善悪の変容2
空と言われると身も蓋もない…云々あったが、要は心の働きの事である。ただ世界の構築という意味で、その基礎と言うべきか土台は空と述べてきたにすぎない。実践すべきことは、二項対立する心の働きを、どのようにコントロールするか。ある程度レベル以下の話は、思考がそれなりに柔軟であれば、一般人でも誰でも行うことが可能である。
例えば緊張と弛緩。
仕事でもなんでも、目的達成のために心が緊張し続けていた場合、囚われてしまいがちである。そこに同僚がチンタラチンタラやっていたり、全くマヌケなポカミスをやってくれたりすると
「何やっとんじゃーーーー、ドアホ!!」
という緊張から怒りの発散になるかも知れない。車は急に止まれないごとく、できない人の弛緩した状態に合わせられないのである。
さて、現代社会の一つの大きな問題は、「自由・平等・博愛」から派生する公明・公正な社会正義、一切の差別を排し、あらゆる弱者・少数者への配慮と寛容さを有するポリティカルコレクトネスともいうべきか、この公正な社会正義の緊張から抜け出せない状況に陥っている。
例えば記事を書く少し前に騒動となっていた五輪作曲担当の小山田氏。問題視されたのは四半世紀以上前のいじめに関する記事である。世間から袋叩き状態になり、つい先日辞任に追い込まれた。更には、開会式演出の小林賢太郎氏も解任。
公の仕事をするものには、ほんのわずかでも脛に傷があってはならない。社会的正義・ポリティカルコレクトネスは、被差別者には寛容だが、その正義をわずかであってもたった一度でも穢したものには、少しも容赦がない。
なぜ少しも容赦がないのか?その要因の一つは、社会の構成員全員がストレスにさらされているからであろう。見渡す限り一点の曇りもない、自由・平等・博愛・公明正大・便利・快適・安心・安全な社会正義、その秩序維持の為に絶えず緊張にさらされ蓄積されるストレスである。自ら緊張を維持しながら守っている社会正義。その秩序を乱すものが現れると
「俺はこれだけ我慢してルールを守っているのに、許せない!」
という怒りが生起するのである。
「これをやっちゃダメよ」
と言われると、「守らなければ」という思考と「守らなければどうなるんだろう」「破ったらどうだろう」という裏の思考が同時発生する。しかし小さい頃からルールで縛られてきた現代人は、守るということがデフォルトの思考として無意識化され、裏の思考が認識されることがほとんどない。裏の思考は、
「守らなければ親から認められない、社会から承認されない」
という承認を失う不安によって覆い隠されている。ルール外では生きられないという選択自由度の減少でもある。
偶に、ルールがんじがらめではない人間が、それを破ることもある。ルール破りがカッコいいなどと考える若者が一定するいるのも確かだ。そういうのがコンビニの冷蔵庫に寝そべった画像をSNSにアップしたりすると、バカッターとして血祭になる。バカッターを叩く心理背景には、ルール遵守のストレス・我慢の怒りがあるが、承認を失う不安もそれと連なっている。
子供のいじめは、自分がいじめられるかもしれないという不安からいじめる側に加担するといわれる。承認を失う不安がバカッター他を叩くのも、構造的に全く同じである。「小山田氏のいじめは許せない」とみんながいじめる側に加担するという、それ自体がいじめの構造という矛盾である。
バカッター他を血祭りにあげているのは、ルール遵守の善良なる一般市民である。善良なる一般市民の凡庸なる悪が、バカッターらを社会的抹殺に追い込む。これは自由・平等・博愛から派生した社会正義の光に対して、蓄積されるストレスが小爆発して違反者を血祭りにあげる影の部分である。
光が強ければ、影の部分も色濃くなる。色濃くなった影を負わされる人物が、時として現れることがある。これを影の反逆という。極めて分かりやすい例として挙げられる一人は植松聖であるが、詳細についてはこちらの記事を参照されたい。換言すれば、植松聖は障碍者の権利を擁護する社会の影を負わされた犠牲者でもある。影の反逆の哀れな犠牲者となった植松聖だが、その身代わりになろうとする魂がいるとしたらどうであろうか?
