元オウム教団幹部 野田成人のブログ

★唯一人の荒らしの為にコメントは承認制になります★ 累積賠償額949万円

HOMEPR 都市難民 住宅ローン 経済 ニュース イスラム国 幸福・功徳 陰陽 オウム関連 団体存続 雑多 きまぐれ

◆日銀

 30年ぶりに高校の先輩に会った。東大経済学部→日銀(現役)という、いわゆるエリートと言ってもよい経歴。

小生「日銀のバズーカ砲ってやばいんじゃないですか?」

先輩「そんなこと言うたって、もう国民がそれを選択してしもうたんやから…」

小生「国民は何もわかってないですよ。」

先輩「もうどうなるか、誰にも分からん。評価するとしたら、何十年後の結果見てからしかいえない。」

小生「もう奥の手使っちゃったわけですよね?」

先輩「後になったら『あの時自分は反対したんだ』とか『ろくでもない結果になると言ったのに』とかいう話がボロボロ出てくると思う。」


コメント


管理人のみ閲覧できます

このコメントは管理人のみ閲覧できます

餓鬼のカルマの強い人と付き合うのは
きついですよね。

話題と言ったら金と物。誰誰はこんなに給料もらってて、いい暮らししてるのに
俺はこんな安月給で貧乏暮らしと。
その割に一戸建てのローン組んでたりする。

これがアベノミクス自民・学会コンビの洗脳の症例でしょうか。




連続殺人鬼アングリマーラは、釈尊の光によって悟ったんでしょう。
連続殺人犯は、間違いなく地獄落ちですが
わたしたちも、「死ね」とか「消えろ」という言葉を書き込む人がいますね。

同じく地獄に行きます。殺人犯とそうじゃない人の違いは
ただ現象界で、殺人を犯したかどうかです。

それより深いレベルでは、われわれも同じです。

日銀

日銀の遺伝子には「デフレ」が埋め込まれているのでしょうか・・・。
私も先月、元日銀の人に会ったのですが、ちょうどそのときに別の人が黒田総裁の日銀バツーカの話をふったとき、同じく「あれはマズイ」と言っていました。

マネタリーベースで円が不足していれば円高になるのは当然で、これまでの円高の原因は日銀が他国とくらべて円を刷っていなかったからです。
デフレの原因は明らかに白川氏の率いる日銀の失策です。

緩やかなインフレを維持するためにどうすればいいかを考える必要があるし、そのためにインフレターゲットを決めたのだから、そのためにどうするかを考えるのが重要のはずです。



元信者さん

>餓鬼のカルマの強い人と付き合うのはきついですよね。

経済の動きを見て、そのマネーの織り成すメカニズムを洞察したうえで、なるほど社会は「幻想」の上に成立していると気づくのであれば分かるのですが、たんに市場経済や市場メカニズムを「幻想」としてそこで経済活動の営みをする人々に「餓鬼」性を見出して非難するところに意味を感じません。

むしろ「幻想」であることを理解して、その上でちゃんと経済活動を営んでいる人の方が現代においては「悟り」の人に近いのではないかと思えます。
というのも、そもそも私たちの文化自体がある種のフィクションで、その中で私たちは生活しています。
あるフィクションを共有しているところに、文化人としての振る舞いがあるのであって、そのフィクションが他の文化において「文化的」であるわけではありません。
たとえば、いい例が思いつかないのですが、ネクタイなどがそうですかね。
あんなもの、本来は邪魔なだけです。
アフリカの未開拓な土地の住人からすれば、「どうしてそんなナンセンスな飾りをつけているのか?」と疑問に思うでしょう。
スーツだって不自由なだけです。
でも、それが文化というもので、ビシッとスーツでキメたりすると「カッコいい」と思うのが私たちの文化です。
そういった文化の本質がフィクションであることが良く分かったうえで、その文化に馴染んで生きることは、現代における「悟り」の人に近いように思います。
反対に「そんなのはフィクションだ」と馬鹿にしてアンチな態度をとろうとすることは、「悟り」というよりも私からすればナンセンスです。

あまり称賛したくないのですが、苫米地さんなどは幻想であるところのこの世のシステムを見事に見抜いて、それだからこそ、その中で好き放題やっているように思えます。
「幻想」だと知っていて見えて経済の営みをする人と、「幻想」だと言って見えないけどアンチの態度をとる人では、まるで「悟り」において違った境地があると考えます。

>殺人犯とそうじゃない人の違いはただ現象界で、殺人を犯したかどうかです。

果たしてそうでしょうか。
「ただ現象界で、殺人を犯したかどうか」の違いでしょうか?
アダム・スミスが「道徳感情論」でこの問題を深く洞察していて、私は二次文献しか読んだことが無いのですが、関心のあるところです。
本当に「現象界で殺人を犯したかどうか」ということなのでしょうか?
聖書にも似たようなことをイエスが語っています。
マタイ18章だったような。
イエスは目に見えないところの内面にまで鋭くメスを入れます。
しかし、イエスの言うことと「殺人犯とそうじゃない人の違いはただ現象界で、殺人を犯したかどうか」などと言えてしまう元信者さんの考えは、まるで異なっているように思えます。
むしろ、まったく反対のことを言っているのではないかと。
アダム・スミスの『道徳感情論』に関心をもったのは、以前に、元信者さんと同じようなことを平然と語って見せた人がいたからでした。

本当にそうなのでしょうか?

