元オウム教団幹部 野田成人のブログ

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 広報HPの内容証明がこちらにも来ました。

 マスコミからも問い合わせ頂いておりますが、今回の団体の規約変更については

 松本家崇拝への回帰が鮮明になった

という風に受け取って頂ければいいのではないでしょうか。出家在家問わず、今回の規約改正に真剣に関心を持っていたのは、A派とそれに反対していた大村さん(と極々若干のもの)だけでしょう。2000年のアーレフ体制発足以前から現在に至るまで、松本死刑囚が定めたステージによる上意下達の体制は、本質的には全く変わっておりません。

 私自体が代表なのか、認めるのか認めないのか、という議論も、本質的なものではありません。広報の主張する会員総会による決議などというのも、全く滑稽なものです。民主的とはかけ離れたものです。出家者は、松本家の威光をちらつかせ続けていたA派側になびいた(現実的に今時点で松本家から具体的な指示があるかはどうかは別にして)。ただそれだけのことです。

 ここ数年にあった松本家の指示等については、月刊現代・創等の雑誌に寄稿した通りです。あの訴訟好きな松本家が、私や「ひかりの輪」の幹部連中に対しては沈黙しているのが、なにより事実であったことの証拠です。まあせいぜいが、共同幹事の名前で抗議をするくらいなのでしょう。アヌーパマ師、乙です、君にはホントに同情する。

 ただマスコミの方としては、「今後、アーレフ代表という肩書きで良いのか?」と戸惑っておられるようで。それは私も同様ですね、どうしましょうか…。


「大丈夫か?」とか色々お声をかけて頂いたりしております。温かいご配慮等々、感謝致します。しかしながら、現実生活の部分はほとんど変わっておりません。昨日と変わらぬ今日ですし、1ヶ月前とも1年前ともほとんど変わっておりません。相変わらずの避けて通るようなよそよそしい対応と、若干のいじわるな妨害がたまにあるくらいです。

 今日は忙しいので、このくらいで。

コメント


よく居ますね・・・すごい

のださんどんどん大変な状況になってきましたね。 宗教的にのださんがいいのか悪いのかわかりませんが、なんかめげないで教団に居続けるっていうのがすごいです。
いじわるされるのですか。アヌーバマ師? どうして同情するのですか?
宗教やるということは人を幸せにするはずなのにいじわるするのは不思議です。

アヌーパマ師は

共同幹事・教団代表というのは単なる肩書きで
実際は松本家と教団の中間管理職なんですよ。

野田さんはアヌーパマ師の中間管理職のつらい立場を理解しているから
同情するんです。

>宗教やるということは人を幸せにするはずなのにいじわるするのは不思議です。

アヌーパマ師は松本家を隠れて信奉するという立場上、野田氏にクレームをつけざるを得ないんですよ。松本家の味方をするなら、松本家の悲惨な実情を暴露する野田氏は敵になってしまうんです。

自他の区別・敵味方の区別をせず、すべての魂を愛するというのが教団の教えのはずです。
しかし松本家と出家者たちが自己保全・教団保全に走ったがゆえに、このような分裂・闘争が起きています。


選択肢

>ただマスコミの方としては、「今後、アーレフ代表という肩書きで良いのか?」と戸惑って おられるようで。それは私も同様ですね、どうしましょうか…。


1.「広報の主張する会員総会による決議は全く滑稽である。無効である」と主張し
自分が代表であると公表し続ける

2.「会員総会が自分を代表と認めず出家者たちもそれを認知したとしても、自分は代表である」と主張し、「自称代表」になる

3.しょうがないから、「元代表」と名乗る

4.「自分は代表としてやるべきことはやった。ありがたく降ろさせてもらう。上田くん、松下くん、あとは頼んだぞ。教団代表をやってきた上祐さんやわたしの苦労を君たちも経験してくれ」と「代表」とも「元代表」とも名乗らず、一正悟師として活動する

5.「自分は教団代表という立場を活用して情報発信や活動をしてきた。それができなくなった以上教団にしがみついてもしかたがない」と考え、教団を離れる。


野田氏は現時点で5の選択は考えていないようですが、1~4は現実的な選択だと思います。

教団の現状を社会に知らせるために、このブログはできるだけ続けていただきたいです。

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やっぱりケンカじゃないの・・

松本家がよく出てくるけど、松本家の人と野田代表は話したりしないわけですか?
なんかこんなブログでいろいろ書いてちょっとまどろっこしいように思う。
たまにこのブログを最近見るようになった。
コメントする人がなかなかいいことも書いてあるのでおもしろくなってね。
結局のところ、松本家の人達と野田さんや出て行った上祐さんも含めて上層部のケンカじゃないかと思いました。下の者はただ盲信というか。
いきなりこんな初心者的なコメントかもしれませんが。一応はオウムのことはちょっと知ってます。野田さんの今の心境を本音で聞きたいものです。いつもと同じで平気なんてことないはずなんだけどなあ・・。無理してませんか?それともそれが解脱者だと言いたいところなんですか?

身分保全

で訴訟してやったらどうよW
その期間中にかんしては先方の規約もいみのないものになるよ。

とりあえず内容証明書できたんだから、内容証明書で返す必要はあるよ。

公判の場において

先方が訴訟に踏み込んでくれるのが理想的な展開だとおもうけれども
身分保全とその確認は二の次として、公判内で松本家と教団が関連性があるということを公の記録として残す意義はあると思う。

あるいはね。こういう連中の責任転嫁のための敵になってやる必要はないんだから、すっきりとやめてしまって、外部から自分の責任をとるという方法もあると思う。僕としてはそれをすすめるけれどね。


......

シャンバラ化計画はどこ行ったのかな?
計画が無くなったのなら、松本家もアーレフも必要なくなるな。
やっぱ、アーレフを解散して「オウム松本家」を立ち上げほうがいいかもね。

教えてくれ

野田氏は破門なの?それとも1サマナor信徒?生活費はどうなるの?
あと大村さんはどうして破門されたの?自分たちがやったくせに師にきいてももにょもにょしてはっきり理由を答えない。「ただ更生の見込みがない」というだけ。こういう場合昔は通達だしてたはず。やることもいうことも不信が高まるばかり。

力負け

修行の方法はいろいろある。
結果がでれば、どんな修行方法でもOK!
修行の結果の一つに、現象を動かす力というものがある。
松本家の二人の正大師の現象を動かす力が、
VT正悟師という一人の正悟師の力を上回ったということでしょうか?

例え、理論的に正しかったとしても、
力がなければ、現象は動かない。
しかし、VT正悟師の修行方法が、
現象を動かす力を生み出していなかったとも言える。

敢えて、自分のことは棚に上げてコメント!

たまたまこのブログを見たんですが
私も信者じゃないけど
オウムのことは少し知ってます。
野田さんは松本家の人達と話してみたらどうですか?

ブログに書くよりも直接対話してみたらどうでしょう。

対話上等

>野田さんは松本家の人達と話してみたらどうですか?
>
>ブログに書くよりも直接対話してみたらどうでしょう。

それが出来れば苦労はないでしょう。
対話するってことは逃げないこと。矛盾点や闇の照らし出しがそこにあるなら、話をそらされて終わり。そのうち問いかけても返事が来なくなる。それが現状。

訴訟好きな松本家

これまで教団では道徳・法律、そして人情、愛情というものを取るに足らない観念だと、解脱や悟りの妨げになるとして軽蔑し馬鹿にしてきた。特に内弁慶な幹部ほどこういうことを言っていたな。しかしその根源たる松本家はどうだ?そのくだらない法律によって自分たちを守ろうとしているじゃないか。救われたいと思っているじゃないか。
身勝手で調子がよくないか。社会にモラルや法律、人情がなかったらもっとひどい目にあってたっておかしくないんだよ。
いい加減、傲慢さを反省すべきですね。

突然登場された素人さんがKY発言されてるようですが・・・

松本家は北朝鮮擁護官庁公安調査庁の思惑に基づく庇護の下にあられるみたいですぞw

名簿

で 野田さんは五月の公安提出名簿から外されたの?


fc2でいろいろdos攻撃に遭っているようですな。

わたしのところでもHPが管理画面に移行しようとすると英語で「見つかりません」と出ました。

嗚呼。

HPはしばらくは更新できませんので。

まさか、Alephの攻撃では?

結局、

野田氏が政治と言うものを良く理解してなかったのではないでしょうか。
スターリンとトロツキーの対立のようなものです。理念的に正しかったのは、トロツキーの世界同時革命論でしたが、スターリンの方は敵対勢力を粛清して、権力を掌握しました。
会社でもそうじゃないですか。上司の引き立てにあい、良い部下に恵まれれば、出世しますよね。理念なんて関係ないです。今回の場合も、野田氏が正しかったのか、あるいはA派が正しかったのか、割り切れない部分があります。トロツキーは亡命先のメキシコでスターリンの刺客によって殺害されましたが、野田氏にはあくまで現教団に残って欲しいですね。訴訟をしたり(一体何の訴訟なのか良く分かりませんが)、脱会しても無意味だと思います。状況が1年前と同じなら、これからも同じでしょう。脱会しても就職のあてなどないでしょう。飽くまで教団に残る、これが野田氏に課せられた神の指令なのではないでしょうか。

YASUさんとこDOS攻撃受けたのですか?最近の鯖は業者の方でうまく保護してくれるような仕様になってないですかね? 当方のアクセスログには連続的なアクセスの記録は見当たらないようですが。

アヌーパマ師はマハーポーシャの人妻信徒にセクハラした師じゃありません?
セクハラだか合意だか知らないけど、
抱き寄せてキスしたという話です。
人工知能シャバダバさんが2ちゃんで言ってましたね。

大目に見てあげて

キスくらい大したことではないでしょう。
男盛りの時期に我慢してるんだから。
現世でもてなくてオウムで師になって
モテ始めて糸の切れた凧状態に
なってしまう人もいるんだから。

松本氏は修行に真剣に取り組んでいた時期もあったし、それなりの成果を上げていた時期があったことは言えると思います。しかし、途中で行き詰まり、全く間違った方向に行ってしまい、転落していってしまったことも間違いないことです。

教団では松本氏はあらゆる聖者から絶賛されていた、と宣伝していました。しかし、それは表向きのことであり、実際には松本氏の問題点を指摘していた聖者も多くいたのです。教団ではそのことには全く触れていませんでした。

私が聞いた話では、松本氏の霊的体験、霊能力に対するとらわれを危惧する声も結構あったようです。また我の強さも問題視されていたようです。チベットの多くのラマは松本氏のことを、自我意識が強すぎて、空性を理解することはできない、と評していたそうです。このことは多くの信者が知らないことでしょう。

また教団とも関わりがあったカル・リンポチェ師は、松本氏に体験にこだわらない、とらわれないようにということを指摘し続けたそうです。教団ではカル・リンポチェ師が松本氏のことをずっと絶賛していたように宣伝していましたが、それは事実と違ったのです。

そして、松本氏がヨーガの指導を受けたパイロット・ババは、松本氏を修行者として優れた要素もあったが、霊的な力にとらわれてしまい、自我意識も強く、金銭や名誉に対するとらわれも強かった。だから道を踏み外し転落してしまった、非常に残念である、というようなことを述べていたそうです。松本氏は、パイロット・ババの元で修行をした時、しばらく修行をするように言われていたのですが、三日で修行をやめて帰国してしまったそうです。その後自分は最終解脱をしたと自称するようになり、パイロット・ババはびっくりしてしまったそうです。松本氏はヒマラヤの修行で最終解脱をしたと述べていましたが、実際の修行は中途半端に終わってしまったのです。

これから言えることは、松本氏は自我意識が強く、霊的体験や霊能力といったものへのとらわれがあり、金銭や名誉などにもこだわりがあったようです。これらの聖者と言われる人々の見解は、その通りであると思います。松本氏は修行の途上で躓いてしまったのです。ですからあれだけのことをなしてしまったのです。松本氏が他の修行者、聖者方の意見を素直に聞いていれば、少なくとも事件が起こることがなかったのではないかと思うと、とても残念におもいます。

>現世でなくてもオウムで師になって
>モテ始めて糸の切れた凧状態に
>なってしまう人もいるんだから。

はあ?ではなんで出家したのでしょうか?
オウムの出家サマナは現世でモテなくって厭世的になって出家したのでしょうか?

VTさんへ

こっちへいらっしゃ~い~♪
(*^^*)

元幹部の尊師に対する見解

幹部、側近の人は麻原死刑囚の実態を知ることができますが、
末端の信者は全く知る由もありません。
雲の上の神さまなんです。
幹部、側近のお話、それを聞いたサマナの伝聞しか聞こえてこないんですよ。
しかも、美化された話ばかり。
だんまりの保身を決め込む元幹部の中で、ここで告白されたことは評価に値しますが
松本死刑囚の実態、会見した聖者方の評価を知っていたなら、もっと早く
知らせて欲しかったですね。

>キスくらい大したことではないでしょう。
>男盛りの時期に我慢してるんだから。
>現世でもてなくてオウムで師になって
>モテ始めて糸の切れた凧状態に
>なってしまう人もいるんだから。

あほかいね。
平サマナがおんなじことやったらどうなると思うてか。
師なら自制せんかい。

>現世でもてなくてオウムで師になって
>モテ始めて糸の切れた凧状態に
>なってしまう人もいるんだから。

だったら、オウムのポアコース、シッディコースにしたらよかったでしょう。

キスどころかラストまでやっちゃっても
降格されず、周知の事実だけど
あまり話題にもされない師の方もいましたね。

↑だれ?

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>金銭や名誉に対するとらわれも強かった。だから道を踏み外し転落してしまった、非常に残念である、というようなことを述べていたそうです

これって某辞めそうな部長の??

金銭へのとらわれというのは、単に貪り多き信徒への慈愛では? 
ババジーといえば、この意味で夜熊田さんへの評価も聞いてみたいもんですわw

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アーナンダマイトリー僧

スリランカのアーナンダマイトリー僧は尊師を絶賛している。
英語がある程度聞き取れる人なら、
ビデオを見るとすぐに分かる。
カル・リンポチェ師は大乗の修行の成就者、
オウムでいう正大師なので、
尊師を一部理解できない部分があったかもしれない。
しかし、尊師を認めているからこそ、
わざわざ富士道場まできて説法をして、
瞑想法を伝授して帰ったのである。

大乗の成就者であるマイトレーヤ正大師(上祐さん)も、
尊師を認める部分は認めている。
オウムの透明な強い上昇するエネルギーを認識している。
しかし、エネルギーが上昇しているからと言って聖者とは限らない、
というふうに、エネルギーとその人のステージを別と認識している。

カッピナ師の体験談をもう一度ゆっくり読んで欲しい。
理屈ばかりこねていて、修行していないと、
尊師が何故に尊師であるか、
そのことすら分らなくなってくる。

http://aumer000yasu.web.fc2.com/link/shiryoushuu/kappina/kappina.html

「一つは、わたしがサマディに入り、化身で空を飛ぼうとしたときのことです。
このときはエネルギー状態があまり良くなかったせいか、ジャンプしたのですが、
地上1メートルくらいの所で止まってしまったんです。
そして『はて、どうしたものか』と思いましたが、
『そうだ、グルを観想しよう』と思い直して、ほんの少しだけ尊師を観想したんです。
すると、ガーーーーンとものすごい勢いで上に引き上げられ、
あつという間に地面さえ見えないような、
はるか上空まで引き上げられてしまったんです。」以上体験談より引用

バルドーに入ったときに、
頼りになるのは尊師だけ。
尊師の強烈な上昇のエネルギーは、
修行をしていれば、
ある一定のステージに到達すると、
誰でも認識できる。

ただし、そのエネルギーを自己の観念によって否定して、
遮断してしまうことも可能。
ここがポイント。
遮断してしまった人は、
尊師のエネルギーは上昇していない。
逆に下降しているとか言うようになってくる。

相当ステージの高い人が、
反オウムになっているのは、
このことが理由です。

しかしながら、今反オウム側に回っている人は、
心が優しい人で、
それはそれで仕方がないので、
しっかりと修行してほしい。

前にも書いたが、
弥勒菩薩の観想とか、
シヴァ神の直接観想とか、
尊師を否定していたとしても、
シヴァ神の系統のエネルギーをもらうことは可能です。

妄想

> ぼくのおはなしきいてください

この小人は根本的に分かっていない。と思います。
メッターダッシンが小人だなということです。

> なしたことというのは、必ず全部コーザルのデータとして蓄積されていきますし、その蓄積されたデータは、神秘力があれば見ることも出来る

と仮定しましょう。ところで、神秘力(なる怪しいもの)によってみることができるのなら、カッピナ君は自らの死を予見できていたはずであるが、私が依頼され生死を観た時、彼は死の過程を突き進むべき過程にすでにその前年から入っていたことを、彼自身は、まったく知らずに無謀な修行に突進へと突き進んだ様に思われる。

よって神秘力(なる怪しいもの)は、ある程度の参考資料に過ぎない、まったく慈悲に溢れる心とは、無縁な数多くある悟り経験を可能とする手段のひとつに過ぎないと思うよ。

弥勒金剛法具エンパワーメント!!

