元オウム教団幹部 野田成人のブログ

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 これまでに触れた投影とは、自己の中の不都合な悪を、他人のものだとして遠ざける心の働きである。これと似た心の働きで、自己の中の善の部分も、外側に投影されることがある。典型的な例は、人間の「愛」という性質について、自己の外側の「神」に投影することだ(フォイエルバッハ(1804-1872)の言う「疎外」)。

 特定の異性や肉親・友人だけに限定された「愛」ではなく、人間一般への「愛」を有することは容易ではない。自分にエゴがある限り、お互いの利益と欲望はぶつかり合う。人間の中に、「愛」の要素は存在してはいても、その現実的な実践は、極めて困難だ。よって人間は、自分では実現困難な「愛」の要素を、具現化した存在を求める。そこで神を対象化して崇拝したり、既存の神に「愛」の要素を求めたりする。

 つまり自己の内側の「愛」の要素を、外側の「神」に投影したわけだ。現実世界で「愛」のない自己と、それと全く対照的な「愛」に溢れた神。ここで、自己は神を追い求めて服従するという支配関係ができあがる。自己の善き部分の投影に支配されてしまうのだ。宗教一般にこの傾向は存在するが、アーレフにおいても極めて顕著である。

 「尊師の中には、全ての法則、全ての真理が内在している。絶対で完全な完璧な存在である。だから尊師に付き従ってさえいれば、自分の中にもその絶対・完全・完璧な真理がコピーされる。最終的に全ての魂は、尊師によって救済される。」

 上記は、1ヶ月ほど前に八潮道場で小耳に挟んだサマナ同士の会話の概要である。この会話に相槌をうつサマナは、もう10年以上前から「尊師へのザンゲ」ばかりやっている。「偉大で絶対で愛に溢れた尊師」に、煩悩だらけで愛のない自分をザンゲするのだ。10年前は、私も何か敬虔な宗教的なモノを感じることもあった。しかし途中でそのサマナの自縄自縛状態に気づいた。「偉大なる尊師」とは対照的に、悪に染まった自己。この思考を記憶修習することによって、ますます心は萎縮・退縮する。「偉大なる尊師」への呪縛から逃れられなくなっている。ここにおいて、依存心・怠惰の増大と、決断力・判断力・責任感の欠如が生じる。

 サマナ全般にこの傾向は見られる。私はことある毎に、「愛の教えを学んだら、それを実際にやってみればよい」と説いている。実践出来ないなら、単に絵に描いた餅である。しかしこれに対するサマナの回答は、大体決まっている。

 「私はまだまだ記憶修習が足りませんから、尊師を、教典を、もっと記憶修習する必要があります。」

 この「私はまだまだ足りません」という言葉は、表面的には謙虚とも思える。しかしその裏には、社会的に厳しい現実の前に躊躇する弱さがある。厳しい現実に向き合えない自分を棚に上げて、「偉大で愛に溢れた尊師が、自分も含めてみんなを救済してくれるんだ」と努力を怠る言い訳のように聞こえてしまう。

 自分が愛に満ち足りた存在になりたければ、自分で愛の実践を訓練すればよいのだ。実践の訓練なしに、愛に満ちた存在などなりようがない。しかしサマナの多くはどうも錯覚しているようだ。「尊師を記憶修習しさえすれば、長い輪廻でいつかその内、自分の中に愛が内在される」と。善なる要素の神への投影(フォイエルバッハの疎外)が、この先送り思考の一因である。

 勿論、「愛」を神に投影すること、あるいはグルイズムが、100害あって一理なし、と断言するわけでもない。「愛」のかけらもなかったエゴだらけの人間が、神によって「愛」の要素を呼び覚ますこともある。それによって、エゴをコントロールし、他を利する気持ちを少しでも持つならば、意味あることだと考える。しかし少なくとも10年以上出家生活を続けたサマナ(数人除いてほぼ全員が該当)は、神への信仰による自縄自縛・自己疎外を認識すべきだ。

コメント


A派サマナ

昔、在家信者だった頃、オウムで出している本以外読んではいけないと言われました。
で、さらには、マスコミは情報操作されているなどと言っていました。

こうしたことを未だ続けているんですな。


よって、いくら代表がそういうことを言ってもサマナにとっては酷かも。


でも、わたしはいろいろ、一般の仏教書なども読んでいますからね。
教義の中のパクった部分の元ネタ探しも楽しいものです。
初期の頃なんて、『虹の階梯』のパクリが多いかな。

ソンシ独自のモノも、もちろんありますけど。
「レインボーステージ」など。

これは、

ユーゴーのレ・ミゼラブルの主題ですね。

1815年10月のある日、75歳になったディーニュのミリエル司教の司教館を、ひとりの男が訪れる。男の名はジャン・ヴァルジャン。貧困に耐え切れず、たった1本のパンを盗んだ罪でトゥーロンの徒刑場で19年も服役していたのだ。行く先々で冷遇された彼を、司教は暖かく迎え入れる。しかし、その夜、大切にしていた銀の食器をヴァルジャンに盗まれてしまう。翌朝、彼を捕らえた憲兵に対して司教は「食器は私が与えたもの」だと告げて彼を放免させたうえに、二本の銀の燭台をも彼に差し出す。それまで人間不信と憎悪の塊であったヴァルジャンの魂は司教の信念に打ち砕かれる。迷いあぐねているうちに、サヴォワの少年プティ・ジェルヴェ (Petit-Gervais) の持っていた銀貨40スー[1]を結果的に奪ってしまったことを司教に懺悔し、『正直な人間』として生きていくことを誓う。