,わたしが悪うございました。

こういう話を聞きました。

ある人が、善い行いを為しそして死んだと。
さあ、わたしは天国に行くに違いないと。
期待してたら、現世でろくてもない男が天国に行くように
閻魔大王が決定したと。
そして、善い行いを為し天国に行くはずだった男は地獄に行くように言われたと。
それに憤りを覚え、その男が閻魔さまに
「なぜ、あのろくてもない男が天国で、私が地獄なのか納得できない」と抗議したと。
すると閻魔大王は「彼は、自分は天国に行けるはずはないと思っていた。だから天国に行けたのだ。
しかしお前は、自分は天国に行って当然だと思ってたので、地獄に行くのだ」




オウムは死ね。と言う人がいますね。
しかしなぜ殺さないかと言うと、殺すと自分が犯罪者になって刑罰を受けるからでしょう。
ようは自己愛着によってできないだけで、殺意はあるわけです。

対して村井幹部をやった、Jさんは今も生き生きと暮らしてます。
地獄どころか、ヨットで遊んで、家庭を持ちブログもやってます。
数多くの死刑執行命令を出した鳩山元法務大臣も
家庭ではチョウを飼う心優しい人です。

神様はわれわれ人間には考え付かない視点で判決を下すんでしょう。


> 神様はわれわれ人間には考え付かない視点で判決を下すんでしょう。


いいえ、まだ、閻魔様は現象界以外の判決なんて下していないと思いますね。
アストラル分やコーザル分は死後に行われるでしょう。
そのうちに・・・。



いい加減に自分自身の自己愛着にも気付けよ、元信者。

ノアさん

>公安当局に監視されている、現象界で殺人を犯しても心の中が清らかなら必ずしも地獄に赴かない、などと書けばマズイ。

うむ?!
ノアさんのコメントによれば、元信者さんは「現象界で殺人を犯しても心の中が清らかならば必ずしも地獄に赴かない」と考えているけど、「公安に監視されている」からそんなことを「書けばマズイ」という判断が働いたということですか。

非常に恐ろしい考え方です。

>自由なMark Inchiさんと今の元信者さんでは表層的にはかなり立場が違います。

この点については、違いがはっきりとしていますね。
でも、上記のような「現象界で殺人を犯しても心の中が清らかならば必ずしも地獄に赴かない」という考え方は、表層的な問題ではなく根本的な問題かもしれません。
「心の中が清らか」でありつつ「殺人を犯」すこと人間ほど危険な者はありません。

>例えば「殺人」を広義の意味、「現象界で人を殺すこと」に広げて考えてみましょう。
すると現象界で死刑を執行する法務大臣並びに担当刑務官は漏れなく「殺人幇助ならびに殺害実行犯」となります。

死刑廃止という目的のために織り成す手段としての論法という意味ではありと思うのですが。

管理人のみ閲覧できます

このコメントは管理人のみ閲覧できます

自己愛着があることに理屈では分かっています。
しかし、深いところでその事を気づいていない。
だから、まだまだです。
そして、昨日の私は既に死んでいる。
そして新たな私が生まれてくる。

一寸先は闇。
ダンマパダの至高の一句
6 「われらは、ここにあって死ぬはずのものである」と覚悟をしよう。──このことわりを他の人々は知っていない。しかし、このことわりを知る人々があれば、争いはしずまる。

ノアさん

聖書の言葉は、その心を見ないとまるで反対の意味に理解できてしまいます。

>それは普通の人間で在ればごくごく誰もがおもいつく、普通の考え方(常識)であり、 日本人で言うところの「ホンネとタテマエ」というそれです。


虚無と無意味が人を殺します。
自分自身のいのちの価値を失っているものは、他者のいのちも軽視します。
自分がこの世の生を「幻想」としていると、他者の生もまた「幻想」にすぎないとして、扱ってしまいます。

>「実際的に姦淫行為をすることだけが罪なのでは無い、こころの中でそれをした者も同罪なのである。」

なぜこのこの言葉をイエスが語ったか。
誰に対して語ったか。
何のために語ったか。
それがあってはじめて、このイエスのことばを知ります。

「お前はAさんを死ねと心の中で思ったから人殺しだ!心で思ったことと行動したことは同じだ。」と言ったらオカシナことになります。
「お前は女の人を見て変なことを考えたから姦淫だ!実際に姦淫をしているのと同じだ。」と言ったらオカシナことになります。
実際に、そんなようなことを言っている人が多くて、困っています。

聖書の言葉を自分の都合で振り回すことはプロテスタントの原理主義者たちの得意とするところです。

ノアさんの思っている仏教というものが大体理解できてきました。

自分のいのちを大切に思うものは、他者のいのちの大切さを知ります。
他者のいのちを大切に思うものは、自分のいのちの大切さを知ります。
自分のいのちを粗末にするものは、他者のいのちを粗末にします。
他者のいのちを粗末にするものは、時運のいのちを粗末にします。