解脱・悟りの修行は、特に後者においては、二項対立する思考や感情を沈めつつ、コントロールする訓練を行っていく。その過程は、他人の不幸と自分の幸福を交換する「ロジョン」の修行(心の訓練)と言われるが、自分の感情は勿論、ある段階から他人の抑圧された感情を開放しコントロールすることを試みる。オウムではマハームドラーの修行などと称されていた。
ある時代の光が極限にまで達し、陰陽転換を起こす際には、影に抑圧されていたエネルギーが怒涛のように解放され、新たな時代の流れとなる事がある。そもそも近代の法治国家・自由主義の社会とは、どのように成立したのか?それは封建制度で土地に縛り付けられていた農奴達が、「自由・平等・博愛」をスローガンに溜まりにたまったエネルギーを発散させ、専制君主を追いやった流れからである。
さて、オウム事件を起こした開祖・麻原彰晃に関して、小生は彼自身の感情をコントロールできなかったレベルであるとは考えていない。先に述べた通り、他人の心の内面をいじろうとした指導者でもあったわけであり…。
しかしながら拙ブログの12800年周期仮説が正しいとして、成熟しきった近代合理主義が陰陽転換によりひっくり返るとした場合、それは単に個人の潜在意識をいじるだけの話で済まない。近代合理主義・資本主義の豊かな生活を享受する人間は、先進国だけでも20億人以上を数える。日本に限定しただけでも1億2000万人以上である。陰陽転換の際に起こる影の反逆、その生贄になろうとした場合、コントロール不能になったとしても不思議ではないが。
さて、小生が語れるのはここまでである。現実に自分が実践、実証できるレベルでなければ意味がない。仮にそれを人に伝えようとすること自体も、どうやら過ちに陥っていた風にも思えてきた次第である。ブレイクスルーは、その道を切望・渇望しつづけた求道者にもたらされる。単に知識で知ってしまうことには、余り意味がないだけではなく、マイナスにもなりうる。
教えない指導
(終わり)
管理人のみ閲覧できます
昭和六十二年二月十五日 NHK教育テレビ「こころの時代」
立正大学教授 田村芳朗 埼玉工業大学学長 武藤義一(ぎいち)
田村:
「涅槃」というのは、原語を音写したものということですね。
仏教の経典はサンスクリット語で書かれたものと、それから原始経典は南方に伝わったものは、パーリ語で書かれています。
で、「涅槃」は、サンスクリット語では「ニルヴァーナ」、それからパーリ語では「ニッバーナ」。
それが少し俗語化したもの(ニッパン)が中国に伝わりまして、その俗語化したものを音写しまして、「涅槃」となったということですね。
ですから涅槃の本来の意味は、煩悩の火の吹き切れたこと。火の吹き切れたことというのは原意ですね。
火というのは我々の煩悩ですね。迷いに当てて、迷いの火、あるいは煩悩の火が吹き切れた、つまり悟りの境地を表した言葉なんですね。
それが本来の涅槃の意味なんですね。
武藤:
「涅槃」という意味は、「火が吹き消した」というのが原語だと言われましたけども、今ではお釈迦様の亡くなる意味に主に使われているというんですけれども、よく「涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)」というような言葉も聞くんですけども、これは非常に関係があるわけでございますか。
田村:
「涅槃」は音訳ですね。意味をとって訳しました時には「寂静(じゃくじょう)」とか、「寂滅(じゃくめつ)」と言うんですね。
「寂静」とか「寂滅」というのは、要するに平安な境地をさしているわけですね。
つまり悟りの境地というのは、現実に引っ張られないで、現実を超越した平安な安らかな境地ということで、涅槃を寂静とか寂滅という。
それが具体的には死ということにもなっていくわけですけどね。為すべきことを為して、そして安らかに死を迎える。
その時に死というものが安らかな境地として訪れるということで、涅槃寂静、寂滅としての涅槃がまた死を意味することになるんですね。
武藤:
「涅槃寂静」というと、同じ意味を二つ重ねたことになるわけですね。
田村:
そうなんですね。音訳と意訳をね。それでこの「涅槃寂静」というのが、仏教の三つの旗印ですね。
「三法印(さんぼういん)」という、三法印の最後の締め括りにもなっているわけですね。
