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野田成人のブログ

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さて、前回の質問者は、善悪についても質問してきていたので、一部引用した上で回答する。

「ホストやキャバクラは悪でしょうか。一見言葉巧みに騙してお金をとっているようにも見えますが、業種で言えばサービス業であるし、需要と供給が成り立っているから存在してます。お客がサービスに納得し、その瞬間憂さを晴らしているわけなのでそれは悪とは言えるのか疑問です。」

解脱・悟りを目指す方向を善として定義するならば、ホスト・キャバクラはまず悪として差し支えない。なぜなら修行者にとっては、足を引っ張る要素しかないから。

しかし、現世的な仕事としてみるならば、確かにキャバクラ・ホストで癒される人がいるのも事実である。そういう意味では善の範疇にも入るが、あくまで現世的仕事として。

前回、善から悪への転変を書いたが、逆のパターンも説明する。「ホストで女の子にウソをついてお金をだまし取るのが嫌になった」と言ってホストを辞め生活保護、そしてそこから抜けてウチの支援活動の手伝いをするようになった人が、実際にウチの入居者にいた。

ホスト・キャバクラに限らず、何らかの悪事に手を染めていた人が、その悪から抜け出したいと考えて、宗教や修行の道に入る。悪を悪と認識し、そこから抜け出したいと考える時点で、善の種子が芽生え始める(うーん、あんまりいい例がないなぁ…)。

「でもそこで修行しても、その善が悪になったりするんでしょ?」

前回記事を読んだ方で、そうツッコミたい人もいるかもしれない。これは確かにそうである。悪から修行して善になっても、またその宗教で悪の要素が増大し、気が付いたら100万円の壺を売りつけたり、300万円のエルカンターレ像を売り込んだりするかもしれない。悪から善になっても、善からまた別の悪へ。

では、善は悪にしかならないのか?

例えば、通称「お金配りおじさん」前澤友作氏は、相対的に貧しい人にお金を配るという善業により、このままいけば天界に生まれ変わるであろう。それでも第二天界が限界であろう。第二天界の寿命は、約1億年だが、1億年後にはそこから落ちる、ということでもある。

尤も彼の場合、数千億の資産を築き上げる程のビジネスで成功できたのは、元々天界の徳があった(天界から下りてきた)からではなかろうか。天界から人間界に下りてきて、また天界に戻る。これも輪廻である。

ではどのようにしたら、このような輪廻の繰り返し、善から悪、悪から善の堂々巡りから抜けられるのか?

まあこの辺の問題は、余り語ってはいけない、語りすぎる事自体が、誤った概念を植え付ける失敗に陥りかねないわけだが、質問者の熱意(とプラスα)にこたえて少しだけ触れることにする(しばらく後に消す)。

解脱・悟りの境地は、善悪含めたすべての二元性を超えたところにある。喩えるならば透明な鏡であり、色がついていない透明な水の湖面のようなものである。その透明な状態を知った者(=グル)がいなければ、心の透明な状態に辿り着くことはできない。

元々心の本質は透明な鏡の状態だったわけだが、そこから色んな色付け(煩悩)がなされることにより、元の状態を忘れているだけなのである。そういう意味では、グルの本質である透明な状態は、自分自身の中にある。肉体を持ったグルは、本人の元の状態に戻りたいという(解脱・悟りへの)欲求によって、道を指し示し、手伝いをするだけの存在である。本人の欲求が、グルを引き寄せるというべきか、現象化させると言っても良い。換言すれば、本人の強い欲求が無い限り、グルとの邂逅も、解脱への門も、永遠に開かれることはない。

この原初の透明な状態への過程は、仏教であれヨーガであれ同じである。以下はネットで拾ったヨーガの内容。

-------------------------------------------------------------
シュリー・バガヴァーンが授けた教えは、ある意味で秘密の教えでした。もちろん、彼はすべての人に等しく教えを与えましたし、誰でも質問することができ、答えは公の場で与えられましたが、それでもやはり、一人ひとりに授けられた指導は、非常に直接的かつ個人的で、それぞれの質問者の気質に合わせた形で教え導いたのです。

