加えずに受け入れる)は意味が大きく違います。
 上記では、グルの意思を「受け入れる(判断を加えずに受け入れる)」際にも判断機能というマインドが働いてエゴになるというお話でしたけど。
 シヴァの喜びだった者さんは言っている事に矛盾が多いですね。

>その前提を疑うことは無しにお話しを進めるのはどうかと思いますが?
 オウムのグルの真偽についてはまた別の話ですから、此処ではしておりませぬが?


>いえ。
>大きな問題です。
>我々の魂に関わる問題ですから。
>そのインストールする意識が本当に解脱した意識かどうか保証もないのにどうしてそれをインストールするのですか?
 だから「正しいグルである」という前提で「ヴァジラ・ヤーナ」とはこういう物だよ、という普遍的な話をしている次第です。
 話の流れとは別の問題を話したければ、横レスをするのではなくて改めて質問し直しましょうね。


>それはその通りですが、頭なくして一元には向えませんよ。
>二元にいるから一元に向えるのです。
 それは頭だけの間違った理解では一元に世界には入れないというお話です。


>ナルシストでは解脱できません。
 だから新垣君は解脱出来無かったのですね。

>上記の通り、その前提に問題があると話しております。
 普遍的な話をする場合、そういう前提で話をするしか無いのですが?

>いいえ。
>あなたはヴァジラヤーナを話しに出してきている。
>それに俺にとってはオウムもアーレフも変わらない。
>全部「麻原オウム」です。
>麻原をグルとしている限り、その教義を残して実践している限り、それは「オウム」以外の何ものでもありません。
 でも現在のアーレフではヴァジラ・ヤーナを否定していますよ。
 それは過去のオウム真理教と現在のアーレフ教団はイコールでは無いと言う事です。

>そしてあなたはヴァジラーヤーナやグルの話をしている。
>あなたは確実に一人オウムと呼ばれる存在です。
 屁理屈をこねた挙げ句、全く別の結論というか主張をし始めましたね。
 もう少し筋道を立てた論理的な話が出来るようになってからお話下さいませ。
 
>俺は教団内に残っている友人たちがまだ多くいます。
>彼らからの情報です。
 で、「いつどこでどの様な場面で叫んだ」のですか?
 私もこの件については興味が御座いますので、是非お教え頂きたいです。

 
>それが本当に成就な保証はどこに?
>サマディすら証明できないのに?
 では、他例としてヴァジラ・ヤーナで解脱したとされるナーローパ、マルパ、ミラレーパの系統はどうでしょうか?
 
>結局また外部ですか・・・
>・・・いいでしょう、続けます。
 私の内部体験では証明にならないので、外部の客観的な情報源を提示した次第ですが。

>預言書に書かれているのが本当に麻原やオウムだという保証はどこに?
 「予言書に書かれている事が、オウムや麻原尊師だ」という話ををしておりませんが?
 「予言書には「本来のヴァジラ・ヤーナ」である「聖と邪の戦い」が記されている」という話です。

>コンシャスネスワンネスにはたどり着けました^^
 是非その状態を詳しく御説明頂きたいですね。
 御自身のblogに掲載されてますでしょうか?

>それのどこが所属物と違うのですか?
>命令はオリジナル麻原がくだすのでしょ?
>りっぱに下僕です。
 例えばオウムの場合ですと、良くも悪くも尊師と同等の状態の弟子が沢山出来るという訳です。
 意味が理解出来ますでしょうか?
 
>ふう・・・。
>負け惜しみはよした方がいいですよ。
>俺に言わせれば「あなたは気付き」が足りない。
 体験はありますので、お構い無きよう。

>それに教団のどの部部にも書いてないこと俺は言っているはずです。
>機関紙に載っている程度ならなぜあなたが俺を折伏できないのですか?
>おかしいでしょう?
 「機関紙に載っている程度の内容」すら理解出来た居なかった人間が「教団のどの部部にも書いてないこと俺は言っている」と言っても、負け惜しみにしか聞こえませんよ。
 それに私は別に貴殿を折伏する気など御座いませんので。

> サンディタさんを知る方から彼のことでメールがありました。
>どうも特殊な方みたいなのでもう彼との対話はやめておくことにしますw
 何故他人を評するのに自分で実際に見聞きして判断するのでなく、外部の友人とやらの評価に流されてしまうのでしょうか?
 真理の実践者としてそれはどうかとは思います。
 本気で真理を探究する気は御座いますか?

名無しさま
>盲信と言いませんか?
>盲信のどこが悪い!と言われればそれまでですが。
 特定の人物を「正しいグルであると前提」している訳では御座いませんので、盲信云々というお話は的外れです。
 

これが問題の元凶です

>「予言書には「本来のヴァジラ・ヤーナ」である「聖と邪の戦い」が記されている」という話です。

はい。一言、
「聖」「邪」と区別して、結果
聖が勝つ
邪が勝つ。
どちらか が起きました。

これって、みなが心を解放して行くことへ
なにか素晴らしい貢献ができるのでしょうか?

わたしには苦悩を提供するのにとても役立つように思えます。

はい、ここまでは確かですね。
で、心を解放して行くことへ尽力することはどうするの?


みんな

サンディタはスルーしよw

サンディタと論争しても苦しみが増大するだけだよw


タターガタ・アビダンマ第四誦品 
「真理のすべて」

第九  論争


向煩悩滅尽多学男たちよ、論争の話を主張してはならない。

「あなたはこの法則と修行を認識していないが、わたしはこの法則と修行を認識している。
 どういう訳で、あなたはこの法則と修行を認識するつもりであろうか。あなたは誤謬に従っており、わたしは正しく従っている。前もって発言すべきものを後に言い、後に発言すべきものを前もって言った。わたしの言行は一致しており、あなたの言行は一致していない。あなたによって慣習は改変された。あなたの教義は論破された。教義の履行のために、動き回って生活しなさい。あなたはたしなめられた。もし結果として生じるならば否定しなさい」と。

これはどうしてか。

向煩悩滅尽多学男たちよ、この話は利益を伴わず、神聖行の最初ではなく、現世否定・離愛著・滅尽・臨寂静・証智・正覚・煩悩破壊に至らしめることはないのである。

(中略)

