元オウム教団幹部 野田成人のブログ

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 「全ての存在を仏陀とみなす」というのは、世界全ては心が作り出したものだ、という考えから来ている。「全ては心の現れ」というやつだ。仏教では唯識という考えらしいが、コメントでは中観派みたいだとか(この辺私はよく知らないので、簡単に解説頂けたらありがたいです)。外界と接触しながら自分の心を見つめる手段としては、有効だと考えます。

 最初、この話をサマナ向けにした時には、A派の幹部含めて数人から「目からウロコですね」と評価頂いた。それが2003年9月頃の話である。しかしその後の教団の流れは、「全ては心の現れ」という大義名分を掲げつつ、その全く逆のことを推し進めていた。

 まず、2003年後半から始まった、荒木君によるお話会。主題は何かというと、「上祐が推し進めた社会融和路線の反省」である。教義的にはどう説明していたかというと、「上祐が社会に妥協したこと、事件を認めたこと、尊師に疑念を持ったことは、私たちの心の現れである。私たちはこれまでの過ちをよく反省しなければならない」。つまりこれだと、「事件の謝罪・反省」を反省ということになってしまう。

 社会との妥協・事件の反省謝罪等が心の現れというならば、それを素直に認めればいいのだ。「グル絶対」を波の高い部分とするならば、「事件の反省・謝罪」は波の低い部分である。よって両方の因果関係をよく認識した上で、平らな状態にリセットできればよいのだ。しかし、現実には上祐を始めとする「帰依を失った」不満分子の洗い出しと排斥だった。つまり、波の低い部分は遠ざけて無視し、高いところだけを囲い込んで維持し続けようと考えたわけだ。

 正大師排斥後も、正悟師排斥という形でその流れは続いた(A派に正悟師の看板貸しをする二ノ宮は除く)。サマナには以下のような、一見ごもっともな見解を持って説明していた。

 「正大師・正悟師が状態を崩すに至った原因は私たちにもあるにも関わらず、一方的に正大師・正悟師を軽蔑するのは正しくない心の働きでしょう。これは正大師・正悟師に多くの負担をかけることになった私たちの心の働きによって生じた、と見ることができます。」

 掲げている大義名分・お題目は、理想としては悪くない。しかし現実問題の対応には全く当てはまっていない「絵に描いた餅」になっている。理想と現実の乖離であり、これを推し進めると人格的が分裂したような事態になる。

 自分と同じエゴを持った「他者」を当たり前のように認識し続けている「現実」。その「現実」の認識を変えるのは、容易ではない。誰も彼もが「仏陀」である、と考え出すと、頭がこんがらがってしまう。自分の上の師が「仏陀」というだけならまだしも、下のサマナも「仏陀」、オウムは出て行けという地域住民も「仏陀」、マスコミや公安も「仏陀」?そう考え出すと、何がなんだか分からなくなる。これは極端に乖離したもの、分裂した思考を、無理に統合させようとした結果である。

 2005年末に教団復帰して以来、私はいくつかの部署でこの類の話をした。しかしやはりサマナの感想は、「こんがらがる」というものが多かった。結局、師・サマナが選択したのは、「グルは唯一絶対」という確信を強めさせるA派路線だった。各部署から「説法してください」と呼ばれることがなくなり、今では話をするのは、光輪という印刷関連の部署だけだ(光の輪とは無関係)。その部署ですら、最初10人程度聞きに来ていた人数も、この2月3月ではたった3人になってしまった。

 サマナの大半は、出家生活が15年前後、師クラスには20年超えたものも少なくない。20年近くそれなりに修行を続けてきた人でも、最終的に取った選択は、「問題そのものを認識しない」で、現実を遠ざける。その上で、理想である「グル絶対」という確信を深める方法だった。極端に乖離してしまった理想と現実のギャップ、これを解消するのではなく、一方を無視することによって解決を図ったのだ。

 このように、「全ては仏陀の現れ」とは、つかみ所がなく実践しがたい方法論である。そういうものより、人は「唯一絶対の神」を求めてしまうものなのだ。

コメント


オウム・アーレフ・松本死刑囚はそんな高度な宗教哲学を説いていません。
阿呆サマナの身の丈にあった説法をされてはいかがでしょうか?

アニッチャーナモー師はまだ光輪の上長なんでしょうか?
また、VT正悟師に対してはどのような態度なのでしょうか?

これが教学の成果?

>しかしやはりサマナの感想は、「こんがらがる」というものが多かった。結局、師・サマナが選択したのは、「グルは唯一絶対」という確信を強めさせるA派路線だった。

常日頃、自分で考えること(思索でもいいだろう)をしてない結果だとおもいますね。一方、『グルは唯一絶対』これは単純明快、短いフレーズで誰でも記憶しやすいしね。

オウム(麻原さん)がやってきたのは、自分たち(麻原さん)にとって都合の良い人材を育成することでした。
パラノイアである麻原さんの企んだ野望が露と消えた今、麻原さんに騙されたサマナ達が、教団に残る意味を失ったのは明白です。
阿呆サマナと阿呆信徒の洗脳を解いて、
アーレフ構成員の社会復帰を進めるのがVT氏に残された使命ではないのでしょうか?


同意します。

A派の主張

●『ボーディサットヴァ』No.14
(2008/2/15発売)

教団あればこそ
――真理の団体を“帰依処”の一つとして

◆特集
「教団あればこそ――真理の団体を“帰依処”の一つとして」
◎「悪条件の中、わたしたちを守りながら上向へといざなってくれる」――サッバミッタ師
◎「教団に所属することの恩恵と下向のデメリット」 ――ヴィサーカー師
◎教団に所属することで得られる恩恵の数々
◎三宝を帰依処とし、真理の実践を

http://www.aleph.to/shop/goods-03-2003.html

>アニッチャーナモー師はまだ光輪の上長なんでしょうか?

ええ

>また、VT正悟師に対してはどのような態度なのでしょうか?

3人の内の一人です。

解決策

「グル絶対」を推し進めることで、現実的な
問題も神秘的に解決する、ということでしょう。
そのためには、教団の神秘性をアピールすることが
必要です。教団内部だけではなく、教団外の
人達にも教団の神秘性を納得させる必要があります。
そのためには、空中浮揚1メートル、水中サマディ
1時間ぐらい、やって欲しいです。
成瀬さんより、高く飛び、パイロット・ババより
長くもぐって下さい。旧教団ではうまく表現出来なかった
部分を、新教団は示して下さい。出なければ、結局
旧教団と同じ道を歩むことになると思います。
サマディに入るのが得意なVT師にも、一緒に
参加して欲しいです。

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唯識と中観

唯識の場合、「すべては心の現われ」といって、
目の前の諸現象は自分の心の投影であり、空であると考えるけれども、
その空の性質を「自分の心」にまでは当てはめていないでしょう?
まあ最終的には当てはめるにせよ、
まずは「感じる主体」を話の持って行き方として設定はするわけですな。
中観は心についても、「心」という主体的なものとは考えず、
「心相続」、つまり瞬間瞬間の想念が無限に連続している状態であり、
心そのものも条件によって成立し、相続される空なるものである、ってところかな。