あるとき、アメリカに大勢の弟子を持つパラマハンサ・ヨーガーナンダがシュリー・バガヴァーンに尋ねました。

「どうすれば人々の精神性を向上させられるでしょうか? どのような指導を与えるべきでしょうか?」

マハルシは答えました。

「それは個人の気質と彼らの心の霊的成熟度にしたがって異なります。全般的な教えというものはありえないのです」

実際には、シュリー・バガヴァーンは強烈に活動的でしたが、その活動は完璧に秘められていたため、一般の訪問者の中には、彼がまったく教えを授けないと信じたり、探究者の求めに無関心だと思い込んだりする人たちもいました。ナテーサ・ムダリアールがシュリー・バガヴァーンを訪れるときに、それを思いとどまらせようとしたブラーフマナがいたのですが、そのような人が沢山いたのです。

最も重要な点は、「真我実現はグルの恩寵を通してのみ可能である」という事実にあります。この点に関しては、シュリー・バガヴァーンも他のマスター達と同様に、明確でした。それゆえ、サーダカ(修行者、探究者)は、グルの教えがいかに深淵で、彼の臨在がいかに霊的感化を与えるかということを知るだけではなく、グルがディークシャー(イニシエーション、霊的伝授)を与え、ウパデーシャ(霊的な教え)を授けるということを知る必要があるのです。

グルに対して服従するということは、自分自身の外側にいる誰かへの服従ではなく、グルとして外側に現れた真我が、実は自分の内側に存在するという真実を見いだすためにあるのです。

「師は内側にいます。瞑想は師が外側にいるという無知を取り除くためにあるのです。もし師があなたの待ちわびている未知の人なら、いずれは消え去ってしまうでしょう。そのようなはかない束の間の存在が何の役に立つというのでしょうか?

それでも、あなたが自分自身を身体を持った個人とみなすかぎり、師もまた身体をともなって現れるでしょう。この誤った自己同一視がやんだとき、あなたは師が真我であったことを悟るのです」Talk363.

自己のアイデンティティと「絶対なるもの」が究極的に同一であることを実現したグルが、それを公言しないのは自明の理です。なぜなら、そこに自己のアイデンティティを主張する自我が存在しないからです。同様に、彼が弟子を持っていると言うこともありません。なぜなら、彼にとって「他者」は存在しないため、彼と関係性を持つことはありえないからです。

それでも、帰依者が誠実に悩み、問題の解決を求めているとき、シュリー・バガヴァーンは疑いようもない方法でその人を確信させ、安心させたのです。英国人の帰依者チャドウィック少佐は、1940年に、そのような確信をシュリー・バガヴァーンから受けたことを記録に残しています。

Ch. シュリー・バガヴァーンは弟子を持たないと言われるのですか?

Bh. そうです。

Ch. それでも、もし解脱に達したいならグルは必要だとおっしゃいませんでしたか?

Bh. そのとおりです。

Ch. それでは、私はどうしたらよいのでしょうか? この何年もの間、ここに坐ってきたのはすべて時間の無駄だったと言われるのですか? シュリー・バガヴァーンがグルではないと言われるなら、私はどこか別の所に行って、イニシエーションを授けてくれるグルを探さなければならないのでしょうか?

Bh. あれほど離れた所からあなたをここに連れてきて、これほど長い間あなたをここにとどまらせたのは、いったい何だと思いますか? もしどこか他の所にグルを探しに行く必要があったのなら、とうの昔に行っていたはずです。

Ch. では、シュリー・バガヴァーンは弟子を持つのですね!

Bh. すでに言ったように、シュリー・バガヴァーンの視点から見れば、弟子というものは存在しないのです。しかし弟子の視点から見れば、グルの恩寵は大海のようなものです。もし彼がコップ一つを持ってきたなら、彼が受け取るのはコップ一杯分だけでしょう。大海に向かってケチだと不平を言ったところで何にもなりません。より大きな器を持ってくれば、より多く受け取るのです。それはまったくその人次第なのです。

Ch. それでは、シュリー・バガヴァーンが自分のグルかどうかということを知るのは、単に信仰の問題だということです。もしシュリー・バガヴァーンがそれを認めないのであれば。

Bh. (背をまっすぐにして坐ると、通訳に向かって強調して言った)。彼に聞きなさい。「彼は私から手書きの証明書が欲しいのか?」と。

コメント


~ ラマナ・マハルシ対話集「私は誰か?」 ~

「 私は誰か? 」

生きとし生けるものは、いつでも幸福であることを願い
不幸でないことを願っている。

誰にとっても
そこには自分自身への至上の愛が見られる。

そして幸福だけがその愛の源なのである。

それゆえ、人間の本性である幸福、
想念のない深い眠りの中で体験される幸福を手に入れるためには、
人は自分自身を知らねばならない。

そのためには
「私は誰か?」
という問いで探究する智慧の道が最も重要な方法である。

1、私とは誰でしょうか?

