元オウム教団幹部 野田成人のブログ

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NY株価急落円急騰ってちょっと早すぎ!!俺が本出すまで待ってくれって。
あと、FX・株式・先物に従事の皆さまお怪我はないですか?私お勧めしませんけど…

--具体的にはどうするんですか?

 ひとつにはやはり色んな手段・メディアを使ってみんなを啓蒙していくことですかね。まあそれがこのブログなわけですけど。

 後は、こういう問題について理解を示してくれる人たちと、経済的・精神的な部分での助け合いをするって事ですかね。具体的には、「衣・食・住」っていうから、その三つを何とか確保すればいいわけだな。

 まず衣については、日本では着るものは古着でも何でも捨てるぐらいあるから、何とかなるんじゃないかと。

 住については、最近も地価が上がったとかで、新しいマンションがボコボコ建っている。一方で築40年前後の古いマンションは、全然建て直しが進まない。借りる人もいなくてスラム化しているのもある。マンション事態も、セレブの新築や億ションと、ボロボロのマンションに二極化している。そういう古いマンションを買って、余りお金のない人同士でルームシェアするとか。買わなくても、持ち主に頼んでサブリースするとかね。中古マンションのサブリースは、東京都も事業としてやっているし。

--ルームシェアって、サマナみたいに一つのマンションに何人か一緒に住むんですか?

 そうだね。サマナの居住環境よりは、良い条件でできると思うよ。一人一部屋で。問題は「衣食住」の「食」なんだな。これは農業やるしかない、田舎の農家の手伝いするしかない。過疎化して働き手がいなくて困っている自治体なんかと連携して、都市で仕事が無くてニートしている若者を働き手にする。

 日本の食糧自給率は40%位だし、今後食料価格が高騰したりする可能性もあるから、国としても対策になるんじゃないかな。

--農業儲かりますかね?

 いや、そういうこと考えたらダメだね。日本の農業は儲からないから衰退しているわけだし。価値観の転換が必要だね。スローライフとかロハスとかあるよね。そういう都会と違って緑に囲まれてゆったりした生活で楽しんでもらうとか。これは若い人だけじゃなくて、リタイアした人なんかも第二の人生として良いかもね。

--農業は殺生になりますよね~

 ああ、サマナは農業しないからな。はっきりいって戦力として考えてません。だから一般の人で、既にそうやって活動している人と協力していこうと思う。今の資本主義の競争で嫌気が差してついて行けないような人たちに、違う価値観で喜びを見いだしてもらえればいいかなと。

 要するに金持ちの中だけでグルグルお金回してるんだったら、貧乏人は貧乏人同士で経済圏作っちゃえばどうかなと。それも金持ちの金融経済に影響を受けないようにね。とにかく実需に基づいた経済だよ。衣食住を自分たちでまかなうという。

--自給自足生活ですか?

 まあ一つの選択肢ではあるけど、完全にはできないところもあるでしょうね。どうやったって電気は電力会社から、ガソリンは海外から持って来なきゃいけないし。でも贅沢しないで慎ましやかに生きる。稲が生長するのを見て喜んだり、身近な人との交わりで喜んだりできるような農村型の生活とかだな。あるいは別の選択肢として、地域通貨という手もある。

--地域通貨って何ですか?

 地域の中だけで流通出来る通貨だな。ちょっと違うけど、昔、地域振興券ってあったよね。あんな感じ。地域でお付き合いがある人同士で経済を回すのに役に立つんだよ。ドル暴落で連鎖倒産があったとしても、ダメージを緩和出来るというかな。地域通貨はまた別の記事に譲ることにするね。

コメント


NY 株価暴落って行っても、バブルっぽい動きの修正の一環で、大して珍しくもありません。円高って言っても、大きな目で見ればまだまだ円は安いです。
カルトの人は、近視眼的にだけ物事を見て、それを自分の都合のいいように解釈し、そしてそれを無理やり超拡大解釈して超極端な未来について語ります。
それは、オウムの悪い伝統です。

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やっぱりこれぐらいやってくれないとね、自分の犯罪を下っ端に押し付けているような人じゃ無理か

http://canpan.info/open/news/0000000814/news_detail.html

チャールズ・E・マクジルトン
日本にある飢えと貧困、一方で大量に破棄される食品、何とかしようと動き始めたのは、ひとりの元一兵卒アメリカ人

私は、日本に13年住んでいます。日雇い労働者のサポートや、ホームレス問題にかかわってきました。2000年には数人が集まって、食事を必要としている人への食料配給をしようということになり、アメリカで同様の活動をしている「フードバンク」を訪ねました。そのモデルを日本にもってきたのです。捨てられてしまう食料があり、これを必要としている人々に配る。両方がハッピーになる。ごみも減る。これってクールじゃないですか?
初めてトラックで、食糧をもらうためにコストコに行ったときには驚きました。トラックいっぱいの食糧が、捨てられてしまうことに。本当にもったいない。しかし、私たちがその食料をもらい、必要とする人たちに届けることで、再び食べものとして生きる。「ワオ!これは奇跡だ!」と思いました。
2003年度には、金額にすると1億300万円分の食糧を配達しました。たったの600万円の予算でです。

>NY 株価暴落って行っても、バブルっぽい動きの修正の一環で、大して珍しくもありません。円高って言っても、大きな目で見ればまだまだ円は安いです。

21世紀の変動は、じわじわしたものが多いですよね。ショックは少ないけど、茹で蛙にならないようにしないと。アメリカをアメリカたらしめていたものが行き詰りつつあるので、それが明白になったら潮時かもしれません。

・実体のある価値交換にもとづく経済活動(脱バブル)
・足るを知る(欲望消費サイクルからの脱却)
・人間性の回復(使い捨て雇用、希薄な人のつながりからの回復)
・お仕着せグローバル化からの保護(地域通貨?)

VT正悟師の経済理念って、こんなところですかね?
でもあえて教団に残って取り組むメリットって?一応、代表の肩書きで行なうこととして、どんな意味合いがあるのか、いまだにぴんと来ないところはあります。
やっぱり、教団本体の運営には口出しできないから、純粋に財施としての事業ですかね?リスクヘッジとしての経済システムのオルタナティブ形成...

