四月バカ
エイプリルフールなんで、その特集記事じゃないけど特別記事書いてみましょう。内容の真偽については各自判断頂ければ良いと思います。
1週間ちょっと前のコメントでこのようなやりとりがありました(リンク先)。現代社会の問題というのは、一神教から来ていますので、善悪二元論のようになります。これはオウム真理教問題もそうです。これに対して一神教でない宗教は、「非二元」的な思想・理想を掲げています。ひかりの輪が最近なんて言っているのかは知らないけど、「全ては一元」とかです。
とは言え、現実に「非二元」であるというのは、この現象世界で有り得ないんです。ひか輪辞めていく連中もよく言うわけですが、「一元一元って言っても結局二元なのよねぇ~」なんだとか。でも現実を考えれば、上祐も財施で働いている人も精神状態崩して引きこもっている人もみんな同じ扱いにすれば、組織として成り立たないわけで。組織を維持する、いやそれ以上に個人が普通の人間生活を維持するだけでも、法律を含めた一定の社会的観念の枠組みを守る必要があるわけだし。
「起こったことは全て私のカルマ」「私の不徳」「全てに感謝」という素晴らしい理念は、あくまで総論・一般論みたいなもんであって、現実問題の対応にはそのままでは適用できない。昔、拙ブログコメントで、「目の前で彼女や妻が暴漢に強姦される状況で、『全ては私のカルマ』『カルマ落としてくれて有難う』ってやらないですか?」って聞いてきた人がいるけど、そんなことをやる宗教家はいないし、いたとしても誰もその人に連いて行かないでしょう。
いや、いるとしたら、現代文明に一切染まらず山奥でほとんど誰とも接触せずにひたすら瞑想しているヨーギーくらいでしょう。ほぼ完全に現実と切り離してしまわない限り、その理想論は成立しえないってことです。
犬も歩けば棒に当たる、ではないが、現実世界では一歩あるけば二元論の問題に当たるわけです。二元的問題は、その二元的問題に染まりきってみなければ、本当の意味で相手が苦しんでいる状況も分からないし、そこから抜け出させることも出来ない。恋愛問題、異性関係、離婚問題、親子関係、学校のいじめ、金銭問題、世の中の苦しみという苦しみ、何を取ってみても『全てはカルマ』『全てに感謝』で現実的解決など出来よう筈などない。
そこで少なからぬ宗教で採るのは、可能な限りその二元的現実問題から隔離した状況、関わらない状況を作り出してしまうって方法です。聖なる空間とか聖なる対象とか作り出して、それは現実的問題とはかけ離れた聖なる存在である、と意味付けするんです。ある意味、山の中のヨーギー・聖者みたいな雰囲気を作るというか。アレフが閉鎖的というのも、そういう空間を作ろうとしているからでしょう。しかしこれをやると、多かれ少なかれ理想と現実の乖離が目立ってきます。
アレフ・オウムにもよくいたんですが、瞑想体験は素晴らしいのに、現実世界でやることはシッチャカメッチャカという人がいます。これも理想と現実が乖離した例です。「そういう宗教が悪い」とここで述べているわけではありません。そういう瞑想家、宗教家、宗教が存在することによって、心の拠り所が得られることで、現実問題を解決したり乗り越えていく人がいる。これもまた現実です。ただ表裏の乖離が激しい場合、後になって「騙された!」「寄付した金を返せ!」と争いになる。これもまた宗教を巡る現実です。その原因の一つは、理想と現実の乖離があったということ。
その乖離の要因は、現代が一神教の善悪二元論に支配されているという状況も関係しているのでしょう。とにかく、現代人・一般人には、その理想と現実の間をうまく埋めて橋渡しするということが不可能。宗教家も、小さい規模では問題にならないように対処できたとしても、組織が大きくなってくると、どうやっても乖離を埋められなくなる。
前置きが長くなりましたが、宗教を巡ってはそのように理想と現実が乖離した状況で、
①その乖離を認識しているかいないかは別としてその「乖離した理想」に価値を見いだす人と、
②その乖離した状況を要因として「宗教は現実逃避」という風にどこかいかがわしい扱いをする人
そのようなパターンに分かれてます。