向煩悩滅尽多学男たちよ、だから

「これは苦しみである」と専心すべきである。
「これは苦しみの生起である」と専心すべきである。
「これは苦しみの滅尽である」と専心すべきである。
「これは苦しみの滅尽に至る方法である」と専心すべきである。


◎論争に対する戒め

 この経典の内容は、論争を戒めたものである。

 なぜ論争を戒めるのか。

 それはもともと論争というものが外側に属するものであり、内側の五つのとらわれの集積を止滅するものではないからである。

 例えば、言行が一致していようが一致していまいが、他人のことはどうでもいいのである。つまり自己の解脱を求める者は、自分自身の五つのとらわれの集積を捨断し、そして煩悩破壊に至らしめるべきであって、他の人のことはどうでもいいのである。


 おれたちもサンディタも真理を分かっていない未熟者ってことだよw

2ちゃんより転載

255 :神も仏も名無しさん:2007/05/18(金) 10:25:26 ID:2zSFDrka
サンディタのネットデビューは衝撃的だったw
ホーリーネームを堂々と名乗って「グルイズム肯定発言」「ヴァジラヤーナ肯定発言」を
多くの人が見るVTブログでし続けている。

サンディタにはオウムの潜在的危険性を社会に認知させて、教団の崩壊をどんどん促して
ほしい。

サンディタよ、君こそ哀れなサマナ・信徒と社会を苦しめ続ける悪の教団を破壊する救済者だ!!
みんなでエリート教団破壊工作員サンディタを応援しよう!!

ぜひ!

>それは未だ全貌が明らかでない一連のオウム事件について、連絡の取れる教団側の事件関係者に直接会ってその人がどの程度事件に関わったのかについてインタビューを行い、それをまとめて公表するという物です。
>それらの一次証言によって未だ解明されない部分が多い一連の事件に光を当てて教団の裏の姿を明らかにすると共に、当人達の贖罪の場を与えるというのが目的です。

これをやった教団関係者はいまのところいません。
本来は教団挙げてやらなくてはいけなかったことだと思います。
ぜひ、ブログ上で明らかにしていただきたいです。

改めて皆さん

面白がってサンディタさんを持ち上げるのはやめときましょうよ。
病状が悪化しちゃいますから。
「そーだねそーだね、えらいねえらいね」って安心させてあげつつ充分な休養をとらせてあげることが一番です。

サンディタに対する評価

337 :神も仏も名無しさん:2007/05/19(土) 00:41:41 ID:GV5tmTCD
サンディタがなんかやらかしてる聞いて野田ブログを見にいきますた。
しかしアホまる出しの長文が目に入った瞬間に読む気半減。
なんでオウム脳は無意味に文章が長いんだ。

348 :阿佐谷北本人 ◆Kcjlum1seI :2007/05/19(土) 04:26:06 ID:RSK8EN+n

>>337
 あの人は基本的に馬鹿だけど、自分に正直な所だけは他の教団の師よりもマシかモナ


サンディタに対する評価その2

「サンディタ、あれは無理。イッちゃってるから。妄想癖あるから放っておくのがいいよ。彼に真理を説くなんて無益。いや、逆に毒。自分の知らないこと言われるとあたかも最初から知っていたかのように振舞うしなんでもかんでも教義の初歩にするから」

河本理治さま、おれたちみんな未熟者さま、名無しさま、白龍さま

河本理治さま
>わたしには苦悩を提供するのにとても役立つように思えます。
>はい、ここまでは確かですね。
 いいえ、それは聖と邪の定義をよく理解なさっていないだけでなく、現象の上っ面だけを見ただけの御意見だと思います。
 問題の元凶は、むしろこういう教義の表面的な理解に有るのではないでしょうか?

>これって、みなが心を解放して行くことへ
>なにか素晴らしい貢献ができるのでしょうか?
 闘い自体は、「心の解放」とは直接関係が御座いません。
 闘いはあくまでも途中のプロセスであって、それが全てでも最終目的でも御座いませんから、それのみを取り出して論じても全く意味が

御座いません。

>で、心を解放して行くことへ尽力することはどうするの?
 闘いの前、あるいは闘いの後に聖なる社会を実現する段階で行われます。

おれたちみんな未熟者さま
>おれたちもサンディタも真理を分かっていない未熟者ってことだよw
 「論争」ではなく、質問に答えるという形で「解説」を行っていたのですが。 
 まあ、シヴァの喜びだった者さんなどは最初から邪悪心・闘争心で場違いな論争を嗾けて来ましたけれども、結局彼は私の話の趣旨が全

く理解出来ず、論旨も支離滅裂でしたね。
 さすがにこの時は私も決意の「宗教論争には興味を持たないぞ!」という一文が何度も頭に浮かびました。

 ちなみにシヴァ喜びだった者さんは、例えるなら私が少々難しい野球のルールの解説を白龍さんにしている所に突然横から割り込んでき

て、「あなた方の野球は間違っている!」「そのルールが正しいという保証は?」などと的外れな難癖を付けて来たような物でした。
 結局自分から嗾けて来た議論を勝手に放棄して逃走しちゃいましたけど、これで「オレはサンディタをなます切りにしてやった!」とで

も思ってらっしゃるとしたら、相当にお目出度いというか哀れな人なんだな、と思います。
 私に対する個人的な非難・中傷ですら的外れなのですから、カルマ落としとしての効果もあまり期待出来ないような程度の低い投稿ばか

りでしたね。
 おそらく彼は二度に渡るオウムでの挫折経験が未だに大きなコンプレックスとなっているんでしょうな。
 そんな意識状態だから、単に「ヴァジラ・ヤーナとは何か?」の説明をしているだけなのに私がオウムのグルイズムやらヴァジラ・ヤー

ナやらを未だに全肯定していると勝手に誤読・誤解してしまったのでしょう。

>例えば、言行が一致していようが一致していまいが、他人のことはどうでもいいのである。
>つまり自己の解脱を求める者は、自分自身の五つのとらわれの集積を捨断し、そして煩悩破壊に至らしめるべきであって、他の人のこと