ソコトコ

これは、最高のアイデアですね。あと、ヤマギシズムのことも思い出しました。

はい、理念はそんなところかも。あと自然に優しい、とか。

>でもあえて教団に残って取り組むメリットって?一応、代表の肩書きで行なうこととして、どんな意味合いがあるのか、いまだにぴんと来ないところはあります。

いろいろ楽しいこと考えてます。このまま円高・金融危機にはならないとは思ってますよ(というかなってもらっては困る)。

後から振り返れば意味がわかると思います。でもそのころには教団にいる意味を問うことを忘れているかもしれませんね。

ガワはガワ。モナカの本質は中身だ

>後から振り返れば意味がわかると思います。でもそのころには教団にいる意味を問うことを忘れているかもしれませんね。

ああやっぱりそんな感じですか。ガワを守って中身がなくなるか、ガワがどうであれ中身の本質を受け継ぐか。現教団の維持そのものが単なる保身だとどうしようもない。
本立ちて道生ず、といいますが、本を誤ったがために道ではないところに入り込んだような状態でしょうね。

国鉄とJRの話は私は好んで話すんですが、
JR発足前夜は、鉄道を1日も止めずに人員の再配置、新会社への割り振りが大きな仕事としてあって、最後まで民営化に反対した国労の一部は最終的にJRに収まらなかったようですね。国鉄のガワにしがみついたがゆえに清算事業団に引き取られることになってしまった。人員整理に際しては、率先して民間に転職した人も多かったようです。そういう自立心のある人は、国鉄にとっても貴重な人材だったようで、民間では概ね歓迎されたそうです。

グルはかく語りき

「ここにオウム真理教があったとしても、そこにグルの意思の実践があればオウム真理教は存在しない。
 もしオウム真理教がなくなったとしても、そこにグルの意思の実践があればオウム真理教は存在している。」

「グルの意思の実践」って何なんでしょうか?
今グルとシヴァ大神はわたしたちに何を実践することを望んでいるんでしょうか?

>人員整理に際しては、率先して民間に転職した人も多かったようです。そういう自立心の ある人は、国鉄にとっても貴重な人材だったようで、民間では概ね歓迎されたそうです。

 今のグルの意思は「自立しろ!強くなれ!」でしょうか?

「どこにいても精神的成長のために頑張ってください。」というような内容のメッセージがあったと思いますが、教団の内部にいても教団の外にいても、「精神的成長ができているか?」という視点で自己をチェックし、できていなければ軌道修正をかけるということも重要なのではないか、と個人的には考えています。
(ただし、開祖自身や開祖の言葉のすべてを必ずしも絶対に正しいものとは考えていませんが)

啓蒙?

>ひとつにはやはり色んな手段・メディアを使ってみんなを啓蒙していくことですかね。まあそれがこのブログなわけですけど。

個人的には、このブログは教団の内部事情がわかって興味深いですし、法則の適用に関する記事(例えば、陰・陽の理論とか)は参考になることもありますが、社会での今後の活動などの面では「啓蒙」されているとは感じないというのが率直なところです。(残念ながら。)

むしろ、「啓蒙」なんて言葉を使うと、教団外の一般の人にとっては、「バカにしている!」としか受け取られないのではないかと推測しますが・・・


>「グルの意思の実践」って何なんでしょうか?
今グルとシヴァ大神はわたしたちに何を実践することを望んでいるんでしょうか?
このような質問は、ある意味無駄だと思います。100人サマナがいれば、100通りのグルとシヴァ大神・グルの意思がありますから。

>今のグルの意思は「自立しろ!強くなれ!」でしょうか?
そう思われるのであれば、自己のグルの理解、意識の限界という意味においては正解。客体としてのグルから見れば、はずれといえるんじゃないでしょうか。
だだし、貴方が非我、空の状態でそう感じたのであれば、表現や言葉は違えど心・思いはグルの意思と同じはずです。

>このような質問は、ある意味無駄だと思います。100人サマナがいれば、100通りのグルとシヴァ大神・グルの意思がありますから。

人によって対応が全然違ったからなぁ。カミナリが落ちまくる人も居れば、真綿に包むようにおんぶに抱っこの人も居れば。私みたいにナゾナゾを数語投げかけられて突き放されるようなのも居るし。

そういう意味では、どう演じるかは、個々のアクターにゆだねられていて、自分で立ち回りのできない役者ではしょうがないかと。監督のシナリオみたいなものはあって、それは汲む必要はあるかも。シナリオを外せば結果につながらないだろうし。そのうちダメだしも出るかも。

100人サマナがいれば、100通りのグルとシヴァ大神・グルの意思がありますから。

わーい、それじゃあ教団の意思なんか無視してやりたい放題やろー

あ、これ「独り言」だからねwww

二拍子さんの表現に敬意を表して。

>そういう意味では、どう演じるかは、個々のアクターにゆだねられていて、自分で立ち回りのできない役者ではしょうがないかと。監督のシナリオみたいなものはあって、それは汲む必要はあるかも。シナリオを外せば結果につながらないだろうし。そのうちダメだしも出るかも。

AUM・アーレフの世界観(すべてとはいいませんが)が分かりやすく、みごとに表現されているように自分には思えます。脱帽です。

飛躍しますが、「真理勝者方(如来)の意識(宇宙意識ともいえる)がこの宇宙すべてを覆っている」、「すべての魂に如来の要素(仏性)がある」、「この宇宙は魂を成長させるための道場である」というような内容・考え方を、二拍子さんの表現を一部使って比喩的に次のように表現してみました。

「どう演じるかは、個々のアクターにゆだねられていて、個々のアクターは自分では気がついていないかもしれないが(現在または未来の)実は”監督”でもある。アクター兼”監督”全員によって必然的にシナリオが紡ぎだされることになる。そのシナリオは、どんな場合でも個々のアクター兼”監督”を成長させるような試練に満ちたシナリオであり、その意味ではアクター兼”監督”がシナリオを外すという概念はない。(シナリオをより良いものにする努力は推奨される)」

自立といえば、個々の主体性だし、あながち間違ってもいないと思う。
全地球レベルで、自立を促しているのが監督の「御意」だろうし、宗教を自己のエゴの擁護、権威付けの道具とするようなことをすると、逆に鉄槌が下されるでしょうね。