みなさん、ひかりの輪に入れば上祐代表から弥勒金剛法具エンパワーメントを受けて、精神的・霊的進化をすることができるのです!
http://sendai.hikarinowa.net/03/0015.html

上祐代表は会員さんの体験談に

「ヴァジラサットヴァの瞑想のときに感じた光は、仏陀の智慧と慈悲を表す光だ、と思います。
この聖音波動の後に、コーザルのエンパワーメントを私が行なっている間、その智慧と慈悲の光を私も感じていました(この点において、両者の体験が共有されています)。なお、「ヴァジラサットヴァの瞑想」で観想される金剛杵(ヴァジュラ)という法具は、仏陀の智慧と慈悲を表す象徴です」

というコメントを寄せられています。

上祐代表は仏陀の智慧と慈悲の光を導き入れ、コーザルのエンパワーメントを行うことができる神聖で偉大な存在なのです!

みなさん、ひかりの輪に入って上祐代表から弥勒金剛法具エンパワーメントを受けられるように頑張りましょうね!

慈悲と神秘力

>と仮定しましょう。ところで、神秘力(なる怪しいもの)によってみることができるのなら、カッピナ君は自らの死を予見できていたはずであるが、私が依頼され生死を観た時、彼は死の過程を突き進むべき過程にすでにその前年から入っていたことを、彼自身は、まったく知らずに無謀な修行に突進へと突き進んだ様に思われる。

自己の修行に没頭するタイプの人はこの世との縁が薄くなるみたいだ。大乗で、この世に留まることにモチベーションを持ってると、冬山でのミラレパのように無茶なことがあっても死ななかったりするし、逆に現世否定のみで独居修行だと、ふとしたきっかけでおさらばすることに。右道志向だとなおさらかもしれない。

修行大好きで、ずっと篭って瞑想修行できる人は「自分のための修行はもう十分だ」とアドバイスされることもあるようだし、それがそういう人の、この人間の世界にとどまって行なう修行課題なんだろうなと思った次第。

>私が依頼され生死を観た時
司法鑑定の立会いでもあったのですか?

>よって神秘力(なる怪しいもの)は、ある程度の参考資料に過ぎない、まったく慈悲に溢れる心とは、無縁な数多くある悟り経験を可能とする手段のひとつに過ぎないと思うよ

それはちょっと乱暴だ。むしろ無明(非神秘力)からの脱却はとても大きい意味合いを持つのに、ここを参考程度とするのは、仏教的悟りの重要ポイントを参考程度とするに等しいよ。そうだとしたら成就者いらない。

今の人類は言葉で表現できるもの、目で見えるもの(現代の技術で測定できるもの)しか信じないから、それ以外のもの、割り切れないもの、感じ取っても測定できない、表現できないものを否定する。
これが人類の潜在能力や、本質的な心の豊かさを台無しにしてる。
これは科学の負の側面だと思う。

本質的に、魂の本来の力と、心の豊かさの源泉は不可分だと思う。

三宝を祭壇に上げっぱなしにするな

「ソンシすばらしい」とか言う分には勝手だけど、それでどれだけの人が本当に幸せになれるか?たとえ世界中の人が「尊師」にネガティブな思いを持っていなかったとしても、本質的には意味がない。

何か尊いものを祭壇にあげて遠くから拝むことが全てでは本来進むべき道の玄関先程度でしかない。それこそが全てというのは菓子パンは匂いだけにして食べるなと言うに等しい。
自己の外にあるダルマ、法を、あらゆる人々の自己の中に仏性として内在させていく、現教団にその触媒としての役目がなされない(どころか、それを遮断する)のであれば、ないほうがまし。

二拍子さんへ

>私が依頼され生死を観た時
司法鑑定の立会いでもあったのですか?


理治さんは占星術ができるのでホロスコープを見たんですよ。
「私が依頼され生死を観た時、彼は死の過程を突き進むべき過程にすでにその前年から入っていた」という表現を見れば明らかです。

「彼は死の過程を突き進むべき過程にすでにその前年から入っていたことを、彼自身は、まったく知らずに無謀な修行に突進へと突き進んだ様に思われる。」

師の人たちが
「カッピナ師は個人的な修行ばかりしてワークをしなくなっていった。
修行も自分独自のものを追求するようになっていった。何かカッピナ師はズレていた」
と言っていました。

真冬の富士山に登頂するなんて本当に無謀です。


マハーナーマ師は温熱修行で仮死状態になったことがあります。
そしてその体験を「わたしは温熱修行で仮死状態になったことがありました。でもグルを感想して戻ってくることができました」と自慢げに話していました。

そしてマハーナーマ師は12月31日から1月1日にかけて温熱修行で亡くなってしまいました。

真冬にいきなり高温の風呂に入るのも無謀だといわざるを得ません。
真冬に風呂に入って急激な体温・血圧の上昇によって亡くなる人は毎年たくさん出ています。

お二人とも霊的体験が非常に豊富で「自分はステージが高い!グルから守られている!」
という思い込みが強かった印象があります。

だからお二人とも
「真冬の富士山に登頂する」
「真冬に高温の風呂に入る」
という非常に危険な行為を「自分なら大丈夫!」と思って実行し、命を落としてしまったと思っています。

この2つの事故を通じて
「修行者はいろいろな精神的・霊的体験をするけど、その体験に傲慢にならず謙虚にならなくては」
と身の引き締まる思いがしたものです。

お二人のご冥福をお祈りします。

霊的経験

いわゆる霊性が高い人って
傲慢な人が多いんですよね。
自分は特別だという意識でしょうか。
エゴイスティックで周りの人を傷付ける傾向があります。

>いわゆる霊性が高い人って
>傲慢な人が多いんですよね。

それだけ、霊的存在に接触する機会が増えますから、
彼らにそういう意識を植え付けられてしまうんでしょうな。
「カスタネダの『夢見の技法』を嫁!」と言ってやりたくなりました。

>「カッピナ師は個人的な修行ばかりしてワークをしなくなっていった。
>修行も自分独自のものを追求するようになっていった。
>何かカッピナ師はズレていた」

わたしはカッピナ師を評価しますね。
ある仙道系の掲示板に彼らしき人が書いているのを見かけました。
たぶん彼ではないかと思います。
「カスミケンシロウ」と名乗っていましたね。

でも、そういうことをやるのであれば、
アーレフをやめてからにした方が良かったのかもしれません。
基本的にオウム・アーレフ(Aleph)は「救済」を意識している修行体系ですから、
そういう勝手なことは許されないんでしょうな。
で、柴田威信じゃなかった、シヴァ大神の怒りを買ってしまった。

と、わたしがAlephの帰依信徒になったつもりで書いてみました。

傲慢さ

霊性高い人ってほとんど低級霊域入ってません?

高い世界のほんものの霊性じゃなくて四国あたりの
拝み屋さんと同じ類のものでしょう。
志の高さをずっとキープしてなかったら
成就者でもすぐ低位の霊界と繋がるのでは?


理治様

小人なんて言っちゃだめですよ。
今は「こびと」って使っちゃだめな言葉だそうですよ。

死の行軍

>「私が依頼され生死を観た時、彼は死の過程を突き進むべき過程にすでにその前年から入っていた」という表現を見れば明らかです。

大きなカルマの流れに逆らうことはなかなか難しい、自分でコントロールしたつもりでも、結局大きなうねりに呑み込まれてしまった。

大きな因縁の鎖の絡みは、避けていてもいつかは対峙しなければならないもので、いよいよ自分自身、腹をくくって決着つけないといけないと思う今日このごろ。決着つけるのは結局、自分の中の闇、手付かずに避けていた部分なんですけどね。
ここを超えない限り行き詰って死を迎えるようなこともありなむ。明らかな行き止まりを認めるならば歩む向きを変えるより他なしと人は悟るべしと。

決着つけるのは結局、自分の中の闇、

>決着つけるのは結局、自分の中の闇、
>手付かずに避けていた部分なんですけどね。

何のことか分らないけれど、
気づいただけで素晴らしいことではないでしょうか。
人は、それぞれ、自分で気づくこともできない、
大きな問題点をかかえているものです。
もちろん私にもあると思います。

まず、私は認識している部分から、
マントラなどの力を借りて、
変化させているところです。

ぼくきにしているのに

>この小人は根本的に分かっていない。と思います。
 メッターダッシンが小人だなということです。

>理治様
 小人なんて言っちゃだめですよ。
 今は「こびと」って使っちゃだめな言葉だそうですよ。


理治さんはぼくのこと「こびと」っていうんですか?
ぼく背がひくいこときにしているのに!
ひどい、ひどい!

それとも「大人」の反対語のつもりとして「小人」といったのですか?
ぼくのことこどもだといいたいんですか?
童顔もきにしているのに!
ひどい、ひどい!

ぼくが「しょうじん」であることはみとめます<(_ _)>

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和井 恵=ナーギタが悟りました!

お久しぶりです (和井 恵)

2008-05-24 01:36:26

ようやく、釈迦の教えの本質をすべて把握(理解)できたな、
と自分で納得できるようになりました。

実はこれ、例のatomさんとの出会いが大きく影響しています。
そこで、ようやく最後の障害を乗り越えることが出来たようです。
彼との出会いに感謝^^

いずれ、「釈迦は何を教えたのか?」というタイトルの
ホームページを立ち上げる予定です。

今、その原稿を書き始めているところ。
(釈迦の教えの、基本的な内容は全て解りやすく説明できると考えています。)

これをだいたい書き終えてから、HPの作り方を覚えないとね…



和井恵さん (白龍)

2008-05-24 09:02:27

どうもお久しぶりでした。
どうされていたのかと、皆で心配しておりましたよ。
お変わりありませんでしたか?

>ようやく、釈迦の教えの本質をすべて把握(理解)できたな、
と自分で納得できるようになりました。

おおー!それはすごい!
おそらく、和井さんのことだから、結構過激なこともやったのではないですか?^^

>実はこれ、例のatomさんとの出会いが大きく影響しています。
>そこで、ようやく最後の障害を乗り越えることが出来たようです。
>彼との出会いに感謝^^

atomさんとのやり取りからヒントを得たという感じでしょうか?

>いずれ、「釈迦は何を教えたのか?」というタイトルの
ホームページを立ち上げる予定です。

ああ、ぜひご自分がまとめた考えを、公にしていただきたいと思います。

>今、その原稿を書き始めているところ。
(釈迦の教えの、基本的な内容は全て解りやすく説明できると考えています。)

分からなければ質問させていただきますが、
出来れば私でも理解できる程度に、解説いただけるとありがたいです。^^

>これをだいたい書き終えてから、HPの作り方を覚えないとね…

さくらさん、yasuさんやabelさんが、さっそくお声をかけてきておりますから、いろいろお聞きになって作成されたらよろしいのではないでしょうか?
出来上がりが、とても楽しみです。

これで、今後、元芝さんに、ヨーガの奥義を披露していただけると、
さらに、仏教・ヨーガの比較検討がしやすくなり、
仏教・ヨーガに関する理解が深まるかもしれませんね。^^



白龍さんへ (和井 恵)

2008-05-24 11:58:42

>どうもお久しぶりでした。
>どうされていたのかと、皆で心配しておりましたよ。
>お変わりありませんでしたか?

ほとんどが自宅と仕事場の往復で、
電車やバスに乗って遠出するようなことは
まったくありませんでしたね。
誰かと会ったり、連絡を取り合ったりということも
意図的に完全に中断していました。

喩えて言えば、『蛹(さなぎ)状態』。
羽化するまでは、時が過ぎてゆくのを
じっと待ち続けるしかない。


>>ようやく、釈迦の教えの本質をすべて把握(理解)できたな、
>>と自分で納得できるようになりました。
>>
>>実はこれ、例のatomさんとの出会いが大きく影響しています。
>>そこで、ようやく最後の障害を乗り越えることが出来たようです。
>>彼との出会いに感謝^^

>atomさんとのやり取りからヒントを得たという感じでしょうか?

