元オウム教団幹部 野田成人のブログ

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本当の悪は平凡な人間が行う悪です。これを「悪の凡庸さ」と名付けました。
ハンナ・アーレント
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 本シリーズタイトルの「悪の凡庸さ」。これは、ご存じの方もいらっしゃるかもですが、ハンナアーレントの言葉から取っています。え~、拙ブログ平均的読者からすれば、クソ面白くもない哲学の話かも知れませんが、読んで下さいね。

 「悪の凡庸さ」とは、「なぜ数百万人ものユダヤ人が殺されるに至ったか」、その要因をアドルフ・アイヒマンの裁判を通して、アーレントが抽出した結論だったのです。アドルフ・アイヒマンとは、ナチス親衛隊元中佐で、数百万の人々を強制収容所へ移送するにあたって指揮的役割を担った人物です。詳しくはこのページ読んでくれれば良いんですが、適当に引用。

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 裁判でアーレントが見たアイヒマンは、怪物的な悪の権化ではけっしてなく、思考の欠如した官僚でした。アイヒマンは、その答弁において、紋切り型の決まり文句や官僚用語をくりかえしていました。アイヒマンの話す能力の不足は、考える能力、「誰か他の人の立場に立って考える能力」の不足、と結びついている、とアーレントは指摘しました。無思考の紋切り型の文句は、現実から身を守ることに役立った、と彼女は述べています。ナチスによって行われた巨悪な犯罪が、悪魔のような人物ではなく、思考の欠如した人間によって担われた、と彼女は考えました。しかしユダヤ人社会では、大量殺戮が凡庸なものだったというのか、ナチの犯罪を軽視し、アイヒマンを擁護するのか、といった憤激と非難の嵐が起こりました。(…中略…)

 アーレントは、「悪の陳腐さ」という言葉で何を言おうとしていたのでしょうか。批判への応答のなかで、彼女は、「悪の表層性」を強調しています。悪は「根源的」ではなく、深いものでも悪魔的なものでもなく、菌のように表面にはびこりわたるからこそ、全世界を廃墟にしうるのだ、と述べています。アーレントは、20世紀に起こった現代的な悪が、表層の現象であることの恐ろしさを、述べようとしたといえるでしょう。「悪の凡庸さ」という言葉で「今世紀最大の災いを矮小化することほど、自分の気持ちからかけ離れたものはない」と、アーレントは語りました。「底知れない程度の低さ、どぶからうまれでた何か、およそ深さなどまったくない何か」が、ほとんどすべての人びとを支配する力を獲得する。それこそが、全体主義のおそるべき性質である、とアーレントは考えました。

 アーレントにとって「思考の欠如」とは、表層性しかないということでもありました。怪物的なものでも悪魔的なものでもない、表層の悪が、人類にたいする犯罪、人間をほろぼしうるような犯罪をもたらすという、前代未聞の現代の悪のありよう。それが、彼女の導き出した結論でした。
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 上記の「思考の欠如」については、オウム事件でもしばしば触れられていました。「信者らは思考停止状態だった」「麻原のデータをコピーしてもらう為に、意図的に何も考えないようにしていた」これは全くその通りで、当時においても現在においても、一生懸命「グルグルグル」って帰依の修行をやればやる程、自分で考えなくなります。「前例主義」で、上の顔色ばかり伺う「ヒラメ役人」みたいになります。その結果として、オウム事件は起こりました。

 個人の小役人的無思考な行動の集積が、団体全体として、集団全体として、社会全体として連鎖的に共鳴現象を起こしてどのような結果を生じせしめるか、この点においての個々人は全く無自覚であり、その影響については意識されることがない。これはその個々の構成員、個人に責任を追及するのも難しいけれども、無自覚にそのシステムに乗っかり続けている事により、一つ一つは小さい「凡庸な悪」が、全体として巨悪を構築することとなったわけです。

 しかしながら、(被害者側に立つ)世間一般は、このような「凡庸な悪」を認めない、認めたく無いのです。数百万人のユダヤ人虐殺について言えば、その責任を負う立場にあったアドルフ・アイヒマンの犯した罪は、徹底的に裁かれなければならなかったのです。三つめはハ。如何なる同情も、如何なる弁解も入る余地がない、悪の権化として。強烈に憎悪すべき対象、憎むべき嫌悪すべき対象として。