大昔のように、庶民の仏教的実践が「なまんだぶ」を唱えるのが精一杯だった時代と違って、いまの日本人は学ぼうと思えば学べるし、その時間もある程度得られる。仏教がエリート階級の宗教だった頃と比べれば夢みたいな時代ですね。時期は熟してきているんでしょうね。

>わーい、それじゃあ教団の意思なんか無視してやりたい放題やろー
このようなご意見があるのも仕方が無いです。今まで教団はトップが変わるごとに前任者を魔境として、ころころ方針が変わってますから。

だだ個人としては、オーソドックスな実践をコツコツなさればよろしいかと存じます。利他・慈悲・善と徳をつむ・基本的な戒律などです。
そして自分の行為の動機を絶えず見つめ、チェックすることです。動機がなるべくイノセント、純真、無垢になるように注意をはらうのです。そして結果としての現象を見つめ、悪化すればそれは自分の心の汚れと見て、絶えず心の働きを修正していく。法則にのっとり正論を言って誰かを注意して、真理を実践したつもりでも、そうした動機が、やっぱりそいつが嫌いだったからとか、ひがみから、なんてことはよくあるはずです。

これは、完全なグルの意思の実践とはならないかもしれませんが、コツコツ続けていくうちにそれに近付いていけると思います。

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「学ぶ元信徒」のブログを設置

「学ぶ元信徒」のブログを設置しました。

まだ、VTブログへの自分のコメントをコピー&ペーストした記事と、
少しの追加記事だけですが、
今後、少しずつ記事を書いていく予定ですので
ぜひともよろしくお願いします。

URL: http://fiveelements.blog115.fc2.com

偏りのある観念

宗教的歴史において供儀を肯定的にとらえた自然崇拝と

人間が万物の霊長とみなす視点から自然を人間が支配できるとする信仰があった。

しかしこれらは双方をある一定の調和の精神、中庸の精神、中道の道によって、和をもって尊しとする原理からみなすならば、

同時に天命或いは生まれもった役割としてのカルマ(業)を考慮に入れるならば

> 農業は殺生になりますよね

というような片寄った観念に嵌ることは無いはずなのです。

ところが一方的思考と価値観だけを絶対的に価値あるものとする思考プロセスに埋没する人には、食糧生産に尽力されている、いわば殺生をしている方々の恩恵無くして、我々誰一人も生命を維持するための食物を口にすることは出来ないにも関わらず。
その一見殺生をせざるを得ない条件にある方々に感謝の念を抱くことすらなくなってしまう陥穽があるでしょう。


ですから農業は殺生になるという一見正統な価値観であっても、それは「てめい」が苦悩や悪をしたくないその種の行為をしている人々を蔑む見方でみることによって自己の優位性を顕示し、自己満足しておきたい煩悩に依存しているだけで、本質的にその自己以外の人々や環境或いは与えられた条件(環境)に対する心からの恩恵に対する感謝の念の「皆無」を自ら白状しているにすぎないでしょう。


今後は宗教はやめますってことですか?

もしかして

もしかして私の投稿のすぐ後に記載されました

>今後は宗教はやめますってことですか?

このご発言は私宛のご質問でしょうか?
違いますよね(^_^)

念の為申し添えますと、私にとって宗の教えの探求が最大の関心事であり、その発露として他者と接することに努力し続けることにありますので、少なくとも個人にとって宗教をやめるようなことは生ある限りないと感じています。

>> 農業は殺生になりますよね

>というような片寄った観念に嵌ることは無いはずなのです。

ちょっと深読みしすぎww

現代の農業は、やっぱり殺生することが多いのは確かです。
文脈上、サマナはカルマの返りが早くダイレクトに返るので、少なくとも農業は無理でしょうといいう話。
一般の業者さんとの打ち合わせで、喫茶店でお茶を一杯おごってもらっただけでも足の痛みが出て、怖い夢見たりするくらいなので、農業は厳しいと思います。
現代の日本じゃ托鉢修行は無理だというのもわかります。カルマが重過ぎます。

↑ ↑ ↑ ↑

 このような方は自己の心身の平安のために山に一人篭ればいいんですかね?
 でも食料の調達はどうすればいいんでしょうか?

 農業は殺生のカルマを積むからダメ。
 魚を捕まえて食べるのも殺生のカルマを積むからダメ。
 獣を捕まえて食べるのも殺生のカルマを積むからダメ。
 施し物をもらうのもカルマが重過ぎるからダメ。

 一般社会を拒絶し一人山に篭り一切の食を捨断する・・・・・・・・・
 これはまさに「即身成仏」の修行です!!

 オウムの修行が目指すところは「即身成仏」なのでしょうか?!

 http://www.sakai.zaq.ne.jp/piicats/sokushin.htm

ニ拍子さんへ

サマナの修行体系って、そんだけカルマに弱くなる修行なんですよね

すぐ他の影響受けて、振り回される

それはやっぱ、サマナが「自分の心」というものをないがしろにしてるから
自分の発心というものをないがしろにしてるから

相手の要素に影響されて動かされた自分の心も
認識できてない人が多い

でもまぁ、現状そうなので確かに托鉢も農業も厳しいでしょうね

サマナの皆さんには、パワーアップしてもらいたいもんです

承認待ちコメント

このコメントは管理者の承認待ちです

いや、単に鈍感なだけじゃしょうがないですよ。
私もしょっちゅう外と接していますし。ただ、出家修行者は気をつけないとキャパオーバーになって潰れますので。

食べ物に関しては、一次産業従事者の恩恵に頼るしかないでしょうね。生かされている存在です。

腹筋さん、自分がないから他のカルマに振り回されるってのは改善できるんでしょうかね。

二拍子さんに素朴な質問

>出家修行者は気をつけないとキャパオーバーになって潰れますので。

杉浦兄弟も気をつけなかったことによってキャパオーバーになって潰れたんでしょうか?

http://alephnoda.blog85.fc2.com/blog-entry-107.html#comment2301

A派は杉浦兄弟に対しても「堕落して魔境に入り下向した」と考えているんでしょうかね?