また、ゲーテのファウストの主題でもありますね。

そうだ、己はこういう精神にこの身を捧げているのだ。
それは叡知の、最高の結論だが、
「日々に自由と生活とを闘い取らねばならぬ者こそ、
自由と生活とをうくるに値する」
そしてこの土地ではそんな風に、危険に取囲まれて、
子供も大人も老人も、まめやかな歳月を送り迎えるのだ。
己はそういう人の群を見たい、
己は自由な土地の上に、自由な民とともに生きたい。
そういう瞬間に向かって、己は呼びかけたい、
「とまれ、お前はいかにも美しい」と。
己の地上の生活の痕跡は、
幾世を経ても滅びるということがないだろう
そういう無上の幸福を想像して、
今、己はこの最高の刹那を味わうのだ。


悪魔の世論操作

 1959年12月14日、新潟港に接岸した帰国船から、音楽が流れていた。こん
な歌詞の「帰国同胞歓迎曲」だった。

 早く来なさい同胞たち 兄弟姉妹よ
 虐待と飢えも過ぎたことだ
 海の上の太陽の光も われらの心のように
 帰国船の航路に 花をふりまく
 社会主義の楽園は ひろい懐で
 あなたたちを 温かく迎える(李英和『朝鮮総連と収容所共和国』小学館より)

 しかし彼らが辿り着いたのは「地上の楽園」ならぬ「生き地獄」だった。帰国事業
は北朝鮮政府が立案し、朝鮮総連が音頭を取った。日本側も1958年11月、超党
派で「在日朝鮮人帰国協力会」を結成して側面支援した。役員は、自民党元首相・鳩
山一郎(フリーメーソン)、社会党書記長・浅沼稲次郎、共産党書記長・宮本顕治で
ある。時の総理大臣・岸信介も「日韓会談」を中断しながら主要な役割を果たした。
何故日本政府は帰国事業を歓迎したのか。政府は在日朝鮮人を「厄介者払い」したか
ったのだろうか。それだけではあるまい。帰国事業を支援することで、日本政府は秘
密結社の政策に奉仕したのである。何故なら、北朝鮮こそイルミナティが作り上げた
国だからだ。北朝鮮の政権党である朝鮮労働党の前身である、朝鮮共産党北部朝鮮分
局は1945年10月10日に結成された。10月10日は秘密結社の大祝日なので
ある。
 小松川高校女生徒殺人事件も金嬉老事件も共に、在日朝鮮人差別の実態をいやと言
うほど在日同胞に見せつけた。そうすることで、同胞の帰国事業の後押しをする役割
を果たしたと考えられるのである。日本国内で差別と貧困に同胞が呻吟している時、
帰国船から見送りの人に向かって手を打ち振る帰国者たちの瞳は希望に輝いていた。
差別のない地上天国で自分の能力と才能を祖国建設に役立てたい。帰国者は愛国心に
燃えた。しかし帰国後、彼らの希望が無残にも費え去るのにそう時間はかからなかっ
たのである。

 最後に、被差別部落問題について簡単に触れておきたい。部落出身だということで
強姦殺人犯の汚名を着せられてしまったのが、狭山事件の石川一雄元被告である。1
977年8月、最高裁で上告を棄却され無期懲役が確定している。部落解放同盟は、
現在も判決の取消と再審の開始を求めて闘争を続けている。作家や文化人も、多数の
著書やコメントで冤罪の可能性を指摘している。
 被差別部落問題は奥が深い。グリコ・森永事件でも同和関係説が取り沙汰された。
部落差別こそ日本社会が抱える暗部である。その暗闇の中で何事が行われているのか、
部外者には知りえない。時代は変われどタブ-はやっぱりタブ-なのである。

10年以上出家生活を続けたサマナ

必ずしも 宗教的生活の長さ = 精神的成長 では無いのですね。
グル・キリストの意思は我らにありと思っていた人たちは、いざ事件で逮捕されるとほとんどユダだったし。でも、10年以上出家生活を続けて自縄自縛・自己疎外を認識できないサマナ(もしかすると死ぬまで)よりはよっぽど良いのかもしれない。

樹脂で固められて、ガラスケース行きに

>ソンシ独自のモノも、もちろんありますけど。

『タターガタ・アビダンマ』
既存の用語に依存せず、新たに用語決定したことで、既存の語彙についてまわる固定的概念の影響を払拭したところに意義があると思います。

仏法に完全にオリジナルなんてあるんだろうか?この世の新製品も、部品単位で見れば既製の集成だし、大半が引用の『教行信証』なんて論外になる。
「更に親鸞珍らしき法をも弘めず、 如来の教法をわれも信じ人にも教え聞かしむるばかりなり」 これをもって「親鸞更に私心なし」といわれているが(本人がそう言ったとは到底思えないが)、かえってそれが誰一人として手の届かない、眺めるだけのガラスケース入りの仏法にされてしまう危険性がある。すでにそうなっているのかもしれない。権威的なものを利用したり、そこに依存することがその土壌になっている。
ケースに入れるべきは古文書だけ。本当に命を吹き込むことが出来るのは修行者、成就者だから。