「現象界で殺人を犯しても心の中が清らかなら」などと言えてしまうのは、どこかで何かを失っているからに思えます。
大切な何かを失っているから「心が清らか」でありつつ「殺人を犯す」ことができてしまいます。

いのちの大切さに気づいていく方向ではなく、まるでそれとは反対に、いのちを虚無化して無意味化せねば、「心が清らか」に「殺人を犯す」ことはできません。
仏教徒は生命を慈しむことを教えているはずなのに、見事に反対方向に行っています。
でも、私はキリスト教的な発想なのかもしれませんね。
仏教は自己執着だといって「無」へと導こうとしますが、キリスト教の場合はこの世における生と死を超越したところに、「生」(天の御国)を見出します。

仏教も虚無主義は否定してますけどね。
一切のものごとはそれ自体で存在するものではなく(無自性)
他に依存して成り立っているということ
これは、仏教で説かれていることの一つです。
Markさんは、御存じだと思いますけど
「無」というと虚無主義と誤解されやすいので、補足させていただきました。

仏教は「無」ではなく「空」を究極の真理と説いてます。
現象としてはあなたもわたしも存在していますが
それ自体で存在する確固とした自性がないということです。
たとえば、人は空気がないと存在できませんね。
他の生き物もいないと、食糧が得られず肉体を持ちえないです。

そしてすべてのものごとが、他の存在なしに成り立たないことを
お釈迦様は説かれたんですね。

死んでも、この肉体は滅びても元素や電子はなくなるわけではありません。
それもまた、因や条件によって変化し、土や水や空気になって
あらたな命のもとになったりします。

まだわからないのか?信仰の薄いMark Inchiさんにはっきりといっておく

普通の考え方(常識)は、その心を見ないとまるで反対の意味に理解できてしまいます。

虚無と無意味が人を殺します。
自分自身のいのちの価値を失っていても、他生のいのちも軽視しないのが仏様の教えです。
仏様はこの世の生を「幻想」と語り、他者の生もまた「幻想」にすぎないとして、扱っています。

>なぜこのこの言葉をイエスが語ったか。
>誰に対して語ったか。
>何のために語ったか。

私はそれを知っていますがMark Inchiさんはそれを知りません。
故に、未だMark Inchiさんは天国におられず、ここで他者の批判作業に没頭しておられるのです。「我が見解こそは正しい」、と。

それがあってはじめて、このイエスのことばを知るのです(笑)。


>実際に、そんなようなことを言っている人が多くて、困っています。

あなたが困ることはありません。
ヨハネ黙示録にてそのことが語られています。
もう一度よく読み直してください、敬虔な信徒Mark Inchiさん。

聖書の言葉を自分の都合で振り回すことはプロテスタントの原理主義者たちの得意とするところです。


聖書の言葉を自分の都合で振り回すことはMark Inchiさんの得意とするところです(笑)。

>「現象界で殺人を犯しても心の中が清らかなら」などと言えてしまうのは、どこかで>何かを失っているからに思えます。

これは交通事故による業務上過失致死(一応注意義務散漫罪は業の負の罪として加算されます)や、夢精による姦淫、等々のことです。
ブッダはこれら(上記注意散漫はブッダも過失在りとしています)を全くの無罪と立像経典ではっきりと語られています。
ブッダが心を失っているというのなら「解脱とは心の作用を停止し、人がこの世の一切の苦しみから逃れることである」という定義への嫌悪、ということになりますので、
Mark Inchiさんは仏教/ヴェーダ学には向いていない、とここではっきりともうしあげておきます。

>大切な何かを失っているから「心が清らか」でありつつ「殺人を犯す」ことができてし>まいます。

それはMark Inchiさんがプロテスタントの原理主義者でありファリサイ派であるからそう考える、だけのことです。
ブッダはそんなMark Inchiは説いていません。

いのちの大切さに気づいていく方向ではなく、まるでそれとは反対に、いのちを虚無化して無意味化せねば、「心が清らか」に「殺人を犯す」ことはできません。
史実としての敬虔なクリスチャン徒は生命を慈しむことを教えているはずなのに、見事に反対方向に十字軍や魔女狩り行っています。
、一部ブッダの教えに反しヴァジラヤーナ思想を説く大乗仏教徒でさえでも、そんな虐殺の史実はそのように大々的に聞きません。
Mark Inchiさんはキリスト教的な発想ですらありません。
旧キリスト教的であり、ファリサイであり、プロテスタントの原理主義者です。

>仏教は自己執着だといって「無」へと導こうとしますが、キリスト教の場合はこの世>における生と死を超越したところに、「生」(天の御国)を見出します。

ブッダはその「この世における」をすらも超越したところに、「涅槃/ニルヴァーナ」(極楽浄土)を見いだします。


ここのコメント欄を見てると、結局は信仰って自己愛着なんだなぁ、って改めて思う。
みんな、幸せになろうね。

741 :神も仏も名無しさん :2015/01/03(土) 11:26:12.42 ID:/SKzpU1m
タモリがNHKの番組で「新たな資本主義を作るのは日本人ではないか」と語る
2015年1月2日 21時35分
http://news.livedoor.com/article/detail/9635703/