いずれも空について論じる方法であることに違いはありません。
まあ、人間の実感度、という意味では
理解しやすいのは唯識かもしれませんが。

空になったら

> このように、「全ては仏陀の現れ」とは、つかみ所がなく実践しがたい方法論である。そういうものより、人は「唯一絶対の神」を求めてしまうものなのだ。

自分という意識とその他という世界観、そこから出てくる自分とは別の神様という他者。
対して、
自分とその他の世界という枠組みがなくなったら、神様は誰かとか、どこにいるとか、いつ現れるかとか、まったく意味を成さなくなる。

人格としてのグルや神は、ある一定の所まで引っ張ってくれるが、それ以上を目指すなら、より本質を目指すために脱皮するしかない。その空性のマジックは時期に応じて展開されるだろう。そう、本質はからっぽ。
宇宙ミッションを達成するために、第一段ロケットが空になったら切り離し、次に二段目も切り離し、最終的に衛星が自ら姿勢修正を行なって目的を達成するようなもの。途中でロケットにしがみついていては目的の軌道に到達できない。

中観と唯識

>「全ての存在を仏陀とみなす」というのは、世界全ては心が作り出したものだ、という考えから来ている。「全ては心の現れ」というやつだ。仏教では唯識という考えらしいが、コメントでは中観派みたいだとか(この辺私はよく知らないので、簡単に解説頂けたらありがたいです)。外界と接触しながら自分の心を見つめる手段としては、有効だと考えます。

もしかして私のこのコメントが混乱を感じさせたのでしょうかね。
>>最終的に確定させないで、実体のないモノと見なす。
>この方便は中観派の手法に近いですね。

歴史的に一応認められている登場年代は、
龍樹(150-250)聖提婆(170-270)父子
(弥勒(350-430))無着(390-470)世親(400-480)兄弟、

陳那(480-540)、清弁(490-570)、智(538-597)、吉蔵(549-623)、月称(600-680)、玄奘(602-664)

聖徳太子(574-622)、行基(668-749)、鑑真(688-763)、最澄(767-822)、空海(774-835)、空也(903-972)、源信(942-1017)、栄西(1141-1215)、法然(1133-1212)、親鸞(1173-1262)、道元(1200-1253)、日蓮(1222-1282)、凝念(1240-1321)、一遍(1239-1289)、夢窓疎石(1275-1351)、一休宗純(1394-1481)

ツォンカパ(1357年-1419年)は、思想的には中観帰謬論証派(プラーサンギカ)の立場をとり、顕教においては特にチャンドラキールティ(月称)の説を奉じましたので、龍樹聖提婆父子の流れ、特に月称を師と仰ぎました。

ですからチベット仏教多くの派では、中観派を尊重されるようです。しかしツォンカパは、車の両輪のように唯識と中観は方便として不可欠であると書き残しています。

龍樹の流れを汲みながら、自立論証派と帰謬論証派を分けるのは特にチベットで強調されたことで、日本では清弁系中観が普及した歴史的事実があります。


簡単に解説といわれても、未熟者のわたしに説明できるかどうか心許ないです。

本来の目的が、執着(嫌悪)の対象となるすべての根拠としての事物の実体視を徹底的に排除しようとするところにあります。

中観は、世俗諦として名称と形のみ言説有を認め、勝義無自性を説く二諦説の方便を選択します。この言説有は、外側の対象の存在を、世俗諦として認めるけれども、勝義は無自性空であるとします。(自我が認識しているという自性を認めません)。


瑜伽行唯識学派の説く、ただ表象のみは、存在は心で認められるものであって外の対象はないと仮にする方便を展開します。

唯識においては、三性説と相まって、同様に相無自性、生無自性、勝義無自性を展開する空を説きます。

遍計所執相は相無自性、依他起相は生無自性、円成実相は勝義無自性として展開します。

また勝義無自性の別の視点として、依他起は勝義の自性として無の故に勝義無自性といわれる。

遍計所執についてもまた勝義無自性というように、どうして建立されないのかといえば、清浄道という対象世界でないことのみで建てるなら、その通りであるけれども、遍計所執の世界については、依他起は遍計所執として空であることを所縁として修習することによって、障碍を清浄にするのであると知るとき、円成実なる法の依事としての依他起を対象とすべきでもあって、その依他起もまた清浄の対象となるから、勝義となるというように疑いが起こるけれども、遍計所執に対してはそのような疑いは起こらないからであるとツォンカパは説明しています。


とりあえず心(識)だけは仮に存在すると考え、深層意識の阿頼耶識が自分の意識も外界にあると認識されるものも生み出していると考え(唯識無境)、最終的には阿羅耶識もまた空であるとする(境識倶泯)方便を唯識派はとります。

要約すれば、

目的のために中観派は、言説として対鏡を有として展開し、勝義はすべては無自性空として進んでいきます。

目的のために唯識派は、言説として対鏡を無、表象(心識)のみありとして進み、最終的に表象も無自性空へと至る方便を展開します。

よって、実体のないモノと見なすという方便で、言説として名と形が外にあるとする場合(自我の心識の自性を認めません)中観派、

実体のないモノと見なすという方便で、内的心識が創り出すのみで対象はないのだとして進むのが唯識派という違いがあるようです。

人により、同じ人でも時と場合により、どちらかを選択するのが性に合うかもしれない気がしています。

尚、「全ては心の現れ」というのは、中観・唯識、捉え方は微妙に異なってもどちらも尊重することに変わりませんね。

尚、如来蔵思想と大乗仏教は不可分でしょうから、単的に唯識だけが如来蔵思想を受け入れているわけではないでしょう。


心の多重構造

>よって、実体のないモノと見なすという方便で、言説として名と形が外にあるとする場合(自我の心識の自性を認めません)中観派、
>
>実体のないモノと見なすという方便で、内的心識が創り出すのみで対象はないのだとして進むのが唯識派という違いがあるようです。
>
>人により、同じ人でも時と場合により、どちらかを選択するのが性に合うかもしれない気がしています。
>
>尚、「全ては心の現れ」というのは、中観・唯識、捉え方は微妙に異なってもどちらも尊重することに変わりませんね。

ここが核心と思われます。まとめはたいへん平易でわかりやすいと思います。
この手の議論で「心」をどう定義するかが曖昧だと、混乱が起きるのかもしれません。
心は真我か?それとも経験の構成、識別か?意志や欲求か?

「一切は空」「全ては心の現われ」これらはよく教団内でもよく使われますが、どちらも時と場合に応じて用いられ、その両者に捉え方の差異があっても特段の矛盾は感じません。
実体認識の実情を実際的に捉えようとすれば、言葉上の食い違いがあっても、かえってそれが識別と空性のありようを観念的ではなく立体的に理解する助けになるという意味では、車の両輪の役目を果たしているわけですね。

仏性

>「全ては仏陀の現れ」とは、つかみ所がなく実践しがたい方法論である。

つかみ所がないでしょうかね?
少なくとも大乗仏教と密教において如来蔵を抜きにして、或いは法性・法身・仏性を信じなくて、仏道修行は立ちゆかないと思う。

こんな詞章が、ユトク伝に書かれている
-----
森羅万象は偉大なる印契(マハームドラー)
かく判じ、障魔の機嫌をとる一切の供儀の必要なきことを知りたる者は幸いなり。
三世に積んだ自他のすべての福徳を、
三輪清浄の菩提に廻向する者は幸いなり。
・・・
この口ずから出た甘露の教えによって、
懈怠と散漫、そして比類なき判断力(智慧)をもって、
個性をのばすために、学び、実践することはなんという喜び!

