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野田成人のブログ

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 派遣村の続き。

 この報道に関して、ミクシー・ヤフーのコメントで感じたのは、 一般大衆は余り同情はしていない。むしろ「仕事と住居を失った者の自己責任」と厳しい見方をしている。更に一歩進んで、派遣村村 民への交通費貸与についても、「税金の無駄遣いだ、俺たちの取り分が減る」。そういわんばかりの論調が多い。

 一方で坂本総務政務官発言に対して反発が強いのも確かだ。このギャップについて考察してみた。考察のきっかけになったのは、マイミクたろいもさんの日記である。以下勝手に引用。

>ただ問題は、このmixiへの書き込みとかを見ててもわかる通り、今回の総務政務官発言に対しても「そうだそうだ!」的な支持の声も一方で凄くあるということ。

>実のところ「派遣村」に象徴される一連の問題に関する報道に対して「違和感」を覚えている人たちは、もしかしたら今なお「マジョリティ」なんではないかと。ただし昨今の世相から「今そこで異論 を言えば自分が悪者になる」ということで黙っているだけなんではないかと。

 坂本総務政務官を非難しつつも、擁護する声もある。これは世間・公(おおやけ)のスタンダードと匿名性を帯びたネット社会裏の声との乖離があるともいえよう。この二面性はどこから来たか、という問題について考察した。まずは、人間の表層と潜在の関係についてから解説。

 人間は日常生活の表の顔と、その背後で同時に蓄積される裏の顔を持つ。その蓄積された裏の感情は、非日常的な活動によって発散 させられたりする。日本の民族文化でいうならば、「ハレとケ」「 礼講と無礼講」という対になる概念がある。「ハレ」は非日常、「ケ」は日常のことだ。お祭りなどの非日常・「ハレ」の日には、日常・「ケ」の通常ルールを逸脱した無礼講によって蓄積された感情 を発散させる。表の顔とは表層意識、裏の感情とは潜在意識である。そのような明確な区別を知らずとも、「ハレとケ」の使い分けによって、二つの意識のバランスをうまく取っていたわけだ。これを 機能させていたのは、地域のコミュニティーである。各コミュニティー毎に、「ハレとケ」「日常と非日常」の価値観・流儀があり、それは人間同士の絆でもあった。

 ところがIT技術の進歩とグローバリゼーションは、このコミュニティーをどんどん破壊してきた。地方は過疎化、大家族はなくなり、人間の絆は分断されていく。核家族の単位ですら十分に機能していない。取って代わった価値観の一つは、何度も述べてきたとおり商業主義・拝金主義。「世の人を救うこと」「人に対する奉仕」という経済本来の意味合いは薄れ、経済の潤滑油・手段であった筈のお金が目的に成り代わる。

 勿論、グローバルスタンダードも、強欲な本質を露骨にはみせない。「努力したものが報われる社会」「新自由主義」と玉虫色に表現され、商業主義は、「安心安全・快適・便利・信頼・保障・笑顔のサービス」を追求し提供する。だがこの「安心・信頼・笑顔のサービス」という日常・「ケ」の表層で蓄積されているのは何か?過剰な接客サービスと、時間外労働で疲れ果てた現代人の奴隷状態が見えてくる。ではこれは、どうやってバランスを取っているのか。

 小さなコミュニティー単位における「ハレとケ」のバランス・使い分けは、IT革命によってやりづらくなっている。

 一つ思い出す例は、福島医大のSM宴会写真流出事件だ。医大生の忘年会で、患者を愚弄するような寸劇が画像流出した話。2年位前の古い話だが、少し掘り下げてみる。女王様に扮した医大生が患者を踏みつけるというSMまがいの劇だった。その写真が2chに流出したらしい。宴会の内容とはいえ、医療 関係者としてモラルに欠ける行為、との批判が向けられた。医療にも安心・安全・信頼のサービスが求められる。これで医者の宴会も、「無礼講」がやりにくくなったことだろう。sm


 だが、医師とて人間である。24時間365日、常に「医は仁術」の模範を示すべし!そんなことができる筈がない。日頃のうっ積をはらすこういう宴会があるからこそ、患者の命を救う博愛の精神 はバランスを保てる。ところが、IT技術の進化は、博愛精神の裏 に蓄積されたうっ積を、白日の下にさらしてしまった。衆目監視の下では、人は「安心安全・信頼・笑顔の良い子」を演じなければならない。その反面様々なうっ積は増大する。