1日放送の「NHKスペシャル 戦後70年 ニッポンの肖像」(NHK総合)で、タモリが資本主義の行き詰まりを指摘し、新たな社会を日本が生み出すのではないかと展望を語った。
番組では各界のゲストを交えて、日本人の生き様やこれからの日本について、NHKの膨大なアーカイブ映像を紐解きながら、戦後70年を振り返った。
番組の終盤、司会の三宅民夫アナウンサーが、作家の半藤一利氏に、今の我々に1番問われていることとは?と質問すると半藤氏は、
今の日本人の大多数が「合意」すべき何かがあるはずで、不用意な拡張や破壊を止めて「自然を美しいものとする優しい日本に戻れば、この国に明日はある」という故人・司馬遼太郎さんの言葉を紹介した。
すると、タモリが「(自分は)経済学者でもなんでもないですから、ドでかいことをぶちかましてよろしいですか?」と前置きすると、
日本だけでなく各国とも現在の資本主義の行き詰まりを指摘したうえで「資本主義に何か手を加えて、より良いものにしなきゃいかんと思うんですよね」と、持論を展開した。
また、タモリはボランティアなど、自身も新しい価値観を模索中だと告げつつ
「やっぱり、大多数がそれを合意できるような何かに手を加えて、ちょっと違う、新たな資本主義ができるのは、日本の勤勉さと、従順さ、秩序さ、それを持ってる国民の日本じゃないと、できないんじゃないかと思うんですよねぇ」
と、日本が先駆けて新たな社会体制を生み出す可能性を語ってみせた。
このタモリの持論には、他の出演者も非常に関心した面持ちで耳を傾け、半藤氏も「凄いですね」と笑みをこぼし、拍手で称えた。

---------
芸能人のタモリさんでさえ、正月番組でここまで語っている。
元ネタはラビ・バトラ辺りらしいが。
「小生だけが知っている」などと嘯いて一向に現在の資本主義の次に来る物を示さずただ既存の経済知識をひけらかしているだけの人は、少しはタモリさんを見習って欲しい。
でも真理を否定し「一神教支配」とかいう自分の的外れな考えに固執している内は無理かも。

742 :神も仏も名無しさん :2015/01/03(土) 11:31:16.46 ID:/SKzpU1m
日刊ゲンダイ|水野和夫氏が警鐘 「今年は日銀が自ら資本主義に幕を引く」
http://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/156086/1

 経済関連の新書で2014年、最も売れたのが「資本主義の終焉と歴史の危機」(水野和夫著=集英社)だ。
 経済学者、エコノミストが投票する週刊ダイヤモンド「ベスト経済書」1位に輝いた名著だが、さて、資本主義の限界を鋭くえぐりだした著者は15年の日本経済をどう見ているのか。
 質問すると、恐ろしい予測が返ってきた。
  「私はこの本で資本主義の終焉について書きました。しかし私が書こうが書くまいが、15年以降の日本経済は、まさしく資本主義の終焉の様相を見せつけることになると思います」と言うのである。
  順を追って説明してもらおう。

  「2年以内に物価上昇2%という目標を日銀は立て、13年4月に異次元緩和の第1弾、黒田バズーカの1発目を撃ちました。しかし、思うように物価は上がらず、14年10月に2発目のバズーカを放った。
  たしかに株価は上昇しましたが、世界的な原油価格暴落によってガソリン価格などが下がり、2%の物価上昇は実現していない。おそらく日銀は15年4月にバズーカ第3弾を撃ちますよ。
  それもかなりの規模で、何が何でもさらなる円安に持っていく。日銀自身のメンツがかかっているからです。しかし、こうした円安誘導政策で国民生活は豊かになるのか。
  これ以上の円安で物価を引き上げても、インフレに伴い実質賃金はどんどん下がってしまう。日銀はどこを向いて金融政策をしているのか。根本的な矛盾が問われることになると思います」

 水野氏の見立てでは1ドル=125~130円のレベルになっていくという。円安インフレで実質賃金の伸び率はマイナスのまま。庶民はたまらないが、怖いのはその先だ。
  「今ですら、出口なしといわれているのに、追加緩和をすれば、日本経済が破綻するまで日銀は異次元緩和をやめられないという苦境に陥ります。
  というのも、緩和を続ければ株や土地などの資産価格がバブル化しますが、緩和をやめたとたんに、暴落する。当然、政権は『緩和を続けろ』と圧力をかけてくるので、黒田日銀総裁は逆らえず、バズーカを次々と撃ち続けることになる。
  やがて国債の買い手がつかず、国債のほとんどを日銀が買い受けることになる。最終的には市場がなくなり、価格もつかなくなるでしょう。資本主義は終わるわけです」

 安倍政権のせいで何もかもが壊されてしまう。

------------------------------

皆んな同じ事を言っているね。
「小生だけが知っている」って、「小生だけが知らない」の間違いじゃないかな?