その通りです。
当時、わたしは「一元・全肯定」の立場を、
atomさんは「ゼロ元・全否定」の立場で話をしていました。
そして、釈迦の教えに関して言えば、
atomさんが唱えた「ゼロ元・全否定」が正しかったのです。

私は仏教のスタートが阿含宗の出身なので、
もちろん原始仏教も色々と勉強はしましたが、
考え方のベーシックなものが最初から「密教的」だったのです。
煩悩即菩提、といった、ある意味欲望を肯定する立場や、
チベット密教のゾクチェン的な考え方・捉え方などもね。

はっきり言ってしまえば、釈迦の教えと密教は別物なのです。
これは、いい悪いでもなく、優劣を競う意味でもなくて、
単純に「別々の教え」なのです。

一番良くないのが、これらを「ちゃんぽん(ごちゃ混ぜ)」にしてしまうこと。
私は今まで、これをずーっと繰り返してきてしまっていたのです。

別々に食べていれば、特に何も問題がないものでも、
「食べ合わせ」が悪ければ「中毒」を起こしてしまいます。
この「中毒症状」から抜け出すのに
かなりの時間がかかってしまったということです。

この間、私は「仏教的なもの」には一切触れていません。
宗教書などの類にも、まったく近づくこともなく、
それらについて(無意識のうちに)考えることすら避けてきました。
ただ、淡々と日常生活を過ごしてゆく。

そして、最近になって、
ふとしたきっかけで再びアーガマに目を通してみると、
まさに『目から鱗』の状態でした。

今までどことなく曖昧ではっきりとしない、
分かったような解らないような、
意味のよく解らなかった「専門用語の定型的な羅列」が
鮮明な意味のあるものとして見えてきたのです。

釈迦の教えは、シンプルでとてもクリアーな教えでした。
論理的に正しく、方法論としても優れていて、
曖昧なところが全くないのです。


>分からなければ質問させていただきますが、
>出来れば私でも理解できる程度に、解説いただけるとありがたいです。^^

釈迦の言葉を伝承しているとされるアーガマには、
釈迦の教説を聞いた人々の感想が述べられています。

  素晴らしいかな大徳、素晴らしいかな大徳、
たとえば、倒れたるものを起こすがごとく、
  覆われたるを現すがごとく、
迷えるものに道を示すがごとく、
あるいは、暗闇の  中に燈火をもたらして、
「眼あるものは見よ」というがごとく、
世尊はさまざまな方便をもって法を示したもうた。
  
つまり、釈迦の教えの内容は、解りにくく難解な、
あるいは人智を超えた神秘的な何かを
「とにかくこれが正しいから信じなさい」と
相手に強要するようなものでは無く、
とても解りやすくて曖昧さの無い、
とても鮮明なものだった、と言うのです。
「眼あるものは見よ(ここに来て自分の目で確かめよ)」と、
眼の前で示すがごとく、
はっきりと明確に知ることのできるものであった、と
多くの人が賞賛するような内容でした。

そしてまた、このようにも述べられています。

教法は世尊によりて善く説かれた。
  すなわち、この教法は、現に証せられるもの、
時を隔てずして果報あるもの、
  来り見よというべきもの、
  よく涅槃に導くもの、
知者がそれぞれに自ら知るべきものである。

つまり、釈迦の教えとは、
「現に証せられるもの(現実の世界で実証・証知できるもの)」であり、
「時を隔てずして果報あるもの(未来の果報などではなく、
今ここでその結果が現れるもの)」であり、そしてまた、
「来り見よというべきもの(ここに来て自分の目で確かめよ、と眼前で示すがごとく、
はっきりと知ることのできるもの)」であった。
そして何よりも、それが
「よく涅槃に導くもの(苦しみを滅して心の平安に導くもの)」であことが理解でき、
「知者(賢者)がそれぞれに自ら知るべきもの」であった、と言うのです。

ですから、わたしが書き始めている『これが釈迦の教えだ(@和井恵流)』 が、
もし本物で正しいものであるならば、これを読まれた多くの方々が、
必ずや上記の内容と同じような感想を持たれることになるでしょう。

もし、私の説明にそれが無いならば、それは偽物(紛い物)だということになるでしようね。

分かりやすいでしょ^^v


和井恵さん (白龍)

2008-05-24 15:10:28

>ほとんどが自宅と仕事場の往復で、
>電車やバスに乗って遠出するようなことは
>まったくありませんでしたね。
>誰かと会ったり、連絡を取り合ったりということも
>意図的に完全に中断していました。

>喩えて言えば、『蛹(さなぎ)状態』。

へ~、ずい分おとなしくしていたんですねえ。^^
蛹から突然羽化してしまったわけですな。

>当時、わたしは「一元・全肯定」の立場を、
>atomさんは「ゼロ元・全否定」の立場で話をしていました。
>そして、釈迦の教えに関して言えば、
>atomさんが唱えた「ゼロ元・全否定」が正しかったのです。

atomさんの立場から言えば正しかったということですか。

>はっきり言ってしまえば、釈迦の教えと密教は別物なのです。
>これは、いい悪いでもなく、優劣を競う意味でもなくて、
>単純に「別々の教え」なのです。

なるほど。
私もいろいろな資料を読んでみて、
原始仏教とは、かなり違うものだという認識を持っていますが、
仏教の歴史的な流れの中で生じた華なのかなと捉えています。

>つまり、釈迦の教えとは、
>「現に証せられるもの(現実の世界で実証・証知できるもの)」であり、
>「時を隔てずして果報あるもの(未来の果報などではなく、
>今ここでその結果が現れるもの)」であり、そしてまた、
>「来り見よというべきもの(ここに来て自分の目で確かめよ、と眼前で示すがごとく、
>はっきりと知ることのできるもの)」であった。
>そして何よりも、それが
>「よく涅槃に導くもの(苦しみを滅して心の平安に導くもの)」であことが理解でき、
>「知者(賢者)がそれぞれに自ら知るべきもの」であった、と言うのです。

釈迦は、出来るだけ方便を多用し、
具体的な事例を元に、教えを説いていたようですしね。

>ですから、わたしが書き始めている『これが釈迦の教えだ(@和井恵流)』 が、
>もし本物で正しいものであるならば、これを読まれた多くの方々が、
>必ずや上記の内容と同じような感想を持たれることになるでしょう。

>もし、私の説明にそれが無いならば、それは偽物(紛い物)だということになるでしようね。

自分でハードルを思いっきり高く上げていますな。
でも、分かりやすい解説をしていただけるに、こしたことありませんので、
HPの開設を楽しみにしております。^^




白龍さんへ (和井 恵)

2008-05-24 20:09:41

>へ~、ずい分おとなしくしていたんですねえ。^^
>蛹から突然羽化してしまったわけですな。

突然というわけではないのですが、
とうとう目的としていた場所にたどり着くことができた、
という確信と実感を持っています。

つまり、釈迦の説いた教えに関しては
「ファイナルアンサー(完全に正しい理解)」
を得ることができたと考えています。


>atomさんの立場から言えば正しかったということですか。

別に誰の立場から観ようと、釈迦の教えの基本的なスタンスは、
確かに「ゼロ元・全否定」をベースとして組み立てられているのです。
まぁ、このような抽象的な表現だけでは、何を言っているのか
今ひとつよく解らないと思いますけど。

「一元・全肯定」は密教の方のスタンスなんですね。


>なるほど。
>私もいろいろな資料を読んでみて、
>原始仏教とは、かなり違うものだという認識を持っていますが、
>仏教の歴史的な流れの中で生じた華なのかなと捉えています。

釈迦の教えの基本的なスタンスは「離欲(離貪)」でした。
そして、釈迦の入滅後百年ほど経った頃に、
仏教教団は大きく二つのグループに分裂してしまいますが、
このときに問題になったのが「戒律の改変」を認めるかどうかでした。
出家者の修行のベースとなるはずの「無所有」を
もっと緩やかなものにして欲しい、という動議がなされたのです。
つまり、「欲望の肯定」が始まってしまったのですね。

 『ゴータマ・ブッダが入滅してから百年ほどたった頃、仏教の内部では、
  とくに戒律をめぐって大きな意見の対立が生じました。伝承によれば、
  争点は10あったといわれています。
  いわゆる十事というのがこれで、みな、戒律に新解釈を与え、
  ゆるやかなものにして、時代にあったものにしたらどうかという動きに
  源をはっしています。
  たとえば、塩浄エンジョウという項目があります。塩は食材です。
  食材、食料は、貯蔵が禁じられています。
  ところが、塩は薬として用いられることもあります。
  薬ならば貯蔵してもいいのではないかと、
  そのような新しい解釈に立つ人びとが現われたのです。
  また、布施としての金銀を受け取って管理するのは在家信者の役目であって、
  出家はそのようなことをしてはならないはずでした。
  ところが、このころになると、出家が金銀を受け取って管理し、
  金融業にまで手をそめるような事態が発生していました。
  事件はまさに、ヤサという保守的な比丘が、
  商業都市ヴェーサーリーの比丘たちが金銀を受け取っているのを目撃し、
  これを告発したことにはじまりました。』
  
  「わかる仏教史」(宮元啓一著 春秋社)

その「欲望を肯定し始めたグループ(大衆部)」が始めたのが
「(自称)大乗仏教」と呼ばれるものだったのたのです。
彼らは「六波羅蜜」という新しい修行法(?)を造り上げ、
その最初の項目に「(自分たちへの)布施」を置いたのです。


>釈迦は、出来るだけ方便を多用し、
>具体的な事例を元に、教えを説いていたようですしね。

そして、何よりも「一番大切(必要)なこと」を直接教えていたのです。
それが、釈迦の教えの伝承録とされているアーガマには抜け落ちてしまっている。
(まぁ、一応書かれてはいるのですけど、読んでも誰も分からないでしょうね)

まず、釈迦は「カルマの法則」など説いていません。
「縁起」を因縁因果(カルマ)の法則と捉えるのは誤りなのです。

釈迦の説いた「縁起」を本当に理解できるようになると
「四聖諦」が何なのかが正確に解るようになります。
そして、それを本当に理解できれば「三明智」を獲得するのです。

釈迦の初転法輪によって、コーンダンニャは「悟った」とされています。
そして、その後に仏弟子としての出家をする(つまり、八正道の実践に入る)のです。
「悟り(三明智)」とは、縁起の法に対する正しい理解によって発現します。
   (ただし、通説として認められている、宿明智・死生智・漏尽智は、
    本当の三明智ではありません、念のため)
そして、発現した「三明智」をベース(拠り処)として、
八正道の第一歩である「正見解」の実践がスタートしてゆくのです。

つまり、三明智を身につけていないと「八勝(正・聖)道」の実践は不可能なんですね。


…とまぁ、これらはあくまでもこれから書こうとしているものの
概略(大ざっぱな説明で、全体の中のほんの一部分)です。


>>ですから、わたしが書き始めている『これが釈迦の教えだ(@和井恵流)』 が、
>>もし本物で正しいものであるならば、これを読まれた多くの方々が、
>>必ずや上記の内容と同じような感想を持たれることになるでしょう。
>>
>>もし、私の説明にそれが無いならば、それは偽物(紛い物)だということになるでしようね。

>自分でハードルを思いっきり高く上げていますな。

いえ、そうでなければ、釈迦の教えを完全に理解できたとは言えないのです。
それらは、不完全な、単なる自分勝手な思い込みの域を出ない代物なのです。


>でも、分かりやすい解説をしていただけるに、こしたことありませんので、
>HPの開設を楽しみにしております。^^

私は昔「編集デザイン」の仕事もしていましたし、マンガも描いていましたので、
レイアウトなどにも趣向を凝らし(単なる見た目ではなくて機能的に)、
自作のイラストなどもふんだんに盛り込んだHPにする予定です。
(ただし、いつ完成するかは今のところ未定ですが…)



和井恵さん (白龍)

2008-05-24 23:40:50

>とうとう目的としていた場所にたどり着くことができた、
>という確信と実感を持っています。

その確信と実感が、独りよがりで無いという証明を、
今後していくという感じなのでしょうか?

>「一元・全肯定」は密教の方のスタンスなんですね。

全肯定というと、大乗的スタンスかと思っていのですが、
密教のスタンスなのですか?

>その「欲望を肯定し始めたグループ(大衆部)」が始めたのが
>「(自称)大乗仏教」と呼ばれるものだったのたのです。
>彼らは「六波羅蜜」という新しい修行法(?)を造り上げ、
>その最初の項目に「(自分たちへの)布施」を置いたのです。

この辺から、仏教も怪しくなってきますね。^^

>まず、釈迦は「カルマの法則」など説いていません。
>「縁起」を因縁因果(カルマ)の法則と捉えるのは誤りなのです。

>釈迦の説いた「縁起」を本当に理解できるようになると
>「四聖諦」が何なのかが正確に解るようになります。
そして、それを本当に理解できれば「三明智」を獲得するのです。

>つまり、三明智を身につけていないと「八勝(正・聖)道」の実践は不可能なんですね。

このあたりのことも、今後、資料等を交えて、詳しく解説いただければありがたいです。

>レイアウトなどにも趣向を凝らし(単なる見た目ではなくて機能的に)、
>自作のイラストなどもふんだんに盛り込んだHPにする予定です。

自作イラスト入りですか。それは楽しみです。
がんばってください。^^


ふむふむ (聖者ぼんちリンポチェ)

2008-05-24 23:48:36

和井恵さん、とうとう出てきたか。(笑)

atomさんをキーパーソンとして、
おそらく「何もしてない」んだろうな、
と思っていたら、きっちりそうしていて、
方向性としても釈迦の核心にアプローチなんだろう、
と思っていたらやっぱりそうなりましたな。

私はといえば、去年ちょいと禅の風を取り入れ、
今年は高野山真言宗に得度の予定です。
(なんだか支離滅裂。ww)

また一杯法を展開して、
みんなを愉しませて下さい。


白龍さんへ (和井 恵)

2008-05-25 01:02:58

>>とうとう目的としていた場所にたどり着くことができた、
>>という確信と実感を持っています。
>
>その確信と実感が、独りよがりで無いという証明を、
>今後していくという感じなのでしょうか?

ピンポーン♪(そのとおり)。


>>「一元・全肯定」は密教の方のスタンスなんですね。
>
>全肯定というと、大乗的スタンスかと思っていのですが、
>密教のスタンスなのですか?

やはり、こういう漠然とした言葉のやりとりをしていると、
このような行き違いが当然起きますよね^^;。

白龍さんの考える「全肯定」というのは、
具体的にはどのようなものなのでしょうが?
ちょっとこの会話のやり取りだけでは
想像がつかないので教えて頂けますか?


>>その「欲望を肯定し始めたグループ(大衆部)」が始めたのが
>>「(自称)大乗仏教」と呼ばれるものだったのたのです。
>>彼らは「六波羅蜜」という新しい修行法(?)を造り上げ、
>>その最初の項目に「(自分たちへの)布施」を置いたのです。
>
>この辺から、仏教も怪しくなってきますね。^^

もっとも、オウムのように、最初は布施の極限だーっ!!
というようなものではなくて、
六つの修行法中の、(順番は)どれでもいいから
その人が出来ることをやりなさい、
といった程度のものだったらしいですけどね…
(けどね、在家の人たちが何を一番しやすいかと言えば
要するに、一番最初の布施なんですよね、これが)


>>まず、釈迦は「カルマの法則」など説いていません。
>>「縁起」を因縁因果(カルマ)の法則と捉えるのは誤りなのです。
>>
>>釈迦の説いた「縁起」を本当に理解できるようになると
>>「四聖諦」が何なのかが正確に解るようになります。
>>そして、それを本当に理解できれば「三明智」を獲得するのです。
>>
>>つまり、三明智を身につけていないと「八勝(正・聖)道」の実践は不可能なんですね。
>
>このあたりのことも、今後、資料等を交えて、詳しく解説いただければありがたいです。

もちろん。
一つ一つ順を追って、詳しく(解りやすく)解説をしていくつもりです。
だって、この文章を読んだだけでは「なんじゃ、こりゃあ?」の世界でしょうから。

まず、最初に「縁起の法」の説明を完全におこないます。
これが解れば、これの応用形として「四聖諦」が構成されていることに気がつくでしょう。
そして、この「四聖諦」は最初の三つが「三明智」を顕し、
四番目に「八正道」が置かれているのです。

「明智」とは、「無明」の対義語です。
つまり、無明(無知)が消滅したときに明智が現れる。
あるいは、明智が発現したときに、無明(の闇)が取り払われる。

苦 … 苦しみを、あるがままに苦しみだと見極めることが出来る明智。
集 … 苦しみの「構成(成立条件・順縁起)」を正しく認識出来る明智。
滅 … 苦しみの「消滅(消滅条件・逆縁起)」を正しく認識出来る明智。

道 … 明智をベースとした、日常生活における具体的な実践方法。

これが、ほんの少しだけ具体的に説明してみたものです。
でも、まだ良くは解らないはずですが…

>>レイアウトなどにも趣向を凝らし(単なる見た目ではなくて機能的に)、
>>自作のイラストなどもふんだんに盛り込んだHPにする予定です。
>
>自作イラスト入りですか。それは楽しみです。
>がんばってください。^^

その方が解りやすいはずなのでね。
特に、縁起の法や、空(大乗仏教の、ではなくて釈迦の教えに出てくる空のこと)、
ニルヴァーナ(涅槃寂静)、無我、などは、図解(イラスト)を入れた方が
確実に解りやすいと思うので。

ただ、私自身急いでいるわけではないので、
マイペースで進めていくことになるでしょうね。


ぼんちゃんへ (和井 恵)

2008-05-25 01:22:01

>また一杯法を展開して、
>みんなを愉しませて下さい。

私が別に愉しませようとしなくても、
君は勝手に楽しむだろうと思うけどね。

ただ、私は釈迦の説いた教えの
主要なものは全て明確に説明しきるつもりだから、
君にとっては、ある意味スリリングな内容になると思うよ。

http://blog.goo.ne.jp/hakuryuu_001/e/9b6892e6de7c08119cf9f2eda189e753

和井さんへ

>はっきり言ってしまえば、釈迦の教えと密教は別物なのです。

これはテーラワーダ仏教協会のスマ長老と同じ意見ですね。

>釈迦の教えは、シンプルでとてもクリアーな教えでした。
論理的に正しく、方法論としても優れていて、
曖昧なところが全くないのです。

これもそう。

>つまり、釈迦の説いた教えに関しては
「ファイナルアンサー(完全に正しい理解)」
を得ることができたと考えています。
 
これは悟った人しか、分かりません。悟った人は
自分から悟ったとは、公言しないそうですから、
和井さんは悟ってはいないんじゃないですか。

>ようやく、釈迦の教えの本質をすべて把握(理解)できたな、
と自分で納得できるようになりました。

仏説を理解するには、少なくとも悟った人と言われる
(自分で言うのではなく、まわりから認められる)人達の
発言を比較検討する必要があると思います。パーリ語や
チベット語、サンスクリットの知識はお持ちなんでしょうか?