七つの要素からなる粗大な身体、
それは私ではない。

五つの感覚器官、聴覚、触覚、視覚、味覚、嗅覚は
それぞれの対象である音、感触、色、味、匂いをとらえるが
私はそれらではない。

五つの能動的な器官である
言語器官、運動器官、認識器官、排泄器官、生殖器官はそれぞれ
話すこと、動くこと、理解すること、排泄すること、楽しむことという働きをするが
私はそれらではない。

五つの生気、すなちプラーナなどは呼気などの五つの働きをするが
それは私ではない。

ものごとを考える心でさえ、
私ではない。

対象の印象だけが刻み込まれた無知も、対象物も働きもない無知も
私ではない。

訳注1 七つの要素
栄養液、血液、肉、脂肪、髄、精子

訳注2 五つの生気
パンチャ・プラーナ 身体で働いている五つのプラーナ

アパーナ、下降する気。プラーナ、上昇する気。サマーナ、食べ物をアパーナに運ぶ気。
ヴィヤーナ、プラーナとアパーナをとらえる気。ウダーナ、食べ物や飲み物を上下に運ぶ気。

2.もし私がこれらのものでないなら、私は誰でしょうか?

今述べたことすべてを
「これではない」「これではない」
と否定していったあとに、ただひとつ残る覚醒―――

それが私である。

3.覚醒の本性とは何でしょうか?

覚醒の本性は、
存在―意識―至福である。

4.真我の実現はいつ得られるのでしょうか?

「見られるもの」である世界が取り除かれたとき
「見る者」である真我は実現されるだろう。

5.世界が(実在として)存在しているときでさえ
  真我が実現されるということはないのでしょうか?

ないだろう。

6.なぜでしょうか?

見る者と見られている対象は、
ロープと蛇のようなものである。

錯覚である蛇という知識がなくならない限り
実体であるロープという知識は得られない。

同じように世界が実在であるという確信がなくならない限り
実在である真我の実現は得られないだろう。

7.対象として見られている世界は、いつ消え去るのでしょうか?

すべての認識作用とすべての行為を引き起こす原因である心が静かになったとき
世界は消え去るだろう。

8.心の本性とは何でしょうか?

「心」と呼ばれているものは、真我に内在する驚くべき力である。

心はすべての想念を起こさせる源である。

想念を離れて心のようなものは実在しない。

それゆえ、想念が心の本性である。

想念を離れて、世界と呼ばれる独立した実体があるわけではない。

深い眠りの中に想念はなく、世界もない。

クモが自分の中から糸を出し、
それをまた自分の中に引き入れるのと同じように
心はそれ自身から世界を投影し、
再びそれ自身の中へ還元させる。

真我の中から心が外に出るとき、
世界が現われる。

それゆえ
世界が(実在として)現われているとき
真我は現われない。

人が絶え間なく心の本性を探究し続けるならば
心は真我をあとにして死滅するだろう。

「真我」と呼ばれているものは、アートマンである。

心はつねに何か粗大なものに依存することによってのみ存在する。

それはひとりであることができない。

微細身あるいは個我(ジーヴァ)と呼ばれているのは、心である。

9.心の本性を理解する探究の道とは何でしょうか?

身体の中に
「私」
として立ち現われるものが心である。

もし身体の中のどこに
「私」
という想念が最初に現われるかを探究するなら
それはハートの中に現われることが発見されるだろう。

そこが心の起源となる場所である。

絶えず
「私」、「私」
と考えても、人はその場所に導かれていくだろう。

心の中に現われるすべての想念の中で
最初に現われるのは
「私」
という想念である。

この想念が現われたあとにのみ
他の想念が現われる。

二人称と三人称の人称代名詞が現われるのは
一人称が現われたあとのことである。

一人称がなければ
二人称、三人称も存在しないだろう。

10、どうすれば心は静かになるのでしょうか?

「私は誰か?」
と尋ねることによってである。

「私は誰か?」
という想念は他のすべての想念を破壊するだろう。

そして燃えている薪の山をかき混ぜる木の棒のように、ついには
「私は誰か?」
という想念そのものも滅ぼされてしまうだろう。

そのとき真我は実現されるだろう。

11.「私は誰か?」という想念を絶えず心に保つにはどうすればよいでしょうか?

