拡大オウム総括5
政府・日銀によると「景気は着実に回復している」のだそうだ。根拠となる数字の一つは、有効求人倍率--すなわち、ハローワークで職を探している一人当たりにつき、何件求人があるか--である。この数字がバブル期を超え、高度経済成長期に迫るものとなっていると言う。
しかし人手不足という割には、まともな仕事がない、あってもブラックばかりなのである。拙ブログにもたまに「生活保護に甘えてないで仕事をやらせろ」という批判が来るが、まずこれについての簡単な解説から。
例えば建築業界でも、オリンピック需要もあり、人手不足が続いている。小生も、昨年建築する筈だった新築4棟目アパート。この大工がなかなか決まらず、建て方は来月下旬以降にずれ込みそうだ。あてにしていた大工から来た連絡が、
「仕事が立て込んでいるところ、職人が一人別の現場に引き抜かれた」
というもの。端的に言えば、技術がある一部の職人に仕事が集中しているのだ。勿論、有能な大工だけではなく、補助的な仕事(いわゆる大工の手元)も仕事としてはある。だが、大工の手元のような誰でも出来る仕事は、派遣やバイト同様簡単に切られる。前回記事に以下のように記した。
より安全、より安心、より快適、より便利、より豊かな商品・サービスを追求すればするほど、そこにかかる時間・労力・お金は膨大なものとなり、サービス提供者はブラック企業化、もしくは不正を行い、労働者は社畜のようにこき使われる。
金儲けの商品・サービスのレベルはどんどん上がる。ハイレベルの商品・サービス提供競争は過熱し、技術者の競争になる。生き残った有能な一部技術者は奪い合いとなり、技術の満たないものは、ブラックな状況でこき使われる。技術の格差は、そのまま収入・貧富の格差となりうる。過熱した競争下でのストレスは、人々の肉体や精神を蝕んでいく。
少なくともホームレス状態になり小生物件に辿り着く人達は、職能格差の最下層であり、肉体・精神が病んだ状態であることも多い。過酷な競争からドロップアウトして疲弊した彼らに、小生は「そこに戻れ」などとは積極的には言えない。
このような職能による差は、当然バブル期や高度経済成長期にもあったであろう。だが以前は、大工などの職人を工務店が正社員として抱え込みながら育成していたのである。しかし毎月給料を払い続けるだけの余裕がなくなると、職人を正社員として雇わなくなる。個人で請負ができるレベルの人は、一人親方となり引く手あまただが、出来ない人は取り残される。その差が、徐々に広がって行ったと思われる。物質的にどんどん豊かになり、商品・サービスのレベルが上がるにつれ、このような格差を生む仕組みは複雑化していく。
ここで格差の下位に分類された人が、分相応の収入で分相応の生き方をしているだけなら、問題はない。しかし人間には、羨み(うらやみ)の心や嫉妬・妬み、他人と比較して見栄を張りたいプライドなどが存在する。これらの感情は様々な情報により増幅される。
知らぬが仏、というが、知らなければ感じることが無い不幸が、現代には数多く存在する。エアコンというものを知らなかった昔の人は、そのようなものを熱望することは無かっただろう。他人の良い暮らしぶりは、相対的に自分の幸福度を低めるものにもなる。
満たされない欲望を穴埋めしようとすれば、身の丈に合わない借金を重ねたり、犯罪まがいの行為に手を染めて、身の破滅を招く事にもなる。経済成長を追求した結果、物と情報が溢れる世の中になったが、どれだけの人が本当に幸福と感じているだろうか?少なくとも日本の若年層自殺率を見る限り、幸福度は豊かさと比例するとは言えない。
職能による格差拡大や幸福度の問題は、政府も気づいているだろう。しかし分かっていても経済成長追求を止めることは出来ない。なぜならまだ大多数はお金とモノが幸福をもたらすと信じているからである。そのような複雑な問題に触れるよりも、単純な経済指標(有効求人倍率・失業率等)の改善を喧伝しつつ、手っ取り早く人手不足を解消する外国人労働者受け入れに頼る方向に舵をきった。昨年末に強行採決された改正入管法である。
「移民政策ではなく海外労働者の受け入れだ」
というのが政府の立場であるが、外国人政策の大きな転換点であることに相違はない。そうなると、既に欧米で起こっている移民問題が、日本においても現実のものとなる可能性が高まる。
