慈悲を培う2
半分くらい片付けたところ。敷物の下から腐った食品やたばこの吸い殻。
「ちょっと気分が悪くなったんで…、休憩させてください」
お手伝いに来てもらった生真面目なKさんも、ちょっと作業が辛そうだ。確かに、普通の人からすれば、吐き気をもよすような片付けである。
なぜなら、普通の人は、ここまで散らかし放題、汚し放題にすることはない。そうならないように、キチンとゴミを分別作業含めて片付けるからだ。この部屋のように片付かない、ゴミだらけの状況にならないよう、整理整頓された状況を作っている。つまり、通常人にとって、整理整頓・清潔はすすめられるべき善であり、ゴミ屋敷状態は避けるべき悪である。このような散らかった部屋の状態、このような部屋にしてしまう人間というものは、通常人からすれば、悪であり嫌悪の対象なのだ。
このような善と悪の対立は、拙ブログで当初中心的に記事にした宗教的正義と悪の対立構造と同じである。そして往々にして、宗教的正義と対立する悪は、嫌悪の対象となり、慈悲の対象ではなくなってしまう。
例えば、どこかの宗教団体でその教義・法則の実践者(信者)がいたとする。そこに法則を知らずに苦しんでいる人が相談に来た。既に信者であるものが、その相談者の話を親身に聞いてあげて、法則に照らし合わせて解決を図ろうとする。これも立派な慈悲である。
しかしながらこれは、宗教団体というスーパーマーケットみたいなところに勤めているところ、「大根下さい」とやってきたお客に、お金をもらって大根を渡すようなものだ。店員であれば、誰でもできてしまうレベルの話である。
では、その宗教の正義である神もしくは教祖を否定するような者に対しては、どうであろうか?正義を否定した途端、手のひら返しをする宗教的実践者は少なくない。
慈悲を注ぐべき苦しめる個々の衆生は、無色透明で、幼気な(いたいけ)な存在、だけではない。時には敵として罵倒したり、こちらを傷つけるような、怒りと憎しみを生起させる存在であったりもする。果たしてそのような敵にも慈悲を注げるだろうか?
「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」(ルカによる福音書 23:34)
十字架に磔(はりつけ)にされても、イエスは自らを敵視するユダヤ人達の為に祈りを捧げた。自らの身体が切り裂かれるような状態にあっても、慈悲を持つこと。これは大変難しい。
それに比べれば、ウソや盗み・浪費と散財・散らかし放題のウチの入居者対応など、楽なものだ。
ところで、宗教者による宗教的正義の追求について、「慈悲がない」と批判するような内容を書いたが、彼らが悪を排除するのは仕方の無い事である。悪を排除していかなければ、正義の追求・実践にはならないからである。宗教に限らず、正義の追求において悪の排除がなければ、単に混とんとした状態のままに過ぎない。
問題を単純化して、片付けの正義で考えてみよう。片付けの正義は、モノがキチンと整理整頓され、不要なゴミは分別され処理されており、ゴミが残っていない状態である。その状態が現出できるように、自分の住まいその他の空間を片付ける訓練をしていくわけだ。汚れていたり、散らかっていたりする「悪」を排除する訓練によって、片付けの正義は達成される。
しかし子供の頃から、一度もそのような片付けをやったことがない、できたことが無い人だとしたら、どうであろうか?その人が、キチンと片付けできない状態、散らかし放題を容認するとしたら、まさにこの散らかし放題にした若い夫婦と何ら変わらないことになる。
それと同様に、宗教的悪を排除しない、排除できない人だとしたら、単にそれは「感覚的にゆるゆる」「なんでもあり」というだらしない状態と変わらない(例えば戒律を守らない、守れない、とか)。慈悲でもなんでもなく、緩み切っただらしない状態でしかない。
小生も、正義の追求をしてきた故に、やはり「悪」を嫌悪し排除したい気持ちが残っている。散らかし放題の部屋を現出した若い夫婦は、正義と悪の対立を解消し慈悲を培うための師匠みたいなものだ。
画像は、空にしたペットボトルの山。この内、約9割に液体が残っていた。
(つづくかも)
コメント
貸し手やっったのに、恩を仇で
返しやがって、このクソガキども
と言う、悔しさが文章から伝わってきます(笑)
でもこのように文章で伝える
事によって、今置かれている、恵まれた
環境と、このクソガキどもの将来を
思った時に今まで修練してきた仏心で、心が洗われるのですね
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ひでハッピーさん
オウムでは、蚊もゴキブリも殺生しないよう、捕まえて逃がしていました。我が家では今でもそうします。
カルナ― バーヴァナ
ムディタ― バーヴァナ
ウペッカー バーヴァナ
慈心を修習しなさい
悲心を修習しなさい
喜心を修習しなさい
捨心を修習しなさい
~ 仏陀の言葉 原始仏典より ~