>まず、釈迦は「カルマの法則」など説いていません。
 
ここまで来ると、もう狂気の世界と思いますが、その
アブノーマルさには興味があるので、投稿の続きを
期待してます。

ナーギタさんは

「わたしはグルのタントラの弟子である!さあ、救済するぞ!」
と言って娼婦を買いに行った猛者です!

ですから今回も

「ようやく、釈迦の教えの本質をすべて把握(理解)できたな、
と自分で納得できるようになりました。 」
「釈迦の説いた教えに関しては
「ファイナルアンサー(完全に正しい理解)」
を得ることができたと考えています。」
「いずれ、「釈迦は何を教えたのか?」というタイトルの
ホームページを立ち上げる予定です。」
「まず、釈迦は「カルマの法則」など説いていません。」

という猛者ぶりを発揮したのでしょう。

「ただ、私は釈迦の説いた教えの
主要なものは全て明確に説明しきるつもりだから、
君にとっては、ある意味スリリングな内容になると思うよ。」

彼の自信過剰ぶりは見ていてスリリングです(笑)

上記のナーギタという投稿者は、

私ではありませんよ。
念のため…

カルマの法則=因果応報ではない?

>>まず、釈迦は「カルマの法則」など説いていません。
 
>ここまで来ると、もう狂気の世界と思いますが、その
>アブノーマルさには興味があるので、投稿の続きを
>期待してます。


いいえ、まともな意見の範疇でつ。

別に和井恵さんの弁護や反論しようというわけではありませんが、
よくインド社会では元々、「カルマの法則」は一般的でしたので、
お釈迦様もそれを踏襲していますね。

Alephだけでなく、オウム・ひかりの輪も教義上、カルマの法則=因果応報ですな。
ただし、カルマの法則=十二縁起、四諦でないことは確かです。

わたしが思うには方便として在家信者・他宗教信者には「カルマの法則(=因果応報)」は説いていたと思います。
ただし、涅槃を目指す出家信者には「カルマの法則」は説かなかったでしょうな。
涅槃には、「カルマの法則」が存在しませんから。

そもそも、江原氏じゃないですが、「カルマの法則」を説くというのはレベルが低いんです。
上祐氏のひかりの輪もそうでしょう。
たしかに「カルマの法則」は存在しますが、
いわゆる大乗仏教でいう「菩薩」や原始仏教・南伝仏教の涅槃を目指す出家僧侶には関係のないことです。

これは、
Aleph・ひかりの輪に対する牽制をしている感じですね。

お金が貯まっているぞ さんへ

>わたしが思うには方便として在家信者・他宗教信者には
>「カルマの法則(=因果応報)」は説いていたと思います。
>ただし、涅槃を目指す出家信者には「カルマの法則」は説かなかったでしょうな。
>涅槃には、「カルマの法則」が存在しませんから。

その通りだと思いますね。

釈迦の言葉を使って言うならば、
「 それは、苦をともない、悩みをともない、破滅をともない、
  厭離、離欲、滅尽、寂静、智通、正覚、涅槃に役立たない。 」

和井 恵さん

>「 それは、苦をともない、悩みをともない、破滅をともない、
>  厭離、離欲、滅尽、寂静、智通、正覚、涅槃に役立たない。 」


ソンシが原始仏典を取り込もうとして失敗した理由が分かる気がします。
出版事業でも、途中で頓挫したでしょう。
というか、「救済に役立たない!」と言って止めてしまったんだと思いますな。


因果

>わたしが思うには方便として在家信者・他宗教信者には
>「カルマの法則(=因果応報)」は説いていたと思います。
>ただし、涅槃を目指す出家信者には「カルマの法則」は説かなかったでしょうな。

出家者と在家者では、世界を構成する法則が違う?まさかそんなことはないですから、「あえてイロハを出家者に説かない」ですね?

少なくとも人間はカルマの法則の信奉者で、みんな知ってる。冷たいミルクをたくさん飲めば下痢するからやめとこう、とかその程度の因果はみんな当然のように受け止めてる。
でも、都合の悪いところは見ないんですね。無意識に因、縁、果に目をつぶって、見ない、忘れたい、後回し、否定したい等々思い込む。結局最後は年貢の納め時となって苦しむ。はじめに「見ない」から、その後の因果関係にも目が行かない。だから自分だけ不当に不幸だとか思ってしまう。

>涅槃には、「カルマの法則」が存在しませんから。

これは私も涅槃を知りませんから、語る資格ないですね。レトリック上最強でしょう(^^;)
私にとって、これは「厭離、離欲、滅尽、寂静、智通、正覚、涅槃に役立たない。」

でももし、涅槃にカルマの法則が存在しないとしても、三界を見渡してカルマの法則を「もともと無いんだ」とすれば、それは(上に述べた理屈で)苦しみの転落の始まりにもなるでしょうね。

和井 恵さん、お久~
なんか近くにお住まいのようで(ワシ八潮)。

二年前大宮駅で和井さんらしき人を
目撃したことがありますが人違いだったのでしょうか。

和井さんの元奥さんが

駅で和井さんを見かけたらこんな気持ちになるのでしょうか?

http://www.youtube.com/watch?v=p8XmU0wlrLY&feature=related


カルマの法則

>わたしが思うには方便として在家信者・他宗教信者には「カルマの法則(=因果応報)」は説いていたと思います。
ただし、涅槃を目指す出家信者には「カルマの法則」は説かなかったでしょうな。
涅槃には、「カルマの法則」が存在しませんから。

根拠なし。

VTさんへ

>和井 恵さん、お久~
>なんか近くにお住まいのようで(ワシ八潮)。

お久しぶりですね^^
昔、ガージャカラニー用のポリタンクを
しばらくVTさんに貸していたの、覚えてますか?

八潮ですか、私は足立区江北です。
色々と、かなり大変のようですが、
ある意味、大変貴重な経験を色々とされていると思います。

修行者にとって、逆境は、
とても素晴らしい環境だと思いますよ。

>二年前大宮駅で和井さんらしき人を
>目撃したことがありますが人違いだったのでしょうか。

人違いでしょうね。
面識のある方ですか?

二拍子さんへ

>でももし、涅槃にカルマの法則が存在しないとしても、

因果論とは、要するに「無常(変化)の分析」ですよね。
変化には三種類あります。

上昇(増加)の変化、下降(減少)の変化、一時的な停滞。

これらの変化は、ランダム(デタラメ)に起きるのではなく、
条件によって生起し、条件によって消滅し、
そして、再現性があるので「法則性」として認めることが出来る。

しかし、その法則を、いくら研究して極めてみたとしても、
それらは、厭離、離欲、滅尽、寂静、智通、正覚、涅槃には役立ちません。

何故ならば、無常(変化)をいくら研究しても、
無常そのものは変わらないからです。

ですから、その方法では、「寂静(変化しない)」へは至ることが出来ないのです。

訂正。

「寂静(変化しない)」→ 「寂静(変化の消滅)」

和井様

遠い昔、面談してもらったことがありました。

>遠い昔、面談してもらったことがありました。

そうですか…

その時の私は、
何かあなたの役に立てるようなアドバイスを
することが出来ていたのでしょうかね^^;

丸井ビルの地下一階で

N師とは違い和井さんの言葉は心に入り込んできましたよ。
会話はほとんど忘れてしまったんですけど
10年以上経った今でも覚えているのは
人との縁についてお話したことの中で
「あなたが60点なら60点の人が。
あなたが90点になったら60点の人とは
自然と縁が切れてしまう。」
というような事で
これは未だに印象に残ってます。

野田さんの掲示板なので
私信はこれ以上は控えますわ。
HPが開設されたらそちらに質問させて頂きます。


>>涅槃には、「カルマの法則」が存在しませんから。

>根拠なし。


ソンシの説法にも涅槃(=ニルヴァーナ、無色界)は静止状態だとか書いてありましたね。
だとすると、カルマの法則(因果律)なんて働かないことは自明ではないですか。


お釈迦様はソンシみたいに人にわざと悪行を積ませて、
自分の救済活動の手伝いをさせるために輪廻させるなんてしなかったでしょうよ。


お金が貯まっているぞ さんへ

>ソンシの説法にも涅槃(=ニルヴァーナ、無色界)は静止状態だとか書いてありましたね。
>だとすると、カルマの法則(因果律)なんて働かないことは自明ではないですか。


その説明は、ちょっと違っていると思います。

静止状態、では、まだ「カルマの法則(因果律)」は働いているのではありませんか?
それは、先に挙げた「三種類の変化」の中の「停滞」に当てはまります。
「停滞」とは、相反する形成力が互いに均衡して中和され、
一見そこに形成力が何もないように見えている状態なのです。

それを「涅槃」とは呼びません。
涅槃(ニルヴァーナ=無為)は、三界(欲界・色界・無色界=有為)の範疇外なのです。

>涅槃(ニルヴァーナ=無為)は、三界(欲界・色界・無色界=有為)の範疇外なのです

脳死ですねW
人体と精神は基本的にはR核からの神経反応によって衝動がうまれるはずです。
このR核は本能をつかさどる部位ですが、ここに理性をつかさどる新皮質がまきつく形で、数億年の時間をかけて、進化して来ました。

本質的に自我的であり一人的な行動をつかさどるのがこのR核であり、そこに後天的且つ模伝的な成長をおこなうのが新皮質ですが、この新皮質の役割は集団化のために発展してきたと考えるのが至極まっとうな判断です。

つまり、一人性の旧皮質と集団性の新皮質の従属関係の元で人間は生存が可能なのであり、旧皮質からくる欲動を否定することは旧皮質の作用がまったく無い状態を意味することになります。

ここで和井さんがいわれるのは新皮質をR核からうまれる神経作用をおさえようということなのでしょうけれど、新皮質と旧皮質の関係はその生体原則から考えて、新皮質が旧皮質に従属するといってもいいものです。

新皮質的に拮抗という処理をおこなったという自覚が生じても、それは結局は旧皮質にとりこまれ、我として消化されてしまいます。

「欲動を抑えよう」と考え、行動によってそのパターンを神経上の可塑領域に書き込もうとしたとたんに我となり昇華されてしまいます。その結果、過度な自己主張などをおこないます。いわゆるこれが狂信状態というものです。

あるがままの自分を受け入れ、人と協調して生きていく。

そうした人類が希求すべき精神と大きく乖離するものではないかと思いますね

メッターダッシン師へ お久しぶりです。お元気でしたか?

何年か前にお電話でお話したものです。私は元気ですよ☆ あの時のアドバイスは勉強になりました。

因果律

仏教では、業(カルマ)の働きを四つに分類しています。
業因・業縁・業果・業報というのが正確な表記ですが、
普段はこれらを簡単に「因・縁・果・報」と呼んでいます。

因 … 原因(喩えて言えば、種子)
縁 … 助成する働き(根付くための土壌・水や日光など)
果 … 結果(豊かに実った果実)
報 … 影響(果実の中に内在する新しい種子・因)

蒔かぬ種は生えない、確かにそうですね。
因を無くせば果もなくなる。
理屈ではそのとおりです。
しかし、私たちはタイムマシンを使って
時間の流れを遡ることはできません。
ですから、過去に造ってしまった因を取り消すことは、
事実上不可能なのです。

これ有るが故にこれあり。
これ無きが故にこれ無し。

これが「縁起の法」の原型ですが、
これを「=因果律(時間的な流れ)」なのだと観てしまった場合、
「これ無きが故にこれ無し」という「縁起の逆観」は、
理屈の上では簡単に理解できたとしても、
要するに、それは「机上の空論(役に立たない)」
にしか過ぎなくなってしまうのです。

何故ならば、私たちは過去に遡り、
その因を取り除くことは出来ないからです。

「縁起」とは「因果律」なのだと勘違いをしてしまうと、
私たちは、このパラドックスに陥ってしまうのです。

人間は模倣する生き物である

 なんだかなぁW
おきてしまったことはどうしよもない。これこそ一人性のあらわれなんでしょうね。
人間は模倣するし、何度も同じ間違いをくりかえしかねない。だからこそ、事象にたいして評価をj加え集団経験として昇華しようとする。

これが社会定義上の輪廻でしょう。

また、小乗においては、もっとも大事なものは道義確立であり救済の繰り返しをもくてきとするために他者に対して、影響を与えミメーシスを生じさせやすい生き方をすることでしょう。


ゴルゴ45 さんへ

こんにちは、初めまして。


>>涅槃(ニルヴァーナ=無為)は、三界(欲界・色界・無色界=有為)の範疇外なのです
>
>脳死ですねW

涅槃とは、ゴルゴ45さんから観ると、脳死状態に見える、ということですか?


>人体と精神は基本的にはR核からの神経反応によって衝動がうまれるはずです。
>このR核は本能をつかさどる部位ですが、ここに理性をつかさどる新皮質がまきつく形で、
>数億年の時間をかけて、進化して来ました。

大脳生理学のお話のようですね。
私は、そちらの方面はあまり詳しくないのですが、
「R核」というのは、旧皮質あるいは古皮質にある部位のことみたいですね。
海馬か間脳あたりかな?


>本質的に自我的であり一人的な行動をつかさどるのがこのR核であり、
>そこに後天的且つ模伝的な成長をおこなうのが新皮質ですが、
>この新皮質の役割は集団化のために発展してきたと考えるのが至極まっとうな判断です。

その考え方が定説になっているのですね。


>つまり、一人性の旧皮質と集団性の新皮質の従属関係の元で人間は生存が可能なのであり、
>旧皮質からくる欲動を否定することは旧皮質の作用がまったく無い状態を意味することになります。

そうなんですか…


>ここで和井さんがいわれるのは
>新皮質をR核からうまれる神経作用をおさえようということなのでしょうけれど、

さあ、どうなんでしようね。
そのような考え方をしたことがないので…
その解釈が、私の仏教的な説明と一致しているのかどうかは、
私自身が、もっと大脳生理学の基本的な知識を持たないと、
比較のしようがないので何とも言えません。


>新皮質と旧皮質の関係はその生体原則から考えて、
>新皮質が旧皮質に従属するといってもいいものです。

>新皮質的に拮抗という処理をおこなったという自覚が生じても、
>それは結局は旧皮質にとりこまれ、我として消化されてしまいます。

>「欲動を抑えよう」と考え、
>行動によってそのパターンを神経上の可塑領域に書き込もうとしたとたんに
>我となり昇華されてしまいます。
>その結果、過度な自己主張などをおこないます。
>いわゆるこれが狂信状態というものです。

なるほどね、
「離欲(離貪)」を「「欲動を抑えよう考えること」だと解釈したわけですね。
それが心理的なストレスを高めてゆき、
ある特異点に達したときに「昇華(解放現象)」が起きる。
私は今までに、それを何回も経験したことがありますよ^^
いわゆる、「躁モード状態」という、特殊な精神状態なんですけどね。


>あるがままの自分を受け入れ、人と協調して生きていく。

「あるがままの自分」とは、何でしょうか?
そして、「あるがままの自分ではない自分」とは何でしょうか?