 これと同様の憎悪の目は、オウム事件においても信者らに向けられました。ほとんどの信者らは、武装化計画すら知らされてなかったにもかかわらず、です。恐らくここを見ている元信者の方、あるいは長年オウムに関わった公安関係者の方も、報道されていた信者らのイメージと実際の姿が、かけはなれていたことは理解出来るでしょう。これについては悪を投影していると述べてきました。正義の追求と同時に、どこかで攻撃対象となる悪を排出しつづける一神教的な勧善懲悪の思考でありますと。

 一神教というのは、抽象的な理念を掲げて束ねる(集中)という性質があります。その理念とは、一つの側面から述べれば、民主主義と資本主義という綺麗事ですが、別の側面から述べれば近代合理主義のワガママな個人の強欲が金次第で叶うという現実です。金さえあれば大抵の欲望は叶いますが、金がなければ金持ちの欲望を叶えるために隷属するしかありません。みんなそろそろその奴隷状態に疲れ果ててきていますが、このプロテスタントが作り上げた巨大なシステムには、なかなか逆らえません。システムの中で割り当てられた役割自体に若干の疑問を持ちつつも、システム内での自己保身もあって、今日も「ノルマだマニュアルだコンプライアンスだ」とうるさい上司とモンスターカスタマーにへつらうのです。小生の今回の指摘は、この無自覚な正義への追従が、どこからともなく悪を生み出しつつある、アーレントの指摘した「凡庸なる悪」ではないか、ということです。

 こう言うと皆さん、「いや、そんな普通に生きているだけだ、何も悪いことはしていない」と考えるかも知れません。しかしですよ、そもそもの話としてオウム事件を考えてみて下さい。オウム信者自体、誰1人として(と断言しても良いと思う)悪をなそうとして団体に所属していたのではありません。むしろ善を行い、自らを浄化し、あわよくば衆生の手助けとならんことを欲しつつ修行していたのです。そのような正義の追求という点では、恐らく大日本帝国も、そしてナチスドイツにおいても大きく異なることはなかったでしょう。アーレントの指摘した「凡庸な悪」とは別の側面ですが、何度か指摘されたもう一つ重要な点があります。悪を自覚している悪人は、大した悪をなすことはないのです。悪であることに自覚がない、逆に正義だと信じて疑わない者がもたらす悪こそ、途方もなく悲惨な結果をもたらすのです。正義と信じるが故に、留まるところを知らないのです。

 今マスコミが懸念を共有するイスラム国については、フセイン時代のイラク政権残党が多数を占めると述べました。そもそもアメリカが「悪の枢軸」と名指ししたフセイン政権を潰さなければ、イスラム国は登場しなかった可能性が高いです。更に遡るならば、そもそも100年前にオスマントルコを解体することがなければ、パレスチナ問題も含めて中東の混乱は起こらなかったのです。この点について、イスラム過激派は、欧米の文化的・政治的侵略の結果生じたと述べました。

 正義を掲げて絶えずその標的となる悪(敵)を作り続けてきたのは、アメリカです。そこに無自覚に乗っかっていること、いや同じ一神教的思考により勧善懲悪の思考をすること自体が、現代社会の「凡庸なる悪」となり、大規模な破滅を構成する要素となるのではないか、そのような危惧です。正義の追求と同時に悪の排出を続ける勧善懲悪の空気、小生はそこにアーレントが指摘した「凡庸な悪」と同じものを見るわけです。

(つづく)