他の想念が起こっても、それを追いかけることをやめ、
「この想念は誰に起こったのだろうか?」
と尋ねるべきである。

どんなに多くの想念が起ころうとかまわない。
想念が起こるたびに
「この想念は誰に起こってきたのか?」
と入念に探究すべきである。

それに対して現われる答えは
「私に」だろう。

そこですぐに
「私は誰か?」
と探究すれば、心は源に引き戻され、起こった想念は静まるだろう。

このように修練を繰り返せば、
心は源にとどまることに熟達するだろう。

微細な心が脳や感覚器官を通って外に出ると
粗大な名前や形が現われる。

心がハートの中にとどまっていれば
名前と形は消え去る。

心を外に出さずにハートの中にとどめておくことは
「内にあること」(アンタール・ムカ)
と呼ばれる。

心をハートから外へ出させることは
「外へ向かうこと」(バヒール・ムカ)
として知られる。

このように、心がハートの中にとどまっているとき
すべての想念の源である「私」は消え去り
永遠に存在する真我が輝き出す。

人は何をするときにも
「私」という自我性なしにそれをすべきである。

もしそのように行動すれば、
すべてはシヴァ神の本性として現われるだろう。

12.心を静かにする他の方法はないのでしょうか?

探究以外に適切な方法はない。

他の方法で静めても、心は制御されたように見えるだけで
再び勢いを増して現われるだろう。

呼吸の制御によっても心は静められるが、
それは呼吸が制御されている間のことだけであり、
呼吸が元に戻れば心もまた活動を始め、
潜在する印象に駆り立てられて さまよい出すだろう。

心も呼吸も、その源は同じである。

想念とは、実は心の本性である。

「私」という想念が心の最初の想念であり
それが自我性である。

自我が生まれ出る同じ場所から呼吸も生まれる。

そのため、
心が静かになれば呼吸も制御され
呼吸が制御されれば心も制御される。

けれども深い眠りの中では、
心は静かでありながら呼吸は止まっていない。

これは、身体が維持されるように
そして死んでしまったと他の人々が思わないようにとの神の意思によるものである。

目覚めの状態とサマーディにあっては
心が静まっていれば呼吸は制御されている。

呼吸は心の粗大な姿である。

死の時までは、心は身体の中に呼吸を保っている。

身体が死ぬと、心は呼吸と共に出て行く。

それゆえ、呼吸を制御する修練は心を静める(マノニグラハ)助けに過ぎず
心の消滅(マノナーシャ)をもたらすことはない。

神の姿に瞑想することや、マントラの復唱、断食などの修練も
心を静める助けに過ぎない。

神の姿に瞑想することや、マントラの復唱を通じて
心は一点に集中される。

心は常にさまよい続けるだろう。

鼻を鎖でつながれた象が、他の何もつかまえられないように、
心も神の御名や姿に満たされていれば、他の対象をとらえることはないだろう。

心が無数の想念へと拡散しているとき、
そのひとつひとつの想念は弱いものとなる。

だが、想念が決意を固めて一点に集中すれば、強いものとなる。

そのような心にとって、真我を探究することは容易になるだろう。

すべての規則制限の中でも
適度な量の清らかな(サートヴィック)な食事を摂るという方法が
最上のものである。

これを守ることによって、心の清らかさは増し、
真我探究の助けとなるだろう。

13.心に残ったものごとの印象が、海の波のように際限なく現われてきます。
   いつになったらそれらすべてがぬぐい去られるのでしょうか?

真我への瞑想が高まれば高まるほど、
それらの想念は破壊されるだろう。

14.数知れない過去生から蓄積されてきた、心に刻まれたものごとの印象が取り除かれ純粋な真我としてとどまることは可能でしょうか?

可能か、可能でないかという疑問に屈することなく
真我への瞑想を続けるべきである。

たとえ、人が大罪人であるとしても、
「ああ、私は大罪人だ。どうすれば救われるのだろう?」
と思い悩み、嘆き悲しむべきではない。

「私は罪人だ」という想念を完全に棄て去り、
真我への瞑想に強烈に集中するべきである。

そうすれば、確実にうまくいくだろう。

ひとつは善く、もうひとつは悪いという二つの心があるのではない。

心はただひとつだ。

幸運と不運の二種類があるのは、心ではなく
心に刻まれる印象である。

心が幸運な印象の影響を受けたとき、それは善と呼ばれ
不運な印象の影響を受けたとき、それは悪と見なされる。

心は世間のものごとや他の人々に関することへさまよい出ぬよう
戒められなければならない。

他の人がどれほど悪くとも、
彼に対して憎しみを抱かぬようにしなければならない。

欲望と憎しみは、どちらも避けなければならない。

人が他の人々に与えるすべては、実は自分自身に与えているのだ。

もしこれらの真理が理解されるなら、人々に施しをしないでいられようか。

自己が現われると、すべてが立ち現われ
自己が静まれば、すべては静まる。

謙遜を忘れないならば、それに応じてよい結果が現われるだろう。

心が静寂に帰すれば、人はどこででも生きていくことができる。

15.探究はどのくらいの期間 修練されるべきでしょうか?