 善の仮面を押し付けられた良い子は、一般にどのような心理状態 になるか?「ウソついちゃダメよ」「人に親切にしようね、困った人は助けてあげようね」 「欲張ったらダメよ」「人を傷つけたらダメよ」「努力しなきゃダメよ」このような倫理の枠組みで、表層の意識は支配される。と同時に、ウソ・欲張り・暴力など悪の要素は、なくなるわけではない。これらは善の倫理と裏表の相対概念だからだ。潜在意識に抑圧される形で蓄積される 。「ウソ・欲張り・暴力はいけないんだ」と自分を抑圧することに なる。(子供の教育5参照)

 この種の抑圧はしばしば、同じ悪の要素を持つ他者への攻撃という形で発散される。「私だってやりたいのを我慢しているのに、ずるい!!」というのが潜在意識の声だ。

 念のため、教団関係者に分かり易い例を挙げておく。お供物(食物)のご自由があったとしよう。それを先に来た人が欲張って取っているとする。「ずるい、私だって欲しいのを我慢してるのに!! 」と攻撃するのだ。もし本当に貪りを離れた人、その不利益を心底理解している人は 、貪っている人に哀れみこそすれ、怒りは生じない筈である。

 グローバリゼーションでかなりのコミュニティーは破壊された。加えてIT技術は、小さなコミュニティーの「ハレとケ」ダブルスタンダードを取り払う。その結果人々は、良い子の仮面をより長く色んな局面で押し付けられる 。これが公のスタンダード、あるいはグローバルスタンダードだが、当然抑圧・うっ積はどんどん増大していく。抑圧されたエネルギ ーは、他者への攻撃として解放されることになる。同じ悪の要素を 露呈した者が、スケープゴートとして血祭りに上げられる。魔女狩りと言っても良い。匿名のネット空間は、この蓄積された感情の大きな捌け口として機能している。小さなコミュニティーの「ハレ・無礼講」の代わりに、匿名ネット空間が裏側のスタンダードとなる。

 冒頭の話題に戻ろう。坂本政務官の発言は、公のスタンダードとしてはふさわしくないものだった。行政にも商業ベース並みのサービスが求められている。国民に「安心・安全・快適・信頼・保障のサービス」を提供することだ。行政のトップクラスが言ってはまずい内容だ。だが匿名ネットスタンダードとしては、「そうだ、そうだ」になる。「努力したものが報われる」社会では、「努力が足りないなら報われない」となり、それなりの大義名分がある。そこにかこつけて、「税金使うな、俺の取り分が減る」「タダ飯食うのは許せない」「甘えるな」。安心・信頼・笑顔の仮面の裏でうっ積した思いが爆発するわけだ。「私だって怠けたいところを我慢して努力しているのに、ずるい!!」。良い子の作り笑いで疲れ果てている同じ労働者の側からすれば、当然といえば当然か。

 このケースでは、派遣村の人にも、それに違和感を感じる人にも、それなりの理があり、拮抗する。だが、この匿名ネット裏側スタンダードは、人の心の闇を増幅させる危険性がある。一方に大義名分が全くない、あるいは分かりづらい場合、大義名分を得た側の正当性は、過剰に攻撃的なまで極大化されてしまう。その結果、極めて単純化された善悪構図の下に、一般大衆が暴走してしまう危険性がある。これが価値観が単純化されたグローバリゼーションの怖さでもある。旧来は小さなコミュニティーの中で発散された筈のうっ積が、大規模に集積された形で発散されてしまう。

 たとえば、殺人事件の加害者側への非難である。具体的には、山口の光市母子殺害事件などが典型であろう。盗人にも3分の理ではないが、他者がおかれている境遇・苦しみへの想像力を失ったまま、加害者側に攻撃を加える。100歩譲って加害者はどうしようもないとしても、人権の砦となる弁護士にも、寄ってたかって容赦ない攻撃。

 これが戦前のようなファシズムにならない保証はどこにあろう。それを私は危惧している。

◆雑感

 コミュニティーの分野については、ゴルゴ46氏(匿名46氏)が専門である。私は適当に浅薄な知識で書いただけなので、ここでコメントを請いたい次第である(無礼講で何個でもどうぞ)。