サマナ弱すぎ

昔のサマナや成就者は、バリバリ仕事して破戒して、暗性食食っても平気だった。

その後の辛いお仕置きもものともしないバイタリティーがあった。

レベル下がっているだけ。


程度の問題で、ある一定の許容量を守っているんですよ。
「その後のお仕置き」で、ある程度浄化していたから保ってるんですよ。
今は自己管理できなきゃやっていけない。つぶれるだけ。その面では、羽目をはずした後、泣きついたりして甘えられない。

タフな初期の弟子達

>昔のサマナや成就者は、バリバリ仕事して破戒して、暗性食食っても平気だった。
 その後の辛いお仕置きもものともしないバイタリティーがあった。

 だから彼らは教祖からの指示に忠実に従って数々の凶悪犯罪も行なってしまった・・・・・
 彼らが弱かったら教祖もあんな指示出さなかっただろうし、指示を出してもビビッて実行しなかっただろう。皮肉なものだ・・・・・・・・
 


↑ ↑ ↑ ↑

いや、教祖が怖くて従うしかなかったのかも知れない。
弟子達が本当に強ければ教祖の間違いを強く正していたかもしれない。

まあ、イケイケの元気だけはあった。

ニ拍子さんへ

修行体系自体が、深くつっこんで、色々認識してくる、というものですからねぇ
それは教典にも書いてあったと思います

その通りにやってるわけですから、打たれ弱くなる段階があるのも
仕方ないわけなんですが・・・・・


あと、サマナ全員知っている訳ではないですけど

腹筋からみて、魅力的なサマナってそんな沢山いるわけではないです
霊性でも、エネルギーでも

そんな中で、数少ない魅力的に思えたサマナが複数A派教団を離れたと聞きました
どんどん法則について深い所を話せる人が居なくなっていくなぁと感じています

二拍子さん

本当にそうでしょうか???

> 現代の農業は、やっぱり殺生することが多いのは確かです。
> 文脈上、サマナはカルマの返りが早くダイレクトに返るので、少なくとも農業は無理でしょうといいう話。
> 一般の業者さんとの打ち合わせで、喫茶店でお茶を一杯おごってもらっただけでも足の痛みが出て、怖い夢見たりするくらいなので、農業は厳しいと思います。
> 現代の日本じゃ托鉢修行は無理だというのもわかります。カルマが重過ぎます。



う~ん。VT正悟師の文脈からすればそうなのかもしれません。

しかし、より厳密に観察してみて下さい。
三三七拍子さんが書かれてる前半部分はどのような心の働きで生起することになるでしょうかね。

私見としては『六大無碍にして常に瑜伽なり』にまったく当たらないと思いますよ。

地・水・火・風・空・識の六大がすべて永遠に結びつき溶け合っている宇宙大の意識があって始めて実覚智のさとりの境地は速疾に顕れるのであって、

現代の日本じゃ托鉢修行は無理だとか、カルマが重過ぎるとかの次元ではないと思います。

また辛口な表現をさせて頂きますなら、もしも聖なる霊的状態に到達されて素晴らしい状態になられている方がいらっしゃったとして、その状態はとても賞讃されるべき状態だと思量されるでしょう。それに異を唱えるつもりは毛頭ありません。

しかしながら、業(或いは縁)によって、その聖なる状態を維持している人と接する他者が否定的に見たり語り掛ける方が身近にある場合、或いはまた、自己の霊性の状態を低下してしまうその他者のカルマが悪いからだけだと、みなすことがすべての正しい見方ではなくて、

如何に聖なる状態を築き上げている人にとっても、生きている限りにおいて、自らのカルマの顕れとして、今接している方の発言や対応が現象化している要素が同じようにあることを、みないようにして、自らの慢など、汚れた心に安住しようとしているに過ぎないことになってしまっていることになると思います。

エネルギー状態を努力して自ら築き上げたものを低下するとか、場合によっては露骨にカルマが悪い人と言って憚らないサマナ等を見聞して私のような未熟者でも、それは本末転倒していると感じさせられました。

自己のカルマとして、眼耳鼻舌身意で接するものがすべて顕現する意外にないという自覚は、けっしてしているようには思えませんでした。

生きている限り『六大無碍にして常に瑜伽なり』であるはずであり、もしかしたら死んだ後も同様かもしれません。


そして三三七拍子さんが書かれる
> 一般社会を拒絶し一人山に篭り一切の食を捨断する・・・・・・・・・
> これはまさに「即身成仏」の修行です!!

この解釈は、わたし自身が知っている即身成仏の意味とはまったく異なると思います。
添付されているアドレスの記事について、少なくと二頌八句の偈頌を正確に受け止められるなら、『一般社会を拒絶し一人山に篭り一切の食を捨断する』というような理解に決してなり得ないと思いますよ。

添付されているアドレスの記事で現代語訳の空海さん作の二頌八句の偈頌は、

六大は、永遠に結びつき溶け合っている
4つの曼荼羅は真実相をあらわし離れない
三蜜が応じあい速やかに悟りの世界が現る
あらゆる体が珠さながら照り合うのを即身という

あるがままに仏の姿をして悟りの智恵をそなえている
人々のすべてに心の主体と作用がそなわっている
心の主体と作用に、5つの智恵と際限ない智恵がある
その智恵をもってすべてを鏡のように照らすとき真理に目覚めた智者(仏=ブッダ)となる。
(円鏡力の故に実覚智たり)

これは前半が即身であり後半が成仏を示しますが、どこに一般社会を拒絶し一人山に篭りなどの表示がありますか?
逆に六大すべてと、その身口意の象徴的表れそして業果の象徴的表れの、四曼荼羅と離れず、
実際の身・口・意が合い通じ合い集中されるなら速疾に悟りの世界が現れるとしているのであって、しかも最終的に明確に『円鏡力の故に実覚智たり』と明言して成仏を示しています。

全くもって、空海さんの十住心論における九顕一密と九顕十密の論理の上になり立っている空海仏教を知らずに語っておられるとしか思われません。

> オウムの修行が目指すところは「即身成仏」なのでしょうか?!

逆に真の意味に於いて修行が目指すところが空海流「即身成仏」であれば素晴らしいことであるといえるでしょう。空海さんの代表的著作を精査されるべきでしょう。

また、かつての仏教学者が言っているからといってその内容が空海さんの真意を理解して語っているかどうかは別問題であると思いますよ。


どんどんレベル下がっていて、自分たちの健康さえ守れないよーぎーとして恥ずかしい現状を認めるのが先決。

言い訳ばかりで情けない。

空気...