はどうでもいいのである。
 それは全くその通りです。
 そして私は一応解脱させて頂きましたから、その範囲内で己が知っている法則を述べているだけです。

名無しさま
>ホーリーネームを堂々と名乗って「グルイズム肯定発言」「ヴァジラヤーナ肯定発言」を
>多くの人が見るVTブログでし続けている。
 他の掲示板からの転載、御苦労様です。
 この様に、全体の極一部だけを見て勝手に誤解していく人って結構多いんですね。
 それだけ世の中に無智が蔓延しているって事でしょうけれども。

白龍さま
>これをやった教団関係者はいまのところいません。
>本来は教団挙げてやらなくてはいけなかったことだと思います。
>ぜひ、ブログ上で明らかにしていただきたいです。
 でもおそらくこれをしたら教団からはまた魔境扱いされると思います。
 教団は昔から「自分たちの指示と違う事をする奴は、魔境だ。」という考えですからね。

おーい、みんな

サンディタは完全スルーね、よろしく!!

  ↑  ↑  ↑ 

名無しさま
>サンディタは完全スルーね、よろしく!!
 それは既に「完全スルー」とは言わない(笑

独り言
パスを入れ忘れたので、行間が空いてしまった先のコメント
http://alephnoda.blog85.fc2.com/blog-entry-50.html#comment1025 )
を編集出来ない・・・・

サンディタと名乗りたがる者へ

>いいえ、それは聖と邪の定義をよく理解なさっていないだけでなく、現象の上っ面だけを見ただけの御意見だと思います。
> 問題の元凶は、むしろこういう教義の表面的な理解に有るのではないでしょうか?

たしかに表面的な理解に、問題があるのは間違いありませんが、取り違えている部分が膨大です。
また、
松本氏自身意図的か、その時点では信じていたのかも知れないが、偏った見解を早くから(86年87年頃から)吹聴していました。維摩経、法華経の偽経或いは偽経部分が多いという発言、般若心経を小乗経典であるとする解説などなど、随所に意図的と邪推しなければいけないような、解釈を展開しています。

これは、私が正しい、他は間違っている。或いは正しいのは一つでそれに適合しないのは間違いとする誤謬を数多く展開し、結局、数多くの生命を奪う行為を続けてしまった事実があります。
ここにおそらく転輪聖王或いはシヴァ神と異ならないとする瞑想成就による、多くの弊害がいまだに尾を引いているのです。


個人的見解を一言で謂えば、

自他共がみな備えている、
本来光り輝く自分自身である
円成実性を認めることです。

この円成実性は、6ヨーガ(中間の生存)或いはバルドーイニシエーションを知っている人は文字ぐらいは見たことがあるでしょう。

真如=真とは真実なることを謂い、虚妄に非ざることを顕わす。如とは如常なることを謂い、変易無きことを表わす。謂わく、これ(円成実性)は真実にして、一切の位に於いて常にその性の如し、故に真如という」ということです。

「円成実性」とは心性を指します。つまり心の本性が真実であって、諸仏の位においても、菩薩の位においても、凡夫の位においても、清浄という点で不変であるように、いかなる場合にも常に同一性を保つ(如常、常の如し)あり方を真如といいます。

わたし流の表現をで言えば、

いかなる極悪人もいかなる聖人も等しく真如であることに変わりはない。
その普遍性を赦し認め受け入れ仲良く出来るかどうかにすべてがかかっているのです。

他者が間違っているのは、私が間違えているのであって、本来
聖も邪もあるように見えているだけです。

ということです。

そして聖と邪の定義なんてものはまったく関係ないのです。
ところで、あなたを害する人を心から許せますか?


>闘いはあくまでも途中のプロセスであって、それが全てでも最終目的でも御座いませんから、それのみを取り出して論じても全く意味が御座いません。
>闘いの前、あるいは闘いの後に聖なる社会を実現する段階で行われます。

万歩ゆずってそうだとしましょう。

他者に、特にサリン事件で被害にあった遺族に面と向かって
わしたちは、闘いの後に聖なる社会を実現する段階実践しているのです
少々お待ち下さいと言って
その方々の苦悩は軽減できるという実際の経験をなさいましたか?
そのような実例があれば、どうかお教え願いたいです。


河本理治sama

河本理治さまへ
>サンディタと名乗りたがる者へ
 随分と態度が大きくなられましたようですね。
 嫌悪や害心が生じましたか?

>たしかに表面的な理解に、問題があるのは間違いありませんが、取り違えている部分が膨大です。
 ヴァジラーヤーナの教義を弟子達が取り違えたのが大きな問題だったのだと思います。

>また、松本氏自身意図的か、その時点では信じていたのかも知れないが、偏った見解を早くから(86年87年頃から)吹聴していました。
>維摩経、法華経の偽経或いは偽経部分が多いという発言、般若心経を小乗経典であるとする解説などなど、随所に意図的と邪推しなければいけないような、解釈を展開しています。
 維摩経が唯魔境とも言える魔境の教典である、或いは法華経は全体の三分の一は良い事が書いてあるがそれ以外はでたらめという話ですね。
 私はそれらを一度も読んだ事がないので真偽は分かりませんが、何れも後世の大乗仏教徒が記した教典である事は現在の仏教学でも事実とされているハズですが。
 あと「般若心経を小乗経典であるとする解説」は、私は一度たりとも見た事も聞いた事も御座いません。

>これは、私が正しい、他は間違っている。或いは正しいのは一つでそれに適合しないのは間違いとする誤謬を数多く展開し、結局、数多くの生命を奪う行為を続けてしまった事実があります。
>ここにおそらく転輪聖王或いはシヴァ神と異ならないとする瞑想成就による、多くの弊害がいまだに尾を引いているのです。
 そういう部分は確かにまだ残っていると思います。

>いかなる極悪人もいかなる聖人も等しく真如であることに変わりはない。
>その普遍性を赦し認め受け入れ仲良く出来るかどうかにすべてがかかっているのです。
 それが出来る内は、当然そうすべきだと思います。