 派遣村の人に、「ずるい!」とか「自己責任」というのは分からなくもない。だが、今年も深刻化しそうな不況、みんな明日は我が身と分かっているのだろうか?「自己責任論」は、大村さん追放の件を彷彿とさせる。サマナには師の問題点を話しても、「それは大村さんと師の関係だから…」とあずかり知らぬ態度。自分は追放されぬように媚を売るサマナ。職がないのは自己責任だからと突き放す。自分は追放されぬよう、会社とお客に信頼と笑顔の作り笑いを続ける正規雇用者。

 忙しくなるといいつつ、結構長文を書いている。それが可能なのは、今仕事中だからだ。いや仕事サボってるわけじゃないよ。ちゃんと仕事もしながら文章を打っている。どんな仕事やって?我ながら器用なことしてると思うが、ご想像にお任せします。不況なので注文の電話が1件もないから、こういうのができてしまうんだが。。会社存続の危機!!ああ、明日は我が身?

 うーん、我ながら長くてつまらない文章だ。しかし、それなりに問題の整理できた気はする。

コメント


先日、夢に

変な映像が出ました。

何十年後(たぶん、50~100年後)かの光景でしたが、
自宅が廃墟と化していました。
どういう訳か、近所もそうでした。

我が家に子孫が残らないのは分かるとしても、
近所までそうなっているのは解せないと思いました。


このまま、低所得者が結婚して(しなくても?)子供が出来ないようだと、
おそらく、日本の人口は1000マン~5000マン人ぐらいに減少するかも。

みんなこの時代の為政者の責任ですな。

↓VT正悟師は1年半ぐらい前に予想して当たったんですね。
http://alephnoda.blog85.fc2.com/blog-entry-17.html

で、みんな信じなかったと。

まぁとりあえず

生存にかかわる精神作用が、社会性や反社会性というものを形成するのでしょう。その精神作用を構築する場所として新皮質と旧皮質になる。機能的に見てコミュニティに所属したいという意識は、いかに群れを大きくするかという種の保存に直結した問題になります。群れをより大きくしたければ、生体進化の面でみれば、多産であることが最も有利です。ところが、人間自身は乳房の数に限定されるように余程幸運がもたらされない限り、二人以上の子孫を持つことはできない。また、人の子供は育てるのに非常に手間と時間がかかる生物です。ある意味、こうした進化と種の保存の上でハンディともなる事柄を補うために新皮質側に群れを大きくするという集団生活傾向が生まれました。つまり、より多くの人間たちと共生することにより、生体機能以外の部分で「多産でない」「子供の育成に時間がかかる」という機能を獲得することになりました。言葉を換えれば、群れを組むという精神作用を獲得することにより、通常ならば数万年から数十万年はかかるだろう生体進化に依存することなく、進化を獲得することができたといっても過言じゃないでしょう。
ここで五万年ほど前にさかのぼります。
約六万年ほど前までは、一か所の洞穴などのシェルターに住んでいた人類は、群れの拡大とそして副次的に自然災害の影響により絶滅の危機に瀕します。数百万の個体から数千個体(二千ほどまでに激減したという説もある)ここで居住地店の拡散という出来事が起きます。この群れの拡大は遺伝学的な脅威、つまり、近親間交配やマスギャザリンをおこしたためのウィルス性疾患に対しての脆弱性を示したということに他ならないでしょう。本来ならば、そのまま滅びてもおかしくなかったし、他の動物のように赤の女王仮説(ウィルスやその他の伝染性疾患に対抗するための生体進化)上の生体進化をまって、それを乗り越えるのでしょうが、性急な人間は、それを回避するために一か所に住んでいた人類が家族単位で住み始めることになります。この原始人類の家族化が人類を広域に住まわせることになります。また、ネアンデルタールのように単に群れを分散させただけではなく、家族間を往来し交流することになります。食糧や道具の交換、そして交配者の交換(つまり結婚ですね)