だからその「新たに用語決定した」人の正当性が
一番の問題なんじゃんw

なければ作ればいいと思うよ

用語を作ることについて資格や認可等は不要と思います。
用語は単語や語彙にすぎず、それ以上の何か真理か真理でないかとか、ありませんから、どんな人が行なっても、用語を新たに起こしたというのは、それは概念伝達の正確さをより高める意味があると思います。何か権威や価値がそれで確定するとかしないとか、そういうことは一切ないと思いますよ。

あえてオリジナリティという文脈で語れば。

誤解があるかもしれませんが、これは『教行信証』批判ではなく、後世になってそれがベークライト漬けにして固めることの正当化に利用されるおそれがあるということです。なにせ親鸞聖人は最晩年まで推敲を重ねていたそうですから。

一昨日はお釈迦様の誕生日

でした。

>用語を作ることについて資格や認可等は不要と思います。


法脈がどうのこうのという方がいますけど、
お釈迦様はどこから法脈を得たんでしょうかね。

ソンシと同じじゃないですか。

別にソンシがお釈迦様と同レベルだなんて言うつもりはありませんけどね。

そうです。
ソンシがやったんですから、みんな勝手にやれば良いんですよ!


>ユーゴーのレ・ミゼラブルの主題ですね。

記事とどういう関連があるのか、よろしかったら詳しくお教え下さい。


股引教教祖様は、シヴァ大神直々の霊脈を頂いておりまつw

陣痛

>ウィルス性の腹痛が起きる→遠隔先にもウィルス性の腹痛が起きる ×
>ウィルス性の腹痛が起きる→胃に神経痛が起きる           ○

>ということですね。女房が陣痛のときにそういうのあったな W
>別に僕は妊娠していなかったけどね。

奥さんの陣痛のときに、
ゴルゴさんにも陣痛のような痛みが感じられたということですね。
それは素晴らしい体験だと思います。
さて、そのときに奥さんの陣痛が消えた、
あるいは、少なくなったということがありましたか?

ゴルゴさんは何故に、
関係ないはずの自分に痛みが生じたと分析しますか?

びっくりした

ここに飛び火してきたのね。W
家内がそれを聞いていたらしいから、軽減はしているでしょうね。それが心理学的な働きというものですよ。
しかしねぇ、神の力なんでしょう。意識という感覚とそれを共有するという感覚が生じなければ、生じない。つまり、意識をもつ生物しかつうじない(意識障害のある人間も含む)というのは、なんだかとっても変だよ。


悲しいことです

> 「愛」を神に投影すること、あるいはグルイズムが、100害あって一理なし、と断言するわけでもない。「愛」のかけらもなかったエゴだらけの人間が、神によって「愛」の要素を呼び覚ますこともある。それによって、エゴをコントロールし、他を利する気持ちを少しでも持つならば、意味あることだと考える。

このような文章を拝読すると悲しみが込み上げてくる
とても貴重で希有なる出家生活が営まれているにもかかわらず

ミラレパは、幻身の八法(「世間を知る王よ、世の中の八種の法、すなわち利得と損失、苦と楽、名声と不名声、称賛と非難とに自己の心を向けず、それらに超然となるべきです」)より自然に解脱することは安楽である。
夢の迷乱から自然に醒めることは安楽である。光明が無明の闇から放たれることは安楽である。遷移である瞑想をしなくても仏になることは安楽である。中有を一つに断つことになるならば安楽である。
と言って世間八法から離れた自他の区別を超えた実践を単的に表現しているのであるから、当然として、自我執着と他者否定をなす日々の心身の行いは、まったくもって出家生活の本分とは遠くかけ離れていると言わざるを得ないでしょう。
自我の放棄と利他は視点の違い、見方の違いで同じことをすることでないならば、生きている意味、いわんや出家生活になんの価値があるのだろう。

> 用語は単語や語彙にすぎず、それ以上の何か真理か真理でないかとか、ありません

そうなんです。
でもね。言語表現のぎりぎりのところで、言葉を用いて、他の〈余分な、誤った〉表現を排除する。必要性があるようですね。

概念を超えた絶対の世界は言説の極まったものであり、言葉で説けないことをわからせるために、言葉によって言葉を否定するしか方法がない。
という意味で言葉の有効性があるのでしょうよ。
どう上手に使うかに依るのでしょうね。


ヒーリング

>神の力なんでしょう。
>意識という感覚とそれを共有するという感覚が生じなければ、生じない。
>つまり、意識をもつ生物しかつうじない(意識障害のある人間も含む)というのは、
>なんだかとっても変だよ。

つまり、ゴルゴさんはヒーリングについて、
直接接触でも、遠隔でも成立すると認めるわけですね。
それは神の力であり、
双方に意識があることが条件という訳ですね。

私は神の力ではなく、
きわめて物理的な現象で、
意識を合わせること、
エネルギー差があること、
この二点が条件であると認識しています。

これはエントロピー増大の法則を拡大解釈したようなものです。
例えるならば、熱の移動が遮断された容器に、
同体積の100度のお湯と50度のお湯を混ぜると、
75度のお湯になるのと同じ現象だと認識しています。
つまり、きれいな雑巾で汚れた床を拭くときに、
雑巾と床の汚れが同じになるまで、
雑巾で床をきれいにすることができるということです。

ここで汚い雑巾できれいな床を拭くとどうなるか?
当然、逆に床が汚れて、雑巾がきれいになるという現象が生じます。
つまり、患者側から求めるヒーリングもあるということです。