「小生だけが知っている」って,誰がどこで言ってるのかなぁ。
野田さんは言ってないよね?
野田さんが言ってるならその部分抜き出してコピペしてください。

管理人のみ閲覧できます

このコメントは管理人のみ閲覧できます

実質賃金

>これ以上の円安で物価を引き上げても、インフレに伴い実質賃金はどんどん下がってしまう。日銀はどこを向いて金融政策をしているのか。根本的な矛盾が問われることになると思います」


まず、「実質賃金」などと言っている時点で、もうダメです。
経済の専門家であるくせに「実質賃金」というものがどう動いているのかということを説明しないで、プロパガンダ的に使っているだけです。
実質賃金というのは景気が後退しているときに上がります。
ですから、実質賃金を上げたいという人は景気を後退させたいと考えているということです。

実質賃金というのは、名目賃金を物価上昇で割り戻したものが実質賃金です。
賃金は景気の上昇に遅れて上がって行きます。
ところが景気が下がりだしても賃金は上昇してしまうので、そのとき実質賃金はめちゃくちゃ上がります。
「実質賃金」などというものを景気の指標にしてはダメです。
そうではなく、見なければならないのは「失業者数の減少」「失業率」「就業者数の増加」です。

そもそも「実質賃金」といったときに、失業者の賃金なんてカウントしていません。
失業者数が増えても「実質賃金」にカウントされないならば、何の意味もないです。

残念なことに、私の好きな三橋貴明さんも「実質賃金」という言葉をつかっていたことがあったそうなので、新しい経済用語のインパクトで良く分からずに使用してしまうことは経済の専門家でもあるようです。

景気は回復していることは確かですが、やはり増税がよくなかった。
アベノミクスに反することを安倍さん自身がやるから、景気の腰折れ状態が生まれてしまうんです。
景気が回復していない段階で増税なんてしたらよくないことは、橋本政権のときで分かっていたことなのに、今でも財務省は増税するためにあの手この手で根回しをしているようです。
今回、安倍さんは解散して選挙にしてしまい上手く財務省の圧力から逃れました。

文化と無駄

>日本国の歴史は世界(地球)一なのである。中国4000年というのは、たとえば、韻がA年間、元がB年間、唐がC年間・・・・・、またつまりxxx民族がD年間、漢民族がE年間、モンゴル民族がF年間、毛沢東(共産主義文明)が・・・・という風に、決して文明が・文化が4000年、連続していないのである。

日本はずっと受け継がれてきた文化が生きています。
それに対して、中国や韓国では権力者が変わると前政権で培われた文化を破壊して自分たちの文化を打ち立てようとする傾向があると聞きます。
中国4000年の歴史といっても、文化伝統が受け継がれてきたかといえばそうではないようです。
韓国などはグローバル資本主義にさらされて、さらに文化的にもダメージを受けました。
グローバル資本主義だと経済の効率を求める力が強く加わるのですが、文化というものは効率面でいうならば、まさに非効率なものです。
日本は文化伝統がよく受け継がれている希有な国です。
文化がないと心が落ち着きません。

南米は犯罪率が高く、治安はあまりよくありません。
貧困の問題もあります。
南米は近代において列強の収奪によって文化がかき乱されて、文化が根付かなくなってしまったからではないかと私は考えています。
それに対して、アメリカ合衆国はヨーロッパ文化をそのまま移植しました。

文化伝統は、非効率であるけれども、人間にはそのような機能が必要なのかもしれません。
たくさんの無駄を抱えて、あれこれと悩んだりするから、「心」というものが豊かになります。
「心」というのは非効率的なものです。
そこに、効率さを求めたりノルマを課したりされつづけると、見事に「心」は成長しません。

日本人は怖れを超越するすべを知っていたそうですね。
昔の日本人にとって、仏教は旧知の友を迎え入れるような感じだったんじゃなかろうか。


ト●タ生産方式の現場にいたことあるけど
あれは、軍隊ですわ。
陸自にいた人もつらいとやめて行く人もいる。

寮の風呂場にはホモもいる。
パチンコ、競馬中毒患者が多い。休憩時間はそういう話で盛り上がる。
産業機械に●されたり、自●者もいる。

今思い出してもぞっとする。
地獄というのがこの世にあるというのが体験できましたね。
高い賃金につられていった若かりし日々の話しでした。

http://www.pideo.net/video/youku/5bf9296f3114d4cf/
河野さん、野田さんも、眉毛の太い人も、住民の人も
みんないい人だ。

わたしもオウムにいたけど、こんなにいい人ではなかった。
今はもうエネルギーが枯渇しかかって、不漏の実践も追いつかなくなってる。
もう死の兆候が出ているのかもしれないけど
こういう元気が良くて、素直で、勇気ある人を見るのは楽しい。
最初悪人に見えていた住人の人たちも
腹を割って行動すると、気持ちが通じ合えるってことを
この人たちに学ばせていただきました。
眉毛の太い坊主頭のい人、すごいですね。