ここで二つのコミュニティが派生します。
家族と多くの家族を含む社会という二種のコミュニティです。
それぞれの家族は住む地域特性によって、それぞれのルールが存在します。水場の維持や食料採取のためのローカルルールです。また、同時に家族間同士におい、それぞれの家族がお互いに生き抜くために収れんしてきたルールというものもあります。そのルール自身はお互いの共通した法のようなものとして交流する家族間の間に流通する。これがワイドルールです。このワイドルールをもってして、同心円を延長するように人類は拡大していった。

ここで気づく方もおられるでしょうけれど、ここで三つのルールが存在することになります。
まずはワイドルール、そして家族などのローカルールール、そして自身という個体を優先する本能。
豊かな時代や豊かな土地に住む場合は、自身のより多く食べたい、より楽をしたいという本能は上位に組み上げられ、ローカルルールやワイドルールに組み上げられていく、しかしながら、貧しさや、その訴求が破壊的なものであると、組み上げられない。それ以上に平等な分配を求める声の方がおおきくなり、そうした訴求をおこなうものは排除されることになります。

現在の期間労働者問題において、自己責任という言葉がことさら強く聞こえますが、これは分配者に対しての公平な分配を求める声だといってもいいでしょう。貧しさをより強く感じなければならない環境にある人がおおければ、その声は大きくなってくる。これは原始も現代もそうかわらない。同時に着目しなければならないこととして、こうした排除的な言動を使う人々は特に貧しいほうの側にある人ではない。こうした意見はネットで散見することが多く、家にパソコン等があり、そうした文章を書く余裕がある人がほとんどであると思われます。路傍で寝なければならない人と比べるとはるかにましだといってもいいのは間違いないでしょう。しかし、彼らは路傍で寝なければならない人たちを揶揄して公平を口にしなければならない。それはどうしてか・・・。継続的な論考が必要な事項ですが、ここで一応の作業仮説をたてておくと、「彼ら自身に自身が貧しいと認識させる価値観がある」可能性が非常に高い。

まぁそれがグローバリズムだというものだと個人的には思います。このグローバリズムの無制限な経済成長が可能だと見せてしまう価値観は時として人に過大な評価主義をもつに至らせる故に底辺決定をもしたがる。これらの人はグローバリズムにおいてその立場は別として心理的なストレスを受けている可能性が非常に高い。

仕事は探せばいくらでもある。たしかにそうでしょうね。選らばなければあるでしょう。しかし、力仕事ができない体をもっている人が力仕事ができるでしょうか。お金の管理が苦手な人がコンビニのレジを打つことができるでしょうか。期間労働者、もっとひろげればホームレスの人たちも含めてできないことがあるから、そういうふうに至ったという経緯がごっそりとぬけてしまい非難の対象になってしまっている。おそらくそういう状況をわが身のこととして考えられるならば、そうかもしれないということがわかるのかもしれないけれど、これから社会に出てグローバリズム的な貧しさを味わうかもしれないネット上の非難者や、すでに味わっている非難者は自分のことしか見えていない。自分と同じ見解を持つ人間しかみえていない。

匿名社会というものは本来ならばコミュニティの誤りを正すために大きな役割を担うべきものだったのでしょうが、容易に同種の意見が発見できる利便性のために不必要な加速性をもってしまい増殖もする。目の前で「でもね」という実コミュニケーションが抜け落ちてしまい衝突のない言論が初期において形成されやすくなってしまっている。今回の件に関しては社会での評価において自己が底辺になることを避けたいという恐怖心に所以するところが大きいようにも見えますね。国家をはじめとしたコミュニティは、多様性と他との連結性がもっとも重要なものとなります。この連結性そこなわれると反社会的な要素が高くなり排除則が強くなる。もちろん、他者の窮状を救うことに関して非難を繰り返すコミュニティは匿名であるがゆえに一過性のコミュニティであり、非難に特化された一過性の自閉コミュニティといっても、いいでしょう。

自力と他力

ITって、アマゾンと最低限メールのやりとりなんかで生命維持のコミュニケーションを取って、徹底的にヒキコするためにも使えるし、このブログのように積極的に他とのつながりを深化させるのにも使える。
なんていうか、ITは人のスタイルを濃く反映する媒体になってる。


景況や社会状況に関係なく「働けない人」っていう層もあって(割合としては少ない)、そういう人が生きていけるようにするのは、定量的にそれ程重い負担でもない。日本のスタンダードな水準はともかく、人が生きるためのコストはそれ程高くないというのが、自分自身の実感。