ここに、十二年間も長血をわずらっていて、
医者のために自分の身代をみな使い果たしてしまったが、
だれにもなおしてもらえなかった女がいた。
この女がうしろから近寄ってみ衣のふさにさわったところ、
その長血がたちまち止まってしまった。
イエスは言われた、「わたしにさわったのは、だれか」。
人々はみな自分ではないと言ったので、
ペテロが「先生、群衆があなたを取り囲んで、ひしめき合っているのです」と答えた。
しかしイエスは言われた。
「だれかがわたしにさわった。力がわたしから出て行ったのを感じたのだ」。
女は隠しきれないのを知って、震えながら進み出て、
みまえにひれ伏し、イエスにさわった訳と、
さわるとたちまちなおったこととを、みんなの前で話した。
そこでイエスが女に言われた、
「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい」。

これは新約聖書からの引用ですが、
私がカルマ交換(エネルギー交換)に関心をもったとき、
この記述は、まさにエネルギー交換だとピンときました。

さて、ゴルゴさんは患者側から求めるヒーリングを認めますか?
そのヒーリングはエネルギー交換であると認めますか?

道は途絶えた

>概念を超えた絶対の世界は言説の極まったものであり、言葉で説けないことをわからせるために、言葉によって言葉を否定するしか方法がない。

つかみ所が無いと受け止められるがゆえに、言語の道が断たれて途絶え、さらに波止場より漕ぎ出すことに戸惑いを感じるのも無理ないのです。

概念を与え、それを壊す。
この説法を理解したと思っても、それは間違っていると判断しなさい、のように始まる説法がありましたが、出典は憶えていません。たしかインドでの説法。

レ・ミゼラブル

>「愛」のかけらもなかったエゴだらけの人間が、神によって「愛」の要素を呼び覚ますこともある。

悪人が神様のような慈愛を持つ、司教の手によって改心し、魂が救済された、というのが、「レ・ミゼラブル」のテーマだということです。

これは、
中沢 新一 (95年5月30日 週刊プレイボーイ) の主題ですね。

そこでは、グルは法皇になり、誇り高いはずの修行者は、みじめな臣民になってしまっ ています。もちろん一人一人の修行者は、個人の修行のレベルでは、ヨーガの神秘体験を とおして、本来の「自己」をとりもどそうと一生懸命に努力を続けていましたが、それを 包み込むオウム真理教そのものは、グロテスクで巨大なミニチュアの日本に姿を変えてし まっていたのではないでしょうか。そしてその時、批判性は敵対関係に姿を変え、宇宙と の豊かな魂のつながりを説く教えは、ルサンチマン(恨み)にみちた暗く貧しい黙示録の 想像力にとってかわられるようになってしまってのではないでしょうか。

「ひとり」で歩きだそう。誇りを胸に・・・

いま、あなた方を取り巻いている状況は、これ以上悪いものもない、と思われるほどに ひどいものです。修行者に向かって「あなた方はマインド・コントロールされている」と いうのもずいぶん失礼な話だと思いますが、そんな失礼が堂々と大手を振っておこなわれ ても、誰もなんにも言えないほど、あなた方を取り巻く状況は最悪です。テレビの画面か ら、あなた方に「もどっていらっしゃい」という優しい思いやりにみちた呼びかけが、繰 り返されています。でも、どこへ? あなた方は、一体どこへ戻っていけばいいというので しょう。

家庭にもどって、もう宗教なんていうあぶないものから足を洗って、人間の霊性がどう のとか、文明がどうのなんてことを考えつめたりするのをやめて、ただまわりのみんなが やっているような無難な生き方をしていけばよいのでしょうか。もちろん、それも可能で しょう。でも、いちど霊性や真理の追究に心を開こうとしたあなたが、そういう生活のな かで幸福になれるとは、私には思えません。だから、あなた方が、オウム真理教にかかわ った、そのことのすべてを否定する必要などはない、と私は思うのです。

同じ魂の修行をめざすものとして、私は断言しますが、修行者にもどるところなどはあ りません。ただ自分を縛っていたもの、自分をだましていたものがあったとしたら、それ を全力で否定し、振り払って、ただ前をみつめて歩んでいくことだけが私たちにできるこ とです。そうでなければ、いったん高みをめざした魂は、深い屈辱を味わうことになるだ けです。

私のチベット人のグルは、私に教えなければならないことがほぼ終わったとき、私にこ う言いました。
「もうこれから先は、おまえが一人でやっていくことだ。いつまでも私に頼ったりして はいけない。本当のグルはお前の心そのものだ。だから、いつまでも、私のそばにぐずぐ ずしていてはいけない。とっとと、遠くに行きなさい。そして、自分一人の探究を続けな さい。どんなに離れていても、そうすれば、私の心はいつまでもおまえと一緒だよ」

麻原さんがあなた方に言ってあげなければいけなかったのも、こういう言葉だったので はないでしょうか(ついでに言うと、チベット仏教では人に向かって、「地獄におちるぞ」 なんて、おどしたりしませんし、そんなことにおびえたりもしません)。

どんなにすぐれたグルだって、しょせんは一人の人間です。そんなのものにいつまでも 執着していては、弟子の魂はいっこうに成長しないでしょうし、また弟子たちを手元に引 き止めておこうとばかりするようでは、グルの精神も退化していくばかりです。