六道におけるすべての衆生はかつて自らの父母であったこと、
この理を知り、敵と友、愛と憎しみの思いにとらわれず、
受けた恩に報いる気持ちと行動をもって、
自分より他人を愛することができることは何という喜び!

現れたもの、存在するものすべては、
次々と循環しながら移りゆく偉大なる印契。
心がつくり出した印に導かれるのではなく、
言葉に尽くせぬ空性こそが本来の本性、さればこそ、
無作、無辺の平等なる本性を覚ることは何という喜び!

輪廻と涅槃、これらはともに心の本性の在り方、
物質を有する外界に惑わされた主観と客観という
不浄の染み着いた心を起こすことなく、
おのずからの解脱の実証に邁進することは何という喜び!

一切の生は死という本質の中にある。
永遠の生命を得たならば怠惰になり、
欲望は果てしなく沸き起こる。
無益に一生を費やすことなく、
死の教えを心から臆念することは何という喜び!
・・・・
分別という悪しき執着が敵となり、さまざまな心が沸き起こる。
この心の本性を、真の法身を知り、
さまざまな事象を識別し、無作の法身を知ることは何という喜び!

三輪清浄=他人に対する奉仕の心構え。奉仕する主体、奉仕を受ける客体、奉仕の手段、この三者は空で清らかでなければならない。すなわち、自分が他人にしてやったという思いがないこと。
-----

仏性或いは如来蔵について

客塵煩悩の考え方が影響して、煩悩は心に本来からそなわったものでなく、もともと心は浄く、煩悩が塵のように付着したにすぎないものだという説が部派仏教の大衆部にあった。

如来蔵の原語は tathagata-garbha で如来を胎児として宿すもの という意味であり、すべての衆生は如来を胎児として蔵(やど)しているという主張であります。

如来蔵とは衆生の貪瞋癡等の煩悩によってかくされ、
覆われている法身・仏性(在纏位の法身)をいうのであるから、
自性清浄心の系統に属する思想である。

この思想は大乗経典にも広く取り入れられ、
「般若経」をはじめ多くの経典に見られる。
心性本浄、諸法本浄の思想は、
すべての大乗経典の根本思想であると言ってよい。

しかし心性本浄だけでは如来蔵思想とはならないのであり、
「如来の法身が煩悩蔵を離れざるを如来蔵という」という如く、
客塵煩悩との関係において存在する法身が如来蔵である。

如来蔵が煩悩の中にありながらも、煩悩から離れうるのは、
如来蔵が一方では空の在り方の存在であるからである。
しかし如来蔵自身は無限に豊富な属性をもっているところの
不思議な存在であると説いている。


一切衆生(生きとし生けるもの全て)に成仏できる性質が備わっている(一切衆生悉有仏性)と説く。全ての衆生の生命に「仏に成る種」、すなわち仏性があると説き、この仏性を開発し自由自在に発揮することで、煩悩が残された状態であっても全ての苦しみに煩わされることなく、また他の衆生の苦しみをも救っていける境涯を開くことができるととく。この仏性が顕現し有効に活用されている状態を成仏といい、仏法修行の究極の目的とされている。

旧団体での真我の概念に近いであろう。しかし恒常不変の実体ありとみなすことなく、縁起性(無自性)を展開し、すべての事物・法(在り方)にそれのみでは恒常不変の実体を認めない点が異なるでしょう。



空と実存に関して

 空と実存、それに観測者による認識問題という話がここではよくでるんだけれど、認識による操作、つまり心でそう見ているという世界観の固定は少し飛躍しすぎているようにも思えます。また、同時に感じることだけれど、おしゃられることは物理の世界でいうスーパーストリングスセオリーにも似た印象をもっています。
スーパーストリングスは重力と量子という相容れぬものをなんとか説明しようと仮想的に11次元までの空間をつくり、そこに整合性をもとめようとするものであり、ある意味空と実存を結ぶのは霊的な次元であるという信仰的な仮説に非常に近しいものだと私見しています。
 個人的には数学的な検証する暇も能力も僕にはないのですが、こういった仮説が思考実験的に拡大していくのは安易な実存否定にもつながりかねないし、実際に起こっていることになんら対処できなくなってしまい、究極的にはなにもしないほうがいいということにつながりかねない。

位相波と搬送波は、お互いが量子的な波動関数内で説明が付く事柄でありながら、位相波(空)、搬送波(実存)として成立しうるし、位相波が認識によってのみ起こりうる事象でありならがらも搬送波への影響はきょうさかく(←変換しなかった)などでも認めうる。つまり空から実存へのトランスは存在しうるし、トランスがあるということは物理的な峻別はあっても連関性が三次時空もしくは便宜的な四時次数内にあるということにほかならないのではないでしょうかね。(現状の物理学では異端だとおもうけれど、そのほうが非常にシンプルだと思う)

空、実存、認識、それらは実に素朴なものであり、宗教的、あるいは数学的アプローチにおいても霊的な領域も四次数以上の時空も必要がない。

連関したるものとして空や実存は語られるほうが良いように思いますね。

そうそう

>連関したるものとして空や実存は語られるほうが良いように思いますね。

理科系思考型の説明とても分かり易いです。
そうなんです。大乗起信論はゴルゴ45さんがいわれるような視点で書かれています。
特に、

>安易な実存否定にもつながりかねないし、実際に起こっていることになんら対処できなくなってしまう

これが陥穽として必ず生起する場合があるので、必ず実存否定をせず、実際に起こっていることとの関連性を重視しなければならないのです。
そして目的は存在の認識がなにが適切かよりも、執着(嫌悪)の対象となるすべての根拠としての事物の実体視を徹底的に排除しようとすることにあって、しかもそれは、究極的にはなにもしないほうがいいということになる失敗を乗り越える為にも、空・仮・中のうち、特に中道を尊重することが、結局、連関、縁起に集約されて行くでしょう。

ただ、ここに現実的実践道が伴い、自然智に至るために「ただ生まれつきのままにしてする」ことがなければならないでしょう。
行者・学徒の不覚・怠慢により、「観想」「観心」「観念」にだけにとどまることは失敗を経験させてくれるでしょう。
「言葉の誠」を「行いの誠」として実証しなければ、一切智、仏智、自然智、無師智、如来知見に到り、無量の衆生を愍念・安楽に一切を度脱せしめる道は歩むこと程遠いことでしょう。

当たり前のことも難しい

>これが陥穽として必ず生起する場合があるので、必ず実存否定をせず、実際に起こっていることとの関連性を重視しなければならないのです。

>「言葉の誠」を「行いの誠」として実証しなければ、一切智、仏智、自然智、無師智、如来知見に到り、無量の衆生を愍念・安楽に一切を度脱せしめる道は歩むこと程遠いことでしょう。

つい先日聞いたCDから:
「観念的教えを得たら、必ずそれを自分の経験にまで下ろす訓練をせよ。そうしないと「空とはこうである、真理とはこうである」といったような観念的世界を構築してしまい、それによって光がおりてこなくなる。」

仏典や教団の教学などのテキストをそのまま記憶し、自分の考えを入れるな、というところに拡大解釈が入って、自分で考えたり思いを表明したりすることもタブーと禁じる風潮は、実践の場としてはもう終わってます。政治的コントロールが実践まで大きくねじ曲げてしまった。