言葉としては、とても綺麗ですけど、
要するに、自己の中に生じた欲動を、「それも私なんだ」と認めて、
受け入れることが良策なんだと言っているのでしょ?

では、その欲動が、
「相手を殴り殺したい」という欲動だとしたら?
「誰かの持ち物を奪いたい」という欲動だとしたら?
「相手を自分のものにしたい(強姦・ストーカーなど)」という欲動だとしたら?

確か、欲動を抑え続けると、ストレスが高じて昇華作用が起こり、
狂信的になってしまうのでしたよね。
この場合は、大脳生理学的には、どうすればいいとお考えですか?

和井さんはメッターダッシンじゃないよ。

和井 恵さん

>>ソンシの説法にも涅槃(=ニルヴァーナ、無色界)は静止状態だとか書いてありましたね。
>>だとすると、カルマの法則(因果律)なんて働かないことは自明ではないですか。
>その説明は、ちょっと違っていると思います。

>それを「涅槃」とは呼びません。
>涅槃(ニルヴァーナ=無為)は、三界(欲界・色界・無色界=有為)の範疇外なのです。


涅槃=無色界ではないということですね。

でも、オウム教義では涅槃(ニルヴァーナ)=無色界だったと思います。
アレフ時代に上祐氏にメ~ルして訊きましたが、彼もそういう見解のようでした。
今は分かりませんが。

涅槃=無色界なのかはわたしも分からないですね。
ただ、そこへ転生すると、何万カルパも静止状態になるとか。

ところで、
一般の原始仏教経典に在家信者や出家信者が涅槃にはいるために自殺したという記述もあったんですけど、可能だと思いますか?

お釈迦様がその様子をご覧になっていたというのも凄いですけど。
で、マーラがその彼をどこに行ったのか捜しまわったとか。

お金が貯まっているぞ さんへ

>涅槃=無色界ではないということですね。

その通りです。
少なくともそれは、釈迦の説いた教えの内容ではありません。


>でも、オウム教義では涅槃(ニルヴァーナ)=無色界だったと思います。
>アレフ時代に上祐氏にメ~ルして訊きましたが、彼もそういう見解のようでした。
>今は分かりませんが。

回りくどい言い方をして、
誤解させてしまったようですね。
ごめんなさい。
別にあなたがオウムの教義を間違えて言っている、
と指摘したのではありませんからね。


>涅槃=無色界なのかはわたしも分からないですね。

ただ、単純に「定義」が間違っていると言っているだけです。


>ただ、そこへ転生すると、何万カルパも静止状態になるとか。

その「静止状態(静止期間の長さ)」について言えば、

喩えば、ここに二人の人が眠っていて、
そしてある日、二人は同時に目が覚めたとします。
そして、脇に置いてあったデジタル時計に目をやって
二人ともびっくりした、と。
A「うわっ、いつのまにか一週間も眠ってしまっていたのか。いゃあ、よく寝たなー」
B「へー、一週間ですか。私と同じですね。」
A「え、じゃあ、あなたも5月21日に寝たのですね。」
B「はい^^」
しかし、本当はBさんの方は三年と一週間眠っていたのですが、
この部屋にはカレンダーが無かったので、Bさんには確かめようが無かったのです。

二人の眠りの長さ(期間)が大きく違っていたとしても、
今、起きてしまった二人にとって、それにいったい何の意味があるのでしょうか?
一週間も、三年と一週間も、過ぎてしまえば「全ては一瞬」だとは思いませんか?
しかもその期間は「停止」しているので何の経験もしていない訳ですしね…


>ところで、
>一般の原始仏教経典に在家信者や出家信者が涅槃にはいるために
>自殺したという記述もあったんですけど、可能だと思いますか?
>お釈迦様がその様子をご覧になっていたというのも凄いですけど。
>で、マーラがその彼をどこに行ったのか捜しまわったとか。

何か、お話が創作教典っぽいんですけど…

不還果(阿羅漢向)に達した人が、
その選択をする可能性は無くは有りませんが、
確か釈迦は、そういう行為を弟子達に禁止していたはずなんですけどね…

仏教徒以外なら(ジャイナ教だったかしら?ちょっと記憶が曖昧)、
例えば「解脱」をしたらすぐに完全な断食に入り、
要するに「餓死 」を選ぶ人も何人かいたようですよ。

ただね、仏教で本当に悟り・解脱をしたのなら、
自殺を選ぶ必要(必然性)は無くなるんです。
すぐに死のうが、十年後に死のうが、たいした問題では無くなりますから。
それは、さっきの喩えの、
一週間後に目覚めようが、十年後に目覚めようが、
それ自体にたいした意味がないのと同じでね…

簡単にいえばですね

より多くの人とかかわることでしょうね。

まぁそれはおいといてですね。
本来信仰とはおおくの信仰が自分たちの集団を霊的な家族といってるのをみるとわかるように、弱い個、あるいは相対的にみて集団化から阻害された個にたいして集団化を具備させるために発展してきたと考えるのが妥当だとおもいますよ。

原始の生活において血縁がもっとも大事だった。それをのりこえるために法という概念をもちこみ阻害された個や血縁無き集団に集団化のメリットをあたえようとした。つまり、宗教の派生においても、社会動物としての本能が働いたということにほかならないでしょう。

集団化のメリットを得るために信仰が存在した。それは仏教を含めておおくの信仰に共通することでしょう。

人を殺したいという欲動というものはありませんよ。まず欲動とは子供の心にあるようなものをいいます。わがままなどをはじめとする一人性(ゴルゴ造語)とよんでもいいものですが、本質的に集団性が芽生えないがゆえに人の命の軽重をはかれない理解できないという状態である子供の心理のなかでも殺人という概念はありません。それが芽生えるのは一人性が過大なまでに成長し集団性と大きな乖離状態にあるときでしょう、戦争なんて行為は国家が一人性を強く成長させた最たるものでしょうし、松本死刑囚のような強欲な霊感詐欺師なども、その傾向があるんでしょうね。

この集団性と一人性が人間の心に芽生えたのはおおよそ6万年前から12万年前の人類が大絶滅に瀕した時期に人間が種として心理獲得したものだと個人的に考えています。

集まれば種が環境破壊のために死に瀕する。しかし種としては集団化のメリットをこうむらなければいきていけない。そうしたジレンマを調節する弁(主に集団の大きさを調節することに意味があった)として信仰は発展してきた。個を優先させつつも集団のなかに自分自身をおく。これが最終的には人権などの発想にもつながっていくのだとおもいますよ。

集団の中で自らを適応させていく能力が人間にはありますよ。
ストーカーや性犯罪者、霊感詐欺師などは社会適応が出来なかった人たちということにほかならないでしょう。おそらく幼児期の集団心理性形成にもんだいがあったのでしょう。ありていにいえばソシアパスというジャンルに分けられる人たちです。特に霊感詐欺師の特徴として金剛経でも強くいさめられている自己顕示のために施しを与えているかのような顔をすることでしょうね。

>でも、オウム教義では涅槃(ニルヴァーナ)=無色界だったと思います。

どういう文脈で語られたのか、私には知る由もないのですが、
教義を一通り押さえている現役の人に上記を問えば「そうではない」と返答するでしょうね。

>どういう文脈で語られたのか、私には知る由もないのですが、
>教義を一通り押さえている現役の人に上記を問えば「そうではない」と返答するでしょうね。

そうなの?
確か私の記憶の中では、

 低位コーザル界 = ニルヴァーナ
 中位コーザル界 = マハーヤーナ
 高位コーザル界 = マハー・ホーディ・ニルヴァーナ

とかなんとか、
オウムの教義本の中で書かれていたと思うんだけど…

補足

確か、私がまだ出家者として「編集デザイン部」に所属していた頃に、
この話が話題になったことがあるから。
松葉さん(スッカー師)が小声でヒソヒソと呟くように、
「ねえねえ聞きました、尊師は中位コーザル界のことを
 マハーヤーナだっておっしゃったんですよ。
 でも、それっておかしいですよね…」
と喋っていたのを覚えているのでね。

ひと括りにすることで誤解が

初期には、そういう定義、表現の揺らぎはけっこうあったと思います。
そこからくる混乱も多少散見されたと思います。

91年頃の『タターガタ・アビダンマ 第一誦品』一章一節
「大宇宙の構造」においては、非形状界(無色界)と大完全煩悩破壊界(マハーボーディニルヴァーナ)は別に定義されています。

高さと深さの立体的階段で表現される概念図で、大完全煩悩破壊界の、同じ深さの下位に上位非形状界、さらに下位に中位非形状界、その下に下位非形状界と続いています。
自分自身では確定的なものは持っていませんが、このあたりを見るに、かつての表現の意味合いが視覚的、直感的にわかります。

小乗と大乗で、到達する涅槃の境地は違う、小乗で涅槃した場合は無で、大乗の場合はもっと広がりが出てくる、といったあたり、一言でニルヴァーナで括るのは無理がありそうで、「非形状界=ニルヴァーナ」というのは、間違いともいえないが、誤解を招きやすいといったところでしょうか。

幻想は何時までも幻影でしょ

> 涅槃(ニルヴァーナ=無為)は、三界(欲界・色界・無色界=有為)の範疇外なのです。(=幻想)

はいこれが所謂、一神教的超越思想に嵌っている善悪二元の典型ですね。だから、

> 簡単にいえばですね より多くの人とかかわることでしょうね。

という結論が正当なことになるでしょう。

ただし現実社会の人間関係経験を受け入れても何か筋(原理原則)は通す、みたいなのがないと多くの人とかかわると、完全に流されるか?染まってしまって、今度は全ての人のあり方そのものを肯定することが出来なくなりますので、このへんは難しいと思いますね。

もう一つ過去・現在・未来世という思考の罠も越えなければ、より多くの人とかかわることの良さが分からないだろうなぁと言えるでしょう。(言い方変えれば自分に都合のいいセルフイメージをそのまま肯定するのでは無くて、現実の現象をまず肯定してからセルフ・イメージが意義があるのかどうか検討する必要があるでしょうね)

だからといって輪廻は存在しないという意味では言ってませんよ。

現実社会に生きていて、心の事象を注視すれば、昔から言われ続けてような六界(五界)みたいな状態を築いているように感じられる、現代の現実社会で生きている人の心の世界の中に、地獄・餓鬼・動物・人間・阿修羅・天界と言われような精神状態にある人のように感じられる人が現実にいるようなものでしょうからね。

因果2

>何故ならば、私たちは過去に遡り、
>その因を取り除くことは出来ないからです。
>
>「縁起」とは「因果律」なのだと勘違いをしてしまうと、
>私たちは、このパラドックスに陥ってしまうのです。

変ですね。過去の行為の結果は、必ず将来、生じます。なので、現象の世界に生きるうえでは、過去にさかのぼって取り消すことはできません。
それはOKじゃないですか?
現在において、悪しき原因を取り除くと、未来において生じる苦を回避することは可能です。
自分の感覚からして、因果と縁起の法則には(説明している深さの違いはあったとしても)そう別次元のものではないと思います。

よく聞いた法話のなかで、「カルマとは何ですか?」と問われて、「氷を食べればお腹が冷える。これがカルマです。」といった問答がありました。これは自分の経験からしてもしっくり来ます。

メカの調子が悪い、なんで?と憤慨してる人がいて、どれどれ、と詳しい人が診て、あ、ココが違ってるからですよ、と指摘したりするというシチュエーションはあります。「これからはココに気をつければ回避できますよ」と。見通せる人にはその因果関係がわかる。

マハーヤーナ

コーザル世界(色界)の上にマハーヤーナがある、
というのがマハーヤーナ・スートラに書かれている公式見解。
コーザル界とは別の上であるか、
コーザル世界の中の最上位であるか、
この文章だけでは判断できない。

マハー・ボーディ・ニルヴァーナという言葉は、
マハーヤーナスートラの出版のときにはなかった用語。
割り込むとしたら、マハーヤーナの上の位置に入る。

 無=低位コーザル世界
 空=上位コーザル世界
 マハーヤーナ=コーザル世界の上

これがマハーヤーナスートラの見解だから、
これに割り込んだとして、
色界より上の世界がないと仮定すると、

>低位コーザル界 = ニルヴァーナ
>中位コーザル界 = マハーヤーナ
>高位コーザル界 = マハー・ボーディ・ニルヴァーナ

これもあり得る。

>ねえねえ聞きました、尊師は中位コーザル界のことを
>マハーヤーナだっておっしゃったんですよ。
>でも、それっておかしいですよね…

これはマハーヤーナスートラで記載されている
マハーヤーナの定義とは明らかに異なるので、
スッカー師はおかしいと思ったのだろう。

しかしながら、オウムの用語は、
無原則的にいろいろ変化しているから、
私は定義が変化しただけでしょうと思う。

世界を三層に分ける世界観はいろいろな宗教で説かれている。
しかし、階段状の三層は、私の知っている限りではオウム独自のもので、
マハーヤーナスートラを読んだときは感動したものである。

和井さんとは完璧スレで何度かやりとりしたことがある。
サマナのときは、顔はよく見たけど、
まともな話をした覚えはないです。

また、よろしく、お願いします。

和井さんと皆さんへ

>昔、ガージャカラニー用のポリタンクを
しばらくVTさんに貸していたの、覚えてますか?

87年のアットホームな時期の話?

皆さん、1日3回投稿の制限一時解除しますんで、どうぞ和井さんと議論続けてください(水を差すと悪いので、記事投稿遅らせます)。

和井さん

タントラの救済で風俗嬢を抱くという噂は本当ですか?

二拍子さんへ

>高さと深さの立体的階段で表現される概念図で、
>大完全煩悩破壊界の、同じ深さの下位に上位非形状界、
>さらに下位に中位非形状界、その下に下位非形状界と続いています。
>自分自身では確定的なものは持っていませんが、このあたりを見るに、
>かつての表現の意味合いが視覚的、直感的にわかります。

で、それがオウムの教義ですよね。
つまり、「それらは階層的な構造をしている」という認識の仕方をしています。

でもこれは、釈迦の教えとは「全く別な考え方」なんです。
だって、ニルヴァーナには、階層も広がりも存在しませんから。
階層や広がりには、それを構成するための
「何か(Something・形成されたもの)」が必ず必要なのです。
ですからそれらは、どのように名付けられようとも「有為の範疇」の中に入るのです。

今日の2ちゃんの掲示板で、キャンディちゃんが面白いことを言っていました。

  365 :キャンディ@起きてきましたよ:2008/05/26(月) 01:23:33
  むるてぃも思考はものを解決しないっていっているのね

  釈迦も思考は(しょせん作られたもので、有限であり消え去るもの)として
  それをよりどころとしなかった

有限であり消え去るもの、つまり「有為」はすべて無常である。
だから、それを依処(よりどころ)としてはいけないよ、という教えです。

そして、ここでのポイントは「依処(よりどころ)とする」というこの言葉。

有為(生滅の変化を繰り返すもの)を依処(よりどころ)にすれば、無常の苦が生起し、
有為を依処にする(有為に依存すること)のを止めれば、無常の苦が消滅する。

よりどころとしなくなること。
これが、体験的には「対象の消滅」として認識されるのです。

「四禅定(色界の瞑想)」は、尋・伺・喜・楽といった色界の構成要素を、
一つ一つ順番に消滅させてゆく、という瞑想法ですし、
「四無色定(無色界の瞑想)」も、階層的なその世界(意識状態)を、
粗雑な状態からより微細な状態へと順番に消滅させてゆく瞑想法なのです。

釈迦はアーガマで「空」を説いていますが、
これは大乗仏教の「空」とは全く意味が異なります。
ナーガルージュナが「中論」などて説いている「空」は、
釈迦の説いた「縁起・相互依存性」を言い換えているのです。

釈迦の説いた「空」とはそうではなくて、
単純(シンプル)に「空っぽになる(消滅する)」という意味です。
つまりこれは、「ニルヴァーナに至る状態」のことなのです。

VTさんへ

>87年のアットホームな時期の話?