コメント


思考の欠如という視点では
悪の凡庸さに翻弄され続けるでしょうね。
なぜなら思考そのものが、煩悩に結びつけるものですから。

問題は思考の欠如ではなく、思考の使い方にある。

世間のオウム問題のとらえ方も、思考の欠如という視点。
むしろ思考にあふれ、思考に翻弄され、大量のうつ病を生産しているのが世間。

野田さんも思考は全く欠如していない。
むしろ容量は大きい。
しかし思考に支配されている。
愛肥満も思考明晰であったが、思考に支配されていたんでしょう。

たとえば、溺れている人を見て、助けたいと思うのは思考ではない。
苦しんでいる人を見て、悲しむのは思考ではない。

これが思考に支配されると、働かなくなる。
愛肥満がその一例でしょう。






>たとえば、溺れている人を見て、助けたいと思うのは思考ではない。
>苦しんでいる人を見て、悲しむのは思考ではない。

一応それやってるつもりなんです、ホームレス支援等で。

alephに除名された方

なるほど、

「シンハ●●●●師」
なんですね。

古参ではなさそうな感じですな。


>たとえば、溺れている人を見て、助けたいと思うのは思考ではない。
>苦しんでいる人を見て、悲しむのは思考ではない。

一応それやってるつもりなんです、ホームレス支援等で。

そのことについてほ、随喜します。




悪無しに善もまた咲くことが無く怨み無しにまた愛が咲くことも無いSN磁は二元に基づく

テーラーヴァーダも上座部も小乗も、大乗も、秘密乗も、金剛乗も一切、無く。
上も下も右も左も中間も無く
我が派こそ、我が奉じる派こそ最も優れている、などということは無く、
仏法は只1つです。
憎めば憎まれ笑えば笑われ見下せば見下され我のみが真実とすれば他のみが真実とされる。正義と歌えば悪と歌われ賢と奢れば愚と奢り返される。
世の一切は変滅し滅びる、法(無常)を除いては。

輪廻循環・矛盾・無常

あたかも動物を殺さなければ草木が生きられることも無く、草木を殺さねば動物が生きられることも又無いように殺なくして生は刹那も成り立たず、生なくしては殺も刹那に成り立たない。
自ら殺を犯しながら我は殺無き者と歌い、他に殺を犯されながら他に我は殺無き者と歌い返される。
この生殺循環の輪廻においてその連鎖を逸脱した存在(生命体)を世に我はついに独りも見かけなかった。

自分の目につまった丸太に人は気づくことなく他人の目につまったおが屑のことを罪だと叫ぶ

罪人が罪人を裁き、罪人が罪人に殺される。人が人を裁けば神(仮称)がその人を裁き返す。神は裁く者の見えない罪をも全て知っておられるからである。

兄が二人。
京大と阪大。

その行為ではなく権威や勲章、親族を以って何某かの威光とするは、自身の何かの何にもならない

あまねく生きものどもは、無明(の田地・生まれるもの墓処・生けるものどもの屍、腐った動植物の腐葉土、生の墓場)
に縁りて(腐葉土の栄養に縁りて)行が生まれ(の原因となり)、行に縁りて識生まれ、識に縁りて名色が生まれ、名色において六処が生まれ、
六処において触が生まれ、触に縁りて受が生まれ、受の縁りて渇愛が生まれ、渇愛に縁りて取が生まれ、
取に縁りて有が生まれ、有に縁りて生が生まれ、生に縁りて老と死(愁・悲・苦・憂・悩・苦しみを喰う)に至り、
老と死に縁りて再び無明の墓地に(その心・意識の死骸が)埋められるのですが、すると又、それを原因(葉土/潜在的慶精力/業/無知)
として、
行が生まれ(の原因となり)、行に縁りて識生まれ、識に縁りて名色が生まれ、名色において六処が生まれ、・・・・・
これを身破れるまで(死ぬまで生涯)繰り返し続ける。
この無限に渡って繰り返される意識と行と業の輪廻循環の束縛から、いったい脱出する方法などあるのであろうか?
この魂・意識が幽閉された輪廻からの解脱の原因は生じないように思える。

しかしあったのである、古代ヴェーダ行者たちからのたゆまぬ研究と修学と努力によって。

「苦諦・集諦・滅諦・道諦」という四諦という真理がそれである。

・苦諦とは煩悩をもつ者の世界に起こることは皆苦である(生老病死・ 愛別離苦・ 怨憎会苦・求不得苦・五陰盛苦)という真理
・集諦とは苦には必ず原因があるという真理(苦の集の真理)
・滅諦とは苦は滅することが可能であるという真理
・道諦ちは苦を滅する道(HOW)があるという真理である。即ち、<正見・ 正思惟・ 正語・正業・ 正命・ 正精進・正念・正定>
がそれである。
これ以外の道(仏教外道・チベット密教・ヨーガ・仙道等々)に拠る輪廻/苦悩からの(完全な)解脱は存在しない。
これが一切智者・正等覚者がブッダ語られたことがらである。
どのような仏教外道・チベット密教・ヨーガ・仙道等々修行者・導師・イエスキリストも又未だ断言したことない稀有な宣言/断定的な断言である。