あなた方がオウム真理教に入ろうとした動機を、思いおこしてみてください。おそらく あなた方は、自分が本来の「自己」ではないと感じ、自分を育てつくりあげてきたものに 疑いを持ち、そして、本来の「自己」にたどりつくために、そうしたのではなかったでし ょうか。それを考えてみれば、親や家族の待つ家庭や社会に帰るかどうかは、それほど重 大な問題ではなくなるでしょう。いや、むしろ、いちど、帰ってみるべきかも知れません。

ほんとうの魂の探究者は、苦しみながらも社会のなかで、生きようとするものですし、 群衆のなかにいながら、群衆には従うことなく、ただ自分の心にしたがって生きることこ そ、自分の魂を成長させる最良の方法だからです。だから、グルからも離れ、たとえ教団 からも離れたとしても、あなたの探究が終わりになるわけではなく、むしろそこから、ひ とりになったあなた自身の、ほんとうの探究がはじまるのです。

この逆境のなかで、誇りを保ち続けるのはむずかしいことです。しかし、あなた方は、 こんな息苦しい現代の中で、魂の真実を求めようとしてきたひとりの人間としての、修行 者としての、誇りを持つべきです。そして誇りをもって、自分を縛っている殻を打ち破っ て下さい。オウム真理教としてはじまった運動にとって、あのグロテスクに肥大した教団 の組織は、もともと必要のないものだったのですから。

捨断の仕方の違い

> この説法を理解したと思っても、それは間違っていると判断しなさい
これは俗に言うところのアートマンを自我とも真我とも訳せるので、
真我とエゴは同じであるとも言えるという当たり前の話でしょ。
92年11月の祇園精舎での話で、わたしそこにいたのでよく覚えていますよ。

捨断を行なう方法に二種類あって、
今まで過去世から積んできた多くの縁。その多くの縁の中で、必要なものと必要でないもの、を選び分けを規定しているのは何かと言えば、自己の識別の働きによって規定してる。

で二つの捨断の仕方は比丘と菩薩に違いがある。

菩薩の修行と、ただ単に捨断の瞑想を行なう比丘の修行とは違いがあって、菩薩の瞑想というのは教え、経験、検討、修正、経験、検討、修正、これを何度も何度も繰り返す。

ところが比丘の瞑想とは、すべてはいらないんだとして行ってしまう。真我の独存位に入ることが目的であるから、片っ端から捨断してしまう、なんでもかんでも要らないとしてしまう。

この二つの過程の違いは何かというと、一方は大いなる達成をすべての魂に与えるための道ということができる。

みたいな内容でしょ。

ぺシェル

キリストのヒーリングに関してはおおくのぺシェル(聖書解読ならびに考古学)で現身としてのキリストが、婦人病を患った女性が、当時の偏見の元で苦しみ精神疾患にかかっていたのを「あなたには罪がない」と諭し、多くの人にそれを主張したために対象女性に精神的なヒーリングをあたえることが可能だったとしています。

つまり、これはコミュニケーションを前提とした共感や励ましと同じものであって、松本死刑囚がいうようなアストラルなつながりでもなんでもない。同時にここで注目しなければならないのはイエス自身が全国を旅して直接疾病者にむかいあったことです。

医師のルカなどが表記していますが、イエスは毎日のように苦しむ人のことを考え、ないてばかりいる人だったそうです。またキリスト語録にもあるようにイエスは絶えず「私には力がない」と嘆き苦しんでいた。松本死刑囚は自分に力があると盛んにいっていましたけどね。

直接に会い、「慰め」「励ます」
彼の姿は行動する人間そのものであり、決して遠隔の地から、念を送るような真似はしなかった。同時にロカのような医師も絶えず旅の友としていざなった。

ときには売春婦に石を投げる連中の間にはいって、自身の身に石をうけて、群集をいさめた。(いつか皆さんも知る事になるだろうけれど、野田ちゃんも同じようなことをしているんだよね)

陣痛の妻の痛みを受けたからといっても、それは単に痛みを和らげるだけ、自分の研究にかまけずにそばにいて手を握ったほうがいいのは当たり前なことじゃないかな。

いまは脱会していますが、みなさんのお仲間の中に遠隔ヒーリングで白血病を治そうと必死になった人間がいました。(作り話ではないということは野田ちゃんがこの人物が誰か知っているということで、彼の実存はみなさんにしんじてもらうしかない。彼と彼女のプライバシーを優先して実名は出しませんし、誰であるかということは聞かないでほしい)この人物は霊力の非常に高い人物として有名であり、修行も誰よりもつんだ人間です。しかし、運よく何度かの移植を受けたにもかかわらず、彼女の白血病は治癒されなかった。

この白血病を患った人は女性であり、修行者は男性だった。
男性は何年も自分の持てる力のすべてを使った。
その結果、彼は自分と彼女の中に愛を実存として存在することを知り、彼女との生活を選んだ。

そばに寄り添うことが最も大事であり、他者への責任を果たすこと、彼はそれを修行の先でしっかりと知ったんだと思います。
「ゴルゴさん、私はねこれが修行だとおもうんですよ」
彼はこれからの生活がどれほどくるしいものになるかということを知っていると思う。
ひょっとすれば、彼女が早く先立つかもしれない。
ひょっとすれば、経済的な苦境にたつかもしれない。
ひょっとすれば、あれほどまでに愛しているヨガ修行を捨てなくてはならないかもしれない。

しかし、愛を実践することが大事だということを彼は知ったし、いままでの修行や信仰も愛を実践する、つまり傍にいるという行動を心に作り出すためのものだと理解しているのではないだろうかと思う。