ちょっと消化不良で申し訳ないのですが、話の次元が違ってるだけです。もともとの話題の空気よんで...

三三七拍子さんというのは別人なので、なんともわかりませんが...

あとは、サマナの実質的キャパシティという現実的問題です。昔は不死身の派手な自動車事故とか多かったですから。今は受け止めてくれるキャパも小さいですから。死にます。自己責任の比重が大きいです。慎重にもなります。


>エネルギー状態を努力して自ら築き上げたものを低下するとか、場合によっては露骨にカルマが悪い人と言って憚らないサマナ等を見聞して私のような未熟者でも、それは本末転倒していると感じさせられました。

二者択一的なのが意外ですね。
そういう趣旨はここのオリジナルの文脈からは見受けられません。そういうものを連想なさったのでしょうか?
(厭世的にも見える)小乗はベースで、決して卑下するものではないです。この基本があればこそ、大乗も成り立ちます。

♯さんへ

本当の意味で「自分が無い」のであれば
振り回される事もないのでしょうが

自分の心の働きを見つめていれば

データに「流される瞬間」というものを発見する事ができると思います
流される事を喜ぶ無智というか
それが起きた時に左気道は詰まります

もしそれが起きないのなら、結構簡単にエネルギー的な詰まりは抜けていくと思います
ある程度修行していればですけど

ちなみに右は実在を喜ぶ無智というかなんというか

この辺凄い誤解されそうなことなので、あんまし書きたくはないのですが

んでまぁ、この辺を自覚しはじめると
自分の心というものが少し分かってくる

何によって今が構成されているか

例えば人と話している時でも
利他心というものを起こし続ければ却ってナーディとおる時もあります

そんで、相手に集中しすぎてゲフって来る時もありますが
それを嫌がる心の働きによって、そこから回復しにくくなる自分も発見してしまいます

もし、良い心、が起こせるなら、死を間近に控えた病人に触れている最中にも
甘露が落ちてくる事もあります
それは経験上、ハッキリ言っておきます

一瞬一瞬、自分がどのような心を起こしているかが大事なのです




行の力で、深い意識に入ったとき
流される無智と、実在させる無智が、ある程度はれたとき

良い心、の足りない私は、そのまま死んでしまおうかとも思いました
まぁ詳細は省きますが、自己保全欲からだったりします

その後からその心を起こさせてくれる
他者の方こそ、菩薩のように見えてくるようになりました

その心から離れた時に、私のナーディは詰まりやすくなるし
その心と共にあるとき、ナーディは抜けやすくなります
(ある程度熱は必要だけども)

まぁ基本的に無智なので、離れがちではありますが
世の中に、修行というものに絶望したくないから
心というものの探求をしていきたいですね


A派にいたときは、絶望の真っ只中でした

かつて自分が苦しんだような事から
A派にいるみんなが解放される日を待ち望んでいます


まぁまとめると

今現在の現実に気づき続けるという事と
良い心を起こし続けるというのが、影響受けにくくなるコツだと思います

>そんな中で、数少ない魅力的に思えたサマナが複数A派教団を離れたと聞きました
>どんどん法則について深い所を話せる人が居なくなっていくなぁと感じています

人もそうだし、話せる場所もない。。。橋の上とか、屋上とか?サンガ内より外のほうがダルマの話がしやすいってどういうことかね?

苦労されているのですね(;_:)

今もそんな状況なのですか・・・・・・

でもどうか、そういう話ができない
他の人の心の不自由さや不自然さ、思いやりつつ乗り切ってください

A派のみんなどうしてるのかなぁ・・・・

本末転倒とは

腹筋さんのすぐ上の前の書き込み内容と

基本的に同意見を持っています。小乗がすべてのベースであることは認めますし、現実の世俗観念に迎合することを是としているわけではありません。

しかしながら、
> 現代の農業は、やっぱり殺生することが多いのは確かです。
> 文脈上、サマナはカルマの返りが早くダイレクトに返るので、少なくとも農業は無理でしょうといいう話。
> 一般の業者さんとの打ち合わせで、喫茶店でお茶を一杯おごってもらっただけでも足の痛みが出て、怖い夢見たりするくらいなので、農業は厳しいと思います。
> 現代の日本じゃ托鉢修行は無理だというのもわかります。カルマが重過ぎます。

このご発言を受けてコメントしていますので、基本的にエネルギー状態が良好に出来るのは行による場合と、まったく形の無い心の持ち方次第で良好な状態へ成り得ます。

その後者の視点でみれば
>エネルギー状態を努力して自ら築き上げたものを低下するとか、場合によっては露骨にカルマが悪い人と言って憚らないサマナ等を見聞して私のような未熟者でも、それは本末転倒していると感じさせられました。

このように、行による良好な状態を築き上げているにもかかわらず、真に心の成熟を目ざしているのであれば低下されることも、悪いカルマの人と思える人と接するのも、大きな眼で見れば本質的に縁無く衆生と出会いませんから、自らのカルマであり、その低下されることも、悪いカルマの人と出会うことも喜びと感謝を持って接すべきなのが、尊敬されるべき出家生活者であるべきであるという視点で申し上げました。

よって本末転倒していると感じたのです。

理治さんに始めて同意。

そんでもって自分たちの弱さ、ステージの低さの言い訳を延々としているように見える。

「原因は何か、どうしたらいいのか、みんなアイデアをくれ」といった問題解決のプロセスを進める前向きな姿勢が感じられない。

理治さんへ

そして三三七拍子さんが書かれる
> 一般社会を拒絶し一人山に篭り一切の食を捨断する・・・・・・・・・
> これはまさに「即身成仏」の修行です!!