職を失った人が、しばらく職探しして、まともな仕事が無いと悲嘆しながら、どうにか繋ぎでもなんでも、また働き出したという例が、身近でいちばん多く聞くパターン。
「とにかく生活せにゃいかん!」という働く意志がしっかりしていて、本人も他からの援助で生活しようというつもりも毛頭ない。

「困ってるなら助ければいいじゃない」
「働けるなら働けばいいじゃない」

という2本立てが、なぜか二者択一で、「政策の被害者」「いや、自己責任だ」に分離してぶつかってる。
むしろこの2つのスタンダードを両立できないという理由は見つからない。


でも働くためのフィールドが荒廃してしまっているのは事実。中流クラスの人が疲弊して、「いい仕事をしよう」というインセンティブが弱くなってしまった。庶民の実入りの多寡以前の問題かもしれないけど、カネで人を喰うような金融万能主義が崩壊した今、働く意味合いをまた取り戻せるようになれば。

分解されるコミュニティ

グローバリズムとはなんだってことになるとおもうけれども、行き詰った資本主義が販路を求めて、それまでの消費の単位であった核家族(この核家族自身も資本主義のつくりだしたもの)をより細分化し、その単位を個人消費にまでおいやるための動機付けと考えるとすっきりとすると思う。
販路の拡大、マーケットの拡大といっても限度があるというのは当たり前のことだ、たとえばマーケットを大きくしたいとおもい、ある商品を売るにしても、それが年収二万ドルを平均とする国家に売れるものが、平均年収千ドルに満たない国家に売れるはずもない。また、そうした製品を作るようになっても、利益率は非常に低いものになってしまう。だったらどうするか、自然と年収二万ドルに対して過剰な消費を強いるほうが特だということになる。
そのためにはどうするか、個人の欲望がローカルルールを上回るように仕向ける。個人の消費願望をワイド側から、強くさせるようなルールを形成してしまう。
その結果として周りを見渡すとよくわかることだとおもうけれども、家族や地域のコミュニティが瀕死の状態になってしまった。
個人の消費を否定するつもりはないけれど、過剰な消費を個人が行う。つまり市場拡大がいきづまりコミュニティの分解にまでいたってしまった。そのために目前から身の丈の大きさの所属するコミュニティが消えうせてしまっている。
本来責任というものは個人が自身に対して持つものではなかった。身の丈大のコミュニティの中でお互いにお互いがもちあうものであったはずである。ところがそういう場所に身を寄せることが非常に難しくなってしまった。また、身近にいるからこそ許しあえた個性というものも、許されなくなってきている。このままいけば大きな単位のワイドグループと個人が存在することにもなりかねないし、その結果、個性を所有することを許されないという心理的な圧迫もでてくる。そのためにネットなどにそのはけ口をもとめる。

こうしたワイドグループと個人とのみが存在する関係はスォーム・セットセオリー(群虫理論)に限りなく近似する。イナゴなどが群生しつつ移動するときに本来ならば数多くの交配が存在し、多くの種が生まれてもおかしくないのだけれども、群で移動することに特化されてしまい、群で移動するのに不具合な形状を獲得してしまったイナゴは淘汰されてしまうことになる。そして、群自身も凶暴化し、同じものを食い、自分たちの食料を食いつくし、飢餓状態にいたり滅びるまで群を巨大化してしまう。本来ならば種の多様性を獲得してひとつのものを食い荒らすさずにすんだものが、自然のいたずらで時として暴走を引き起こしてしまう。

ところが、人間という種はここ数世紀において、それを好んでやっていた節が見受けられる。

この福島医大の写真ですが
このくらいのことは、医大はどこでもやってるらしいです
具体的には東医体、西医体、学園祭、先輩の結婚式などなど
この写真はけっこうまともらしいです

噂に聞く限り(?)では・・・
・先輩が後輩に避妊具の装着を指導する
→もちろん後輩は実演
・演劇として男同士のラブシーンをさせる
・後輩全員下半身裸でお尻にチョウチョを描いて先輩の結婚式で舞う
ま、この辺は普通のようですよ

