ごくせん・小泉
先日、あるTVプロデューサーと話をした。彼はドラマを作っているが、なかなか視聴率争いは大変なようだ。それについて、以下のような会話が局内であったという話を聞いた。
「U君、このドラマのポイントは何かね?」
「世の中には、これこれこういう問題がありまして、それをこういう角度から…」
「長い!」
「…」
「そんなんじゃ、みんな分からないから、見ないよ。」
「はぁ、そうですか。。」
「今、視聴率稼いでいるドラマ知っているか?」
「『ごくせん』ですか?」
「そうだよ、『ごくせん』だよ。なんで売れているか分かるか?」
「え~そうですね…」
「『泣けて笑えるヤンキー』。それが『ごくせん』なんだよ。簡単だろ?分かりやすいだろ?」
「はぁ…」
「それぐらい単純なものじゃないと、みんな見てくれないよ。」
「……」
単純な分かりやすいもの、そうでなければ視聴率は稼げない。裏を返せば、表面的にはすぐには見えてこない分かりづらい事柄、深層に隠された事実については、みんな余り考えようとしていないということだ。これには危険な兆候を感じる。
余りモノを深く考えない大衆というのは、為政者にとっては都合が良い。表面的に分かりやすい対立の構図などを作り出して、大衆を束ねるのが容易になるからだ。
四川大地震で吹き飛んでしまったが、北京五輪聖火リレーでダライラマがやり玉に挙がっていたのもこれである。中国共産党は、「ダライ一味が国家の分裂を煽っている」と指弾し続けた。これは非常に分かりやすい構図だ(事実かどうかは別)。経済成長が続いている中国だが、13億を抱える巨大国家は内部崩壊寸前といってもいい。都市部と地方の格差は広がる一方で、更にここに来ての食料高騰で人民の不満はどんどん増大している。人民が抱える不満をそらし、求心力を高める為に外敵が作られる。「ダライは北京五輪を妨害する一切の破壊活動を直ちに止めよ!」となる(中国政府は「ダライラマ」ではなく「ダライ」と呼んでいる)。
そうやって目をそらされている内に、とんでもない方向に導かれていることもある。例えばファシズムとかですな。今の日本は大丈夫だろうか?
先が見えない日本の政治だが、誰がリーダーシップをとるのか?昨年来色んな調査で「次期首相に期待する人物」にトップに出てくるのは、小泉元総理だ。小泉さんも、「抵抗勢力」との対立構造で、うまく浮上した人物である。3年前の郵政解散・総選挙の時の、『それでも地球は動く!』という会見ニュースが大衆には受けたようだ。非常に分かりやすくて、テレビを見て「感動した」という声も多かった。しかし現実にやった政策というと、それ以前と何も変わっていない。むしろ「新自由主義」を推し進めて、貧困層をより苦しめたのではないだろうか。
彼について、「ワンフレーズでカタルシスを与えてくれる指導者」と評したブログがあった。うまいこというな、と思ったので、そちらも参照してください(ゴルゴさんがコメントでワシのことも書いている)。
しばらく前に、「今さらハルマゲドン」という記事を書いた。危険な兆候を感じる、といったのはその関係でもある。一般大衆の不満が蓄積している状態で、しかも煽動されやすい状態。その二つの要因が戦争に向けられる可能性、ということだ。
勿論、それらは単に可能性であり、必要条件に過ぎない、起こるとは限らない。しかしながら同時に、戦争と平和は裏表である(←うーん、ちょっと乱暴だなぁ、これだと)。秩序を維持する力を強めれば強めるほど、逆に秩序を破壊したいと思う潜在力も強まってくる。作用・反作用みたいなモノだ。
資本主義経済の胴元が、「世界経済は発展し続けている、みんなが豊かになるチャンスだ」と喧伝する。その一方で、いくら努力してもそこから這い上がれない貧困層が増え続ける。そういう努力が報われない状況下では、どこかで秩序を破壊する要素が蓄積されていく。赤木智弘氏のような、「戦争を希望」するフリーターの主張。これを異端視する声も多いが、私は必然だと思う。
「ケンカはいかん、ケンカはいかん。みんな、仲良くやろうな、仲良くな、な。」
不満の種がどんどん蓄積しているのに、こんなことばかり言っていても、収まりはつかない。
コメント
オウム真理教事件の被害者へ最高3000万円
知っていると思いますが。
これもイケル
『ごくせん』
トリビアかもしれませんが。
<公式サイト>
http://www.ntv.co.jp/gokusen/
<フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より>
任侠集団・大江戸一家で育った熱血高校教師、山口久美子(通称ヤンクミ)が不良ぞろいの3年D組で活躍する学園ドラマ。 だそうです。
主演は仲間由紀恵さん、ジャージ姿です。
ちなみにわたしは全然見たことありません。
興味はないからです。
阿部寛さんと共演の『トリック』はよく見ていましたね。
劇場版も見ました。
「私は会社を辞めたいと思っている。うちの会社はこうで、事務はこうで、社長はこうで、部長はこうで、どうしようもない。いやになる」と話す人が結構います。
そういうとき、私は次のように話します。
「あなたが言っている上司や会社はたしかにそうかもしれません。100%正しいことを誇張なく言っているのかもしれませんが、あなたはその会社で給料をもらって、それで食べているのですよね。自分の生活を成り立たせてくれる会社や上司に対して、そういう愚痴や悪口を平気でいえるあなたは、どうしようもない社長、専務、部長と同じような、どうしようもない社員なのではありますぇんか?」