ここだけ読んだらソンシの説法はデタラメと思ったわけですが

四聖諦というのはね、これは釈迦牟尼如来の「十二縁起の法」と絡んで、わたしたちが必ずや理解しておかなければならない公式の一つです。その四聖諦の内容というのは、この世というのは一切が苦ですよと。すべての事象、すべての現象というものは苦ですよと。そして、わたしたちがそれにね、わたしたちが歩くと、わたしたちが行為すると、わたしたちが思うと、必ずその苦にぶつかり、苦というものは起き上がりますよと。

これが漢訳の言葉を借りるならば、「苦諦」というものと、「集諦」――集というのは集めるという意味だけどもね。つまり、苦というものは存在しているんだと。そして、それは必ず起き上がるものなんだ、生起するものなんだね。これが集諦と。そして、「滅諦」というものは、それは、必ず滅尽できるんだ。ね。そして最後には、その滅するためには、八つの聖なる道、「八正道」だね、これは。前回の秩父のセミナーのときわたしは現代には使えない修行法だと、現代では無理な修行法だと、ね、八正道について説明したけども、それは聖なる道八正道、現代版で言ったら「六波羅蜜」だね。六波羅蜜がありますよと。ね。簡単に言ってしまえばこれだけのことだ。しかし、この四聖諦のために、ね、分厚い本が何冊も〈なんす、さ〉何冊も出ているよ。それはそれだけこの公式の、ね、今言った意味合いというものを理解することが非常に難しいってことだな。ね、いいですか。 もう一度言いますよ。すべては苦である。ね、すべては苦であると。これが苦諦。そしてそれは、わたしたちが行為することによって、あるいは意志することによって、ね、必ずぶつかるんだ。で、それはぶつかったら起きあがるんだと。集諦。そして、それは滅尽することができると。その苦というものはなくすことができると。滅諦。そして、そのためには八つの聖なる道がある。道諦と。ね。いいですか。

↑を続けてよんだらデタラメではないと今知りました

謝罪しておきます

過ちに気づけば謝罪するのが仏教徒である

ただ、どの経典を読んでもソンシのこの説き方は順序が少し異質であり、
通常は、
苦しみを滅する真理に四諦あり、それらは苦諦・集諦・滅諦・道諦なり、
苦諦とは・・・なり
集諦とは・・・なり
滅諦とは・・・なり
道諦とは・・・なり・・・即ち正見・ 正思惟・ 正語・正業・ 正命・ 正精進・正念・正定の八正道がそれである。
という形体で説かれる。

故に
四聖諦というのはね、これは釈迦牟尼如来の「十二縁起の法」と絡んで、わたしたちが必ずや理解しておかなければならない公式の一つです。その四聖諦の内容というのは、この世というのは一切が苦ですよと。すべての事象、すべての現象というものは苦ですよと。そして、わたしたちがそれにね、わたしたちが歩くと、わたしたちが行為すると、わたしたちが思うと、必ずその苦にぶつかり、苦というものは起き上がりますよと。

を読んでその時点で「デタラメだ」と早合点したわけです。しかし誤解を招き得る説法順である、と。

おはようプラトン君

プラトンよ、汝の言う通りである。
聖書も、仏典も、主語を「自分」として読まなければ何にもならないのである。
「オレが右の頬を差し出されたらオレが左の頬を差し出す」(聖書)と読み、
「みんながオレをオウムだから、あれは過激派だからと罵った、みんなは悪の汎用を認識することが無い」と想い続ける者はついに怨みの止むことは無い(法句経)、と読んでいくのである。
即ち、数論哲学であり、これらは数学であり、法は公式ということである。
数学が得意(好き)でない者には理解に難儀するのではないか、と私は想うのである。