「諸行無常(しょぎょうむじょう)・諸法無我(しょほうむが)・涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)」。
それから有名な言葉として―歌ですけれども、『涅槃経』に、今画面に出ましたのでちょっと読んでみます。
諸行無常(しょぎょうむじょう)
是生滅法(ぜしょうめっぽう)
生滅滅已(しょうめつめっち)
寂滅為楽(じゃくめついらく)
(涅槃経)
最後の「寂滅為楽」が、今お話した「涅槃寂静」に当たるわけですね。
この意味は、現実のすべてのものは移りゆく。
これは生じて滅するならいである、決まりである。それをしっかりと受け止めて、そして消滅の現実にとらわれないと。
現実を超えた時、それが生滅滅已(しょうめつめっち)―滅已(めっち)というのは、滅し終わりて―滅し終わりてというのは、とらわれを離れて、そういう世界を超えるという。
要するにとらわれを離れるという。
それが涅槃の境地で、そこにこそ平安にして安楽な世界が訪れる。
つまり涅槃ですね。そういうことで「寂滅為楽」寂滅をもって楽しみと為す、とこう結んだんですね。
田村:
その「寂滅」というのが、もう一つ「シャンティ」という原語がございましてね。
インドで、「シャンティ、シャンティ」と、今も言っていますけども、「シャンティ」というのは本来は「平和」という意味なんですね。
武藤:
私たちが、普通使っている「平和」の。
田村:
「平和」に当たる原語が「シャンティ」。
その「シャンティ」がしばしばまた「寂滅」とか、「寂静」と訳されるんですね。
そういうことで、涅槃の境地というのは、平和の境地でもあると。
要するに平安にして平和な境地をされたものと、こういうことですね。
ですから「寂滅」とか、「寂静」というと、なんか否定的な感じに受け止めがちですけれども、そうじゃなくて、今申しましたように、
絶対的な平和、平安の境地というふうに積極的にとるのが正しいと思いますね。
武藤:
それで今日のタイトルの「安らぎ」ということがぴったりになるわけですね。
田村:
そうですね。
田村:
人生は無常なんで、いつか死ななければならない。
しかしその死に至るまでしっかりと自己を確立して、自己を支えて、苦しみに耐えながら生き抜いていくように、ということを説かれた。
それが今画面に出た有名な言葉ですね。
ここに自らを灯(ともしび)とし
自らをよりどころとして
他をよりどころとせず
法を灯とし
法をよりどころとして
他をよりどころとするな
(自灯明・法灯明 自帰依・法帰依)
「自らを灯(ともしび)とし」―これは「島」と訳す説がこの頃強いんですがね。
「島」というのは、海の島ですね。あるいは「州(す)」という字を書きますね。
だけども漢訳では、「灯(ともしび)」としておりますので、そのままにしておきますけど。
「ここに自らを灯(ともしび)とし 自らをよりどころとして 他をよりどころとせず 法を灯とし 法をよりどころとして 他をよりどころとするな」と。
漢訳で
「自灯明(じとうみょう)・法灯明(ほうとうみょう)」
「自帰依(じきえ)・法帰依(ほうきえ)」と大変有名な言葉ですね。
これを阿難(あなん)(アーナンダ)に説いて、慰めとともにしっかりしろと激励した。
武藤:
激励されたんですか。あっさり読むと、なるほど、と言うんですけども、これはできないですね。
この頼りない自分を拠り所にしたら倒れてしまうわけですね。
田村:
そうですね。今流に言えば、「自己確立」「自己の主体性の確立」ですね。
何者にも引きずられないと。しっかりと自分を確立しなさい。
けども自分も頼りない存在ですので、なんかやはり支えが必要だ。
その支えとして釈尊の説き明かした真理、あるいは教え、それが法ですね、それを自分の支えとしてしっかりと自己を確立しなさい、と。
武藤:
だから釈尊の教えられたことを裏打ちにして、自己を確立していけば、自分がここで死んでも困らない筈だと。
田村:
そういうことですね。要するに世の中にはいろいろと毀誉褒貶(きよほうへん)があるわけですね。
それに動かされてはならない。
それに動かされることが迷いなわけですね、仏教で言えば。
そういうのに動かされないでしっかり自分を確立せよ、ということですね。
http://h-kishi.sakura.ne.jp/kokoro-585.htm
間違いなく縁があるんでしょう
コメント