そういわれてショックを感じつつも、ハッと気付く人がいます。
つまり、人の悪口、会社の悪口を言っているというのは、実は、全部自分を暴露していることにほかならないのです。
「100%幸せな1%の人々」(小林正観 著)より
↑
それを言ったらサマナは基本タダ働きですからねw
↑は当てはまらないでしょう。
どうしようもない
日本に居れば教団を出て自ら稼ぐ自由もある中、教団の中で「ご奉仕」してるのは自発的意志のはず。出て稼ぐ自信がないにしても、養ってもらってる以上タダ働きでもない。
>「私は会社を辞めたいと思っている。うちの会社はこうで、事務はこうで、社長はこうで、部長はこうで、どうしようもない。いやになる」と話す人が結構います。
ケースバイケースで、やめてもいいと思う。学生時代に学費の工面で仕事を辞められないのを見越して、不当にタダ働きさせられるようなこともあった。奨学金が下りるようになってからはさっさとやめた。
その後、その職場は激震に見舞われましたとさ。ついに従業員が動いたから。その後はだいぶ変わったみたい。
でもそういうのとは違う話だろうけど。
文句を言っていても傍から見れば誰もが羨むような良い条件だったりすることもあるから。
向上欲求や正義感の矛先が上司に向いているだけの場合もあるけど、なかなか変わらない他人をあてにするより、現在の環境、条件の中で自分自身ベストを尽くすくらいしか出来ることはないんですけどね。
「~はこうで、どうしようもない」というのが人間の現実であって、自分自身もその一人。向上欲求さえあれば、まずは自分自身がどこまで変われるか追求するほうがやりやすい。
「どうしようもない」環境を突破するのは、実は自分自身をぶっ壊して再構築するのとほとんど同義だったりするんですけど。
小林正観さんの講演会
そのとき小林さんはこう言っていました。
「よく『どんなにつらいことがあっても離婚してはいけません』って言う人がいますけれど、わたしはそうは思いません。離婚したければ離婚してもいいとわたしは思っています。嫌いな人と暮らし続けるというのはとてもつらいことですから」と。
小林さんは「感謝の実践によって幸福になれます」と精神論を説くと同時に
「自分の置かれている環境が理不尽だと思ったら、そこから離れてもいいと思います」と現実論も説いています。
小林正観さんは飄々としてとても面白い人でした。
漫談の中に「ハッ!」とさせるような素晴らしい話を盛り込むという講演会でした。
機会があればまた会いに行きたい方です。
>自分がすべてを決めています。
これは「自分の置かれている環境をどう解釈するかは自分が決めていることだし、自分がその環境にいるか、離れるを決めているのも自分です」ということだと思います。
ゴタゴタしている教団にい続けるのもよし、教団から出るのもよし、それを決めるのは自分自身いうことでしょう。
別れなはれ
承認待ちコメント
自分は既に辞めた人間ですのでご安心を。
サマナに主体性が求められるようになったのは極最近ですよね。
昔を思い返すと随分と変わったものだと思います。
私も昔時代のショックが激し過ぎたせいで、ついつい以前の感覚で書き込みました。その点お詫びします。
今の現役サマナを見ると、二拍子さんの話は確かに頷けるものではあるけれど、
果たして過去存在したサマナ全てに適用されるべき定義なのか?
と考えると私は疑問があります。
今は長文かけないので、
また機会があればあらためて書き込みさせて頂きます。
孤独と自立
なるほど、そういうことですか。
>果たして過去存在したサマナ全てに適用されるべき定義なのか?
>と考えると私は疑問があります。
それぞれの人が、それぞれの理由で去っていきましたので、全部の人が当てはまるということはないと思います。
最近は確執の狭間で、教団内で孤立してしまう人も多かったように思います。AとかMとか、明確に態度を示さない人は誰からも相手にされなくなってしまい、はじき出されるように出て行くパターンですね。
現役の人にとっては、直視しなければならない「行き止まり」を見つめ、それを超えるにはお客として乗り物に乗るのでなく、個々人が向きを変えるしかない、解決は一人一人に委ねられているといったところでしょうか。
損害賠償金の約6割が未払いとなっている問題で、与党と民主党は27日、
遺族や被害者に最高3000万円の給付金を支払う法案の今国会提出で合意した。
被害を6段階に分け、「介護を要する後遺障害」に3000万円、その他の被害に10万~2000万円の給付金を支払い、
国が教団から求償することが柱。給付金の最高額は与党案から倍増した。今後、社民党、共産党などとも調整し、早期成立を目指す。
オウム事件を巡っては昨年秋、被害者らの教団に対する約38億円の損害賠償金のうち6割以上が未回収のまま、 教団の破産手続きが終わることが判明。民主党は未回収債権の全額を国が支払う法案を2月に衆院に提出、
与党は被害を6段階に分けて10万~1500万円の給付金を支払う案をまとめ、修正協議を進めてきた。民主党は法案を取り下げる方針だ。
(2008年5月28日03時11分 読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20080528-OYT1T00016.htm