>他者が間違っているのは、私が間違えているのであって、本来
>聖も邪もあるように見えているだけです。
>ということです。
 この辺はちょっと詭弁っぽいですね。

>そして聖と邪の定義なんてものはまったく関係ないのです。
>ところで、あなたを害する人を心から許せますか?
 それは四無量心の基礎なので、当然実践しております。
 このスレッドでも私に害心を向け続けた方がおりましたが、そういう方に対しても「ホントに馬鹿だなあ。でも早く真理に気付いて欲しいなあ」という心でおります。
 ところで河本理治さんは「オウムは間違っていた、だから絶対に許せない」というお考えのようですが、河本さんはオウムの為した所業を心から許せますか?
 私は許し難い部分も数多く有ると思いますが。

>万歩ゆずってそうだとしましょう。
 万歩譲るも何も、一般常識で考えてもそうだとしか言えませんが。

>他者に、特にサリン事件で被害にあった遺族に面と向かって
>わしたちは、闘いの後に聖なる社会を実現する段階実践しているのです
>少々お待ち下さいと言って
>その方々の苦悩は軽減できるという実際の経験をなさいましたか?
>そのような実例があれば、どうかお教え願いたいです。
 私は最初に「サリン事件などは身内の弟子に対するマハー・ムドラーであっても、他を救済するための本来のヴァジラ・ヤーナではない」と申しました。
 それをお忘れになっていたようですね。
 従いまして、上記の設問は少々的外れで御座います。
 以前にも書きましたが、私は事件の被害者の方々が本当の意味で救済されたかどうかは疑問だと思っております。
 それ故、被害者の方々には申し訳なく思いますし、また被害者賠償は尊師の弟子である以上は絶対に為さねばならない事だと思っておる次第です。

詭弁?

>>たしかに表面的な理解に、問題があるのは間違いありませんが、取り違えている部分が膨大です。
> ヴァジラーヤーナの教義を弟子達が取り違えたのが大きな問題だったのだと思います。
教義を弟子達だけが、取り違えたのではありません。師匠がミスリードしたので弟子達も間違えざるえなかったのです。

>>また、松本氏自身意図的か、その時点では信じていたのかも知れないが、偏った見解を早くから(86年87年頃から)吹聴していました。
>>維摩経、法華経の偽経或いは偽経部分が多いという発言、般若心経を小乗経典であるとする解説などなど、随所に意図的と邪推しなければいけないような、解釈を展開しています。
> 維摩経が唯魔境とも言える魔境の教典である、或いは法華経は全体の三分の一は良い事が書いてあるがそれ以外はでたらめという話ですね。
> 私はそれらを一度も読んだ事がないので真偽は分かりませんが、何れも後世の大乗仏教徒が記した教典である事は現在の仏教学でも事実とされているハズですが。

大乗仏教徒が、後世に書かれたものだから偽物であると決められるな、それよりはるか後に成立したタントラ経典密教(金剛乗)経典は当然、さらにあやしいことになりますね。
そのような視点ではなく、記載されているスートラの内容が本当に、光り輝く自分自身に帰ることに役立つ内容であるのかどうかが必要なのではないでしょうか?

維摩経の内容および法華経の内容を精査せず、だれかが言ったことをそのままそうなんだと思うような、思考で果たして、ありのままに現象が掌握できるのでしょか?

サーリープッタを維摩居士より劣っているという記述をもって、維摩経を偽経扱いにしたり、

法華経常不軽菩薩品第二十に、
--------------------
その頃の修行者たちは、教えを自分勝手に解釈して、それに固執していたのですが、常不軽菩薩はそんな修行者を見つけると、近づいて行っては、こう言うのでした。

「わたしは、あなた方を軽んじませんよ。なぜならば、あなた方は菩薩の道を行ずることによって、必ず仏となるのですから。」

 人々はそれを聞いて、嘲笑したり、悪口を言ったり、ののしったり、あてこすりを言ったりしましたが、常不軽菩薩はじっとそれを堪え忍んでいました。
--------------------
このような内容があります。けれども、彼にとって教祖が言ったことの通りにする事は間違っていると言うような内容になることを認めることが出来なかったのでしょう。1992年頃にはほとんど翻訳は終わっていると言いながら公にすることは結局せず、三分の一は良いなどとうそぶいてしまって、公開することを拒みました。
彼は私が正しい、他は間違っている。或いは正しいのは一つでそれに適合しないのは間違いとする誤謬を進めていく流れとして客観的に推測できます。(寛容性が、年を下るに従い低下をきたしていたように思えます)

> あと「般若心経を小乗経典であるとする解説」は、私は一度たりとも見た事も聞いた事も御座いません。

般若心経が小乗経典でガテー ガテー パーラガテー パーラサンガテー ボーディ スヴァーハー ここにしか意味がないと明確に発言しています。(写経するだけや、漢文のまま読むだけならまったく意味をなさず正確に意味を理解しなければいけないと言っています。これはその通りでしょう。)

>>いかなる極悪人もいかなる聖人も等しく真如であることに変わりはない。
>>その普遍性を赦し認め受け入れ仲良く出来るかどうかにすべてがかかっているのです。
> それが出来る内は、当然そうすべきだと思います。

>>他者が間違っているのは、私が間違えているのであって、本来
>>聖も邪もあるように見えているだけです。
>>ということです。
> この辺はちょっと詭弁っぽいですね。
詭弁でないのは経験的に理解するしかないでしょう。
他者が自立的になんらわたしと無関係に存在しません。
他者が間違っていると認識する時、少なからず私にその因が潜んでいなければ、他者が間違っているみなすことは無いでしょう。
聖も邪も妄念が認識しているだけで、自性をもって聖があるわけでも邪があるわけでもありません。


>>そして聖と邪の定義なんてものはまったく関係ないのです。
>>ところで、あなたを害する人を心から許せますか?
> それは四無量心の基礎なので、当然実践しております。
> このスレッドでも私に害心を向け続けた方がおりましたが、そういう方に対しても「ホントに馬鹿だなあ。でも早く真理に気付いて欲しいなあ」という心でおります。
> ところで河本理治さんは「オウムは間違っていた、だから絶対に許せない」というお考えのようですが、河本さんはオウムの為した所業を心から許せますか?
> 私は許し難い部分も数多く有ると思いますが。