そうそう、まるで放課後のクラブ活動のような…ね。

二拍子さんへ

>変ですね。過去の行為の結果は、必ず将来、生じます。
>なので、現象の世界に生きるうえでは、過去にさかのぼって取り消すことはできません。
>それはOKじゃないですか?

もちろん、
普通に考えれば「あたりまえ」のことなので、
それはOKなのですよ。
普通に(常識的に)考えるのならばね。
しかし私は、

これが有るときに、これが有る。 これが生起すれば、これも生起する。
これが無ければ、これも無い。 これが消滅すれば、これも消滅する。

という「縁起の法」の原型を基本として、
「現実(現在)の苦しみ」を消滅する方法論について述べているのです。

釈迦は、「 未来において生じる苦を回避すること」を教えようとしていたのではありません。
今、目の前で現実に刺さっている「毒矢」を、すぐに抜き取りなさい、
と言っているのです。

そして、カルマ理論などでは、これは不可能なのです。

補足説明

また、四禅定の実践は、
上位五分結の中の「色貪」を消滅させるための実践方法であり、
「無色貪」を消滅させるための実践方法が、四無色定なのです。

七氏さんへ

>しかしながら、オウムの用語は、
>無原則的にいろいろ変化しているから、
>私は定義が変化しただけでしょうと思う。

あのね、定義がコロコロと変化してしまったら
それは「定義」とは呼べないのですよ。

定義が「常」であればこそ、
堅固な(明確な)思考と理論を組み立てることができるのです。
定義が「無常」では、
そこからは「苦(無智と迷妄、曖昧さ)」しか
生まれないのではありませんか?

各人の中の真実

>だって、ニルヴァーナには、階層も広がりも存在しませんから。

実際のところは、次元、階層はないというのは言えてると思います。
説明的になると階層的になりますが、実際の世界には壁のような階層はないと思います。
階層はなくても、三界にはバリエーションは当然あります。虹に境目がないのと同様。

しかし、無色からニルヴァーナには、一定のブレークスルーがあるとおもいます。
自分の経験では情報の循環(輪廻のようなもの)と、そこから離れた静止との間には明確なフェーズの変化が生じます。自分の経験に限定して言えば、明らかに上へのブレークスルーですが。それはどういうものか?は、全く今となっては説明できないのがもどかしいのですが。
「深さ、奥行きにおいては無色と同じで、静止があるかどうかの違い」
くらいに認識しています。今のところ。
あと、ある種の広がりはあると思います。ただ、ここでどういう文脈の広がりを言っているのか今ひとつ理解していませんが。

あくまで自分の中の限定的経験なので、より広範な見識からは狭小な見解かもしれませんが。「違う」と言われれば、そうか、世界は広いな、くらいしか言えないですね。こういったことは、他のひとに納得してもらう手段もないし。さらに言えば、言語的に伝達しても、すんなりストレートに伝わるとは到底思えません。半端に真に受けて、変な偏った観念を相手に与えてしまいかねませんので。自分の経験を伝えるよりも、各人がそこを直接探求するほうがずっと価値があると思います。

私の瞑想経験の少なさが露呈されてしまいそうです。この流れ。

>釈迦は、「 未来において生じる苦を回避すること」を教えようとしていたのではありません。

そうなんですか?

参考資料

>>釈迦は、「 未来において生じる苦を回避すること」を教えようとしていたのではありません。

>そうなんですか?


マールンキャプッタよ、
人間は死後も存在する(来世がある)という考え方があって
はじめて人は修行生活が可能である、ということはない。
また人間は死後存在しない(来世など無い)という考え方があって
はじめて人は修行生活が可能である、ということもない。

マールンキャプッタよ、
人間は死後も存在するという考え方があろうと、
人間は死後存在しないという考え方があろうと、
まさに、(今、目の前に)生老病死はあり、悲嘆苦憂悩はある。
現実にそれらを征服する(毒矢を抜き取る)ことをわたしは教えるのである…。

(「毒矢のたとえ」、長尾雅人編集『バラモン教典・原始仏典』、中公バックス)



かくて、ヴァッチャは、さらに問うて言った。
「いったい、世尊は、いかなるわざわいを見るがゆえに、
 かように一切の見解をしりぞけられるのであるか。」
すると世尊は、かように教えて言った。
「ヴァッチャよ、[世界は常住かどうか、霊魂と身体とは一体であるかどうか、
 人は死後にもなお存するかどうか、などのような種類の問い]に対する見解は、
 独断に陥っているものであり、見惑の林に迷い込み、
 見取の結縛にとらわれているのである。
 それは、苦をともない、悩みをともない、破滅をともない、
 厭離、離欲、滅尽、寂静、智通、正覚、涅槃に役立たない。」

(マッジマニカーヤ 中部経典72、増谷文雄訳「火は消えたり」
          『仏教の根本聖典』、大蔵出版、240~242頁)

このへんですかね

>「 未来において生じる苦を回避すること」

なるほど、「苦を回避すること」だと、ちょっと違うかもしれませんね。
未来に生じる苦の因を積まない、というのとは別ということ?
こういうことですか?

アングリマーラ・スッタの

「アングリマーラよ、忍辱せよ、忍耐せよ。
以前、汝が為した罪が、今、返ったのである。
地獄で味わう苦悩を、現世で味わったに過ぎない。」

うーん…

>なるほど、「苦を回避すること」だと、ちょっと違うかもしれませんね。
>未来に生じる苦の因を積まない、というのとは別ということ?

そうです。
それとはまったく別の(異なった角度からの)アプローチなのです。

「未来に生じる苦の因を積まない」ということと、
「今、生じている苦しみそのもの(成立条件)を取り除く」ということは、
同じことを言っているのだと思いますか?


>こういうことですか?

>「アングリマーラよ、忍辱せよ、忍耐せよ。
>以前、汝が為した罪が、今、返ったのである。
>地獄で味わう苦悩を、現世で味わったに過ぎない。」

いや、これは単に因果応報(自業自得)なのだから
我慢しなさいよ、言っているだけでしょ。
確か、托鉢に出たときに石をぶつけられたのですよね。
この悪党め!とね。


しかしこれは、昔、誰かに石を投げたから、
そのカルマ(同じ行為)が返ってきたのでしょうか?


もう一つ、相手(対象としての客体)に何か(行為)をするのではなくて、
自分自身に対して、何か(行為)をする場合のことを考えてみてください。

自分で自分の顔を殴る(痛い!)。
これは、過去の、どようなカルマが返ってきているのですか?
自分が自分に、昔殴られたから、自分が自分を殴り返している?

あるいは、今の自分が自分を殴ったら、
将来また、自分によって自分に殴り返されるのですか?

和井 恵さん

>二人の眠りの長さ(期間)が大きく違っていたとしても、
>今、起きてしまった二人にとって、それにいったい何の意味があるのでしょうか?
>一週間も、三年と一週間も、過ぎてしまえば「全ては一瞬」だとは思いませんか?
>しかもその期間は「停止」しているので何の経験もしていない訳ですしね…

それはそうですね。

では、サマディも同じようなものということになってしまいますがどうでしょうか?


>何か、お話が創作教典っぽいんですけど…

どこかで読んだ記憶があります。
ちょっと、書籍名は思い出せません。


atomさんの言葉で、

釈迦やイエスの教えの本質が、他者のロボットになる事を必須にしているこれが本質だ。
これを抜きにして、釈迦やイエスの教えは存在し得ないのだ。
いや、これを抜きにして苦悩から抜ける道など開かれないのだ。
これを否定する者、釈迦とイエス二人の聖者に背を向けた者となる。
よく覚えておくことだ。
仏教を語りたければ、他者のロボット、自らの思考判断停止、これが釈迦とイエスの説いた苦悩から抜けるための通らなければならない激流と呼ぶものの正体だ。

と言うのがありました。

ほかに「行」(サンスカーラ)というのも出てきましたが、
わたしは「行」=カルマではないかと思いましたね。

判断停止して「他者のロボットになる」というのは、
大乗仏教の「六波羅蜜」の忍辱波羅密の実践ですから、
彼が純粋の原始仏教の実践者ではないことは確かです。
あと、キリスト教も引用していますね。


アングリマーラ

>しかしこれは、昔、誰かに石を投げたから、
>そのカルマ(同じ行為)が返ってきたのでしょうか?


バラモン教の坊さんを999人殺したカルマの方はどうなってしまったんでしょうかね。
お釈迦様が引き受けたのかな?

石をぶつけられたぐらいの痛みだけではまかないきれないと思いますけど。

一神教への誤解

 一神教への誤解というものが世間でもよく見受けられますが・・・
基本的に一神教には、「偶像崇拝の禁止」という項目が必需のようにそれぞれの聖典に書き添えられています。

古代から現代までの多神教と一神教への遷移についてふりかえると

多神教とは本来的にそれぞれの集団において権力者が神を勝手に創造し利用するために増え続けてきたものです。その後多くの地域から一つの場所に色々な神を信仰する人々が寄り添ったときの生活折衷として多神が一つの祭殿におさめられるようになります。これが紀元前14世紀(2400年前)の古代エジプト王イクナアトンによって一つの神として生みだされます。

おおくの神が色々な法を持つ、その矛盾をおおくの神が持ち合わせる最大公約数の部分を抽出し一つの神とし、その法の元で暮らすという手法をイクナアトンはとりました。これが一神教のはじまりです。

後のキリスト教(厳密に言えばユダヤ教)ではディアスボラ(民族漂流)の中でおおくの神を合議の元で一つにしました。多くの人が持ち寄った神の最大公約数から生まれた十戒の元での神が更に創造されたといってもいいでしょう。

つまり一神教とは多神教から生活慣習の必然から生じた合議による神といってもいいでしょう。その合議の結果をまもるために「偶像崇拝の禁止」「自分の神の名を口にしてはならない」などという戒律をあわせることによって、個人や小集団が持つ神への信仰上の衝突をさけました。つまり、ここで信仰の自由と信仰による衝突をさけるということを一神教の必然としたのだとおもいます。ひいては神を個人所有してもいいものと、公の神とを分極化させたのでしょう。

一神教これを僕風にいいかえて合議神というものは多神教のように権力者の都合によって複雑化し無限に増え続ける法を公の神の創造によって、より重要度の高いもの、多くの人が共通して持つ道徳を集合化させるものだったのでしょう。

 宗教対立というものが世界各地で起きていますが、これはある意味一神教の成立過程からいうと、15世紀から始まる世界のグローバリズムの結果、世界の宗教が多神教化してしまった結果だといえるでしょう。それに対してラスカサスなどインディオの信仰などにも通じていた神父たちはお互いの神に共通するものを探そうとしました。

この動きが現在の道徳的民主主義の原型になっています。



 

イエスと仏陀

 彼らが生活した時代において仏陀やキリストは破戒僧のようなものでした。おおくの神からうまれるおおくの戒律に縛られ人々は自由をもたず、自分自身の神をもつことすらゆるされなかった。そうした時代に反旗をあげたのがキリストや仏陀だったのではないでしょうか。ある意味彼らは社会のため、今生きる人たちのため、そして将来生きる子供たち(将来を生きる子供たちのためこれこそが輪廻だと僕は思う)に猥雑で複雑になりがちである信仰の大系を整理しようとしたのだと僕はおもいますよ。


 

VTさんへ

>皆さん、1日3回投稿の制限一時解除しますんで、
>どうぞ和井さんと議論続けてください
>(水を差すと悪いので、記事投稿遅らせます)。

暖かいご配慮、どうもありがとうございました。

このブログは、以前より時々ロムさせて頂いていたのですが、
今回、以前の私のホーリーネームを使って、
勝手に投稿している人がいたので、ロムをやめた次第です。

私が、かつての名前(ナーギタ)を
自ら使用するようなことは、絶対にありません。
何年か前に、アベルさんたちにも、
今後私をそのような名前で呼ぶようなことをしたときは、
「返事をしませんよ」という宣言をしています。

どうも昔から、私がその掲示板に登場すると
その板が「荒れる(掻き回される)」みたいで…
ですから、VTさんの

(水を差すと悪いので、記事投稿遅らせます)

という、暖かいコメントには、感謝しています。
でも、どうぞ記事を投稿してください。
私の仕事は、月末と月初めが忙しくなるので、
このようなペースでの論議、というのも難しいですしね^^;

ひとまずここで、一区切りさせて頂きます。


>二拍子さんへ

>もう一つ、相手(対象としての客体)に何か(行為)をするのではなくて、
>自分自身に対して、何か(行為)をする場合のことを考えてみてください。

>自分で自分の顔を殴る(痛い!)。
>これは、過去の、どようなカルマが返ってきているのですか?
>自分が自分に、昔殴られたから、自分が自分を殴り返している?

>あるいは、今の自分が自分を殴ったら、
>将来また、自分によって自分に殴り返されるのですか?

という上記の質問は、決してふざけて問いかけているのではありません。
釈迦の言った「自己を依処とし」、という「自力修行」についての考察なのです。
そして、「同時存在し、同時消滅する」というカルマの流れもあるのではないですか?
という、新たな問いかけでもあるのです。

決して「意地悪」を言ってみたわけではありません。
そこのところ、よろしくね。


>お金が貯まっているぞさんへ

続きは、いずれまた。
VTさんが迷惑でないのなら、ここででもいいですし。
あるいは、他の何処かででも。

和井 恵さん

>続きは、いずれまた。
>VTさんが迷惑でないのなら、ここででもいいですし。
>あるいは、他の何処かででも。

オンフルール板は茶化し専門ですからね。
そこではやらない方がいいかも・・・・
わたしは管理人さんに合わせております。(藁)

2ちゃん・完璧スレは事実上、キャンディちゃんや丑ちゃんの日記ですし、
そこの住人の邪魔をすることになりますから、あまり書きたくないです。
ROM専門ですな。

ここはそういう教義を議論するにはいいところですね。
VT正悟師という立会人の方もいますから。

ここでは、
あべるさん→「不悪口言う」、わたし(YASU)→「お金が貯まっているぞ」にしております。



苦の成立条件

>「未来に生じる苦の因を積まない」ということと、
>「今、生じている苦しみそのもの(成立条件)を取り除く」ということは、
同じことを言っているのだと思いますか?

違うと言えば違いますね。根っこは同じ。どちらか一方でないといけないということもないですね。
1.「今、生じている苦しみそのもの(成立条件)を取り除く」

これを行なうことは、結果的に、

2.「未来に生じる苦の因を積まない」

これに繋がってきますね。
現在の瞬間に集中して見れば1で、時間軸上それを積み重ねていくと2のほうになる。

>あるいは、今の自分が自分を殴ったら、
>将来また、自分によって自分に殴り返されるのですか?

さらに突き詰めれば、なんではじめに(自分でも他人でも)殴ることになったのか?という原因をさらに掘り下げるとかしていくといいと思います。
表面的な因果だけでなく、おっしゃるとおり、「(成立条件)を取り除く」ってことですよね。
わたしのはじめに出した例が単純すぎたから、齟齬の原因になったのかな?