サマディと教団

なんでもサマディ教団を目指すということで、霊的覚醒を進めるにあたって、実践が観念的になっていくのはまずいわけです。

サマディの直訳は「死」ですから、なんか縁起悪いなと思ったものです。
アーレフ トゥ ザ サマディ...うーむ。

ていうかさ、

松本家の院政になって何が問題なんですか?
グルの家族は大切にしなきゃダメですよ。

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グルとは

> 「グルは唯一絶対」という確信を強めさせる

基本的にラマ或いはグルとは、一般的には賞賛に値する活動に並ぶ完全な対象としての精神的・宗教的な教師を意味する。グルとみなされるためには教師としての特別な資質(グルと認め得るような霊的・精神的なレベル)が必要とされる。
しかし、究極的には、グルとは自らの仏性に他ならない。

(『ユトク伝』チベット医学の教えと伝説)に出てくるラマすなわちグルと表記される場合そのほとんどが薬師仏を指しており、それは究極的には自らの内なる薬師仏を指向している。(訳注1より)

ただ一人の外側のグルのみに師事した歴史的に偉大な覚醒をしたといわれる方々はいないでしょう。また多くの覚醒を得たとされるラマは、必ず数多くのグルに師事している。

薬師仏=薬師瑠璃光王如来=バイシャジュヤ・グル・バイドゥールヤ・プラバ・ラージャ
本当に、グルは唯一絶対を押し進めるなら、自らの仏性と同じエゴを持った「他者」の仏性をともに認め、無量の衆生を愍念・安楽し、天人を利益し、一切を度脱せしめんとすすめなければならないでしょう。

http://pureweb.jp/~ata/text/preaching/ini/toutatsuketui.html

この詩を読むと、

まず、すばらしいグルがいて←ココ重要

一旦その人に帰依したら大切にする。
で、修行の過程においてグルでない誰かから
ひどい事言われても、あざ笑われても
グルに言われたのと同じように
修行の一環として謙虚に受けとめなさい。
そ~ゆ~ふうに読める。
悪い人だってグルにして良いって言ってない。

さて、皆さんは今でも尊師が素晴らしいグルだと思っているのでしょうか?
いつから素晴らしいグルだと思うようになったのでしょうか?
そのとき、
坂本事件やサリン事件を命令したり
うまく行かなかったことは弟子のせいにしたりするって知ってましたか?

ぜひお読みくださいませ

>下のサマナも「仏陀」、オウムは出て行けという地域住民も「仏陀」、マスコミや公安も「仏陀」?そう考え出すと、何がなんだか分からなくなる。

はあ?周囲に向かって、ばい菌撒き散らしている自分らが、人から責められたのは
それこそ神のおとがめだと思って聞いていたらいいじゃないですかあ??


一時期、ラーマクリシュナの本が気にいって、数冊読んだことがあります。

弟子の一人が外で瞑想していた。すると、人が現れ、そっと毛布を置いていった。
瞑想を続けていると、別の人が現れ、その毛布を持っていってしまった。
弟子は微笑してそれを見ていた。。

別に毛布が欲しかったわけじゃなかったんで、くれる人がいるのもありがたいし
盗んでいった人がいたのも、面白かったらしいんです。
そこに(神のお遊び)を見たと。

あるいは、素晴らしいヴィヴェーカナンダの説教として
まあ、シヴァでもヴィシュヌでもいいんですが、ヴィシュヌの別名をハリといいます。

そのハリが、すべての顔を通して、自分に話し掛けてくると。
ある人は親切な顔をして、ある人は怖い顔をして、
で、どの顔も良かったと。
すべての顔を通して、私の神であるハリが、私に話し掛けてくると。
そのときすべてがいとしいものである。
世界のすべてが完全に見えると、、

まあ、重箱の隅をほじくれば、新見みたいのがきてVXかけられたとき
(ああ、今日のハリは私にVXをかけにきた)と
そう、真実思えるのかなあと、思いましたけど。。

四無量心なんか説きながら、閉鎖的なだけ、、

ところで、いいものを見つけました
ユダヤ議定書
これをぜひ読んでください
麻原の愛読書と思われます
麻原の弟子は仏典を読んでいるのではありません
ユダヤの手先になっただけ、、、

http://www.marino.ne.jp/~rendaico/seito_palesutina_yudayaginmondai_giteisyoco_honbun.htm
麻原の馬鹿は、仏典読むよりこんな本でも読んでいたほうがハッピーなんだろ

麻原の発言とシオン議定書の酷似性

シオン:結果は手段を正当化するので、目的が善ければ手段は
選ばない。我々の計画においては、必要と有効なこと以上には、善とか道徳とかに
はこだわらないことに留意しようではないか。

麻原、オウム信徒庁決意:
グルの指示がすべてだ。それ以外は無効である。功徳にならない。
タントラヴァジラヤーナは、結果の道である。
タントラヴァジラヤーナは、結果の道である。
したがって、結果のためには手段を選ぶ必要がない。
したがって、結果のためには手段を選ぶ必要がない。
なぜならば、凡夫を悪趣から解放し、自分自身も最終の解脱悟りに到達すればいいからである。手段は、その手続きにすぎない。
よって、いっさいの観念を捨てるぞ。いっさいの観念を捨てるぞ。



シオン議定書に毒された男

世の中には、低級粗雑な考えを持つ人の数の方が、上質高尚な考えを持つ人の数をはるかに凌ぐ。これが常であり、まずはこのことが踏まえられねばならない

国家を見渡して全体を適切に要素化させ、これらを機関として纏め上げるといったような、大規模かつ明確な諸計画を念入りに練れるのは独裁支配者だけである。このことから、どんな国でも申し分ない統治形態は、一人の責任ある人間の手に全機能を集中したものであるという明白な結論が得られる。

 文明は絶対専制の他には有り得ない。大衆によってではなく彼らを指導する絶対的な独裁によって政策が遂行されるでなければ、文明は維持できない。

我々の合い言葉は力と偽善である。特に力のみが政治的諸問題を克服する。政治家に本質的に必要な才能の中にこの力が宿されているならば、ことに然りである。

それゆえに、我々は、目的達成のために役立つときは、贈収賄、詐欺、裏切りをためらってはならない。これが役立つ場合には躊躇無く用いねばならない。政治の世界では、相手を屈服させ支配権を握る為には、他人の財産を奪い取る方法を遠慮してはならぬ。

 我々の国家が戦争という方法によってではなく平和的な征服の道を進んでいる際には、大衆を盲目的に服従させる為に恐怖を用いねばならない。我々は、目につかないけれども効果のある死刑宣告をもって統治する権利をもっている。

 仮借ない厳しさだけが、国家の強さを見せつける最大の力である。単に利益を得るためのみならずわれわれの義務としても、また、勝利のためにも、我々は暴力と偽善による計画を保持し続けなければならない

======上記、シオン賢者の議定書
The Protocols of the Elders of Zion より抜粋

麻原の言っていたことにまるでそっくりですね、、
これは、ユダヤ大虐殺の原因になった悪書として、発禁になったとか、、
まあ、暴力で世界を統治することを、正当化する教えです
オウムはユダヤについて研究してましたから、知っていて当然ですが

仏典なんか読んでもおもしろくないよな?
麻原さんよ
あんたはもともと、政治家になりたかった人間だからね、、、
アンタが選挙に惨敗したとき、(もう、オウムをやめようと思う)って
早川あたりに漏らしたらしいね

選挙落ちたら、修行教えるのやめるの???
へーーーー???