私なら、もし私に害心を向け続けた方がいたら、ホントに馬鹿だなあとは先ず思いません。
まず、私に害心を向けて頂き、心から感謝し、ありがとうございますと意識します。
なぜでしょう。無明・行・識・名色という私の業を教えてくれているからです。
わたしに害心を向けられる業が無ければ決してむけられることは起きません。

少なくともわたしは、まったく「オウムは間違っていた、だから絶対に許せない」などと思っていません。
私自身が間違いを犯したことを、真摯に、間違いをしてしまいましたと認め
みなさんも認めましょうということです。
どんな間違いか、不安と恐怖を周りの人、
日本の人、世界中の人に与えた

これだけで既に間違いを犯しているでしょう。
本当に精神的進化を求めているとするならば、

そして、その原因を生み出したのはだれかれというと、
特定の人の責任では決して無くて
其々係わり合いの程度に従い、
かかわった者すべての人が
誤った部分に気付くべきであるということが先ず第一条件でしょう。
そして、
恐怖・不安を与えた方便であるヴァジラヤーナを封印するのは
どうしてかを考えるべきです。
不安と恐怖を与えたものは、仮にそれが
本来は正当な手段であったとしても使い方を誤った者は
キチガイに刃物を持たせたものと世間が見る限り
その手段は使ってはならないのです。


>>万歩ゆずってそうだとしましょう。
> 万歩譲るも何も、一般常識で考えてもそうだとしか言えませんが。

究極的に妄執を離却したならば、染法も浄法も皆な悉く相対的な存在であって、
云々することのできる自相があるのではないと知らなければなりません。
それ故に、一切法はもともと色でもなく心でもなく、智でもなく
有でもなく無でもない、勝つことでも負けることでもないのであって、
畢竟その相を云々することはできないのであります。

言説があるのは、如来の善行方便で、
仮に言説によって衆生を教え導くだけのものであることを知らなければならないのです。
その意図するところは、すべて離念させて、真如(真我)に帰らせようとするためにあるだけです。
離念させるのは、一切法を思念すると心を生滅させてしまい
実智に入らせることができないからです。

すべての人のそれぞれの
光り輝く自分自身に帰るのが目的で

闘いの後に聖なる社会を実現するなどというのは枝葉末節ごとです。

>>他者に、特にサリン事件で被害にあった遺族に面と向かって
>>わしたちは、闘いの後に聖なる社会を実現する段階実践しているのです
>>少々お待ち下さいと言って
>>その方々の苦悩は軽減できるという実際の経験をなさいましたか?
>>そのような実例があれば、どうかお教え願いたいです。
> 私は最初に「サリン事件などは身内の弟子に対するマハー・ムドラーであっても、他を救済するための本来のヴァジラ・ヤーナではない」と申しました。
> それをお忘れになっていたようですね。
> 従いまして、上記の設問は少々的外れで御座います。

これを詭弁といわずしてなんといえば良いのでしょう。
弟子が他者を途方も無く苦しめる行為をすることへ誘導若しくは
させておいて
弟子も被害者も光り輝く自分自身に帰ることに
機能しているとみなしえるならば
いざ知らず
どちらにも本来の目的から遠い行為でしょう。
ましてや、仮に弟子だけに聖なる要素が増大し
不安と恐怖と憎悪と敵対意識を煽る結果の行為は
独善に基づく行為としか受け止められないでしょう。

 以前にも書きましたが、私は事件の被害者の方々が本当の意味で救済されたかどうかは疑問だと思っております。
 それ故、被害者の方々には申し訳なく思いますし、また被害者賠償は尊師の弟子である以上は絶対に為さねばならない事だと思っておる次第です。

それは当然でしょう。
しかし
貴方は一連の被害を受けられた方々へなした行為の動機を半ば正当化しているのですが、

立場を逆転させ、凶悪行為で亡くなられたり傷つけられた側の立場から
傷つけたことや殺したことは申し訳なかった

でもその動機は法則に基づき正しい部分があるのです。
と考えているのを知って、素直にこの人は心から申し訳なく思って、謝罪してくれていると受け入れますか?

河本理治さま

河本理治さま
>教義を弟子達だけが、取り違えたのではありません。師匠がミスリードしたので弟子達も間違えざるえなかったのです。
 その「師匠がミスリード」した事例を、具体的に挙げて頂けませんでしょうか?

>大乗仏教徒が、後世に書かれたものだから偽物であると決められるな、それよりはるか後に成立したタントラ経典密教(金剛乗)経典は当然、さらにあやしいことになりますね。
 上記の通り、私は後世の大乗仏典であると申しただけで、偽経だとまでは申しておりませんが。
 偽経かどうかを論ずるのなら、もう一度内容を精査すべきだと思いますが。 

>そのような視点ではなく、記載されているスートラの内容が本当に、光り輝く自分自身に帰ることに役立つ内容であるのかどうかが必要なのではないでしょうか?
 だから偽経で無いと主張なさりたいのなら、河本さんがそれらの経典類が「光り輝く自分自身に帰ることに役立つ内容である」事を証明し指し示せばよろしいだけだと思いますが?

>維摩経の内容および法華経の内容を精査せず、だれかが言ったことをそのままそうなんだと思うような、思考で果たして、ありのままに現象が掌握できるのでしょか?
 だから私は尊師が偽経だと言ったからそれらは偽経だとは一言も申しておりませんが?
 人の言わんとする所を素直に文面から読み取れないで、果たして過去の仏典を正しく読み取れるでしょうか?
 私は平易な日本語で書いたつもりですが、過去の大乗仏典は難しい漢語訳ばかりですよ。

>サーリープッタを維摩居士より劣っているという記述をもって、維摩経を偽経扱いにしたり、
 常識的に考えて、実在の大聖者が架空の人物より劣っているという記述は、かなり怪しげに思えますが?