>バラモン教の坊さんを999人殺したカルマの方はどうなってしまったんでしょうかね。
>お釈迦様が引き受けたのかな?
>
>石をぶつけられたぐらいの痛みだけではまかないきれないと思いますけど。

ある程度コンパクトに返る、と言うのは経験上よくありますし、見聞きします。証智が出来た段階で捨断、忍辱のプロセスが勢いづいて、急に収束する。それが出来ないとずるずると引きずる。

持病があっても、修行者は苦の本質を見極める格好の材料に変えてしまうことが出来ます。最近そういう話をよく聞きます。
病巣の切除をしたらどうか?と勧められたが、やはり悪影響も大きいし、再発も否定できない。自分の心を見つめ、ダルマにしたがって原因を分析し続けることで、急に改善が見られた、と言う話は時々耳にします。私自身、病がある意味、苦を見つめる原動力になっていたことにとても感謝している次第です。これがなければ、放逸になりがちな自分にとって、「苦の成立条件を取り除く」訓練が出来なかったわけで。
症状が危急、重篤にならない、慢性ならよけいにそれができます。

因か条件か

>>「未来に生じる苦の因を積まない」ということと、
>>「今、生じている苦しみそのもの(成立条件)を取り除く」ということは、
>同じことを言っているのだと思いますか?

いささか自分自身、先の捉え方が大雑把なところがありました。
「因」と「成立条件」では違いはけっこうありますね。
苦しみそのもの=(成立条件)であるかどうかはちょっと判断つかないのですが、

・因をたたいて解決を図る
・成立条件を取り除いて解決する

因に直接アプローチすれば、条件にかかわらず苦しみの現象化はなくなります。
成立条件を取り除ける場合は、これも苦しみの現象化はさけられますが、条件に依存します。厳しい条件で、それが避け難い場合は、やはり苦しみは表面化します。

自分自身、本質的に弱い部分があって、ストレスの多い環境を避けて通れない状況になったときは、前者で対応するしかないという状態に直面しました。先の病の話に関連して。

空気のいい所で田舎暮らしすれば…というのはわかってるのですが。なかなかそうもいかない。

因x条件=結果

連投すみません。
「因」と「条件」の用語に対応する本質の対応、定義に齟齬があるため、微妙に話が食い違っているようです。

でも、おおよその共通項は、苦に対しては、根本的な「もと」にアプローチせよ、ということで、そこには異論ないです。

「やった」から「やられた」の、単純に「やった」が根本的な因ではない、もっと深く掘り下げた因果。
でも、どちらにせよ単純に表現すれば「あれが原因でこうなった」には違いないんですけどね。
どこまで因を掘り下げるか。掘り下げ方が深ければ、より根本的な解決になる。
そして条件を私は「トリガー」と定義しています。トリガーが引かれない状況では結果へと転がっていかない。
なので結果としての苦楽と条件そのものは別項として扱っています。
大雑把に過ぎるかもしれませんが、因と条件、どちらかが0になると結果は0。

ヒントです

二拍子さんの、連続投稿を見て、
思わず書いてしまいました^^;
参考にしてみてください。


アーガマの中で、このような記述が出てきます。

ある日、智慧第一で知られているサーリープッタに、
彼の弟子の中の一人が質問をしました。
「尊者よ。縁起、縁起とよく言いますが、今ひとつよく解りません。
 縁起とは、いったいどのようなものなのでしょうか?」
すると、サーリープッタは微笑んで、こう答えた。
「それは、喩えて言えば、二つのワラ束があって、
お互いがお互いに寄りかかり、支え合い、お互いの力を借りて
ようやくそこに立っている。
だからもし、どちらか一方が倒れてしまったら、
もう一方も必ず倒れてしまう。
このような関係で成立するものを、縁起というのだよ。」

そこで、お互いに寄りかかって(依存しあって)立っている、
AとBの二つのワラ束をイメージして、
次の文を読んでみてください。

《 縁起の法」の原型 》
これが有るときに、これが有る。 これが生起すれば、これも生起する。
これが無ければ、これも無い。 これが消滅すれば、これも消滅する。

AとBの関係は、「同時存在、同時消滅」であり、
可逆性のある関係(因であると同時に縁でもある)なのです。

(因果律には、この可逆性が無いのです)

定義

定義は変更してもOK。

世間一般でも定義の変更はある。
例えばメートルの定義は、
1795年に北極から赤道までの子午線の長さを基準に定義され、
1870年にメートル原器からの定義に変更され、
1960年にクリプトン原子の放つ光の波長からの定義に変更され、
1983年に光が一秒間に進む距離からの定義に変更されている。

オウムでニルヴァーナ、マハーヤーナ、マハー・ボーディ・ニルヴァーナと、
涅槃用語が増えていくにつれて、
定義が変化したとしても、
それは、それでOK。

ただ、定義の変更が必要か、不要か、
そういうことを議論しても、まさに、
「それは厭離、離欲、滅尽、寂静、智通、正覚、涅槃に役立たない」

私は和井さんの 

>何故ならば、無常(変化)をいくら研究しても、
>無常そのものは変わらないからです。

という記載に興味があります。
であるとすれば、どうすればいいか、
もう少し詳しくお願いします。

世俗と勝義

> 「空」とはそうではなくて、
> 単純(シンプル)に「空っぽになる(消滅する)」という意味です。
> つまりこれは、「ニルヴァーナに至る状態」のことなのです。

この解釈は百年以上前の西洋仏教学者が受け止めたものをそのまま継承した、きわめて単純化した捉え方ですね。数多くある多義的浮動的な「空」或いは「涅槃」の意味合いの中の一つに過ぎません。(空と空性は意味合いが違います)。

涅槃の意味を、単に吹き消すことであると間違って受け止めたのと軌を一にする捉え方です。

マッジマ・ニカーヤ第一二一経に登場してくる「空」と「空性」の意味合いは、「空である」と言っても、ただ中身が空っぽのさまを言うのではなく、何かそこにないものについて「空である」と言うのであって、この経では、名称と色形(名色)で生ずる”村など”の想いについて「空である」と言っていることで、あらゆるものが空っぽになる(消滅する)ことはいっていませんね。


マッジマ・ニカーヤ 第一二一経
 かつて、わたしは、アーナンダよ、そして、今も、空性の住処に、多く住している。あたかも、この鹿母堂が、空であるのは、象や牛や馬や驢馬についてであり、空であるのは、金や銀についてであり、空であるのは、女と男の集まりについてであるのが、この比丘の教団による独住だけは、空ではないように、そのように、実に、アーナンダよ、比丘は、村の想いに集中することはなく、人の想いに集中することなく、森の想いによって独住に専念する。かれの、森の想いに向かう心は、躍進し、喜び、確立し、信にむかう。
 かれはこのように知る。
 (すなわち)あったのは、村の想いによる不安であるが、それはここにはない。あったのは、人の想いのよる不安であるが、それらはここにはない。あるのは、この森の想いによって独住する、だだこの不安だけである。
 かれは、『空であるものは、この想いのなかにあるものであって、(それは)村の想いに対してである』と知る。『空であるものは、この想いのなかにあるものであって、(それは)人の想いに対してである』と知る。『あるのは、この、森の想いによる独住であって、これだけでが、空でないものである』と(知る)。
 以上のように、そこにまったくないそのものによって、そこを空であると見る。そこにまだ余っているものがあるとき、そこにあるそのものを、『これがある』と知るのである。このように、かれには、アーナンダよ、この、如実であって転倒なき清浄な空性が顕現して存在している。


まさにここででてくる「空」は縁起をいっていることに異ならないでしょう。

スッタニパータ五三〇では
内においては迷妄(パパンチャ)である名称と色形を知って、外においては病根を知って、すべての病根の束縛を脱した、このような人は、あるがままにある人といわれる。

また、スッタニパータ八七四では
 想い(サンニャー)を想うのでもなく、想いを離れて想うのでもなく、想わないのでもなく、虚無を想うのでもない。―このように知ったものは、色形を滅する。というのは、想いを原因として、多様な言語世界(パパンチャ)の名称が起こるからである。



西洋仏教学者などには、主に偏った時間に対する概念を含んでいることをおさえるべきでしょう。近代の時間と進歩史観では、過去・現在・未来と直線的に流れる時間の展開の上で、過去を克服し未来への進歩を信じる歴史観がベーコンからカント、ヘーゲルまでの近代の歴史観の原理として捉えてきました。
この時間の捉え方に従っていない世界中に存在する数多くの捉え方の中の一つに、仏教的な時間の捉え方があります。(循環する時間感覚です)

世俗諦における縁起は、この直線的に流れる時間の展開に従う視点で、因縁果報をみることは不可欠の視点あり、かつ無明・行・識・名色・・・・の内で、無所有処などの禅定によって、名色(多様な言語・表象作用=迷妄)を整理する為に、想いを、スッタニパータ八七四のようにすることであることで、あるがままにある人となり得ると語っていることになります。(想いとは識と同じとみなしてよいでしょう)

よって、「空」と「カルマ(因縁果報)」は、共に、あるがままの人(如来・如去)の境地の顕現を経験するためには不可欠です。

直線的に流れる時間の展開に従わない時間感覚は、(如来・如去)の境地(勝義諦)の経験者の時間であるでしょう。

諸行無常の行は、潜勢力・形成力ですから、業(カルマ)でもあるサンスカーラですね。

「行」の領域を、進化させることが可能であると信じる道が仏道にはあると言えるでしょう。そのためには識・名色領域を、まずスッタニパータ五三〇のように、病根の束縛を脱する為の修習の禅定をなさなければならないということが仏道であると私は感じます。

「同時存在、同時消滅」の領域は(如来・如去)の境地を垣間見た経験者の時間感覚に出て来るものでしょう。

しかし、世俗諦と勝義諦を別のものとしない縁起性のものとすることも仏法ですね。


七氏さんへ

>私は和井さんの 

>>何故ならば、無常(変化)をいくら研究しても、
>>無常そのものは変わらないからです。

>という記載に興味があります。
>であるとすれば、どうすればいいか、
>もう少し詳しくお願いします。


それは要するに、どうすれば、
「無常という変化」を止滅することができるのか?
という質問ですよね。

それはまさに、釈迦の教えの核心をついた疑問ですね。
簡単に言ってしまえば、
無常そのものを「成立させている条件」を、壊してしまえばいいのです。

何故、無常なのか?

それは、一切の形成されたもの(有為)が、
縁起(相互に依存しあった関係)によって成立しているからです。
お互いがお互いに依存しあっている訳ですから、
要するにそれらは「自立をしてはいない」不安定なものである。
その不安定なものが、不安(変化・苦るしみ)を創り出しているのだ、
ということです。

理治さんが紹介してくれた、
「マッジマ・ニカーヤ第一二一経」は、
これを説明するのに適した、とても良い教材なのです。

(ところで七氏さんは、これを読んで、釈迦が何を言っているのか解りますか?)

その感想(解釈)を、まず教えてください。

続きは、そのあとで…

参考資料の追加。

アーナンダよ、もはや無所有処も非想非非想処も思わず、
ただ無相心三昧に専心し、浄まり、確立している。
それゆえにここには無所有処も非想非非想処もなく、その悩みも無い。
すなわち空である。
しかし、いま専心している無相心三昧は空ではなく、
残りものであり、それについて不安である。

(中部経典・小空経)

二つの教典を理解するポイントは、

「残り物」があると、不安が残る。
「残り物」無くなれば(空じてしまえば)、
それらの不安も消えて、悩みが無くなる。

…ということです。

小空経

理治さんが引用したのは、
小空経の最初の部分ですね。

禅定が深まるにつれて、
不安がなくなる(空となる)領域が増えるということを、
釈迦牟尼は言いたかったのでしょう。
そのプロセスを進めることによって、
空性が顕現するらしい、ぐらいのことは分ります。

ただ、本当に分かるためには、
空無辺処、識無辺処、無所有処、非想非非想処、無相心三昧、
を経験する必要があるということでしょう。

やはり、地道に、こつこつと修行するしかないと思いました。
和井さんから何か面白い情報を得て、
楽して達成することは無理、
と釈迦牟尼が教えてくれたような気がします。

しかし、この感想(解釈)は、
和井さんからしたら、まったく理解していない、
ということでしょうね。
おそらく…。

循環する時間感覚

>循環する時間感覚
  これはない。

>直線的に流れる時間の展開に従わない時間感覚
  ふつうの流れと違う時間感覚というのは、ありそうな気がする。
 
  勝義諦で、そんな奇妙な時間を扱うのですか?
  私のレベルが世俗諦だから理解できないのでしょうか?

七氏さんへ

とりあえず、

理治さんが引用している部分だけを、
私なりに少しだけ意訳してみましょうか…


アーナンダよ、私は、昔もそして今も、
「空性の住処」と呼ばれる意識状態に、多く留まっている。

それは、あたかも、私たちが今いる「鹿母堂」において、
空である(空虚でそこに存在することが認められない)ものは、

象や牛や馬や驢馬についてであり、
(何故ならば、この場所にそれらは存在していないから)

金や銀についてであり、
(出家修行者は、無所有なので、それらを持っていない。
 だから、これらのものも、当然この場所には存在していない)

女と男の集まりについてであるが
(女と男の楽しい集まりなども、出家者の住するこの場所には存在していない)

しかし、私たちはここで出家者教団として存在(独住)しているので、
これだけは「空である」と認めることは出来ない。

そして、これと同じように、実にアーナンダよ、

出家した修行者は、
村の想い(今まで暮らしていた社会の想念)に向かって、
自分の心が集中することは無く、

人の想い(今まで現世でつきあってきた人々の想念)に向かって、
自分の心が集中することも無く、

森の想い(独住生活・修行をするのに最適な、森の生活の想念)に
自分の心を集中させることによって、独住生活(修行生活)に専念する。

そして、彼の、森の想いに向かう心は、躍進し、喜び、確立し、信にむかう。
それは、彼がこのように知るからなのだ。

昔の私にあったのは、村の想いによる不安であるが、それはここにはない。
昔の私にあったのは、人の想いのよる不安であるが、それらはここにはない。
今あるのは、この森の想いによって独住する、だだこの不安だけである。

そして、彼は、
『空であるものは、この想いのなかにあるものであって、(それは)村の想いに対してである』と知る。
『空であるものは、この想いのなかにあるものであって、(それは)人の想いに対してである』と知る。
『あるのは、この、森の想いによる独住であって、これだけでが、空でないものである』と(知る)。

以上のように、そこにまったくないそのものによって、そこを空であると見る。
そこにまだ余っているものがあるとき、そこにあるそのものを、『これがある』と知るのである。
このように、かれには、アーナンダよ、
この、「如実であって転倒なき清浄な空性(如実智見)」が顕現して存在している。



つまりこれは、以前に説明した、
「三明智」の中の「苦諦(こは苦なり)」について説明している場面なのです。

「苦しみの因を、苦しみの因であると知る」。
「そこに(因が)無いときに『 こを空であると見る』」
「そこにまだ余っているもの(苦しみの因)があるとき、
 そこにあるそのものを、『これがある』と知るのである。」

そして、この「苦諦(如実智見)」が自分の中に発動(発現)することによって、
(これは、自分の中にそれが顕現した瞬間に、はっきりと自覚できますよ)
「集諦(順縁起)」「滅諦(逆縁起)」という、
仏教本来の「縁起の法」を活用した「道諦(苦の滅尽の実践)」をすることが可能になるのです。


以前に説明した内容

「明智」とは、「無明」の対義語です。
つまり、無明(無知)が消滅したときに明智が現れる。
あるいは、明智が発現したときに、無明(の闇)が取り払われる。

苦 … 苦しみを、あるがままに苦しみだと見極めることが出来る明智。
集 … 苦しみの「構成(成立条件・順縁起)」を正しく認識出来る明智。
滅 … 苦しみの「消滅(消滅条件・逆縁起)」を正しく認識出来る明智。

道 … 明智をベースとした、日常生活における具体的な実践方法。

二拍子さんへ

行為には、二つの種類があります。
それは、自分自身に行う行為と、他人に行う行為です。
そして修行にも「自力修行」と「他力修行」とがあります。

しかし、ほとんどの場合「カルマの法則」というと
「自己(主体)」と「他者(客体)」との関係でのみ考えられています。

相手に何かを為す、すると、後になって、相手(任意)から何かを返される。

でも、自分が、自分自身に対して何かを行った場合は、どうなるのでしょうか?