弟子から金集めて、選挙落ちたら、がっかりして修行教えるのやめるの?
あんた、何がしたかったの??????

修行者が、選挙落ちたらがっかりして、教団たたむっていったのは
なんでですか?
弟子が成長するのを、見たかったんじゃないんですかあああ

そうよね、アンタの野望がもう果たせなくなったと
そう認識してガッカリしたのよねーーーー  ぷ

ぷ、だわよ
ぷ、受かるわけねえじゃん あんた前科三犯だったのに、選挙出たとき!!
まったく、心臓に毛が生えているわよ
あとから知って、口あんぐりしましたね
どうしてそんなに馬鹿なのかしら?
もし受かっても、すぐ調べればばれることじゃねえよ

帰依している奴は、即刻こんな男を捨てなさい
こいつには、仁も義もありませんよ
弟子を裏切るなどなんでもないです

連打スマソ

もうひとつ、書かしてくれ

シオン議定書 プロトコルNo.9

In my 'advanced' Sukyo Mahikari members textbook there are ten pages which are
an abridged form of the Protocols of Zion. In order to hide their origins they
are credited to a different author, Kido Honda, and 'advanced' members are
encouraged to see these pages as some how divinely inspired. One paragraph reads
"We have an awesome plan which will terrify the bravest hero; it is the subway.....
and before long we will be able to destroy all the government institutions and the
important,papers of their governments." After a long search I found this paragraph
had been lifted from Protocol number 9.

私の真光の”上級者”用テキストには、シオン議定書を要約したものが10ページある。
起源を隠すために、違う人物の名前、ホンダ キド
がクレジットされている
そして上級メンバーはこれらのページをみることが推奨されている。

あるパラグラフには(最も勇敢な英雄でさえ恐れさせる計画が私たちにはある。。
それは地下鉄、、、まもなく私たちは政府のすべての施設、政府の重要な書類?
(the important, papers of )を破壊することができる。
長期にわたる調査の結果、このパラグラフがプロトコル9番から出たのがわかった。


同じ文を、もうすこし綺麗な訳でみると

諸兄の中には、来たるべき時が来ないうちに、もしもゴイムが事前に我々の計画を嗅ぎつけたら、彼らは武器を手にして我々に向って蜂起すると考える方もおられようが、心配ご無用にしている。西欧においては、最も太い肝玉の持ち主をも戦慄させる恐怖作戦をもって対抗する。

 首都には地下鉄道、大都市の地下通路が設けられているが、いざという決定的な瞬間が来る前に事到ったその時には各所から首都を建物や書類もろとも空中に吹き飛ばしてしまうのである。

これは何だ?
麻原はなぜ、地下鉄を選んだ?
あの低脳の予言キチガイは、この本の読みすぎじゃねえのか

キチガイはお前だ 巣に帰れ

2ちゃん

Evolution:2008/03/07(金) 23:56:02 ID:MDS6R4u9
クサラカラティー師がこのようなことをおっしゃってました
事件の日、クサラカラティー師は同僚のサマナとワークのため、都心の
道路を歩いていたそうです。
するとたくさんの救急車や警察車両がサイレンをけたたましく鳴らして
走っていく

「何かあったのかしらね。」「さあ」
「大きな事故でも起こったのかしら」
「死傷者が出てなければいいのにねえ」

歩道橋を渡りながら他人事のようにこんな会話をしたそうで、
まさか自分の教団が関係しているとは夢にも思わなかったそうです。これは
彼女たちばかりでなく、実行犯以外のすべての人たちの率直な認識なのです。
 
そういう人に対して謝れ謝れと迫っても無理があるとは思いませんか?
知らない、行為していない、寝耳に水の出来事に対して、一体どれほど
深く謝ることができるでしょうか?決して薄情なのではありません。
雲をつかむようなことに対し謝れる----そんな特異な技能を持つ人間は、
世界を探してもほとんどいないから。それだけなのです。
言うなれば教団の人たちも被害者なのです。


尊師も縁によって生じたのでしょう!

大乗の空の考え方によると、
尊師は縁によって生じたのであって、
嫌悪すべき対象ではないですよね。
当然、尊師を批判する立場の人たちも嫌悪すべき対象ではないですよね。
しかしながら、事件の被害者の方には、
こういう法則を説いても、
人間の一般的な感情に反するので、
反社会的とか言って、批判されるでしょうね。

「全ての存在を仏陀とみなす」
としてしまうと、全く事件を反省する必要もなくなります。

「全ての存在を仏陀とみなす」というのは、
言葉で表現すると、綺麗な言葉ですが、
その実態は耐え難い状況に対して不動心を要求する、
非常に実践しがたい教えとなります。

それはそれとして正しいと思いますが、
相当カルマがよい人でないと実践できないのではないでしょうか?
つまり、もう少しで修行が完成しそうな人に適した教えかと思います。

>「全ての存在を仏陀とみなす」
> としてしまうと、全く事件を反省する必要もなくなります。

それは少し短絡的解釈であり、選択であろうかと思われます。

> 言葉で表現すると、綺麗な言葉ですが、
> その実態は耐え難い状況に対して不動心を要求する、
> 非常に実践しがたい教えとなります。

もしも智慧と慈悲を根本とする仏道を邁進したいと希求せし者ならば
耐え難きは耐えるべきなのが仏法であろうかと

業(カルマ)は因果応報、サンスカーラ(行)は否応なしに
現実の現象を発現させてくれる
有り難いことであり、耐え難いことであるでしょうから

仏陀とみなすというより、すべての生き物・森羅万象は
仏性(仏の胎)を宿すのであって
ブッダとして目覚めた人として完成した者とみるということではないのですから

縁と詐欺を同一視してはいけないでしょう。松本死刑囚は和を持ってなす縁起をもったものではなく単なる霊的な詐欺師であり、自らの稚拙な欲望の元で他者の生命身体ならびに心を傷つけ、人を不幸に落としめいれた犯罪者にしかすぎません。犯罪者としても、守られなければならない人権はあるでしょうが、それは反省の上にたったものです。

いまだに犯罪者松本死刑囚を尊師と呼ぶのは犯罪者崇拝といわざるを得ないし、人の不幸を省みずに犯罪を再発させかねない。

あまっさえ被害者批判をされるのですか。
つまり、反省をしたくないということですね。
犯罪者松本死刑囚は、あなたがたにとっては神ということですね。




だいぶ以前

2ちゃんに、まだサマナをやっているであろうと思われる男性の男が書き込んできました。
勢い込んだ様子で、、もう5年かそこら前だと思うけど

それが、すっかり洗脳されてまして、
(こういう場合には殺人をしてもよい、ということを、といて聞かせれば
世間の人にだってわかるはずだと思うんだが、聞いてもくれないんだ!!!)って
怒っていた

つまり、オウムにはカルマの法則があるじゃないですか
これに乗っ取って行動するならば、
(殺生のカルマ、暴力のカルマがある人は、そのカルマを清算してあげたほうが
本人のためなのだから、殺してあげたほうがいいのだ)

みたいなことを、縷縷と説明すれば、まわりにだってオウムがそんなに
間違ったことをしたわけじゃないって、理解できるはずなんだが
まわりは聞きもしないんだ!!!
って
不満をぶちまけていったんです

こっちで目が点になって、罵って駆逐しましたが、、
ああいうのと、同じ教団にいたし
たぶん教団では、(ええ、そのとおりで、、キャンディさんは教学が足りないから
理解できない)っていうんだろうねえ

かつて(サリンの撒かれた電車に、母を乗せてあげたかった)と発言した
実行犯?がいたとか、、
世間の人は、どんだけ首をひねったでしょうか、、
まったく、オウムにしかわからないことなのです


まあ、他人に対しては、(サリン当日に、まったく影響を受けないで普通に暮らして
いた人もいる)(そこへたまたま巻き込まれて殺されたのは、あなたのカルマでは、、?)