>法華経常不軽菩薩品第二十に、
>--------------------
>その頃の修行者たちは、教えを自分勝手に解釈して、それに固執していたのですが、常不軽菩薩はそんな修行者を見つけると、近づいて行っては、こう言うのでした。
>「わたしは、あなた方を軽んじませんよ。なぜならば、あなた方は菩薩の道を行ずることによって、必ず仏となるのですから。」
>人々はそれを聞いて、嘲笑したり、悪口を言ったり、ののしったり、あてこすりを言ったりしましたが、常不軽菩薩はじっとそれを堪え忍んでいました。
>--------------------
>このような内容があります。
>けれども、彼にとって教祖が言ったことの通りにする事は間違っていると言うような内容になることを認めることが出来なかったのでしょう。
 上記の内容の何処が「教祖が言ったことの通りにする事は間違っていると言うような内容」なのでしょうか?
 常不軽菩薩が我見を持つ修行者達に「あなた方は菩薩の道を行ずることによって、必ず仏となるのですから」と当たり前の事を言っただけにしか見えませんが。

>1992年頃にはほとんど翻訳は終わっていると言いながら公にすることは結局せず、三分の一は良いなどとうそぶいてしまって、公開することを拒みました。
 もしも法華経の翻訳を公開しても、上記程度の内容では救済活動の進展にはあまり意味が無かったかと思いますが。

>彼は私が正しい、他は間違っている。或いは正しいのは一つでそれに適合しないのは間違いとする誤謬を進めていく流れとして客観的に推測できます。(寛容性が、年を下るに従い低下をきたしていたように思えます)
 そういう傾向は、確かに有りましたね。

>般若心経が小乗経典でガテー ガテー パーラガテー パーラサンガテー ボーディスヴァーハー ここにしか意味がないと明確に発言しています。
>(写経するだけや、漢文のまま読むだけならまったく意味をなさず正確に意味を理解しなければいけないと言っています。これはその通りでしょう。)
 その説法の中でで「小乗教典である」と断言されたようですが、私はその部分を全く覚えておりません。
 私の記憶違いかもしれませんので、当該の説法がいつの物であるか分かるならすぐに調べられるのですが。
 普通に考えて、般若心経は典型的な大乗仏典である般若経のダイジェスト版ですから当然大乗仏典に属すると思います。
 だからもし本当に尊師が般若心経を大乗仏典でなく小乗仏典だと言ったとすると、非常に不思議ですね。
 ところで「般若心経は小乗仏典だ」としたのなら、修行や救済に於いてどの様な大きな弊害が有るのでしょうか?
 私には取り立てて「ミスリードだ!」と騒ぎ立てる程の事ではないと感じられますけど。

>>いかなる極悪人もいかなる聖人も等しく真如であることに変わりはない。
>>その普遍性を赦し認め受け入れ仲良く出来るかどうかにすべてがかかっているのです。
> それが出来る内は、当然そうすべきだと思います。

>詭弁でないのは経験的に理解するしかないでしょう。
>他者が自立的になんらわたしと無関係に存在しません。
>他者が間違っていると認識する時、少なからず私にその因が潜んでいなければ、他者が間違っているみなすことは無いでしょう。
>聖も邪も妄念が認識しているだけで、自性をもって聖があるわけでも邪があるわけでもありません。
 他者が間違っている原因が自分の中にも有ったとしても、自分が間違っている事にはなりませんけど?
 他者が間違っている事について、責任が無いとは言い切れないだけの話です。
 それは自分の過失とは言えますが、自分までもが間違っている訳では御座いません。

>私なら、もし私に害心を向け続けた方がいたら、ホントに馬鹿だなあとは先ず思いません。
>まず、私に害心を向けて頂き、心から感謝し、ありがとうございますと意識します。
>なぜでしょう。無明・行・識・名色という私の業を教えてくれているからです。
>わたしに害心を向けられる業が無ければ決してむけられることは起きません。
 その件で何故「ホントに馬鹿だなあ」と感じたかというと、その彼の指摘が全く的外れで幼稚なのでカルマ落としにもなっておらず、「無明・行・識・名色という私の業を教えてくれ」る様な物では無かったからです。
 しかし河本さんは「まず、私に害心を向けて頂き、心から感謝し、ありがとうございますと意識します」と言っている割りには前々回のコメントで私に害心を向けられましたよね。
 少なくとも私にはそう感じられました。(前回の私のコメント参照)
 
>少なくともわたしは、まったく「オウムは間違っていた、だから絶対に許せない」などと思っていません。
>私自身が間違いを犯したことを、真摯に、間違いをしてしまいましたと認め
>みなさんも認めましょうということです。
 その割りには事件への謝罪についてかなり感情的になって論じられておられるように見えましたけど。

>どんな間違いか、不安と恐怖を周りの人、
>日本の人、世界中の人に与えた
>これだけで既に間違いを犯しているでしょう。
>本当に精神的進化を求めているとするならば、
>そして、その原因を生み出したのはだれかれというと、
>特定の人の責任では決して無くて
>其々係わり合いの程度に従い、
>かかわった者すべての人が
>誤った部分に気付くべきであるということが先ず第一条件でしょう。
>そして、
>恐怖・不安を与えた方便であるヴァジラヤーナを封印するのは
>どうしてかを考えるべきです。
>不安と恐怖を与えたものは、仮にそれが
>本来は正当な手段であったとしても使い方を誤った者は
>キチガイに刃物を持たせたものと世間が見る限り
>その手段は使ってはならないのです。
 それは正論ですけど、

>>万歩ゆずってそうだとしましょう。
> 万歩譲るも何も、一般常識で考えてもそうだとしか言えませんが。

>究極的に妄執を離却したならば、染法も浄法も皆な悉く相対的な存在であって、
>云々することのできる自相があるのではないと知らなければなりません。
>それ故に、一切法はもともと色でもなく心でもなく、智でもなく
>有でもなく無でもない、勝つことでも負けることでもないのであって、
>畢竟その相を云々することはできないのであります。
>言説があるのは、如来の善行方便で、
>仮に言説によって衆生を教え導くだけのものであることを知らなければならないのです。
>その意図するところは、すべて離念させて、真如(真我)に帰らせようとするためにあるだけです。
>離念させるのは、一切法を思念すると心を生滅させてしまい
>実智に入らせることができないからです。
>すべての人のそれぞれの
>光り輝く自分自身に帰るのが目的で
>闘いの後に聖なる社会を実現するなどというのは枝葉末節ごとです。
 だからそういう風に仏典用語を散りばめて小難しく考えるまでも無い事なんですけど。
 聖なる社会を築き上げる段階で「すべての人のそれぞれの光り輝く自分自身に帰る」実践をするのが、どうしていけないのですか?
 