仏教徒の謝罪は気づいた時点で迅速・最速に

いや、ゴメン、私の過去世はその論外の「月光仮面」です(笑)
ここに深く過去世の過ちを陳謝しておきます。

一応月光を擁護しておくと

匿名という言葉にごまかされているが、メールアドレスで自分の家を発表しているのであるのだから、そこに苦情でも罵詈雑言でも書いてきなさい、ということが伝達したかったわけである。
真の匿名というのはこちらからは一切連絡できる先を伏せた者のことを言う、と私は定義しているのである。
メールが送付可能なら、電話番号も交換でき、声のTONEの抑揚を使用できれば、
相手が「真剣で真面目にそれを考えているのか」あるいは「心無い冷やかし」なのか、
がほぼ一瞬で分かるからである。

ゴキブリは潰しても良いが人はいけないという人間中心主義等について仏教は五分の魂を説きます

>オウム真理教を見て、笑う、イスラム教過激派をみて恐れる、だけでなく、彼らの持って>いる、犯してしまった、罪や、闇が、自分にも、潜んでいるのではないか、という視点をも>つということでもあります。

それには私は詩を以って回答しています
http://fast-uploader.com/file/6969142983523/

御仏の説かれる一寸の虫にも五分の魂が真理であるとするのならば

ニイミを死刑判決する裁判官の方が恐らくニイミの何百倍のゴキブリ等の魂を殺害していると推定されます。しかしながら人間中心のご都合で制作した刑法ではニイミは死刑で、
裁判官は無罪、となるのです。

また、コメントは承認制にしたらどうでしょうか?

元R師や深山さんのところみたいに。


元信者クンへの話(助言) 僕も注意します(笑)

律蔵で仏陀は次のように語ります。

比丘らよ、昔、ナンディギサーラと名づく牛あり、その牛は飼い主のバラモンに次のように言えり「我が牛は重荷乗せたる百車を引く力ありと長者に言い給え」と。
そして「見事引いたら千金をくれないか、引けなくば千金を長者殿に払う」と言い賭けを為すべし、と。
さて賭けははじまった。
その時飼い主のバラモンは勝つため、牛を怒らせ奮闘させるため(善意のつもりで)
次のように怒鳴り声援した。「コラ、無能牛、進めヘタレが、行け、何をしとるこの糞タレが、遅いぞもっと速く轢け」、と。
それを聞いてナンディギサーラと名づく牛は激高奮闘するかと思いきや、全く立ち止まってしまった。かくて罵声による奮闘を期待したバラモンは千金を失った。
ナンディギサーラと名づく牛はバラモンに言った「汝は何故に我をけしかけ憂いに沈ませ辱める怒鳴るや」、と。

これを聞いてバラモンは今一度長者と賭けをすることにした。掛け金を2千金にして。
さて賭けははじまった。
その時飼い主のバラモンは勝つため、牛を奮闘させるため先ほどとは異なる次のような声援をした。「行け、万能の我が牛よ、進め優れたる我が牛よ、行け、お前ならできる、いいぞもっとお前の力を見せてやれ」、と。
かくしてナンディギサーラと名づく牛は百車を見事轢き終えり。
バラモンは二千金を手に入れり。

この逸話を語り終えた世尊は次のように詩いけり

愛語を語るべし 必ず不愛語を為す勿れ
愛語を語る者の為には 牛は重き荷も轢き
彼に財貨をも得しめ それによりて歓喜ありぬ

このとき世尊は一つの戒を定めり、
「罵声語、悪語、誹謗中傷語を語る者は波逸提罪とす」、と。

罵声語、悪語、誹謗中傷語とは、十事によってあり。
即ち種により、名により、姓により、行業により、職業により、病により、相(容姿)により、
欲結により、犯過により、悪罵によりてなり、と。

いかなる場合においても比丘は愛語を語るべし 必ず上記不愛語を為す勿れ、と。

<波逸提罪とは比丘にふさわしくない悪行をした場合、この罪に陥る。二、三人の比丘前に懺悔をして罪は浄められる。>

仏教は心の科学です
https://www.youtube.com/watch?v=sFU9xtCuIAg

仏教は法であり唯一のこの世の真理

>>仏教は心の科学です

私は仏教は今の言葉で言えば哲学・科学・数学、つまりあなたに同意します。
但し、「幸福の科学」は少し違うんじゃないかと、考えています(笑)。
スマさんとこからでしたか。僕はスマさん好きじゃなかったんでしたけど、
友人から聞いて自分がスマ長老を誤解していたのかな、と思いました。