などというのであれば、
その人らもまた、他人からいつまでも罵られることを
(きっとそういうカルマがあったんだ)と割り切ることですね、、

だって、他人が理不尽で苦しい目に会っているのを
(理不尽じゃないよ、すべて原因があるの、だってカルマだから、、)と思える
のならば
自分の身だって、
(俺が殺したんじゃないのに、世間はいつまでも俺を罵る、理不尽だ)と
いうことはできないと


大乗の空論的に事件を解釈すると

大乗の空論的に一連のオウム事件を解釈すると、
事件は縁によって、つまり原因と条件によって生じたのであり、
その実態は空であり、
それを反省する必要もなく、
それを肯定する必要もない。
それを反省しようとする心の動きも、
それを肯定しようとする心の動きも、
それも縁によって生じたものであり空である。
また、それが縁によって生じて空であると思う心の動きも、
これまた空であるという、空、空、空、
という空になるのでは?

>もしも智慧と慈悲を根本とする仏道を邁進したいと希求せし者ならば
>耐え難きは耐えるべきなのが仏法であろうかと

それは、その通りだと思うのですが、
事件の被害者の方たちにも耐えがたきは耐えるべき、
ということになってしまいます。

しかし、それはそれで正しいと言わざるを得ないので、
こういう方法で法則を説くのは、
中途半端になるか、誤解されやすいか、
ということになりますね。

すべての実態が空であれど
現実として、人は苦しむ

そこに悲しみの心が起きないようなら
その修行はどっか間違っているんだ


オウムの聖哀れみは慢心とどこが違うのかなぁと正直思う

四無量心についても六波羅蜜についても帰依についても信についても
さまざまな理解が進むにつれ、違うことやってんなぁと思う

そこでわかりやすく教えにいけないのは
悲しみの心が俺に足りないからなんだろうなぁ

せめてそのことを、愧じる

論(理)のみでは

龍樹には、十住毘婆沙論系統の浄土教があり
世親には、浄土論(無量寿経優婆提舎願生偈)系統の浄土教があります。

これは

> 大乗の空論的に一連のオウム事件を解釈すると、
> 事件は縁によって、つまり原因と条件によって生じたのであり、
> その実態は空であり、
> それを反省する必要もなく、
> それを肯定する必要もない。
> それを反省しようとする心の動きも、
> それを肯定しようとする心の動きも、
> それも縁によって生じたものであり空である。
> また、それが縁によって生じて空であると思う心の動きも、
> これまた空であるという

このような龍樹系で行って中論の空解釈のみでは適切でないことを示しているでしょう。
もちろん唯識系で行っても唯識論だけではダメであると言うことで
両者に共に浄土教があるのだと思われます。

無自性或いは縁起、故に、実体がないとするのはその”対象”或いは”内識”のみが、単独では恒常不変の実体という自性を持たないことを識る手段であって、

命を持って生きていることまで否定するものではないでしょう。

ただ、(因)縁(生)起の理を、説くに過ぎず、それは何を目的とするかと言えば、自他の幸福を目的とし、執着(嫌悪)の対象となるすべての根拠としての事物の実体視を徹底的に排除しようとするところに目的があるのですから、上記、空解釈は不適切極まりないと感じられます。

この意味で自他の幸福を目的としようとする行為が、無差別大量殺人を反省しない、或いはそれを止めることをしなかった、或いは漫然とそれらの犯罪を知らないままであったとして、その目的を逸脱した行為はどこに原因があるかの究明をすることがないとすれば、あるべき目的から遠く離れていると言わざるを得ない。それは我執を肥大化させただけに結びつくでしょう。


ネットで暴露話を持ち出すその目的は

野田さんのコメントはウィットで新しい記事は楽しみにしています。
しかし、A派や松本家の記事はどうして書き込むのかについて、あらかじめ
野田さんなりの考えや目的を提示したほうがよいと思います。
A派や松本家の暴露話で信をなくす人も中にはいるわけですから。

また、野田さんの教団内で置かれている状況をみますと
こういった形でネットで暴露してもご自分の状況が改善されるとは
思えません。(暴露話をご遠慮してもらうために言っているのではないです。)
ネットで書き込む以外、他に手立てがないのですか。

余計にA派の反発を買う気がしています。火に油をそそぐ感じがしますよ。
A派の方からの首宣告を待っているのかもしれませんが、彼らだって
そんなにバカじゃないですよ。




>A派や松本家の暴露話で信をなくす人も中にはいるわけですから。
 
結構なことじゃないですか。
真実を知らないまま騙され続ける者の哀れさを考えてみてください。

旧教団名オウム真理教、今でも真理という言葉を好んで使うアーレフですけど、
真理とは一体何ですかい?

都合の悪い情報は遮断して、アーレフ構成員の数を維持すれば良いのですかい?
それで得するのは誰ですかい?
損するのは騙され続ける末端信者じゃないですかい?




空論

大乗の空論なんてわからないくせに得意になって(笑)

空論

野田さんのことではないです。多分経験してない人が書いてるなって。

空論

経験しないと書けないのは認めますが、オウム・アーレフで経験した人なんているんでしょうかね。

まあ、それはさておき、
世の仏教学者やソンシもいろいろ書いています。

ソンシの例ですと、物理学の話になりますが、
高エネルギーの電磁波γ線から粒子と反粒子が生成し、逆に粒子と反粒子がぶつかって、γ線が生じている現象が絶えず起こっている世界の話だとか。

さて、どういう状態を真の「空」というのか?


>A派や松本家の暴露話で信をなくす人も中にはいるわけですから

こんな程度の暴露話で、信はなくなりません。心配ないでしょう。
もし、A派というか、御家族に対する信というか、尊師につながる存在として御家族を
信じている事が間違っているのなら、(自分で理解できる範囲になりますが、)どんな法則に照らし合わせてみても間違っている。とカクシンを持てるような真実が明らかにされて欲しいです。

VT正悟師がこのようなHPを立ち上げるからには、それ相応のカクシンがあるからなのでしょうから。

それが知りたい

でも知るのが怖い。

こんな状態で、数年が過ぎてしまいました。

きっと違うのだろうけど

>空論
>経験しないと書けないのは認めますが、オウム・アーレフで経験した人なんているんでしょうかね。

「私共にはまだ早いです」とその領域に踏み込むのを逃げ続けているのが実態だと思います。個人的には、それを垣間見た人は少数いるのではないかと。そうでなければここまで教団は大揺れしなかったでしょう。

>さて、どういう状態を真の「空」というのか?