>自分で自分の顔を殴る(痛い!)。
>これは、過去の、どようなカルマが返ってきているのですか?
>自分が自分に、昔殴られたから、自分が自分を殴り返している?

>あるいは、今の自分が自分を殴ったら、
>将来また、自分によって自分に殴り返されるのですか?


喩えば、ここに両手があって、「右手」が「左手」を叩いたとします。
この「二つの手」が、全く別々(自己と他者)ならば、
私たちは「今まで通りのカルマの法則」を考えることが出来るでしょう。
しかし、二つとも同じ「わたし(自己)」の場合は、とうなってしまうのか?

この場合は、「因」を造ったのも自分だし、
(と同時に)その「果」を受けたのも自分なのです。

つまり、「因」と「果」は「同時存在」をして、
そしてすぐに「同時消滅」してしまうのです。

つまり、現れると同時に消えてしまう、「刹那滅」のカルマなのです。

喩えば、量子力学では、空間に、強いエネルギーを加えてゆくと、
二つの位相の異なった(真逆の)量子が「同時に出現して」(分裂)、
すぐにまたお互いを打ち消しあって
「同時に消滅する」(対消滅)ことが知られています。

つまり、カルマの法則的には、自己への行為は、未来への因を造らないのです。

これが、釈迦が「独居修行(一人森の中に座して自己の修行をする)」を
弟子達に勧めた理由です。
そしてまた、そこでは(修行者を除き)他者がいませんから、
他者からの「カルマの返り」も無い(お互いに戒律を守っている限りに置いては)。

未来への因

久しぶりに覗いたら、すごい量で、追っかけ切れませんが、
>二拍子さんへ
># | 200805-28 09:43:22 |# 和井 恵

これは読みました。

>つまり、現れると同時に消えてしまう、「刹那滅」のカルマなのです。

実際、そのようなものもあると思います。

>つまり、カルマの法則的には、自己への行為は、未来への因を造らないのです。

ここが結論なのだと思いますが、全てにおいて例外なく当てはまるということですか?完全に時間軸上0、もしくはほとんど0…
何かそれ(法則性があり、例外なくそうである)を裏付けるようなものがあるといいですね。そして、自己以外への行為は、逆に未来への因になりうる、そのへんの違い、そしてなぜそうなのかも気になります。

おおよそ理解しましたが、どの部分に呼応するレスポンスなのか、ちょっと掴みづらいので、反応しにくいですね。そのへん補足お願いします。
ここの流れを全部追っかけきれる自信ないのですが。

おっと、

大切なことを説明するのを忘れていました。
上記の説明は、物理的でしたね。
心理的な面の補足説明を少し。

自己が自己に何かをした場合、
これは普通には、「未来への因」を創り出します。

それを創り出すのは、私たちの「心」です。
過剰反応をしたり、屈折したり、絶えず動き回る。
それが、唯識的に言えば「習気(じっけ)」、
または「薫習(くんじゅう)」などの「未来への因」を創り出すのです。


この「未来への因」を断ち切るために、
私たちは「心の修行」によって「空(無心)」を体得するのですね。

つまり、「ニルヴァーナ(揺るぎない心の平安)」に至る道を歩むのです。

訂正。

 × これは普通には、「未来への因」を創り出します。

 ○ これは心理的には、「未来への因」を創り出します。

空の思弁可能性

ざっとコメント欄斜め読みしましたが、
空って、本当に難しいですね。本質はシンプルかもしれないが、空そのものを言葉に置き換えることが難しい。お互いの語彙が何を指しているのかの確認すらあやしくなってくる。
空をとりまく諸現象を平易な言葉で描写して空の領域を浮かび上がらせるような方法を取るのもいいと思います。

思弁的に空の領域を展開しようとすれば、かなりとんでもなく発散した状況になります。禅に自ら取り組んできた(だから思弁だけではないが)西田幾多郎の『絶対矛盾的自己同一』は、どれほどの人が理解できるか?というとかなり疑問です。私自身は、ここら辺で、哲学は半ば諦めました。西洋哲学的素養も伝統的仏教の知識素養も半端ですから、自ずと結果は見えています。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000182/files/1755.html

時間の循環性、直線性

ちょっと話の本筋からずれるのかもしれませんが、
上のほうで時間の循環性と直線性とありましたが、循環性といえば、

「過去と未来とが矛盾的に現在において結合し、矛盾的自己同一として現在から現在へと世界が自己自身を形成し行く、即ち世界が生産的であり、創造的である。」

上記リンクより。こう表現してますね。たしかにヘーゲルなどのアウフヘーベンとは違います。矛盾をネガティブに捉えていないから。だから破壊的状況を克服し、創造的になる。

グヒャサマージャのマンダラを想起しながら。

カルマは自己と他の関係だけ?

>しかし、ほとんどの場合「カルマの法則」というと
>「自己(主体)」と「他者(客体)」との関係でのみ考えられています。

他になさないカルマはカルマにならない?

ソンシはそういうモノもカルマになるとか言っていましたね。
たとえば、
「他人の悪口を誰も訊いていないところで言う」
「AVを見て自慰行為に浸る」
「みだらな物思いにふける」

当然、自殺もカルマになるのでは?


ところで、「カルマ」は「行(サンスカーラ)」の作用の一部のような気がしてきましたね。

無色界にあるときは、圧縮ファイルみたいなものです。
それが色界、欲界に降りてくると、時間軸に沿って解凍してしまうと。
無色界は時間軸が存在しないので、解凍できないと思います。

宇宙は11次元とかいう話ですが、
色界、欲界はそれぞれ、空間の3次元+時間で4次元、無色界は空間のみで3次元と考えれば、全部併せて11次元になるでしょう。


二拍子さんと七氏さんへ

>やはり、地道に、こつこつと修行するしかないと思いました。
>和井さんから何か面白い情報を得て、
>楽して達成することは無理、
>と釈迦牟尼が教えてくれたような気がします。


釈迦が、最初にその教えを説いたのは、
苦行時代のかつての仲間たち、五人に対してでした。

彼らは二つのチームに分かれ、一日交替で、
それぞれ托鉢に出かけてゆきました。

つまり、ある日は釈迦と二人が森に残って 、
彼の説く「教え(説明)」を聞き、
そして、解らないところを質問する。
するとやがて、托鉢に出かけていた三人が
食べ物を持って帰ってくる。
そしてそれを六人で分け合い、食事を済ませ、
今度は全員で、ミーティング(説明と質疑)を続ける。
そして次の日は、二人が出かけて三人が残り…

これを、しばらく何日間か(そんなに長期ではなかった)
繰り返し続けていったのです。

その結果、釈迦の説いてる「説明」を、
最初に理解できたのが、コーンダンニャでした。

「コーンダンニャは悟った(明智を得た)!」

そう言って、釈迦は喜んだそうですが、
この時、コーンダンニャはまだ
「仏教的な出家」すらしていなかったのです。

つまり、八正道の実践を、
地道にこつこつと続けてきたわけではなく、
そしてまた、深い瞑想を続けていたわけでもないのです。

「理」による悟りは、それほど難しくはありません。
(それは、「コロンブスの卵」みたいなものです)



二拍子さんや七氏さんは、
とりあえず、私の説明を聞いてみよう、
という気持ちになってくれたようです。
ありがとう。

二拍子さんは、連続三回も投稿をしてくれて、
そして、七氏さんに至っては、
どうせ聴くなら「トリビア(無益な知識)」についてではなく
「真に有益な質問」をしよう、とさえ言ってくれました。

この言葉を目にしたときは、正直、感動ものでしたよ。

これで一応終了します、
と言っておきながら、
二人の質問に応え始めたのは、
このような理由からでした。

しかし、横から色々と「豊富な知識(着色作用)」を
善意で教えようとする人もいるようで、
それがかえって余計な「混乱(ごちゃまぜになる)」を
引き起こしているようにも思えるのです。

二人との話を、それぞれ同時進行で話していたのも、
それもちょっと災い(混乱)したようで…

少し、やり方を考えてみますね。

……

>他になさないカルマはカルマにならない?

>>自己が自己に何かをした場合、
>>これは心理的には、「未来への因」を創り出します。



>無色界にあるときは、圧縮ファイルみたいなものです。
>それが色界、欲界に降りてくると、時間軸に沿って解凍してしまうと。
>無色界は時間軸が存在しないので、解凍できないと思います。

トリビア。



>宇宙は11次元とかいう話ですが、
>色界、欲界はそれぞれ、空間の3次元+時間で4次元、
>無色界は空間のみで3次元と考えれば、全部併せて11次元になるでしょう。

これも、トリビア。

トリビア

その「知識」の正誤に関わらず、
それを得ることによって得られる成果が、
正しい利益を与えることがないもの。

>そういうことを議論しても、まさに、
>「それは厭離、離欲、滅尽、寂静、智通、正覚、涅槃に役立たない」

訂正

× それを得ることによって得られる成果が、

○ それを知ることによって得られる成果が、

ごめん、勘違いしていました。

ここは、「公共の場」であって、
誰もが自由に意見を述べていいところ。

別に、「解脱」や「涅槃」に興味を持ち
それの獲得を目指している人たちだけの集まり、
というわけではありませんでした。

「しゃれた知的な会話を楽しむ」のも、
もちろんその人の自由ですし、
「知識欲を満たすための会話」であっても
もちろんその人の自由なわけですし、
「自己の持つ豊富な知識を教えてあげる会話」も、
もちろんその人の自由なわけで、

私があれこれと指図(指摘)するような
筋合いのものではありませんでした。

ちょっと傲慢でしたね。

ごめんね。

「二拍子さんと七氏さんへ」のコメントを読んだら、
「おまいは釈迦か!」と突っ込まれかねませんね。
ミクシあたりで和井さん自身がコミュ立てて好事家同士でやれば、
茶々も入らずもっと有意義な議論ができるんじゃないでしょうか。

和井恵さん

>私があれこれと指図(指摘)するような
>筋合いのものではありませんでした。


HPを作るついでに、ブログも設置されたらどうでしょうか?
承認制にしておけば、気に入らない投稿はすべて削除できますし。


それにしても、
わたしなんてトリビアが多いですね。
和井恵さんの仰るとおりです。

まさに有益と言えないのは確かでつ。
学校や本で学んだ知識やTVの情報なんて仕事にも全然役に立ちませんでしたし。

これだから、出家も出来なかったんですな。
で、サリンも撒かずに済んだと。(藁)

承認制システム

>「二拍子さんと七氏さんへ」のコメントを読んだら、
>「おまいは釈迦か!」と突っ込まれかねませんね。

でも、「ダルマについて語るのはオシャカサマのみ許可されています」なんてことになったら、だれも幸せになれそうもないですね。こうなったらお釈迦様の再臨をじっと待つしか。
ダルマを本当に生かすことが出来るのは、過去の聖者でも権威者でもなく、今現在の個々の求道者、修行者ですからね。たとえそれが完全でなくても。
不完全なものの集合でも、たくさん突き合わせ続けると粗が削れて核心が見えてくるものです。

トリビアでも何でも、普通の人が主体的に情報にアクセスし、主体的に取捨選択し、主体的に判断し、主体的に実行できる21世紀だから可能になったのだと思います。人類にとって、ようやくよちよち歩きの時期が来たのかもしれません。
もちろん、全部自力でやっているつもりでも、その行為自体、過去から現在までの大きな集合智に常に助けられているに過ぎないのですが。

お金が貯まっているぞ さんへ

>HPを作るついでに、ブログも設置されたらどうでしょうか?
>承認制にしておけば、気に入らない投稿はすべて削除できますし。

HPの方は、まだかなり時間がかかりそうなので、
元芝さんをまねて、準備ブログを創ることにしました。
(別に「日記」を書くためではありませんが…)

別にコメントを承認制にしなくても、
要は「ごちゃ混ぜ」にならないようにすればいいわけで、
ブログという表現方法は、この点で合っているようです。

ちなみに、場所はここです。

http://blog.goo.ne.jp/waikei2008/

和井 恵さん

ブログ開設おめでとうございます!


さっそく、わたしのHPのリンク集兼トップページにも載せておきました。

お立場は「アンチ・元『師』」としておきました。


『ソンシはいったい何者だったのか?』
http://aumer000yasu.web.fc2.com/index.html


わたしが自分のブログ
『明鏡止水」の心境を超えて』
http://aumer000yasu.blog116.fc2.com/

を承認制にしているのは、管理するのが面倒だからです。
それに、やたらエロ広告ばかり貼り付ける人もいますから。

 
尊師マンセ~派やA派側からの攻撃が始まるかもしれませんので十分お気をつけください。


お金が貯まっているぞ さんへ

>お立場は「アンチ・元『師』」としておきました。

お金が貯まっているぞさんからは、アンチに見えるのでしょうね。
私自身は、シンパでもアンチでもありませんけど。
それって、お互いに「依存し合っている関係」じゃありませんか?

「釈迦は、カルマの法則を説いていない」という主張も、
別に「オウムの教義」を批判するために言っているのではなく、
ただ、事実を事実として言っているだけ、という感じなんです。
特に、オウムや麻原さんを意識して言っているわけではありません。

元師、というのも、もう十数年前の話でしょ、
私にしてみれば、自分が「元・中学生」だとか、その頃のあだ名を、
なんでいつまでも、呼ばれ続けなければならないのかな…
という感想しか持っていません。

>わたしが自分のブログを承認制にしているのは、
>管理するのが面倒だからです。
>それに、やたらエロ広告ばかり貼り付ける人もいますから。

それは、しばらくブログ管理を経験してみてから
考えたいと思います。


>尊師マンセ~派やA派側からの攻撃が始まるかもしれませんので
>十分お気をつけください。

明日の心配を、今日しても始まりませんよね。
そういうのは、起きてから考えます。

和井 恵さん

>お金が貯まっているぞさんからは、アンチに見えるのでしょうね。
>私自身は、シンパでもアンチでもありませんけど。

和井恵さんが、2ちゃんで未だにホーリーネームで呼ばれているところを見ると、
A派工作員にとっても、アンチに見えるんでしょうな。

オウマー西村さんのリンク集では、「電ナ」になっていました。
「電波扱い」だなんて!嗚呼。
http://www015.upp.so-net.ne.jp/sinzinrui/

まあ、とにかく、久々の大物ということで注目されていると思います。

>和井恵さんが、2ちゃんで
>未だにホーリーネームで呼ばれているところを見ると、
>A派工作員にとっても、アンチに見えるんでしょうな。

単なる「習気(くせ)」なんじゃないですか?
まぁ、オウムに関わってきた人たちにとっては、
そっちの方が解りやすいでしょうしね。


>オウマー西村さんのリンク集では、「電ナ」になっていました。
>「電波扱い」だなんて!嗚呼。

はは、そりゃあ面白い。
わざわざリンクしてくれるなんて、親切なんですね。

でも、まぁ、ここでのコメントも、これで最後にしますね。
お騒がせしました。

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