いい人たち

「A1」「A2」の映画を見ました。

>この人たちに学ばせていただきました。
>眉毛の太い坊主頭のい人、すごいですね。


その眉毛の太い坊主頭の人が次のようにいっていました。

95年の3月に麻原にサリンを撒けといわれたら実行しますか?というような質問に対して、
実行するという返事をしています。

「前提としてまずそれが本質的な意味ですべての人のためになっているということ、
心の働きが絶対に他を害さない、他を利するという心の働きがあること
神秘的な力によってその人たちに本当に恩恵があるんだということを 人間的なレベルをこえた神秘的な力によって見抜いているということ
自分というエゴを崩壊させること、たとえばそこで嫌がっている自分がいたとしてもそのエゴを崩壊させることが修行なので、その3点が満たされれば実行すべきだと言っています。」
そして、グルに従わなくては信仰ではないと言い切りました。

「いい人」が実際に指示されてサリンを撒いたのです。
荒木さんなども、もうサリンを撒いたのが誰か分かっていてなおも麻原信仰を続けます。

統一協会の信者さんも、一人ひとりは「いい人」です。
そんな人たちが人を騙して壺を売って詐欺行為をしていたのです。
募金だといって人々を騙して文鮮明にお金を貢いでいたのです。
彼らはいうのです。
「人情では間違っていても天情においては正しい。」といって人を騙しても純粋さを保っています。
サタンの支配にある人々が持つお金を、サタンの支配から神のご用へと復帰させるのだと自分を正当化して、純粋さを保ちつつ人を騙しています。
つまり「いい人」がそれをします。

「いい人」だったで終わらないのです。
むしろ「いい人」というのが、本当に良い人なのか?と問い直さねばなりません。
そのような問い直しが始まると、そのように「いい人」だとは言えなくなります。
そう言いたくても考えざるを得ないのです。
本当に「いい人」なのだろうか?

だから整理していかないと。




ノアさん

>「いい人」はイエス様/目覚めた人のみ、
>という結論になります。

私の場合は、ルターの影響が強いので、「いい人はイエスさまのみ」で「目覚めた人」は入りませんし、もちろん私は決して「いい人」には入りません。

浄土教の理解に近いといえばわかるでしょうか。

>自分はどうだろうか?
>自分はイエス様の御心にかなった行いを行っているだろうか?
>自分は相手にとって意味のない(相手のためにならない)「裁き/本来神がそれを為すべきところの範疇の裁き」をしていないだろうか?


これについて、キリスト教理的な視点の私が答えますとこうなります。

自分はどうだろうか?
→ 私の事についてでしたら、「罪人」であるが前提にあります。みな「罪人」ですからね。だから、そもそも人間などというものに、被造物の分際でグルもキリストもないです。被造物の分際で「霊的指導者」などといわれる人もキリスト教にはいますが、多くの「霊的指導者」が数々の問題を起こして教会を追われています。


自分はイエス様の御心にかなった行いを行っているだろうか?
→ 行っていません。私にその力はなく、もし行っているとしたらそれは私ではなく、私の内に生きている聖霊です。

自分は相手にとって意味のない「裁き」をしていないだろうか?
→ 私なんぞパリサイ人や律法学者よりも悪いです。

ノアさんの想定とは真逆で、私が私自身にする認識は「罪人」ということです。
人間というのは、そもそもそんなに「聖」なるものではなく、矛盾も葛藤も雑念も抱えているものです。
それが無くては「人間ではない」とすら私には思えます。
だから、「私」のうちに救いを見出しても見つかるはずがなく、ただキリストにおいてのみ救われると。

立派になろうとしても、成れません。
聖者になろうとしても、成れません。
むしろ反対のものが見えてくるでしょう。
私の内には何の良きモノもなく、聖なるモノもありません。
だから、私は私自身のいかなるものにも誇りとするものはなくて、立派さも聖さも認めていません。

もし私の内から良きモノが生まれ、聖なるモノが現れるならば、それは私ではなく私の内に住む聖霊ですから、私ではないと。

以上は、徹底して「罪人」の立場にたつところのルター的な理解です。
カルヴァンになってくると、そこに「聖化」という話がはいってくるのですが、私自身は非常にルター的です。

対象に対する心の働きは
要するに自分自身の心の投影に過ぎない。
その事に気づいたならば、仏教の教えはそう難しくないと思う。


元信者さん

では、「これは救済だからな、ポアだからな」と言われた時の心の働きが以下略

それが善人による善意に基づく殺人に以下略

それが信仰だと言うなら、それが帰依だとあなたが言うのであれば以下略

麻原さんのようなタイプのグルは、破壊的なグルだから
そういう指示を出したんでしょう。
しかし、それは時代には合わなかったんだと思う。
人類滅亡は麻原さんがやらなくても、いずれ起こることが確定している。
滅亡は自然に起こるんですから。
個人個人を見ても、黙ってても死ぬわけです。

その死ぬまでの間に死に対する怖れを超えたいと思う気持ちはありますが
他者を殺そうとする心の働きは否定されるべきものだと思う。
それが相手の救済のためというのは、勝手な思い込みに過ぎないでしょう。


利他という観点から見ても、またこの人間に生まれたという
有暇具足という類稀なる機会を無駄にするという意味でも
麻原さんのポワ理論は、否定したい。

たしかに、殺された人は今生もう悪業も積まないですが
カルマはそのまま残っているわけです。全然救済されていないのです。
そして、一番重要な点は人間に生まれたチャンスを
断ちきってしまったという殺人実行者のカルマです。

人間だからこそ修行する機会に恵まれている、その機会を奪った者のカルマを思うと
恐ろしいことだと思います。


元信者さん

>たしかに、殺された人は今生もう悪業も積まないですが
>カルマはそのまま残っているわけです。全然救済されていないのです。

では、今も障害を残し苦しんでいる方々は「カルマ落としになる」と元信者さんはいいますか?
元信者さんの言い方ですと、そうなります。

>人間だからこそ修行する機会に恵まれている、その機会を奪った者のカルマを思うと 恐ろしいことだと思います。

では、サリン事件で被害にあわれ今も苦しみの中にいる方々、亡くなられた人の遺族と関係者の方々は、「修行する機会に恵まれている」ということでしょうか?