いい動画でした、音声がそれを阻害するので音を切って閲覧しました

>仏教は心の科学さんへ
良い動画ありがとうございます。
動画見ましたが、ほぼ仏典の通りでした。間違いない本当の仏の教えです。
ただ、僕はヴィッパサナーという言語は用いず四念住・正念・正知という言葉を使っています。
また「優れた人間にはなれません」とありましたが「優れた人間になる欲望はありません」
この世の楽しみは、それを離れた楽しみと比較にならないほど小さいとありましたが、
そう思います。
ただ、欲は残留しています。未だ知らぬ仏法を聞きたい、仏説を聞きたい、即ち法欲が
私にはあります。
私は上座部・原始仏教は信用しております。只、大乗仏教は一部を除いて仏教では無いと思っています。

資本主義崩壊を回避するための悪の生産の必要性

>正義を掲げて絶えずその標的となる悪(敵)を作り続けてきたのは、アメリカです

だから資本主義の維持のために悪を生産し続け、どこかに悪のレッテルを貼り続けなければならない、と思うのです。

欲の地球と愛の地球と人類の進化

例えば「悪」がこの世から消滅したらどうでしょう。その時その対立概念、「善」も存在できません。磁石の成立の因のようなものです。すると善を盾に大義名分に暴力を用い、優位に立ち、利益を上げる人々がいる場合、彼らは力を失効してしまいます。
平等が現れ、階級が損なわれ、現世界に存在する上流階級、富裕層というものが壊れてしまいます。カールマルクスはこの辺りを想定していたのかどうかは分かりませんが、何故か共産主義・階級破壊は実現されるどころか、再構築されただけでした。
つまりマルクスの理論共産主義には理論的な欠陥があった、といわざるを得ません。
共産主義に貧富の差が(大きく)生じるとはお笑い種なのです。
しかしながら本当に善悪が消滅し、平等が実現されたら世界はいったいどうなるのでしょう。そのようなことがらを論理的に追求している人がいれば話を聞いて見たいものです。
もう一つの問題は世界を稼動させているのは欲望である、ということです。競争が無くなり、勝敗が無くなり、何が何でも平等、が生じた時に世界は動くのでしょうか?
動くとすれば、愛と慈悲、利他、無私のような精神的進化を人類がとげねばならないと思います。それが「欲」の居た場所に新たに座るのです。
その時にはあるいはこの世に天国、愛の国、愛の地球が形成されるのかもしれません。

苦情、怒り、許せない、等の本気の真面目な心がある人はメールにて私に連絡され、電話番号を教え合い本気で語らいましょう

電話疎通成立が完成したら私はいかなる疑問にも全て誠意を持って相手に答える自信があります。公の意思疎通は、傷つく人のことも考えねばならず私の全能力と誠意の50%程度しか語ることができません。

では本題にうつりましょう。
私は死刑制度には反対です。それはいかなる理由をつけようとただの殺人であるからです。殺人犯を殺人(死刑)して死刑執行者(側)死刑幇助権力者(大臣)及び執行者はオレは殺人犯ではない、とでも思うのでしょうか?いや、死刑をする者は殺人犯です。

また、刑法によれば、「精神に正常性が確認できない者に死刑は執行できない」とうたわれています。
即ち、今のアサハラにその状態のまま死刑を執行する、ということであれば、
それは刑法に抵触する違法行為であり、犯罪であり、違法殺人であり、
それは地下鉄にサリンを撒いて人を殺害した者と相違無いことになります。

日本のこの司法の状態は、まさにデタラメであり、暴力であり、許されざる悪、
と私は思います。
起訴の90パーセント以上だかが、そのままほとんど通る、のも、
単に警察と司法がグルだからに相違ありません。
このようにその他先進国から「日本の司法のありようは欧米中世の程度」と言われて当然である、このように私は考えます。