祈りが心のそこから生まれ、傍にいてあげたいという気持ちを作り出す。

彼と彼女は祈りの中でそれを作り出した。

愛を実感して傍に寄り添う力を作り出す、それが祈りであるんかないでしょうかね

わが身をもとめる人の傍に置こうとする力といってもいいかもしれないですね。

仏陀の旅

イエスのたびと同じく仏陀の旅もそのようなものだったと思う。
それが権力機構の発想と土着信仰を無理に併合していった結果
極端な神秘主義にはしらせたのだとおもう。

仏陀もキリストも神秘主義に対して懐疑主義的であったがために排斥されたという学説が優勢をしめるのは、そういうことでしょう。

神秘力よりも傍に立つ。
それが大事だと思うし、自分がどれだけの人の傍に立っているのかが信仰や修行の先にあるものだと思う。

念を送る暇があるならば
「はげまし」「なぐさめ」「立場を代弁し」
修行をするならばその手で
「手を握り」
「包帯を巻く」


ファウスト

>「愛」のかけらもなかったエゴだらけの人間が、神によって「愛」の要素を呼び覚ますこともある。それによって、エゴをコントロールし、他を利する気持ちを少しでも持つならば、意味あることだと考える。

ファウストの内容は、若さと引き換えに悪魔に魂を売り渡したファウストが、過ちによって恋人を死なせて(処刑されて)しまう。悪魔の力によって全能になったファウストは、絶世の美女ヘーレナと愛し合ったり、戦争を楽しんだりする。そんな生活にも倦んだファウストは、万人とともに土地を開拓し自由に生きようとする。幾百万の民に土地を拓いてやる。そして、「とまれ、お前はいかにも美しい」と発言する。この言葉が悪魔との契約であり、本来なら悪魔に魂を連れ去られるところを、天使によって救われて昇天する。その天使の中には、昔ファウストが死なせてしまった恋人、グレートフェンの姿も見られた、というものです。

パールウ゛ァティー

ウィキペディアーフリー百科辞典

パールウ゛ァティー 
別名 万年乙女脳内誇大妄想婆集団

悪魔の世論操作

日本軍を悪者に仕立て上げるパタ-ン

 ここでは全くタイプの違う2つの事件を取り上げる。強姦殺人の小平義雄事件と、
大量毒殺の帝銀事件である。共に終戦直後に起きた事件である。

 「強姦魔」小平義雄は、1年余の間に、判明しているだけでも10人の若い女性を
強姦、殺害していた。その手口は、食料探しに血眼の女たちに、駅や路上で、いい買
い出し先がある、案内してやる、と声をかけ、出身地で、土地勘のある栃木県や埼玉
県の山林に誘い込むというものだった。希代の淫魔と呼ばれた小平は、1905年、
栃木県日光市で生まれた。小学校を出て店員や工員などをしたあと、19歳の時、海
軍に志願し、横須賀海兵団に入った。初体験は横須賀の売春婦が相手だった。以後、
寄港地の街々で娼婦を買い続けた。1929年の山東出兵、済南事件に海軍陸戦隊員
として参加した小平は、戦地で日常的に強盗、強姦を繰り返した。勲章を貰って除隊
後も、精力を持て余した小平は、終戦直前から終戦後にかけて強姦殺人を繰り返して
いたのだ。

 強盗に強姦は日常茶飯事、天皇の軍隊がそんなに風紀が乱れていたのか、戦後生ま
れの筆者には知る由もない。しかし一般的に言っても、兵隊はどこの国でも野獣であ
ることに変わりはない。「強盗、強姦は日本軍の十八番、女たちは、安い米があると
言えばすぐについてきた」「首を絞めて失神させ、陰部を見ながら、まさに関係しよ
うとする瞬間がなんとも言えない」(小平)。小平が世間に与えた印象は、戦地で強
姦の味を覚えた日本軍人の亡霊が、戦後も獲物を求めて国内を徘徊していた、といっ
たものだろう。小平義雄のせいで、皇軍のイメ-ジも地に落ちたのだ。

 帝銀事件とは、1948年1月26日に東京都豊島区の帝銀椎名町支店で起きた、
大量毒殺事件である。男に騙されて毒薬(青酸化合物)を飲んだ16人の行員や家族
のうち、12人が死亡した。男は混乱に乗じて、現金16万4000円と額面1万7
000円の小切手を奪って逃走した。8月21日、スケ-プ・ゴ-ト、平沢貞通(5
6)が逮捕される。
 松本清張は『日本の黒い霧』(1960年、文芸春秋新社)の中で、帝銀事件の犯
人は旧軍関係者ではなかったかと推理している。例えばかつての第731部隊(関東
軍防疫給水部、石井部隊)か、第100部隊(関東軍軍馬防疫厰)の中堅メンバ-の
なかに犯人がいるのではないかと言う。ところが軍関係者に向けられていた捜査は、
GHQの壁にぶつかって頓挫してしまったのだ。アメリカが旧日本軍人を留用して細
菌研究をしているということがばれたら大問題になるからだ。
 以上が大推理作家の松本清張氏の事件推理だが、筆者の推理はこれとは全く異なる。
読者の皆さんにはもうお分かりだろう。帝銀事件の果たした役割は、旧日本軍のイメ
-ジを汚すことにあったのである。中国人捕虜を使った人体実験、闇に葬り去られた
毒物研究細菌研究、こういった旧日本軍に対するマイナス・イメ-ジを大衆の心に焼
き付けるのが、帝銀事件の役割であった。「南京大虐殺」のでっち上げが果たした役
割と同一の種類のものである。第731部隊による人体実験も、本当にあった出来事
なのかどうか疑わしい。だが秘密結社にとって重要なのは、大衆の頭の中に「南京大
虐殺」や「人体実験」が記憶として存在することなのである。現実にあったかなかっ
たか、事実関係などどうでもよい。そして松本清張の『日本の黒い霧』は旧日本軍の
犯罪をでっち上げることで、秘密結社の世論誘導、心理操作に一役買ったのである。