とても私には説明できませんが、ここでいろいろ展開されたお話を概念として理解できたら、「きっと本当は違うんだろうな」と思うくらいでちょうどいいのではないでしょうか。
なかなか厄介ですよ。視聴率下がる一方ですよ。この話題。

空とは何か?

空とは何か、
実際に体験していなくても、
人や、その人の環境、すべての状況が、
縁によって生じ、空であると認識することで、
嫌悪感が少なくなるならば、それでいいのでは?
空論はまさに大乗で心が大きくなる。
これはアナハタチャクラの拡大ですね。

英科学誌「ニューサイエンティスト」によると、
修行経験が豊かな仏教徒は気持ちが穏やかで、
いつも幸福感に浸っていることが、
脳をスキャンする新しいテクニックを使って判明している。

仏教徒の脳を調べたのは、
ウイスコンシン大学マディソン校の科学者や、
カリフォルニア大学サンフランシスコ校医学センターのポール・エクマンです。

自分の意識が現実になるという「引き寄せの法則」

「ザ・シークレット」
http://www.healthyhappyriches.com/the_secret.html

空を実数解のようにあつかうのはいかがなものでしょうかね。

もとめて得られないイデアのようなものである。それが空でしょう。得たとした段階で有感たる個が確定され、そこに空はありえない。当たり前すぎるほど当たり前のことだとおもうんですけどね。

その得たというのが多くの人を殺した松本死刑囚でしょうかね。





松本死刑囚も洗脳された一人である

松本死刑囚が自分も被害者であるという立場、つまり信徒や一部メディアどもにおだてられその気になったとかいう状態や世間がそうさせてしまったという訴求があるならば、その言葉に耳も傾け、彼の人権も考える、小数であれ、そういった人権主義者もいるでしょう。

しかし、現有する団体は、あの犯罪を省みもせず、犯罪者松本という存在に向かい合わないばかりか、あの犯罪者を肯定し、あまっさえ、神のごとく扱う。

そのために犯罪者であるが被害者でもありえるという立場が彼には存在せず、犯罪崇拝者信仰の頂点たる松本死刑囚は未来永劫に犯罪者であるといわざるを得ない。つまり、松本死刑囚を反省しうる人間、憐憫するべき人間としての立場を奪い、いやしめているのはA派のような団体だといわざるを得ない。

松本死刑囚のみが洗脳の主導者のようにもいわれるが、それは大きな間違いだろう。彼自身も信徒たちにそう思い込まされた一人である。そうおもいこませた団体がいまだに存在する。

次は一体だれを神として洗脳するつもりだろうか!


宗教詐欺であるけれど憐憫すべき点もある

 比較的高学歴であったり、社会的に優秀と認められる人間たちが松本死刑囚の脇を固めた。おそらく彼の直感的な言葉であり、それほど意味のない言葉に深みをあたえたのは、そういった人々であったのだろうと思う。
「解釈してみなさい」言葉をおえるときに松本死刑囚はそう付け加えていたのではないだろうか、そして弟子たちは、本来ならば腕と直感に優れた整体師であった人物の言葉に深みあたえ、その上で自分たちエリートを満足させうる閉鎖的な空間をつくっていったのではないか。自己が採点しうる解答マシン、それが松本死刑囚の役割であったのではないか、あたかも他者や天が採点してくれて、それも高得点を与えてくれる。悪意はなかったかもしれない、高学歴エリートが渇望する欲望が集積されたただけだったのかもしれないし、単に浅はかな言葉を浅はかな言葉としてうけいれられなかったエリートの自尊心が言葉を深化させたのかもしれない。

オウムに存在したヒエラルキーの本質とはそういうものだろう。

ちょっと外れるんですが、いろいろな人の意見で、

昔の教祖・教団には崇高なものがあったが、それが邪悪なものに変わってしまった
いや、崇高なものなどもともとなかった
崇高なものはあったが、中途半端なものだった
いやいや、教祖は非常に崇高なものを持っていたが、周りの者たちがそれを理解できなかったんだ・・・

などなど、いろいろな意見の人々がいるように思いますが、実際のところどうだったんでしょうか?

この辺が、総括につながると思うんですけど。

それは興味がありますね

松本死刑囚が自身の薬事違反だったかな?
そういう教団設立以前の犯罪を信徒の前で説明したのかどうかとかね

も一つ質問です。

教祖の言葉に、「唯心論的宇宙物理学」というのがありました。

つまり、宇宙法則や物理法則そのものが心によって変わりうる、言い方を変えれば、物理法則を無視した超能力の世界が現実にできると説いていました。

精神的な満足感の問題だけなら、精神医学や心理学でも事足りる状況になりつつあるのではないでしょうか。

逆に、信者の精神的な問題に教団が対処しきれず、精神科のお世話になる事例も聞かれます。つまり、修行の効果が精神医学に敗れたということです。

で、話を戻しますが、「真理である」というからには、「修行すると心的に楽になるんです」といったレベルで語れるものではなく、宇宙を支配している物理法則を超越しているという状況が必要だったのではないでしょうか。

修行とは、本当にこういった超越をもたらすものなんでしょうか?

それとも、現代科学の元では過去の迷信となるものなのでしょうか?

最後に空論とつなげますと、空論とは小難しい論をこね回すのではなく、目の前で見せられ、実感させられるものだったのではないかと思っています。

過去の聖者は、「君たちが現実だとともっているこの世界、固定的で変わらないと思っているだろ?でも、ほら、こんなふうに自在に変えられるんだよ、実体なんてないんだよ」といって超能力を見せたと聞きます。

修行とは、本当にこういった超越をもたらすものなんでしょうか?

それとも、現代科学の元では過去の迷信となるものなのでしょうか?

修行以前に

>逆に、信者の精神的な問題に教団が対処しきれず、精神科のお世話になる事例も聞かれます。つまり、修行の効果が精神医学に敗れたということです。

精神医学がどんなものかは一言では言えないのかも知れませんが、より素晴らしいものを、結果が出るものを選択していけばいいと思います。
修行以前に、ほとんど修行なんてそこにはありませんからね。ただ自己肯定にしがみついて心を閉ざし、それを傍から見て困惑する周囲。
何か信ずるものがいつの間にか心の動脈硬化に繋がっちゃうんですよ。

当時のオカルトマニア

>唯心論的宇宙物理学

当時物理学者のデビット・ボームが展開していた形態形成の場の理論というものがあります。それを拡大解釈した記事がエニグマなどの怪奇雑誌に氾濫していました。

軍事漫画、宇宙戦艦ヤマト、それに怪奇雑誌に掲載されていた記事などが松本死刑囚のネタ本になっていたようですね。

精神医学

>精神医学に敗れたということです

いえいえ患者さんをつくり病を団体が作り出し、それを精神科医が治療したということでしょう。W

精神病院

入院してるサマナはどうなったんですか? 精神病のサマナ達に師は対応してないようで、精神科医に任せっきり。

薬事法違反

届出を忘れただけと、
薬事法違反に関して松本死刑囚は著書の中で簡単に触れています。

しかし、薬局経営者の松本死刑囚が自家製漢方薬を売り出すのに、
届出を忘れるなんて有り得ないでしょう。
酒店の経営者が自家製密造酒を売り出しガッポリ儲けた後に逮捕され、
届出を忘れていたとうそぶくのと同様、見苦しい言い訳です。