殺して、すっとした、恨みが晴らせた、などと思う者があれば、その人は愚者であり、
殺人を楽しみにする者であり、その人こそ収監してその罪を問うべきです。

オウム事件には謎のことが多すぎます。その謎の解明とつながりと真の社会的な原因をどのように時間がかかっても追求すべきなのです。

死刑制度には、条件付きで賛成です。
例えば殺人犯が、死刑になることにより
多くの人の利益になるのなら、
死刑もやむなしと思う。

ただし、死刑囚が万が一にでも、冤罪の可能性があるのならば
死刑執行すべきではないと思う。


というのは、わたしがもしなんらかの犯罪で死刑になった場合
死刑執行されて、多くの人のためになるのならば
喜んで死刑台に立つだろうから。

そして、死刑は必ずしも最高刑だとも思えない。
娑婆苦から、強制的に解放されるわけだから。

なるほど。私の死刑制度反対の意見には変わりは無いけれども、話はわかります

元信者君の第一の意見については「ヴァジラヤーナの思想」故に、個人的(信条的)には同意できるものではないけれども(税は使われるが死を以って制さずとも終身刑で多く危険殺人者の拘束等という手が打てる)、
第二の冤罪死刑可能性の意見は私と同じである。
またさらに元信者君が、既に世俗の常識的な凡夫と異なり、
死について「それは開放」の概念までに至っている処まで意識の行が
すすんでいるのならば、またあるいは、
己の身を焼きバラモンの供物になった兎の境にまで達しているのならば、
それを尊敬はしてもその意見を批判するものを我は持たない。

もうひとつは殺人者であっても「彼は変化/改心し/懺悔/素晴らしい人間に成り得る可能性を有している(無常)」ということがあります。(アングリマーラtoアヒンサーの喩え)

俗世間的な問題でいうと死刑制度を廃止し、終身刑に切り替えたときなどに
「金」(血税)がかかる、という問題がよく議題に出される。
自分は、そういう番組や討論会を見たときに「おいおい人間の命の話してんのに金かよ、お前ら」、と独り突っ込むんだけれども(笑)

死刑制度その2

>ただし、死刑囚が万が一にでも、冤罪の可能性があるのならば死刑執行すべきではないと思う。

それはいつでも可能性として在り得るということなのでその論でいくと死刑制度は廃止の結論になります。

>わたしがもしなんらかの犯罪で死刑になった場合死刑執行されて、多くの人のためになる

元信者君が死刑になった場合死刑執行されて、多くの人のためになることは在りません(笑)

あとは
<刑法によれば、「精神に正常性が確認できない者に死刑は執行できない」とうたわれています。即ち、今のアサハラにその状態のまま死刑を執行する、ということであれば、
それは刑法に抵触する違法行為であり、犯罪であり、(違法)殺人である >
という点ですね。言いたいことは。

イエスは語る

「裁く勿れ」と。
つまり人間が人間を殺害することが(刑法ではアリでも)果たして、
この宇宙、天、という次元(世界)で行って良い行為なのか、それがたとい誰かの利になり、
それがたとい皆の利になり、それの対象がたとい凶悪犯罪者としてもです。

少なくとも仏陀ならそれは言わず、イエスも言わず事だと思うからです。

だから差し引き損益利益の問題では無い、と。

AUM信者と不殺生の慈悲

損益利益で語る場合、ゴキブリは不潔だからいくら殺しても善行為、
蚊は刺してかゆくなるから全滅させても善行為、
というふうに、
そこでは虫にも獣にも命があることは全く省みられず、殺生の概念は既に飛んで、
AUMのゴキブリ一匹すら逃してあげていたあの素晴らしい命に対する慈悲はなんだったの?、と
そうなることを私は指摘するのです。

一寸の虫にも五分の魂 karman(カルマ)


karman <カルマ(ン)>

命始まり命終わる

http://fast-uploader.com/file/6969202393779/

麻原彰晃 ってバカだな。

麻原彰晃さんは山奥で修行中なのでネットで仏教談義ができる知人が欲しいそうです。
かくいう私も電話でやりとりする仲になってしまいました。
オウム信者のように純粋で道を求めている人であることは保証できます。
固定ハンドルでここでやりとりされる分には、一日3コメ制限外します(ってか忘れてた…)

毎度ごイエス様には苦労をおかけいたします(笑)