ネット情報等に刺激され先進国の豊かな生活に憧れる人間の数は、何億にものぼるだろう。政情不安定で経済的に貧しい地域から、何十万何百万もの移民がやってくると、当然元々住んでいた人間たちとの摩擦が生じる。
しかしこれも近代化の流れ、資本主義民主主義の広まりの中で、不可避な摩擦なのである。歴史を勉強してみれば、それは簡単に分かることである。
そもそも一般大衆は、つい300年程前まで農奴として土地に縛られ、職業の選択も移動の自由もなかったのである(封建制度)。この封建制度から一般大衆を解放したのは、近代合理主義の「自由・平等・博愛」である。フランス革命、その後のアメリカ独立革命へと続く近代化の理念である。これらの革命と同時期に、産業革命が起こり、現代資本主義・民主主義の礎となっている。
勿論この「自由・平等・博愛」が、近代化の旗印の理想理念として掲げられたからと言って、世界全てがそのような思想に基づいて瞬時に再構築されるわけではない。当然欧米からそれは始まったわけだが、イギリスのように既得権益にしがみついていた国もあったわけである。アメリカ独立革命は、まさにその既得権益からの脱却プロセスであった。
その後、アメリカと欧米は近代化を進め、二度の世界大戦を経て、経済成長と物質的繁栄を先に享受したのである。それから約半世紀遅れて、物質的繁栄を求めて移民が国境を越えてやってくるようになった。それはかつての太陽の沈まない帝国(=イギリス)に植民地化されていた地域からである。
要は日本と欧米は、早く豊かになり過ぎたわけだ。その後植民地だった地域が独立し、何十年か遅れた経済成長を遂げつつあったり、あるいは未だ政治的混乱のためそこにも到達していなかったりするわけだが。そういう国から、日本や欧米は稼げるという話で移民がやってくる。呼び込む国の方でも当然労働力が足りないってことでそれなりの大義名分がある。
移動の自由は民主主義の一つの権利である。もし自由・平等・博愛が無ければ、未だに我々は封建制度で農奴のように土地に縛り付けられていたかも知れないのだ。このように歴史を俯瞰すれば、移民反対派には次のように告げる事ができるのだが…
「お前ら、移民反対!我々の仕事を奪うな!!ってギャーギャー言っとるが、『自由・平等・博愛』の恩恵で資本主義の豊かな生活、民主主義のそれなりの平等な権利を享受して来たんだから、我慢しろよな。それがなけりゃ、みんなまだ移動の自由すらない農奴だったかも知れなんだから!」
こう言われてどれだけの日本や欧米の市民が納得するであろうか?納得しないのが一般大衆である。
建築現場に一人くらい勤勉なベトナム人が居ても、居酒屋やコンビニで一人くらい日本語がちょっと下手なフィリピン人がいても、このレベルなら「まあいいか」となる。
ところが政治的不安な地域から、大挙して何万人レベルで押しかけて来るとなると、どうにもならないのだ。そういう物質的繁栄に乗り遅れてきた人達に、仕事を奪われること、自分の生活レベルを下げて、金を分け与えるなどということは容認できない。人間とはそういうものである。それぞれの人が、その時々で都合のよい思想や制度を使っているに過ぎない。それが人間のエゴである。
この移民政策が、先進各国で国を分断する問題になりつつある。人種のるつぼとも言われ、多様性を強みとしてきた移民大国アメリカ。この超大国も、移民政策を巡って政府機関閉鎖となる混乱ぶりである。これも理想と現実の間に生じた解消不能な矛盾である。
民族大移動とも言える今世紀のイベントは、村山節氏提唱の800年周期説における文明転換期の民族移動であろう。そのように小生は受け止めている。地球レベルのこの流れは、もはや押しとどめようがない。
いずれにせよ、現代グローバリズムは、内包する様々な歪みを増大しながら巨大化してきたが、土台からひっくり返さない限り問題解消不能な状態に近づきつつあるという事である。そしてこの根本矛盾を換言するならば、肥大化した人間の欲望が満たしきれなくなった袋小路にあるという事に他ならない。
あの風習って世間とかマスコミとかに似てますよね
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