心の中にものごとの印象がある限り、
「私は誰か?」
と尋ねなければならない。

想念が起こったなら、
そのとき、その起こったまさにその場で問うことによって
破壊されるべきである。

もし真我に到達されるまで、不断の真我の黙想に打ち込めば
それだけで想念は消滅するだろう。

要塞の中に敵がいる限り、敵は反撃を続けるだろう。

もし敵が姿を現すたびに滅ぼしていけば
要塞は我々の手中に落ちるだろう。

16.真我の本性とは何でしょうか?

真実、存在するのは真我だけである。

世界、個我、神は真珠貝の中の銀色の輝きのように、
真我の内に現われるものである。

これら三つは同時に現われ、同時に消え去る。

「私」という想念が絶対にないところ、
それが真我である

それは沈黙と呼ばれる。

真我そのものが世界であり、
真我そのものが「私」であり
真我そのものが神である。

すべてはシヴァ、真我である。

17.すべては神のなせるわざではないのでしょうか?

欲望も決意も努力もなしに太陽は昇る。

太陽がただそこに存在するだけで
日長石は火を発し、蓮の花は開き、水は蒸発していく。

磁力が存在することによって磁石の針が動くように、
人々が三つの宇宙的機能や五つの神聖な活動に支配され、

それぞれのカルマに従って行為し、そして休息するのは
ただ神が存在しているという美徳によるものである。

神は何の意思も持たず、
いかなるカルマも彼に属さない。

それは、世間の行為が太陽に影響を与えず、
すべてに遍在するエーテル(虚空)が他の四元素の長所や短所に影響されないのと同じである。

訳注3 三つの宇宙的機能
創造、維持、破壊

訳注4 五つの神聖な活動
パンチャ・ヤジュニャと呼ばれるヒンドゥー教徒の義務。
「ヴェーダ」の学習、祖霊への食物の供養、ホーマの献火、
すべての生き物への食物の供養、人間への供養

18.帰依者の中で最もすぐれているのはどのような人でしょうか?

神である真我に自分自身をゆだねきった人が、
最もすぐれた帰依者である。

自分自身を神にゆだねるとは、
真我という想念以外のいかなる想念も起こることを許さず、
ひたすら真我の内にとどまっていることである。

どんな重荷を負わされようと、神はそれに耐える。

神の至高の力がすべてのものごとを動かしているというのに、
なぜ我々はその力に身をまかせず、
何をどうするべきか、どうすべきではないかと思い悩むのだろうか?

我々は列車がすべての荷物を運んでくれることを知っている。

列車に乗ってまでも、自分の小さな荷物を頭に載せて苦労する必要がどこにあろう。
荷物を下ろして安心しなさい。

19.無執着とはどういうことでしょうか?

想念が起こると共に、その起こったまさにその場所で、
あますことなく完全に消滅させること、それが無執着である。

真珠採りが自分の腰に石をくくりつけて潜り、海底に沈む真珠を採るように
誰もが無執着と共に自己の内に深く潜り、真我という真珠を手に入れなければならない。

20.神やグルは、魂の解脱をもたらすことはできないのでしょうか?

神やグルは解放への道を示すだけだろう。

神やグルが人を解脱の状態に連れて行くわけではない。

実際は神とグルとは異なるものではない。

トラの顎にくわえられた獲物に逃れるすべがないように
グルの慈悲深い眼差しにとらえられた者は、グルによって救われ
見捨てられることはないだろう。

けれどもひとりひとりは、神あるいはグルによって示された道を自分自身の努力で究め解脱に達しなければならない。

人はただ自分の智慧の目によってのみ、
自分自身を知ることができる。

ラーマ神がラーマ神であることを知るために、鏡の助けが必要だろうか?

21.解脱を熱望する者にとって、意識の構成要素を探究する必要はあるのでしょうか?

