存在不条理2
これまで小生は、複数の「自称ダメ人間」と関わりを持ってきた。彼らが未経験の出来事で羨む共通の体験の一つに、恋愛・男女関係がある。つまり
「自分には恋愛経験がない、異性と交際した経験がない」
という欲望を満たせない卑屈さを抱えていたりする。
現代日本で育った人間は、時期の短小はあっても、多かれ少なかれこのような問題を共有するのかも知れない。特に若い内は、「経験がある・ない」等の恋愛格差でクラス内差別が発生するという話も聞く。
振り返れば小生も、東大に通っていた時期は、そのような卑屈さを多少は抱えていたところもある。しかしその前の白陵高校時代は進学校で、男女交際そのものがほぼ存在せず。その後の出家生活時代は、交際そのものが戒律違反。麻原によると次の世紀は
「神に愛される少年の時代」
とのことで、童貞のままの男性が素晴らしい、などという話があったほど。若くして出家した者の中の多くは童貞で、中にはそのまま死刑確定し死ぬまで童貞確定という人も…
同じく若くして出家した小生が、どこでどう経験したかなどという話には回答しないが、経験してしまうと
「だ・か・ら・な・ん・な・ん・だ?」
この想いは、未経験時は(セックスに)憧れていた経験者の多くに共通するものではなかろうか?
経験してしまえば、どうってことない。
それはあらゆる経験について当てはまる一般則であろう
しかし人間というものは、常にないものねだりをする。反対に自分が既に得ているものについては、相対的に価値評価が低くなる。
例えば、いくらいい大学(国公立とか早慶とか)を出たという人でも、自称ダメ人間というものは存在する。中卒などからすれば、雲上人のようなエリートコースをたどった人でも、「ガリ勉です」「それだけです」などと自己評価が低かったりする。
これらの自称ダメ人間には、いわゆる「成功体験」というものが少ない。成功体験が少ないが故に、「自分はダメである」「(自分の経験には)価値がない」という考えに陥りがちである。
いくつかの(成功)体験を繰り返せば、未知の経験に対する抵抗というものは弱まってくる。と同時に、どのような経験も特殊なものではなく、何をやっても同じ、という風に、経験の無意味さについて少しずつ理解が深まっていく。そうなると、異性との交わりであろうが、学歴であろうが、電気工事であろうが、他の経験であろうが、なんだって同じに見えてくる。
そもそもが、異性の交わりなど、動物だって昆虫だってやるわけであって、誰であれ過去世において数限りなく経験して来ている筈なのである。しかしこういうと、拙ブログを覗いているかも知れない自称ダメ人間Tさんなどは…
「自分は動物以下です、昆虫以下です…」
などと言いかねないが、大丈夫!あなたは結構器用だよ、色んな事できるよ。それは小生だけじゃなくて根深さんも言っていた。問題は仕事のやる気だけだよ。だって自分が興味持ったことは一生懸命やって楽しんでるじゃん。
ちょっと個人レベルの会話に話がそれてしまったが、現実世界での(成功)体験をこなすことにより、経験に対する拘り・執着は落ちてくる、ということ。
(つづく)
コメント
・∀・)ノ ヤットクレ
経験値もアイデンティティーではあるけれど、
それは我々の本質ではないですね、
それはただ単に引っ着いているだけのもの
積み上げで誰でも獲得できるもの。
ということで。
それと同じで、性欲って一人の女とやっても他に目がいって延々と耐えないですけどね
「神に愛される少年の時代」
とのことで、童貞のままの男性が素晴らしい>
さすが我らのソンシ。
時代の反逆者ですねw
経験値ってのはアイデンティティーではないってことですね。
必要なら積み上げればいいだけの話。
そこに拘りはいらないと。
よし!やったるぜ。