某医大では
ヤクザの兄弟の契りをまねて
体育会の主将のおしっ○を新入生が飲んで、契りを交わすのが慣例とか
そのおしっこを旅館に撒き散らして訴訟になったとか
そのどさくさにまぎれて宴会場で脱糞したとか
こういう医学部に限って偏差値が70超えてたりとか
するらしいですよ




本能としての性欲とコミュニティの関係

脊椎動物の全能力の中で食料を得るという事柄と並ぶ、重要な機能の一つは「春」を知るという機能である。遺伝子に組み込まれている体内時計、それに周光性とよばれる光を感知して、陽が出ている時間と夜の時間を対比して季節を知る能力、これは目が奪われるようなことがあっても、脳の光を感じる機関が代行して季節を知らせることができるほどに強烈な機能である。春を知る。そして春に交配を行い、子供を育てる時期を捕食しうる動物が多くなる夏や食べられる植物が多い実りの秋へと調節をおこなう。つまり、春を知る能力とは脊椎動物にとっては発情期であるにほかならない。古代から恋の歌は春をイメージさせることが多いが、それは人間の動物としての機能が人が春に恋をするように仕組まれているからに他ならない。これは他の動物と同じく、人にも発情期が存在するということに他ならない。

しかし、人間は一年中、発情期のような状態である。受精を確実におこなえる確率が低いとはいえ、これほど交配を一年中している動物も少ないだろうとおもうほどである。また、妊娠期間も長く、よほどな幸運に恵まれない限り乳房の数よりも子供を多く生むわけでもなく、多産であるともいえない。

この動物界では異例の発情期を持ち、人間はどのようなメリットがあるのだろうか?
まずは、そこから考えていこう。

春に限定されることなく、交配をするようになった人間は一年中子供を生むようになった。これは一見すると獲物があふれる夏や実りの秋に子供を育てられないということを意味するのだけれど、人間はそれを農業という生産や貯蓄という経済行為によって、子供を育てる時期を自分たちで選択できるようになった。このことにより人口爆発が短期的に起こることを回避することができ、自然災害などからのリスクも非常に軽妙なものとなってきた。つまり集団によって可能である農業と貯蓄によって人は集団の安定を勝ち得た。

卵が先か、それとも鶏が先かの議論になってしまいそうなのだけれども、その相関関係は固定しているものだと思う。

また、そこでも間引きをはじめとした人工調節がおこなわれたのは疑いがないと思う。それも所属する社会からの要求に応じてという形になる。

続きまだ?

もうちょいまってね

土日は忙しいの

>農業と貯蓄によって人は集団の安定を勝ち得た。

人類が蓄えを覚えたことも堕落の流れの中で教えてた殺人カルトがあったなw


進化論的社会学ってこじ付けだと思う。
各現象をある意図によって再構築した似非学問って感じ。
遺伝子工学なんかと同じ匂い。

>進化論的社会学ってこじ付けだと思う。
まぁ僕は進化論的社会学などに鼻もかけていないつもりなんだけどね。
ところで、あなたは進化論的社会学というジャンルをどう定義して、且つ、それに関して、どういう部分が再構築だといっているのだろうか。
再構築とおっしゃるものがダメっていえば、すべての学問が仮設実験的な論法で展開しているとおもえるんだけどね。

議論を好まないということは全くないですし、議論のもとになる論考に関しては耳をかたむかさせていただきますので、どうぞおっしゃっていただけますでしょうか。

ただしダーウィズムや遺伝子工学が積み上げてきた成果、つまり学術的な妥当性を否定されるならば、最初からお話になりませんけどね。

まぁよろしければ議論しましょう。

非常におもしろい。こういう一言コメントを残す方が、どういう意図と教養をお持ちなのか好奇心ルンルンです。


似非学問

オウム真理教が目指したものが正しい学問であり、古代生物学や量子生物学までふくめた進化論などが似非っていうオチはなしですよW
それじゃ、最初から話になんない。
そういうのならば、どこかの洞窟で独り言で言ってほしいですな

>オウム真理教が目指したものが正しい学問であり、古代生物学や量子生物学までふくめた進化論などが似非っていうオチ

多分そうじゃないかな(笑)