ゴミを捨てたいと思っている人にとって、その中身を分析したり
それが何であるか調べたりする必要がないように、真我を知ろうとする人にとっても
意識の性質を調べたり、その構成要素を分析して数えたりする必要はない。

彼がすべきことは、真我を覆い隠している構成要素のすべてを払いのけることである。
世界はひとつの夢のようなものと見なされなければならない。

22.目覚めと夢見の間に違いはないのでしょうか?

目覚めている間は長く、夢を見ている時間は短い。
これより他に何の違いもない。

目覚めの間に起こることが真実に見えるように、
夢の中で起こることも夢の中では真実に見える。

夢の中では心はもうひとつの身体をとっている。

目覚めの状態でも、夢見の状態でも
想念、名前、形は同時に現われるのである。

23.解脱を願うものにとって、本を読むことにはどんな価値があるでしょうか?

すべての聖典は、
解脱を得るためには心を静かに保たねばならないと述べている。

それゆえ、心を静かに保つべきだということが聖典の最終的な教えである。

ひとたびこれが理解されたなら、際限なく本を読む必要はない。

心を静めるには、人はただ自分自身の内に、
真我とは何かと問い続けるべきである。

この探究がどうして書物の中でできるだろうか?

人は自分自身の智慧の目で、自分の真我を知るべきである。

真我は五つの鞘の内にあるが、
書物はその外にある。

真我は五つの鞘を棄て去っていくことで探究されるべきものであるため、
それを書物の中に求めるのは無駄なことである。

いずれは学んだことすべてを忘れ去らなくてはならないときが来るだろう。

訳注5  五つの鞘
パンチャ・コーシャ 真我を覆い隠す五つの身体の鞘
アンナーマヤ・コーシャ、身体の鞘。プラーナーマヤ・コーシャ、生気の鞘。
マノマヤ・コーシャ、心の鞘。ヴィジーニャーナマヤ・コーシャ、知性の鞘。
アーナンダマヤ・コーシャ、至福の鞘。

24.幸福とは何でしょうか?

幸福とは真我の本性そのものである。

幸福と真我は別のものではない。

世界のいかなるものごとの中にも幸福はない。

我々は無智ゆえに、ものごとから幸福を得るものだと思っている。

心が外へ出て行くと、不幸を体験する。

心の願いが満たされたとき、実は、心は自己本来の場所に戻っており、
真我である幸福を楽しむのである。

同じように、眠りの状態、サマーディ、失神状態、
あるいは得たいと願っていたものが得られたり
嫌っていたものが消え去ったりしたときには
心は内面に向かい、純粋な真我を楽しむのである。

このように心は休むことなく動き回り
真我からさまよい出ては、また戻ってくるということを繰り返している。

木陰は気持ちいいが、外では太陽が焼けつくようだ。

灼熱の太陽の中を歩いてきた人が木陰にたどり着けば涼しいと感じる。

木陰からわざわざ猛暑の中を行き、
それからまた木陰に戻ってくるのは愚かなことである。

賢い人はずっと木陰にとどまっているだろう。

同じように、真理を知る人の心は、ブラフマンを離れることはない。

その反対に無智な人の心は、悲惨を味わいながら世界をさまよい歩き、
つかの間の幸福を味わうためにブラフマンに戻ってくる。

実際には、世界と呼ばれているものはただの想念にすぎない。

世界が消え去ったとき、つまり想念が存在しないとき
心は幸福を体験するのである。

世界が現われると、不幸を味わうのである。

25.洞察力(ジニャーナ―ドリシュティ)とは何でしょうか?

静寂にあることが洞察力と呼ばれている。

静寂にあるということは、真我の中に心を帰り着かせることである。

過去、現在、未来の出来事を知るテレパシーや千里眼は洞察力ではない。

26.無欲と智慧にはどんな関係があるのでしょうか?

無欲が智慧である。

二つは別のものではない。

それは同じである。

心がいかなる対象物に向かうことも差し控えることである。

智慧とは、何の対象物も現われないことを意味している。

言い換えれば、真我以外の何ものも求めないことが無執着あるいは無欲であり、
真我を決して離れないことが智慧である。

27.探究と瞑想の違いは何でしょうか?

探究とは、真我の中に心をとどめておくことである。

瞑想とは、自己をブラフマン、つまり存在―意識―至福であると思いなすことである。

28.解脱とは何でしょうか?

束縛されている自己の本性を探究すること、
その真の本性を悟ることが解脱である。

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