でも、論の内容はそんなメチャクチャなこと書いてないっしょ?
匿名短文で自分の身元が割れないと信じて「うんこ」やら「死んじまえ」とか、無内容文を走り書きするストレス解消狙いの人々よりは自分はマシに真面目に考え、質疑にも本気で対応していると思っているのですが、それでもなお
<苦情、怒り、許せない、等の本気の真面目な心がある人はメールasaharashoukou@yopmail.comにて私に連絡され、電話番号を教え合い本気で語らいましょう
電話疎通成立が完成したら私はいかなる疑問にも全て誠意を持って相手に答える自信があります。公の意思疎通は、傷つく人のことも考えねばならず私の全能力と誠意の50%程度しか語ることができません。 >

(笑)

しかも一応スレ主の社会論から外れすぎてしまってご立腹かもしれんと思い

「資本主義崩壊を回避するための悪の生産の必要性」
「欲の地球と愛の地球と人類の進化」論も書いて、
話題をイエス様の方に、もどそうかと画策までしたのですが、
そっちの方は誰にも全くスルーされました(笑)

コメントも余り多すぎると、精査しての返信は現実問題難しくなります。
今フジテレビからも「イスラム国とオウムについて…」って取材依頼来たから、記事ももう少し書いてまとめておこうかと。大家業も忙しいのに…

なるほど、それなら私の論はべつに全くスルーして一向にかまい困りません(笑)

ただみんなの論じ合う議題の方向性を「イスラム国とオウムについて…」に役に立つ方向に、向かわせておけば、ちったあ何かの知恵者が現れ、その「イスラム国とオウムについて…」何某かのネタに役に立つかも、という計算は織り込み済みなのですけれども、
論議潮流の流れはそうならず、画策は失敗した、というわけです(笑)。

『資本論・労働者階級』

『資本論・労働者階級』
http://fast-uploader.com/file/6969231515301/

この動画は素晴らしい最高のものだ

>「4分で目覚め」
>※この動画に登場する女性は若き日のガンガジらしいです。
http://www.youtube.com/watch?v=H14cQg1jTcs

記事投稿人<とある。。>さん

2ちゃんには、ソンシの相手をする人が居ないんでしょうかね。


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山奥で修行しているうちに承認欲求が生起してきたのですね。

麻原彰晃 ってバカだな。

豹のように変ず

君子豹変す、と申しますが
麻原氏の過ちをすぐにお認めになる姿勢は、良い意味での豹変ですね
僕は、あなたのそのような姿勢を、とても評価しています
あなたの立場は、たしかに匿名とはいいきれないものです、勘違いをしていたことを
誤りたい、ごめんなさい、これからは仲良くしてください

プラトンさん・・・・・、理解・許してくださってありがとうございます(感涙)

人は誰でも過ちを犯します。完全では無いから。しかし、それを認めず、決して謝らず、自己の非も決して認めない、
自身の論争の勝利・敗北や、能力の優劣こそに第一の価値を求める人たちがいます。
私は相手の中ににそれを感知した時には、基本的には何も言い返しません。
そのような真理の追求考察より戦争を好む人々と論争を展開しても何も得られ、学べないからです。時を無為に過ごすだけに終わることがほとんどだからです。

あとえっとプラトンさんがボクに謝る必要なんてありませんよ(笑)
あれはボクの説明足らずの過失です。

         プラトンさん・・・・・君こそ法や真理をともに探索し続ける朋友と呼ぶに相応しい。

                               ありがとう

絶対自由・絶対幸福・絶対歓喜のことです。ではこの絶対自由とは何かというと、要するにこの形状界、非形状界、そしてサムサーラの三つの世界に対して自在に化身を送り出すと。例えば、非形状界においては、ダルマカーヤ、これを無限に広げることによって、すべての世界を瞬間に認知するという力。そして形状界においては十七形状界のどの部分に対しても報身、つまりサンボーガカーヤの身体を送り出すと。これは要するに光です。そして、この欲六界に対しては、ニルマーナカーヤ、つまり変化身を完全に送り出すと。
 おやおやとお感じになるかもしれない。そうです。つまり、これは、オウム真理教が、わたしが昔から説き明かしていた世界観にすぎないわけです。つまりこれ以上の世界観はなく、これ以下の世界観も存在しないと。そしてこれより深い世界観はなく、これと同等の世界観しか存在しないということです。

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