関係ないことで荒れるのは御免だけど

ひとつの仮説や見解をあげて、それに反する見方を全否定してぶつかりだすと、科学も宗教もあったもんじゃない、誰も幸せになれなくなったりする。

ぶつからんで

ぶうつからんでは仮説の検証もなにもできないよ。
自分の聞きたくないことは、みざる、いわざる、きかざる
そういうことをしてきたから、口の上手い上祐氏や松本死刑囚にだまされて罪を背負い込まされるんだよ。
不条理なことをいわれてもだんまりを決め込む。心の中で無視すべきだと自分に言い続けて、自分の感覚だけに頼ろうとする。そういうことをしていくから差別の対象にもなる。

はっきりいって、オウムに関連した人々は差別と恫喝の対象になっているんだよね。なんとか解決することができたのだけれども、野田なども僕の目前で恫喝の対象になり、辞めていく信者さんや被害者のためのお金を騙し取られようとしていた。もちろん、彼は最終的には怒ることにより、その場を切り抜けることができたのだけれどね。

不条理をこうむったらもっと怒らないといけないんだよ。
自分の怒りや悲しみを元にしなければ、世の中なんていうのは変わんないんだよ。

以前、僕に殺意を感じるといったひとがいたけれども、それでいいんだよ。怒りが生じても話そうとする。自分がどういう風に傷ついているのかはっきり言う。そうでなければ、本来最大のオウム被害者である
元信徒と呼ばれる人の回復はないよ。

まぁ、少し前に大量に罵倒をしたのだけれども、それに対して反論のメールを野田経由でくれたのは、たった一人だけだった。非常に残念なことだと思う。

自分たちが苦しんだりさげすまされていることにどうして憤りを持たないのだろうか?
虐げられている人間が苦痛を口にしなければなにも変わらんよ。

権威からの解放、科学と宗教の蘇生

ぶつかってもいいんですよ。

ぶつかっても、対立したものを完全にに無くすことは無理なんで。
ネガティブな荒廃でなく、豊かな実りある状態にしていくのは、対象をどう受け止めるか次第でしょうけど。

無常の世界で、科学が権威付けられれば、いずれ体系が破綻し転落することになるのは、ここ数十年の経済、国家理念の崩壊にも近いものがある。

権威っていうのは、偉い人が付与するものだけでなく。人の心の絶対領域みたいに鎮座する。

ダーウィニズムにしても、欧米のの宗教的固執を破るには十分だったけど、今度は(一般に支持されている)進化論が宗教チックな権威に変わってしまうことにもなるから、つねに(科学的)批判的に見て、生命の種の本質を追求する目を失わなければ、ダーウィニズムも科学でいられるでしょうね。

議論のぶつかり合い

大学時代のゼミを思い出してしまいました。

先輩の院生たちは、
入ったばかりの卒研で入ってきたわれわれに、
ゼミの発表の時手加減せず、突っ込んできましたね。
まるで、相撲で言う「かわいがり」のような感じでした。

平時は和気藹々とした雰囲気でしたが。
そういうところは、オウムでいう阿修羅が多いんでしょうけど。

オウム関係者(現役や元)があまり怒らないというのも、
忍辱波羅密や不悪口戒を実践している人が多いからじゃないですか?

いじめによる脱会!

ひかりの輸大阪支部の専従スタッフの最年長さんが、無断脱会をされたそうです。
アーレフ大阪支部に配属以来、道場長から苛められ虐げられ、我慢に我慢を重ねて来たが、支部長の犯罪に荷担は出来ない。として、無断で脱会したそうです。ご本人からの電話によると西宮の最古参会員さん、菅原さん、樽さんに宜しくお伝えください。ということです。ご本人によると、1月10日から道場に帰っていないそうです。
ひかりの輸大阪支部は、弱い者を苛めるんですか?
神風代理人さん、苛めの実態、知っていたら書いてください。
大阪支部会員の皆さん、支部長に釈明を求めて、会員総会で公開討論しましょう。
次回説法会で、代表を交えて団体改革の討論の場にしましょう。
支部長、副支部長は責任をとりなさい。

支部長が犯罪行為をしているなら告発すればよいのでは?末端スタッフの脱会などよりそちらの方がずっと重大な事のように思うんだが。苛められて我慢を重ねていたなら犯罪行為を白日の下に晒すぐらいの復讐でもすればよさそうだけど。