この解釈は、わたし自身が知っている即身成仏の意味とはまったく異なると思います。
添付されているアドレスの記事について、少なくと二頌八句の偈頌を正確に受け止められるなら、『一般社会を拒絶し一人山に篭り一切の食を捨断する』というような理解に決してなり得ないと思いますよ。

---------------------------------------------------------------------

 わたしはわざわざ「」をつけて「即身成仏」と表記しました。

 つまり「即身成仏を目指し山に篭り食を断ち自己をミイラ化する修行」という限定した意味において「即身成仏」の修行と表記したのです。

 そしてオウムのサマナがこのような修行をするはずもありません。
 つまりこれはひたすら弱気な発言をしている二拍子さんに冗談を言ったのです。
 
 冗談に対してクソ真面目に反論されても困りますwww

「この解釈は、わたし自身が知っている即身成仏の意味とはまったく異なると思います」と
「わたしの知っている意味とは異なる!あなたの解釈は違う!」と息巻くのではなくて、「ああ、そんな解釈の仕方もあるんだなあ」というくらい広くてゆったりした心で見ていただきたいと思います。

教団の分裂も「わたしのグルの解釈・法則の解釈は正しい!あなたのグルの解釈・法則の解釈は間違っている!」という自己の見解に対するとらわれ、そしてそこから生じる他の見解に対する排斥によって生じたのです。

理治さんの名言
「私流に言えば、自己正当化する慢(卑屈・支配心)を、超克することを忘れてしまえば真 理ではないでしょう。」

三人とも、二拍子君の否定的な所に憂慮して、それぞれアドバイスしたということかな。

まあ、泣き言言いたければ、パブ白龍においで。

>このように、行による良好な状態を築き上げているにもかかわらず、真に心の成熟を目ざしているのであれば低下されることも、悪いカルマの人と思える人と接するのも、大きな眼で見れば本質的に縁無く衆生と出会いませんから、自らのカルマであり、その低下されることも、悪いカルマの人と出会うことも喜びと感謝を持って接すべきなのが、尊敬されるべき出家生活者であるべきであるという視点で申し上げました。

理治さんのおっしゃっていることは大乗論としてよく語られている通りでその通りだと思います。

修行者の器は有限で、大乗的な修行を行なっていれば必ず「頼られる」という状況が起きます。自己の保身のための修行をそっちのけにして、他に尽くすような状況が生まれます。これは終局的には十字架上の死のように終わりを迎えます。こういう現象は今までよく見てきました。お人よしの人に際限なく重荷を課してつぶされる。

夢物語的で、大風呂敷の既存の大乗論には欠点があるというか、ひとつの超克すべき課題を抱えています。補完すべきものが必要なんですね。これはあまり他の人に話しても理解を得られるとは限らない。一般的じゃないから。でも大乗論の行き詰まりを突破するには必要なんじゃないかと。

おんぶに抱っこに肩車

>修行者の器は有限で、大乗的な修行を行なっていれば必ず「頼られる」という状況が起 きます。自己の保身のための修行をそっちのけにして、他に尽くすような状況が生まれま す。これは終局的には十字架上の死のように終わりを迎えます。こういう現象は今までよ く見てきました。お人よしの人に際限なく重荷を課してつぶされる。


 わたしたちは尊師に「おんぶに抱っこに肩車」で、尊師をつぶしてしまいました。
 わたしたちはM正大師に「おんぶに抱っこに肩車」で、M正大師をつぶしてしまいました。
 わたしたちは正悟師方に「おんぶに抱っこに肩車」で、正悟師方をつぶしてしまいました。
 わたしたちは師方に「おんぶに抱っこに肩車」で、師方をつぶそうとしています。
 
 ああ、わたしたちは一体いつになったら自立できるのでしょうか?
 このまま「おんぶにだっこに肩車」をしてくれる人がいなくなったら、わたしたちはつぶれてしまいます。

真の大乗って、システムなんじゃないかと。

「このままいったら死ぬ」と感じたことはありました。死なないまでも、修行者として潰れる、という実感を。
そのまま利他の実践の完遂、と突き進むのも、菩薩としてのあり方かも知れませんが、一人の修行者が潰れるより、サンガ全体、世界全体が大乗のシステムとして機能するにはどうしたらいいか?という課題に注力するほうが生産的だと思って、自らの姿勢を改めたことがあります。
だから、目一杯期待を背負って、ますます頼られる状況で菩薩は身を引くんですよね。あれ、よくわかります。

システム工学を少しかじって、多くの知見を授けてもらった気がします。それだけのものがこの日本にはありました。

理治さん、話の流れを折ってしまってごめんなさい。でもお互い、本題とは関係の無いところに反応して流れを折ってしまったのかな?

三三七拍子さん、二拍子さん

基本的に二元相対の言葉を使って意見を表するという限定下においてなされる行為ですから、究極的には真意は伝わりがたいものだということを
踏まえながらも発言をしているわけです。
その注意をしていても

三三七拍子さん
> つまり「即身成仏を目指し山に篭り食を断ち自己をミイラ化する修行」という限定した意味において「即身成仏」の修行と表記したのです。

以下の表現の直後に空海さんの言辞Web添付して
> 一般社会を拒絶し一人山に篭り一切の食を捨断する・・・・・・・・・
> これはまさに「即身成仏」の修行です!!
> オウムの修行が目指すところは「即身成仏」なのでしょうか?!

このような意見表明をされるとですね。「即身成仏を目指し山に篭り食を断ち自己をミイラ化する修行」とうふうに限定した言葉使いをされておられるとは普通は、毛頭感じられ無いのでは?

逆に即身成仏という表現を使われるべきではなくて、『妙心法師』などの『即身仏』のことである明示がされて然るべきでしょう。天台宗・日蓮宗・禅宗などで説かれる『即身仏』の概念は、空海さん表現の『即身成仏』と『即身仏』とは全く別物であことは通説的に常識です。

引用
即身仏とは衆生救済を願い、厳しい修行のすえ自らの肉体をミイラにして残したお坊さんのことです。この即身仏になるための修行というのは、木食修行と土中入定という二段階になっています。木食修行は土中入定のための準備のようなもので、米や麦などの五穀、十穀を断って木の実などで命を繋ぎながら体の脂肪や水分などを落としていき、ほとんど即身仏そのものの状態にまで体を作っていくという大変な荒行なんだそうです。
 木食修行を終えると土中入定ということをします。これは地面に深さ3メートルほどの穴を掘ってそこに石室を築き、更にそこへ呼吸のために節を抜いた竹筒の先が地上に出るようになっている木棺を入れ、その中に生きたままで入って埋められます。行者はその中で断食をしながら鐘を鳴らしてお経を読み続けます。