>>他者に、特にサリン事件で被害にあった遺族に面と向かって
>>わしたちは、闘いの後に聖なる社会を実現する段階実践しているのです
>>少々お待ち下さいと言って
>>その方々の苦悩は軽減できるという実際の経験をなさいましたか?
>>そのような実例があれば、どうかお教え願いたいです。
> 私は最初に「サリン事件などは身内の弟子に対するマハー・ムドラーであっても、他を救済するための本来のヴァジラ・ヤーナではない」と申しました。
> それをお忘れになっていたようですね。
> 従いまして、上記の設問は少々的外れで御座います。

>これを詭弁といわずしてなんといえば良いのでしょう。
>弟子が他者を途方も無く苦しめる行為をすることへ誘導若しくは
>させておいて
>弟子も被害者も光り輝く自分自身に帰ることに
>機能しているとみなしえるならば
>いざ知らず
>どちらにも本来の目的から遠い行為でしょう。
>ましてや、仮に弟子だけに聖なる要素が増大し
>不安と恐怖と憎悪と敵対意識を煽る結果の行為は
>独善に基づく行為としか受け止められないでしょう。
 では、河本さんは「独善に基づいて不安と恐怖と憎悪と敵対意識を煽る結果」になったから絶対悪だというお考えなのですね。
 で、オウムは邪であり一連の事件は許し難いと。
 「聖も邪も妄念が認識しているだけで、自性をもって聖があるわけでも邪があるわけでもありません。」とおっしゃる割りには、明確に善悪・正邪の区別を付けたがっているように見受けられますが。

 意地悪な質問ですが、なぜそこで河本さんは被害者の方々に
「他者が間違った事をした時、少なからず被害者である自分自身にもその因が潜んでいる」
「自分に害心を向けて頂き、心から感謝し、ありがとうございますと意識しましょう」
と説かないのでしょうか?

>貴方は一連の被害を受けられた方々へなした行為の動機を半ば正当化しているのですが、
 ですから私は事件で「被害を受けられた方々へなした行為」の部分は全く正当化しておりませんが。
 コメントはよく読んで下さいね。 

>立場を逆転させ、凶悪行為で亡くなられたり傷つけられた側の立場から
>傷つけたことや殺したことは申し訳なかった
>でもその動機は法則に基づき正しい部分があるのです。
>と考えているのを知って、素直にこの人は心から申し訳なく思って、謝罪してくれていると受け入れますか?
 正しい・正しくないではなく、「そういう意味合いも有る」と申しただけですが。
 しかもそれは被害者方に対する側面では御座いません。
 その辺を取り違えませんよう。

 そもそも真理の法則は現世での善悪・正偽の判断を越えた所に存在しています。
 感情論で物事を判断しようとしても、謬見しか生じませんよ。

方便

わたしは他者に分り易く情報を提供するという側面で相当問題を有し
適切に本来の意図が伝わりがたい「業」を抱えています。
それでいくつかの問題も経験して来ました。だからこそ少しでも改善して行きたいと望んでいます。
>前々回のコメントで私に害心を向けられましたよね。
> 少なくとも私にはそう感じられました。

そう感じられたならば申し訳なく思います。おそらくこの『わからずや』が、と言う思いが文章表現に出たのでしょう。
未熟者です。
もそっと、現実と調和することの重要性をわかって欲しいという思いがさせたのかもしれません。

>「他者が間違った事をした時、少なからず被害者である自分自身にもその因が潜んでいる」
>「自分に害心を向けて頂き、心から感謝し、ありがとうございますと意識しましょう」
と説かないのでしょうか?

はい。良い実例なのでこの表現から考えさせていただきましょう。
言説があるのは、如来の善巧方便で、仮に言説によって衆生を教え導くだけのものであることを知らなければならないのです。

ということは、染法も浄法も皆な悉く相対的な存在であるわけで重要なのは、楽に耽溺することと苦しみを感じることの、極端の状態の妄念を払い、離念する方向性です。

しかし今なお、かつての団体の行なった行為とその集団に対する「嫌だ」「ひどい目に遭った」「団体は存続して欲しくない」という多くの一般人の方々と、被害者の方々に対して、
いきなり、上記の言葉を投げかけたら、「火に油を注ぐ」行為に等しいでしょう。
他者の邪悪心を増大させる結果が明らかな言動は、目的から遠いでしょう。

> その「師匠がミスリード」した事例を、具体的に挙げて頂けませんでしょうか?
> 偽経かどうかを論ずるのなら、もう一度内容を精査すべきだと思いますが。 

>>サーリープッタを維摩居士より劣っているという記述をもって、維摩経を偽経扱いにしたり、
> 常識的に考えて、実在の大聖者が架空の人物より劣っているという記述は、かなり怪しげに思えますが?

すでに聖者と俗人の差別意識ですねこれは、維摩経の全体的な目的は、あらゆるものの本来の平等性の隠喩として使われているし、最も際立つ例として舎利子の名を挙げているが、他者を重んじる配慮することの重要性に使われていることであるわけで、偽経判断したような、釈迦牟尼の高弟をこき下ろすことに目的があるのではありません。

>>彼は私が正しい、他は間違っている。或いは正しいのは一つでそれに適合しないのは間違いとする誤謬を進めていく流れとして客観的に推測できます。(寛容性が、年を下るに従い低下をきたしていたように思えます)
> そういう傾向は、確かに有りましたね。

この傾向に我々すべてが、しっぺ返しとして現象が起きていて、気付きなさいよ。と教えてくれているとは思いませんか?