>> この説法を理解したと思っても、それは間違っていると判断しなさい
>これは俗に言うところのアートマンを自我とも真我とも訳せるので、
>真我とエゴは同じであるとも言えるという当たり前の話でしょ。
>92年11月の祇園精舎での話で、わたしそこにいたのでよく覚えていますよ。

ありがとうございます。自分の記憶が違ってるかもしれないので、もう一度探してみます。

悪魔の世論操作

殉教者を作り上げるパタ-ン

 終戦直後に立て続けに発生した鉄道関係事件がある。下山事件、三鷹事件、松川事
件である。
 下山事件は、1949年7月6日、国鉄常磐線北千住・綾瀬間の線路上で、初代国
鉄総裁・下山貞則(49)が轢死体で発見された事件。死体発見直後、吉田内閣の官
房長官・増田甲子七は、「下山は他殺と推定される」旨、さっそく政府見解を発表し
た。下山の死体は東京大学法医学教室へ運ばれ、同教授・古畑種基立ち合いのもと、
解剖に付された。死因不明、死後経過時間不明、死後轢断という鑑定結果が出た。死
後轢断となれば、自殺ではなく他殺である。当時の状況を見ると、国鉄は、1949
年6月1日、公共企業体として新発足、初代総裁となった下山は、GHQの指示で約
9万5000人の国鉄労働者の首切りをしなければならなかった。国鉄労組は大反対、
各地でストが相次いだ。6月末、労働者が警察署を占拠した福島・平事件が起こった。
7月1日、2日の両日、労使は会合を開く。両者の意見は対立、国鉄当局は話し合い
打ち切りを通告。7月5日、第1次人員整理案を出すことにした。こうした最中の下
山の死だった。
 首切りの元凶である下山殺しの疑いは共産党側にかかった。しかし松本清張は『日
本の黒い霧』の中で、犯人は米軍の謀略機関であると推理している。米国は、来るべ
き朝鮮戦争に備え、国鉄改革を急いだ。戦時、鉄道輸送は軍事作戦であるのに、国鉄
では共産党などの先鋭分子の勢力が強い。彼らを一掃するには衝撃的事件を起こし、
彼らの犯行であるように見せアカへの恐怖を煽るのが効果的だ。現に下山の死で、大
量整理は成功した。
 革新陣営の中には、この説を歓迎する向きが多かった。マスコミ関係では、朝日新
聞は他殺説、毎日新聞は自殺説で、論争を繰り返した。自殺説を取る者は、下山はG
HQと労組の板挟みになり自ら命を絶ったものと見た。自殺説を取っていた警視庁は
早期に捜査を打ち切った。

 三鷹事件とは、1949年7月15日午後9時23分ごろ、国鉄三鷹電車区車庫に
停車中の7両連結六三型電車が突然動き出し、三鷹駅1番ホ-ムの車止めを突破して
脱線転覆、付近に居合わせた市民6人が轢死または圧死した事件。
 同夜、駅から約50m南の小間物店2階では、三鷹電車区共産党細胞と同党三鷹町
委員会の会合が開かれていた。起訴された者のうち竹内景助を除く9名がこの日の会
議の出席者だった。判決は1・2審とも9人は無罪。竹内は1955年12月24日、
死刑が確定。以後も無実を主張して再審を求めたが1967年1月18日、獄死した。

 松川事件は、1949年8月17日午前2時9分、東北本線松川駅北約1.8┥の
場所で旅客列車が脱線転覆し機関士ら3名が死亡、乗客ら約30名が負傷した事件。
線路破壊工作による計画的な犯行の結果だった。下山事件、三鷹事件の衝撃と相乗し
て、国民は日本共産党に対し恐怖心を抱き、当時最大の実力を持っていた国鉄労働組
合の首切り反対闘争は完全に腰が砕けた。この一連の事件により、吉田内閣は数十万
に及ぶ人員整理を難なく実行しえた。
 この事件で国鉄労働者10名、東芝松川工場労働者10名が逮捕され、列車転覆致
死罪の共謀共同正犯で起訴された。1963年9月12日、最高裁は上告を棄却、被
告全員に無罪を言い渡した。

鉄ちゃんの自殺説

無類の鉄ちゃんで知られる下山総裁が鉄道自殺するというストーリーはまずないと一笑に付しているのが総裁を直によく知る周辺関係者の一致した感想。直前まで会話をしていれば、流れの食い違いを感じたのかもしれない。
確かに総裁は当時疲れていた。しかし自殺説は社会への説明としてはまとまっているが、よく知るものとしてはかなりの違和感を残した。どちらにせよ今となってはなかなか裏づけを取るのも難しい。
総裁を轢いたのはD51-651蒸機。主任設計は島秀雄。共に高校、大学時代からの親友だったらしい。その心境はいかに。