 その鐘の音が地上の人に聞こえなくなると、息が絶えたということで一旦掘り出され、すぐにまた埋められます。そうして1000日後(3年3ヶ月後とも)に再び掘り出されると、それだけであとは何もしなくてもちゃんとミイラになっているんだそうです。このようにして即身仏になりました。

後から他所のミイラ化が引用されていたようですが、今改めてそのページを閲覧しましたが、文言として即身成仏と記し、空海さんの記述紹介ページを添付されると、少なくと空海さん使用した『即身成仏』の言葉の意味と異なることをご理解なさっていないであろうと思わしめます。


> わたしはわざわざ「」をつけて「即身成仏」と表記しました。

されても同じことです。

> 教団の分裂も「わたしのグルの解釈・法則の解釈は正しい!あなたのグルの解釈・法則の解釈は間違っている!」という自己の見解に対するとらわれ、そしてそこから生じる他の見解に対する排斥によって生じたのです。

このご意見に到っては、言葉の不完全性があることを差し引いて考えても、基本的に、自己の見解に対するとらわれ、そしてそこから生じる他の見解に対する排斥に当たっている発言であったと、私自身の投稿を反省することになるより、ご使用になられるお言葉の選択と添付されるその内容を示そうとする内容に三三七拍子さんは『即身仏』と記され、『即身成仏』と記されていなければ、意見を私が投稿する必要も無かっただけのことだと思われます。

二拍子さん
> 修行者の器は有限で、大乗的な修行を行なっていれば必ず「頼られる」という状況が起きます。自己の保身のための修行をそっちのけにして、他に尽くすような状況が生まれます。これは終局的には十字架上の死のように終わりを迎えます。こういう現象は今までよく見てきました。お人よしの人に際限なく重荷を課してつぶされる。

> 夢物語的で、大風呂敷の既存の大乗論には欠点があるというか、ひとつの超克すべき課題を抱えています。補完すべきものが必要なんですね。これはあまり他の人に話しても理解を得られるとは限らない。一般的じゃないから。でも大乗論の行き詰まりを突破するには必要なんじゃないかと。

二拍子さんのご検討の過程を拝聴でき有意義に感じます。
唯思うに、修行者の器は有限かもしれません。されどそれは自己のカルマの正知で望むならば、或いは心の成熟を真に望むものであれば、つぶされるという意識は生起のしようが無いように感じます。

大風呂敷の既存の大乗論と記されているものがどのような真意を意図されてのことかは推し量る能力がありませんが、補完すべきものが必要なんだという意味は私なりになんとなく理解はできます。
大乗論の行き詰まりを感じられているとの表現ですが、私は行き詰まりがあると感じていません。もし行き詰まりがあるとすれば自己の心を広大に拡げる努力が足りないのでは無いかと自らに問うことになるだけだと考えております。

自己の保身のための修行をそっちのけにして、他に尽くすような状況を生むことが起こるようなことがあるとしたならば、『縁起』と『業』を本当の意味で感得出来ていない時に生じるのではないかな~という印象を抱いています。

というより、単純に生まれて死ぬ運命にある人間に恒常不変な自己存在を維持することに欲求が強いことに片寄っているだけで、恒常不変な実体を有する個我はけっして無くて、変化し続け死に至る運命から避けられない身体を有するものであって、生の前と死の後に比べて、生きている間は如何に生前と死後よりも恵まれ、多くの現実のこの世で他者の助力によって育まれ生かされている事実に変わりは無いと思います。(依他起性)
生前も死後も、ある意味では他者の恩恵によっているのは事実なのかもしれません。(それはかなり証明不能な部分が多いでしょう。修行が進めば生前・死後に於ける他者からの恩恵について感受可能性が増大するものであるのかもしれません)


菩薩道の完遂

丁寧なご返事ありがとうございます。

「自己の大切なものも全て犠牲にする」という観点からは、完全に身を犠牲にするのは完全な大乗の一人の修行者としては、最終的には十字架としての終局とならざるを得ないでしょう。偉大な菩薩は、それを厭わないんです。でももう、この教団内でこれを繰り返すべき理由は見つかりません。

「全ての魂の幸福を願い、それを実現する努力」という観点からは、やはり中途で終わった、ということになります。そして、私が犠牲になって、他に与える恩恵といえるものがほとんど無いとしたなら、そこはやはり思いとどまります。別の道を考えます。大乗は一切衆生の幸福という結果が出てはじめて意義があるものだし、一人の修行者の菩薩道の完遂、だけでは不十分です。

よって、キリストが十字架にかかったことそのものが(本当の意味で)クリスチャンにとっての救いであるとは私は考えていません。十字架は超克すべき課題で、そこから本当の大乗が見えてくると思っています。これはなかなか理解してもらえません。長い時間をかけて自分自身さらに模索していくことになると思います。

二拍子さん

以下は上祐氏の受け売りです。

ただし正確な文言を踏習していません。私の理解している考え方です。

> 私が犠牲になって、他に与える恩恵といえるものがほとんど無いとしたなら、そこはやはり思いとどまります。別の道を考えます。大乗は一切衆生の幸福という結果が出てはじめて意義があるものだし、一人の修行者の菩薩道の完遂、だけでは不十分です。

この感覚はなんとなく分るような気がします。ただ水を考えて見て下さい。先ず天から降ってくる一滴の雨粒は、慈雨になり得ます。しかしもし日照り続きの後のほんの少しの雨だけではなんの役にも立たず、乾燥続きの状態が少々癒されるだけでしょう。その水滴が山や谷、田畑に恵みの雨となり得るのは水滴が集まり寄って個々の状態から集合することによって、乾きを癒す飲料水ともなり、植物を繁茂させる恵みの雨ともなります。ところで水滴個々は個我を主張することもなく山・谷・渓流に寄り集まってきて一つの流れとして渓流を流れて行きます。その渓流に岩の塊、急激な蛇行の河川であっても、水達は、おのれはこっち行きたいと自己主張することもなく、岩があればその両脇を流れ急な曲がりがあればその環境に従い流れゆきます。