> 普通に考えて、般若心経は典型的な大乗仏典である般若経のダイジェスト版ですから当然大乗仏典に属すると思います。
> だからもし本当に尊師が般若心経を大乗仏典でなく小乗仏典だと言ったとすると、非常に不思議ですね。

一九八八年一月九日世田谷
だから『般若心経』を唱えちゃ駄目だよ。一生懸命イニシエーションを受けながら、「無眼耳鼻舌身意。無色声香味触法」これやってたらね、イニシエーションの意味合いが消えてしまうから、ね。あれは小乗の経典だからね。いいですか。

> ところで「般若心経は小乗仏典だ」としたのなら、修行や救済に於いてどの様な大きな弊害が有るのでしょうか?
> 私には取り立てて「ミスリードだ!」と騒ぎ立てる程の事ではないと感じられますけど。

聖者と俗人を峻別し聖者こそ価値が有る、俗人や法則を理解できないものをさげすむという、本来の平等性を大きく損なうでしょう。
小乗の経典と表現したとき、これは待機的質疑応答ですから、その時の感受している色声香味触法を否定してはだめだよという意味で使っていますので別段問題があるわけではないです。

しかし寛容性と平等性の視点から言えば、「般若心経は小乗の仏典」だと、表現した部分だけを聞いたものは、般若心経から深い意味を読み取って活用しようとする人達にとっては、えぇっと思わせることになるでしょう。

> 他者が間違っている原因が自分の中にも有ったとしても、自分が間違っている事にはなりませんけど?
> 他者が間違っている事について、責任が無いとは言い切れないだけの話です。
> それは自分の過失とは言えますが、自分までもが間違っている訳では御座いません。

過去と未来の可能性の種子が、現在の私に内在していることを認知し謙虚に事実を受け入れるべきという側面であり、実用的な方法だということです。

> その割りには事件への謝罪についてかなり感情的になって論じられておられるように見えましたけど。
> 聖なる社会を築き上げる段階で「すべての人のそれぞれの光り輝く自分自身に帰る」実践をするのが、どうしていけないのですか?

感情的だと受け止められのはよしとしましょう。
如来の善巧方便は、現実只今の自らと他者の妄念を、離することに効果があることに主眼があるでしょう。

> では、河本さんは「独善に基づいて不安と恐怖と憎悪と敵対意識を煽る結果」になったから絶対悪だというお考えなのですね。
> で、オウムは邪であり一連の事件は許し難いと。
> 「聖も邪も妄念が認識しているだけで、自性をもって聖があるわけでも邪があるわけでもありません。」とおっしゃる割りには、明確に善悪・正邪の区別を付けたがっているように見受けられますが。

善悪・正邪の区別を付けたがっているのではなくて、
あらゆる相待する者に、偏りから脱することに役立つ
善巧方便によって
結果的に聖なるものが感じられる状態を経験して頂ける為にも
あらゆる存在に対して感謝と存在意義が認められる方向に
働きかけることに意義があるのだから

いまもって、邪悪、嫌悪を向けられる状況下にある現実の根本要因を和らげるためには

自らの中にある外側に対する見下し意識や否定する意識を取り除くと同時に、すべての外側の表面的聖俗評価意識を払拭し、対象の有する執着と嫌悪に対して、その両者を適切に和らげる現実的行いなされることが求められてると思っています。

その具体例として被害者方に対する心のあり方と同時に、配慮が欠かせないでしょうという意図で書いています。

> そもそも真理の法則は現世での善悪・正偽の判断を越えた所に存在しています。
> 感情論で物事を判断しようとしても、謬見しか生じませんよ。

一部の賢明な被害に遭われた方々の中には、自分達の内的傾向が作り出した事柄であると受け止められておられれる人もいらっしゃいます。それは極々一部の賢明な方々です。

現実的に邪悪視されている多くの方々の心を和らげ、聖なるもが感受され易い方向性に現実的に対処することを展開しないならば、単に独善に安住し、他者は関係ないということに陥るだけでしょう。

色と空は異ならないならば、現実社会の現象は、コーザルの原因体から流出したものであるわけですから、
心を和らげその先で真実を直感するるためには、ヴァジラヤーナの問題点を摘出することは意義があることだと思いますけれども、
その本来の効能や長所や法則との適合性を主張したり探し出し、本来こうあるべきであったといくら明確にしても、現実の多くの人々の心の安らぎのために貢献でき役立つことにはほとんど効果はなく、逆効果しかないのではないでしょうか?

それは無明・行・識・名色等の「業」の傾向に、先ずは沿った、好意的意識状態に向かっていただけるような働きかけが無ければ、心を和らげことすら一歩も前に進まないでしょう。

心を和らげ好意性が生じないなら、真実に近づくのはほとんど難しいでしょう。逆の方法、否定・邪悪心を周りに増大させ、もしかしたらその先に真実に近づくことができるかもしれない方法も論理的には可能でしょう。

しかしながら、現実的にはそのような展開をする集まりは社会での存在そのものを縮小させられている実情を余儀なくされているでしょう。

よって感情論と思われても他者が選択し易い、真実に到達する為の入り口は、許したり、容認し、可能な限り好意的な認識を抱かせるような、こちら側の善巧方便の選択が欠かせないと考えられるから言っているに過ぎません。自らが真実に近づくためには、周りが真実に近づき安い環境を作り出すことによって初めて、より他者も自らも共に真実を直感出来易くなるものであろうと自然に考えているだけです。


付け加え

85年頃から95年頃の環境では、かつての松本氏が展開していた団体およびその活動内容に、多くの興味を持った方々が信者となり、サマナとなった経緯があります。

この当時に信者になられた方々(或いはそれ以後の時期に信頼を抱かれた方)は、まったく否定的情報がない、好意的印象を持っていたでしょう。本当に他者が心の苦悩から解放して頂き、自らも精神的進化を願うならば、多くの他者の意識に安心と安らぎを提供することなくしては、精神的進化そのものが????でしょう。

掲示板新たに作成されたようです。このスレッドの投稿は終わりにしようと思います。

土地情報

土地情報
全部」で430坪 東側 老人一人、西側 田んぼ 南側 インド人
北側 老人2人 静かで干渉されない場所 いかがですか。?
塀を付ければ遮断と同じ感覚です。

救済がグルの意思なら救済団体存続のために賠償でも何でもするというのは真っ当な気がします。

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