元信者さんの言い方ですと、そうなります。



これはカルマ論では説明できないですな。

昔のソンシの説法を思い出してしまいました。
逆縁による救済ですな。

オウム真理教の被害者の方は、それやソンシに対して憎悪の念を抱きますね。
普通なら。
一連の事件の目的は「カルマ落とし」ではないんです。
わざと、被害者に憎悪の念を抱かせることで、縁を結ばせようとしているんです。
その結果、ソンシとの間にエネルギー交換はないにしても、
データ交換が起こり、
で、未来世において、ソンシの弟子になってしまうんです。
滝本先生や江川さんなども。

もし、被害者がソンシに対して、何の念も抱かなかったとするなら、
自ら近づかない限り、弟子になる可能性はないかもしれないですね。
でも、普通の人間でしたら、被害者の立場からすれば、
憎悪や恐怖の念を抱くでしょうから、それはあり得ないと。
まあ、そういう人は聖人と呼んでも良いと思います。

とわたしは考えました。


あと、キリスト教の聖典である、新約聖書に、
「敵の為に祈れ」とかいろいろ書かれていますが、
一言も、「敵に憎悪を向けろ」とは書かれていません。
でも、クリスチャンでそういう聖人みたいな人は、
ほとんど居ないでしょうな。
もし居たら、2ちゃんで見かけるような、
「オウム信者は悪人だから、八つ裂きだ!」
なんてあからさまなことは言わないでしょうな。


宗教とは恐ろしいもの

私はここでのコメントをみていて、宗教とは恐ろしいものといったことが野田さんの『一神教支配の終焉』の前半に書かれていたことは、漠然として抽象的ですが「正解」なのだろうと思えてきました。

あれだけの被害者を生んでもなお、独自の思考法のみでカルマ論や「縁」の思想で処理されてしまう。
宗教である限り宗教的独善が生み出されてしまいます。
ひかりの輪の方々が宗教集団ではないと方向転換した理由も分かるし、一方で独善的な思考から抜け出ることができない宗教組織は、公安の方々に頑張ってもらうしかないのでしょう。

ほとんとほとんど無宗教である日本人は「宗教とは恐ろしいもの」という意味を理解しておかないといけないのかもしれない。
日本人は宗教に対して思想的にも無防備すぎることが、何よりも問われるべきか。
宗教とは、生死の問題に言及し、人生や生き方を問います。
いのちが扱われているわけですから。
ちゃんと警戒せねばなりません。

Markさん。
これはわたし自身の場合と言うことでお話しさせていただきますと
苦しみは、原因があるというのがお釈迦様の教えであります。
苦しみは過去の業によるものだと考えます。
ただ、苦しんでいる時に苦しみから逃れようと思うか
苦しみの因を他者のせいにするか
あるいは、これは、わたしが過去に積んだ業が現象化したんだと思うかで
まったく違ってきます。
わたしの体験上そう思います。

しかし、これを被害者の方や、ご遺族の方に当てはめようとは思いません。
それだけは断っておきます。



わたしは、人間に生まれたことを有意義にするのは修行することだと思っております。
他者については人それぞれですから、自由でいいとい思いますよ。

わたしのいうことは矛盾だらけですが
自己に厳しく、他者に思いやりを持つというのが
大乗仏教の大前提だと思います。

たとえば苦しんでいる人に「それはカルマですね」なんて言うのは
誤りです。

他者の苦しみを我が母の苦しみのように思うことが必要だと思います。
自分のできる限りの思いやりを持って接するのが大事だと思います。





元信者さん と ノアさん

元信者さんへ

>しかし、これを被害者の方や、ご遺族の方に当てはめようとは思いません。
それだけは断っておきます。

>たとえば苦しんでいる人に「それはカルマですね」なんて言うのは
誤りです。

>他者の苦しみを我が母の苦しみのように思うことが必要だと思います。
自分のできる限りの思いやりを持って接するのが大事だと思います。


はい。
そのようなお返事をいただけて本当によかったです。
他者の苦しみのまえに、やれることは「思いやりをもって接する」ことだけで、「カルマだ」といって干渉してはなりませんから。
もちろん、そのような考え方を共有している人ならば大丈夫ですけど、とくにオウムの場合は事件を起こしたのでそこらへんの判断、区別、配慮と認識についての厳密さは問われてしまうのだと思います。