それが度を過ぎると急激な力を持つ激特災害のような破壊行為もします。

しかし水は何もなかったように寄り集まり海へと注ぎ流れ、そして蒸発し雲となり、再び雨となって永遠に循環を繰り返しています。この一粒一粒の水滴は何ら不平不満を言うことも、誇ることも無くただひたすら自然に委ねて、慈雨や洪水という両面の機能を淡々と永遠に繰り返しています。水のような慈悲に溢れ浄化力を備え、時には力も行使する融通無碍な存在に見習った生き方をして行きたいものであると思っています。この水の寄り集まり方こそが大乗であろうと思います。

> キリストが十字架にかかったことそのものが(本当の意味で)クリスチャンにとっての救いであるとは私は考えていません。十字架は超克すべき課題で、そこから本当の大乗が見えてくると思っています。

これは私もそう思います。しかしクリスチャンの方々にとってその超克に必要性を感得されるのも縁起以外に個々の方々が気付かれることはあり得ないわけで、強制力でも、自らの信仰の否定でも無く、水の摩尼宝珠の如く、慈悲溢れる人や物との縁との接触によって超えられる可能性があるのではないでしょうかね。


大乗の生命

>水のような慈悲に溢れ浄化力を備え、時には力も行使する融通無碍な存在に見習った生き方をして行きたいものであると思っています。この水の寄り集まり方こそが大乗であろうと思います。

水滴のような個々の小さな質量、運動エネルギーが、大きな力、現象を生むというミクロとマクロの関係は理解できます。そして、そこに何の自我、エゴも乗っかっていない、という無為自然、というのも実感としてわかります。
エックハルトが表現した、人が踏み込まない高山に咲く花のように、何故、何のために、誰に見せるためにという動機なくして咲く、という自然の営みです。

(何のために、誰のために、といった動機にズレが出てきたのが最近の教団の不調和の一因です。)

私自身は、悠久の時間軸というより、もう少し能動的、生命的、そしてリアルタイムのダイナミズムをイメージしています。ちょうど、単細胞が組織となり、さらに一つの完成した個体へと発達していく段階です。ばらばらの単細胞からある一定の機能を果たす組織、その組織が組み合わさって、高度な意思と創造的活動を行なう個体へと変化していく過程、今はその時期にさしかかっているのかもしれません。

>これは私もそう思います。しかしクリスチャンの方々にとってその超克に必要性を感得されるのも縁起以外に個々の方々が気付かれることはあり得ないわけで、強制力でも、自らの信仰の否定でも無く、水の摩尼宝珠の如く、慈悲溢れる人や物との縁との接触によって超えられる可能性があるのではないでしょうかね。

教団もかつてはキリスト教のような救世主の自己犠牲からなにか救いが...というノリだったと思います。10数年たって、たくさんの犠牲を払いながら、選択の余地のないところまできたようです。

>「このままいったら死ぬ」と感じたことはありました。死なないまでも、修行者として潰れる、という実感を。
そのまま利他の実践の完遂、と突き進むのも、菩薩としてのあり方かも知れませんが、一人の修行者が潰れるより、サンガ全体、世界全体が大乗のシステムとして機能するにはどうしたらいいか?という課題に注力するほうが生産的だと思って、自らの姿勢を改めたことがあります。

ふうん。
二拍子さんはそれを経験されたわけですね。
理論としての大乗と、実際にそれを少しでも経験するのとでは、感覚的に相当違うだろうな、と思います。

あああああ

一体おれたちいつになったら「オウムオタク」「宗教オタク」から脱却できるんだろうか?
早く健全な状態になりたいよ・・・・・・
このブログを見ているみんな、早く「オウムオタク」「宗教オタク」から脱却して社会に貢献できるように、有意義な人生を送れるように頑張ろう!!

サマナの独り言さん

>一体おれたちいつになったら「オウムオタク」「宗教オタク」から脱却できるんだろうか?


お馬~(オウマー)なんて、その極みでつ。
一日たりとも、オウム・アーレフ・「ひかりの輪」の話題から離れるなんてことは出来ないものね。
気がつくと、PCの前に座っていると。そして、ネットにやってくると。

麻原派修行者として言うならば、こういうところなんて、見ない方がいいですな。
ただひたすら、暇さえあれば、「グルグルグルグル」とやっていましょう。
ソンシがいつも夢に出てくるようなら、来世もソンシと同じ世界へいけます。


わたしはまっぴらゴメンですけど。

逡巡としているサマナの皆さんへ

まあ成るようにしか成りませんよ。

泥舟から笹船に逃げた者の感想です。

7月23日のコメントより

神の言葉

>サマナ一人一人も漠然と「教団は大丈夫だろうか?」と不安がるばかりではなく具体的に現実的にこれからの修行、人生のことを考えるべきだと思います。

>それが出来れば苦労せんよ
 上長に甘えてる?もう三下り半つきつけられてるよ。師なんて。もともと修行以外能力ないんだから。

-------------------------------------------------------

 サマナは上長にも頼れないし、自分で具体的・現実的に考えることもできないのですか。
 
 LET IT BE!
 ケセラセラ!
 なるようになるさ!

 というほかありませんね。

The Beatles - Let It Be (1970)
http://www.youtube.com/watch?v=67J_66hdN-I

「ぼくがものすごく苦しんでいるとき、マザーメアリーが近づいて来て
こう言ったんだ。
『Let it be すべてはなるようにしかならないのよ』

ぼくが暗闇の中でもがいているとき、彼女はぼくのそばに立って
こう言ったんだ。
『Let it be すべてはなるようにしかならないのよ』

Let it be すべてなるがままに
Let it be すべてなるがままに
Let it be すべてなるがままに
Let it be すべてなるがままに

神の言葉 すべてなるがままに」

「Let it be」の歌詞はビートルズのメンバーが大変苦しんでいるとき
マハリシ・マヘッシ・ヨーギーが彼らに与えたアドバイスを元に作られたと言われています。

「すべてなるがままに これが神の言葉である」

この曲を発表した直後にビートルズは解散しました。

彼らはビートルズの解散も「すべてなるがままに」という心境で受け入れたのでしょうか。

メンバーの一人ジョージ・ハリスンはたびたびインドに訪れてヨーガの修行をしていたそうです。

「すべてなるがままに」
無頓着の実践を端的に言い表した言葉だと思います。

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