それ以前の前科に関しては一切触れていません。


薬事法違反

医薬品の認可には膨大な費用と時間がかかるそうで、
大手製薬会社ですら費用対効果から、一部の商品は医薬部外品として製品化しています。

おそらく、最初から松本死刑囚は医薬品認可を取るつもりはなかったのでしょう。
医薬品として認可されていない松本死刑囚の販売した漢方薬は、
医薬部外品の健康食品に該当します。
医薬品と医薬部外品の大きな違いの一つは効果効能の表現に制限が加わることです。
例えば、医薬部外品である健康食品の効能に病気が治ると書くと、
薬事法違反に問われます。
医薬部外品は健康増進効果がある、程度の効能しか宣伝できません。

薬局経営者の松本死刑囚はこれらのことを十分承知の上で、
手っ取り早く儲けるために確信犯的に荒稼ぎを企て逮捕されたのでしょう。

麻原死刑囚の過去から後の宗教詐欺と同じ手口が見えます。
お金をお布施をすれば何だって願望成就する。癌・エイズだって怖くない?
なんだか、麻原死刑囚の原点を垣間見たような気がします。


松本死刑囚によるイジメ

 整体師時代や社会に出てからの前科もさることながら、彼が盲学校時代に同級生や後輩におこなったイジメとイジメにより学校内で、それなりの力を握ったという成功体験が、その後の彼の行動規範になっているようにも思えますね。

学校を卒業後にたしか東大にいきたいということで上京したようですが、もちろん、そこでは努力を仕切れずに受験には失敗する。東大を望んだのも、おそらく自己の尊大さを周囲に顕示する欲望から生まれたものであり、なにかを人のためになしたいという類のものではなかったでしょう。

上述のイジメによる自己顕示の成功と東大受験の失敗。

そうしたディティールから彼の人格は形成されてきたのではないでしょうか。
安易に力をもちうる方法の模索。

そして公倫よりも自倫を尊び、自分のためには人が当たり前に感じる幸福ですら踏みにじってもよい(いじめ体質)


洗脳なんか

A派にいる連中も解けているんだと思いますよ。
対外的には洗脳が解けていないフリをしているだけで、実は松本死刑囚が作ったヒエラルキー社会に依存をしているだけだとおもいます。しかし、松本死刑囚が作ったこのイジメ体質をもった団体はイジメや搾取をするという傾向は持ち続けている。

自分たちがなんとか安穏と生きたいという幹部連中は結果として犯罪者崇拝と宗教詐欺を継続的におこなっているということでしょうね。

漏れの嫌いなご家族

を、あなたは好きなのですねえ
そういう人もいるのでしょう
なにしろ、サマナは教団にオマンマ食わしてもらって
寝る場所を提供してもらうんですから、感謝している人もいるのでしょう

>尊師につながる存在として御家族を
信じている事が間違っているのなら、(自分で理解できる範囲になりますが、)どんな法則に照らし合わせてみても間違っている。とカクシンを持てるような真実が明らかにされて欲しいです


たとえば、こんな話はいかがですか?
たぶん、このくらいでは信がなくならないんでしょうけど、、

麻原おっさん地獄、という本があります。これは事件後に麻原の警備をしていた
二人の男性サマナが、自分が教団で見聞きしたことを書いたものです。
ちなみに一人の人は、あらいざらいしゃべってしまって、
麻原をとんでもない詐欺師だと思う反面、しゃべってしまった自分は地獄に落ちるという
強迫観念にさいなまれてもいたらしいです。


阪神大震災のときに、教団では救援隊を組んで、すぐさま現地に救助にいったかのように
書いていたそうですが、(警備は麻原と常に共に行動しているので、わかるわけです)
実際は数日経ってから、でかけたそうです。

それも、たしか行きも帰りもファミレスに麻原はよっていったとか、、
数台の車を連ねて、やっと現地につくと、麻原は車から降りて
(思ったとおりだ、ここは地獄と餓鬼のカルマで満ちている)とか言って
胸に手をあて苦しそうな仕草をし
すぐに車にもどって帰ってしまったそうです。
その間、たったの数分。。

警備は、(現地で救済するんじゃなかったのか?)と、目が点になったそうです。
とにかく、あの地震では多数の被害者が出たと言うのに
救済の名のもと、現地に向かった幹部クラスのしたことといったら
まったく非道で自己中心的なものであったそうです。。。


どこかの地点に、夜中に到着したと。
すると、新見だったか、どの幹部だか忘れたが、メガホンもって
(救援物資を届に参りました!)と叫んだんだと。
すると、その地域の責任者の方でしょうか、
(もうみなさん、寝静まっておられるので、やめてください。一度届出を申し出てから
了解を得てやってください)
というのを聞かず、勝手な行動を展開。

眠い目をこすりこすり出てくる被災した方々。そこで、車につんでいったパンを配るんですが、一人一個と、で、パンを手渡しするのは、新見だったか、幹部クラスの連中と、
ようするに、下のサマナが配ろうとしたら
エネルギーが悪くなるから駄目だ!とか、いってたそうなんですが、
その日と次の日あたりか、パンをなかなか手渡し終わらないんで
(私はソンシに呼ばれたから)とかいって、下のサマナにパンを渡す係りを押し付け
帰っていったと。

大地震がきて、他人様が難儀しているときでも、気になるのは
ソンシのエネルギーがどうたらってやつ。

つづき

で、麻原の子供も、お手伝いに行ったんだと。
長女が(当時はまだ小さかった)パンを配る係りをやったと。
一人一個。
ある男性が、自分にふたつだか、三つだか、くれといったそうだ。
それを、(一人一個と決められているんだから駄目だ)と。
男性は(でも前の人には二つくれたじゃないか)と。
(あれは、先に家族の人数を言ったからだ)と。
そうかと思って、男性は家族のぶんもくれ、と言い直したら
(お前はちゃんと言わなかったから、もう駄目だ)などと長女は仁王立ちして
のたまわったそうで、

すると男性は(こんなパンなんかいらねえよ!)といって、ひとつ手にしていた
パンを地べたに叩き付けたそうです。

一人一個も結構ですが、救済にいって、威張り散らしてなんになるんでしょう。
その、デカイ態度、、。

他にも、新見などはお子様相手に(~したほうが、よろしゅうございます)であるとか
旅館の女将がお客様に使うような敬語で、接しているのに対し、アチャリの返事は
(ふん、そーか)であるとか、、

アフォ臭くて、、今でも自分らのことを(皇子)とか言うんですよね? プゲラですよ
警備は、麻原やご家族の警護にあたるとき、最初は胸ときめかしていたらしいんですが
実際は忸怩たる思いだったと、、書き連ねておりますです

ここではあまり書けないので
もっと知りたければ、
http://life9.2ch.net/test/read.cgi/psy/1204553634/l50
まで

しかし、盲信している人には、何をいっても、それくらいのこと、、で済むんでしょうね

こども

三連打スマソ

普通の感覚では、子供をあまりネチネチ責めるってのは
具合のよくないことですよね、、
環境の犠牲者でもあるし

しかし、この団体では、そのお子ちゃんが、偉いのです

偉いさんである以上、厳しい味方をされるのは仕方あるまい
何しろ、大人だって、ステージが上の子供には頭があがらないそうだから

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