歴史は人間が作るものでなく、神様の物語を人間がある程度自由に演じているに過ぎない。時として強引な修正がある。その大枠は人間には変えられない。

悪魔の世論操作

松本清張によると、三鷹事件も松川事件ももちろん米軍の謀略である。アメリカの
占領政策が「民主化から反共の砦へ」転換したちょうどその時に発生しているからで
ある。アカ狩り、労働組合運動つぶしが一連の謀略事件の目的であった。逮捕された
被告はスケ-プ・ゴ-ト、後に無罪判決が言い渡されている。国家権力に対する人民
の闘争の輝かしい勝利だ。今から考えて見ると、これ程分かり易い事件はない。分か
り易いから曲者であるのだ。悪者は米軍であり善玉は共産党であった。共産党は犯罪
の濡れ衣を着せられることで、言われなき迫害を受けることで、自らの正義を国民に
アピ-ルできたのである。これら鉄道関係3事件は、長い目で見れば共産党にとって
有利に作用したのである。松本清張が『日本の黒い霧』で占領軍の謀略を暴露した時
期も興味深い。『日本の黒い霧』が文藝春秋に連載されたのは、1960年であった。
筆者が改めて指摘するまでもなく、この年は60年安保闘争が荒れ狂った年であった。
6月15日には安保反対闘争の可憐な殉教者も出ている。東大生・樺美智子さんが警
官に虐殺されたのだ。10月12日にはもう一人の殉教者が出た。浅沼稲次郎社会党
委員長が右翼少年・山口二矢に公衆の面前で刺殺されたのだ。
 自らを犠牲にして利益を得る、この戦略は一般の人にはなかなか理解しづらいかも
しれない。一時的にもせよ彼らが自分の不利になることを行うなど想像もつかないだ
ろう。彼らと大衆の相違は、その視野の長さにある。大衆は目先の利益しか追い求め
ない。しかし秘密結社は、10年20年50年100年200年500年1000年
先のことを考えて行動しているのだ。彼らの陰謀が大衆に気付かれないのも、このた
めである。100年200年先のことを考えた陰謀が存在するなど思いもつかない。
仕掛けとしてはわりと単純な陰謀が易々とまかり通ってしまうのも、大衆の想像力の
貧困さにその原因があると言える。
 ところでこの「自己犠牲戦略」はアメリカ本国でも使われた。アカ狩り、マッカ-
シ-旋風が吹き荒れたことで、「共産主義者の陰謀」という主張が単なる妄想だと思
われるようになってしまった。中世ヨ-ロッパの異端審問、魔女狩りについてもこれ
と同じことが言える。20世紀になってカトリック信仰が廃れ、魔術が復権したのも、
すべてこの愚かしい行為のおかげであった。迫害は殉教者を作り、殉教をバネにして
教えは広まる、このことを何よりも良く心得ていたのが秘密結社であった。異端審問
官には秘密結社のエ-ジェントも含まれていたのだ。
 少し説明不足だったので付け加えるが、秘密結社は基本的に共産主義が大好きなの
である。何故なら共産主義はユダヤの発明物だからだ。だから彼らは世界中に共産主
義を布教しようとした。その一方で彼らは資本主義政府を裏から操っている。そして
共産主義と資本主義をうまく使い分けながら、一国の政府、ひいては世界中をコント
ロ-ルしてきたのだ。日本の場合、彼らは共産主義革命を起こすつもりはなかった。
西側自由主義陣営の一員として、日本をコントロ-ルすることを選択したのだ。しか
し国内では安保闘争、学生運動などの反体制運動を扇動し、日本社会を混乱させ分断
して自らの支配力を強化する戦略を用いた。旧世代とヤング・ジェネレ-ションの対
立を煽り、古い価値観を葬り去った。ビ-トルズの歌が世界中を席巻し、マリファナ
をふかしたヒッピ-がベトナム反戦の曲をギタ-で奏でる。ケネディは暗殺され、マ
リリン・モンロ-は謎の自殺を遂げた。人類は月にその一歩をしるし、世界は確実に
狭くなった。愛よりも憎しみが強くなり、予言者は不機嫌になった。人類は変わった。
J・G・バラ-ドはこう述べている。「眩しいまでに光輝く王国を支配するのは、宇
宙開発競争、ベトナム戦争、ケネディの暗殺、マリリン
・モンロ-の自殺といったイメ-ジだ・・ほかに類を見ない錬金術が使われ、われわ
れの想像力が変質させられた。感覚と感情が消滅し、愛情は死滅した。変質した想
像力は、太陽のように君臨した。ただしそれは、あの忌まわしい十年間の地上にふ
さわしい、不気味で病的な太陽だった」
 東欧民主化、ソ連邦消滅と共産主義が崩壊したのは、これも秘密結社のシナリオ通
りであった。世界支配の道具としての共産主義を、もはや必要としなくなったのだ。
それだけ彼らの世界支配が完成に近づいたと言える。共産主義の脅威を言い立てるこ
とで、軍事力経済力を己に集中させてきた。何時の時代も理想追及の先頭に立って活
躍してきた若者は、すっかり腑抜けとなってしまった。現代の若者には学生運動とい
う偽反体制運動を与える必要もない。理想を失い、金とセックスにしか興味のないミ
ニオヤジのようになってしまったからだ。かくして人類の錬金術的精神改造は成功裏
に達成された。これが秘密結社の究極的な目標であり、その目標達成ために共産主義
という似非ユ-トピア理論が発明利用されたのである。

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