キリスト教にも「イエスを信じない者は地獄へ行く。」と公然という人たちがいます。
とくにキリスト教原理主義の人たちはそうですが、カルヴァン主義の人たちには意外に多いのが残念です。


ノアさんへ

>十字軍、魔女狩り、奴隷制度、植民地支配、侵略虐殺戦争、自作自演テロ、あれだけの被害者を生んでもなお、独自の思考法のみで神学論や「聖書」のカトリック、あるいはプロテスタント思想で処理されてしまう。

伝統的宗教がなぜ社会に受けいられているかといえば、それは時代の洗礼を経てきたからです。
人間は歴史的な段階を経て「生」に対する考察がなされてきました。
現代はすでに近代を通過して、他の文化や文明の存在をしり、その価値観の中でいかなる位置づけをもつか、そのために何にが捨てられるべきで何が捨ててはならないのかを考えてきたのです。
だから、現在のキリスト教と古代キリスト教を単純に「=」でつないだり、中世のキリスト教を抽象的な等号で結び付けることもできないのです。
私たちは近代を通過して歴史を反省し、何がこの時代に問われているのか、何を過ちとすべきか、それを認識してはじめて「現代のキリスト教」は存在せねばなりません。
古代を中世をそのまま持ってこれないのです。
これは仏教もまた同じです。

時代の洗礼を受けねばならないということは、決して忘れてはならないことです。

残念ながら、原始キリスト教を理想として現代において原始キリスト教をやろうと主張する人たちがいます。
彼らは中世も近代もすっとばして、「聖書が正しい」とします。
でも、ダメなのは彼ら自身が現代に生きる「現代の人間」であることを忘れていることです。
その思考法からして原始キリスト教時代とはまるで異なっているのですから。

仏教においても同じような考え方をする人たちがいるのを知っています。

時代の洗礼、時代考証、時代の思考、といったワードを抜きに、語れないのです。

コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

http://alephnoda.blog85.fc2.com/tb.php/1095-125b93e3

 | HOME | 

プロフィール

alephnoda

alephnoda

野田成人のブログです
メール返事欲しい人は氏名・電話番号必須
ブログ手伝ってくれるスタッフ募集中
メールは上の画像の vv9919662014 @ じーめいる。コム

月別アーカイヴ

2037-12 : 1
2017-07 : 2
2017-06 : 6
2017-05 : 4
2017-04 : 6
2017-03 : 6
2017-02 : 6
2017-01 : 5
2016-12 : 5
2016-11 : 4
2016-10 : 3
2016-09 : 3
2016-08 : 4
2016-07 : 4
2016-06 : 5
2016-05 : 3
2016-04 : 6
2016-03 : 3
2016-02 : 4
2016-01 : 6
2015-12 : 7
2015-11 : 9
2015-10 : 7
2015-09 : 5
2015-08 : 6
2015-07 : 8
2015-06 : 6
2015-05 : 8
2015-04 : 8
2015-03 : 8
2015-02 : 10
2015-01 : 10
2014-12 : 5
2014-11 : 9
2014-10 : 9
2014-09 : 9
2014-08 : 7
2014-07 : 6
2014-06 : 13
2014-05 : 9
2014-04 : 9
2014-03 : 8
2014-02 : 6
2014-01 : 5
2013-12 : 2
2013-11 : 6
2013-10 : 8
2013-09 : 8
2013-08 : 9
2013-07 : 13
2013-06 : 8
2013-05 : 12
2013-04 : 8
2013-03 : 10
2013-02 : 9
2013-01 : 12
2012-12 : 6
2012-11 : 10
2012-10 : 8
2012-09 : 4
2012-08 : 9
2012-07 : 10
2012-06 : 8
2012-05 : 8
2012-04 : 6
2012-03 : 13
2012-02 : 14
2012-01 : 15
2011-12 : 9
2011-11 : 13
2011-10 : 6
2011-09 : 10
2011-08 : 8
2011-07 : 9
2011-06 : 11
2011-05 : 9
2011-04 : 6
2011-03 : 11
2011-02 : 4
2011-01 : 6
2010-12 : 6
2010-11 : 5
2010-10 : 9
2010-09 : 10
2010-08 : 10
2010-07 : 7
2010-06 : 7
2010-05 : 7
2010-04 : 6
2010-03 : 6
2010-02 : 7
2010-01 : 4
2009-12 : 2
2009-11 : 3
2009-10 : 5
2009-09 : 3
2009-08 : 4
2009-07 : 9
2009-06 : 10
2009-05 : 11
2009-04 : 13
2009-03 : 7
2009-02 : 1
2009-01 : 4
2008-12 : 8
2008-11 : 9
2008-10 : 6
2008-09 : 7
2008-08 : 7
2008-07 : 8
2008-06 : 5
2008-05 : 4
2008-04 : 7
2008-03 : 7
2008-02 : 7
2008-01 : 7
2007-12 : 10
2007-11 : 8
2007-10 : 5
2007-09 : 8
2007-08 : 12
2007-07 : 7
2007-06 : 15
2007-05 : 18
2007-04 : 9
2007-03 : 17
2006-04 : 1
2004-03 : 12
[RSS 1.0]  [RSS FEED]

FC2Ad