遺伝子工学に関して

進化論も含めて宗教的な権威にはなっていないでしょう。
ダーウィンが提唱してから、自然選択の時間設定や多くのものが刷新され続けていますし、起源問題として遺伝子工学自身、タンパク質組成の確立問題に取り込まれようとしています。
多くの研究者はどういうふうに刷新していくかということに集中しているだけだと思いますよ。一般に対してのリテラシー問題としてはおっしゃるような問題はありはしますがね。

派遣社員への避難

派遣社員に関して、彼らは職を選びすぎだという主張とかわいそうだからという主張が入り乱れていますが・・・
同情と蔑みというものはよく似た情感ですから、いわゆるアンビバレンツな状態(二つの情動を併せ持つ)になりやすいんだと思います。このどちらか一方あるいは両方ともが社会的な表出をおこなうときは、表出する社会環境に所以するものだと思います。

γというαとβで構成された情動をもったAという人物がいた場合。

Aという人物はBという環境にいるときCというαよりの発言をする。しかしAという人物がDという環境にいるときはEというβよりの発言を行う。

ケインズが予言した分解された個人表意の時代になり、以前のように家族や地域コミュニティなどを通じて収斂されていた意見が上位コミュニティに溯上しなくなりダイレクトにつながってし まっている。社会動物であるという前提のもと人間などというものはアンビバレンツな状態でなければ生きていけない生き物であり、そのアンビバレンツさを補 うのがコミュニティの役割だと思うんですよね。ところが、アンビバレンツな状態でその場だけの環境に依存してしまい安易な発言をしてしまう。また、その安 易な発言に対して同調するものも増えてくるように見える。しかし、、それはもともとアンビバレンツなαとβが混在した状態であるにしかすぎないんだと思いますよ。この状態が政治闘争にも見えてしまう。

より高度な環境ストレスを与えるとこうしたアンビバレンツな状態は選択肢というものにも分岐してくるのでしょうけれど、現状ではそこまでいっていない。

生物学の基礎にあることばですけど、餌の選択に迷うねずみにはストレスを与えろってのが、あります。現状でこうした状態にはないってことじゃないでしょうか。

アンビバレンツでも良かったというのが個人がコミュニティに属していた状況だと思うんですよ。それは家族だったり友人関係だったりする。それを累蓄したも のが文学としても成立する。ジョイスの視点などはより上位のコミュニティから身の丈大のコミュニティに社会環境が降下してきて、個人や身の回りの人々によ り大きなコミュニティがどのような影響を与えているかということを見事に書ききっていると思うんですよね(ジョイスの本に出てくる食べ物の話は非常にそう いうところを表している)ところがグローバリズムの市場開拓によって個人にまで細分化されてしまった。ゆえにダイレクトな自己責任を求められてしまってい る。家族コミュニティにはもちろん強度の父権主義などの害もあったのだけれど、個人が社会に直接的に晒されないという旨みがあると思うのですが、それがス ポイルされようとしている。もちろん自己責任などが問われると必然として自分のネガティブなども社会に還元してしまうというか、社会への応報感情として成 熟されてしまう可能性が高い。それが秋葉事件などのようなものだったんだと思います。

基本的に多くのコミュニティを内に含む上位コミュニティは個人がさらされるのにはあまりにも負担が大きい。ゆえに至近で所属するコミュニティは、より上位コミュニティが求める事項を集団で対処する。至近で身の丈大のコミュニティにはそういう役割がある。つまり、身の丈コミュニティがアンビバレンツな状態の個人を容認する。もっといえば自由を保障するといってもいいでしょう。

ここでオウムの例をひきあいにだしますが、結果としては詐欺として終了してしまったのだけれども、松本死刑囚の思惑とは別にオウムに入れば自分たちの自由(修行をすることもふくめてね)があると入信した人々は考えた。また、そこを通じて社会の刷新ができるのではないかという気持ちをもっていたのではないでしょうか。

ところが、このオウム真理教という団体は、多くの場合は松本死刑囚の犯罪性において、より上位のコミュニティとの接続を強く拒んだ。つまり、構成員の自由を保障するコミュニティではなかったということに他ならなかった。

個人は個人が自由であるためには所属するコミュニティが自分に代わって社会的な責任を果たすような存在になる湯鬼努めなければならない。この責任が本来の自己責任というものでしょうし、モンテーニュの主張する個人主義における責任論になるのでしょう。

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