どっちの人に対応するにしても、「全てに感謝」みたいな一元思想を持ちだしても、あんまり意味が無いんです。なぜなら、①の人は「ああ私の宗教理念と同じ価値観の人だわ」と思うかも知れないけど、現実の問題は放置したまま。②の人は「ああ、こいつも宗教バカか」と思うだけ。
こちらは現実変革を訴えている訳ですから、それだったら
「あなた方は間違っている!」
「え…、な、なんだと~、コノヤロウ!?」
という形でとっかかり・切っ掛けを作った方がマシというか。まあ現実的には、ほとんど放置・無視されているのが、小生を巡る状況ですが。いずれにせよ一元論では、現実の問題は放置されたままで、理想の甘い世界に浸って傷を癒すみたいなことが多いです。
先頃もある一元的宗教の信者に相談を受けました。その信者がやっているのは、名前を挙げれば誰もが知っているであろう教祖ともいうべき人物が展開する宗教です。その教祖にニートで働かない兄の問題を相談したけど、どうにもならないと小生の所に来ました。
「その教祖にニートの兄のことを相談したけど、へらへら笑っているだけで全然ダメなんですよね…、自分(教祖)もニートみたいなものだと思っているのか…」
その教祖にとってみれば、「一切はカルマ」なんだか「全ては無常、囚われるに値しない」なんだか知りませんが、理想の別世界にいるわけです。その教祖は理想の世界に浸ってて、その前にいるとキツネにつままれたような感じで丸め込まれる。でも、ハッと我に返って現実に戻ると何も変わってない。そういう乖離があったりします。
で、小生はどうやってその問題を解決するかというと、その問題と一旦同化した状態になるわけです。その人は「兄がニートで…」と言っているけど、その問題を放置しているその人自身も優柔不断で判断・決断ができないという問題を抱えていました。そのニートの兄の問題が、自分自身の問題と同じであると認識させた上で、具体的判断・決断をさせるわけです。これは相手とこちら側がある程度近づかなければできることではありません。
ここの所のポイント、相手との距離を近づけて同化した上でそれを消滅させること。これは言葉で理論的に説明でできるものではありません。ネット上で色んな精神世界ブログなどを覗いて出来るんじゃないかと思っているなら、あなたはまさに「四月バカ」。現実の世界で経験的・感覚的に体得していくしか有りません。
個別問題はともかく、現代社会が抱える問題を総論として指摘するにしても、こちらも勧善懲悪の正義みたいな装いをして、現代社会の悪に対峙するしか有りません。これも善悪二元論という意味では、相手と同化した状態です。しかしそれは某さんが仰った通り、こちらも社会の闇と同じマインドに陥る危険性があります。
重要なのは、その「闇」と一旦同化した上で、「闇でも光でもない」あるいは「光」の状態に変容できるか、対象(及び自分)の観念をコントロールできるか、ということです。小生にとってのホームレス支援その他は、個別の問題に関してそのような訓練をしている意味合いがあります。単に総論だけで社会の「闇」を指摘し続けると、それ自体が一つの「闇」の様相を呈することがあります。それがオウム事件の核心でもあります。
コメント
仮に彼らにエネルギーを注いだとしても、ざるに水みたいな事になると思います。結局心の働きが変わらなければ、自分が窮地に陥った原因がそのままなわけですし、むかし体験談であった「シャクティーパットで馬券大当たり」で終わるでしょう。
個別の精神的な問題は、金の管理ができるかどうか、という点以外は、距離が近づいたケース以外は難しいです。
まじめにどうでしょうか野田さん
都沢幹部を簡単に心変わりさせたくらいの実力者ですよね
①相手方が苫米地さんを信用するかどうか、
②見合うだけの対価を払えるかどうか、
というハードルがあります。
現実問題苫米地さんも忙しい人ですし。
まともに働いてる年収300万の下層労働者でも出せない金額。
都沢幹部はセレブの娘。
「その教祖にニートの兄のことを相談したけど、へらへら笑っているだけで全然ダメなんですよね…、自分(教祖)もニートみたいなものだと思っているのか…」 』
これを読んで、上祐さんの顔が浮かんできたんですが(苦笑)
苫米地さんと上祐さんが都沢さんやオウム問題について対談したら
どんな対談になるんでしょうね(笑)
ひかりの輪の一元的思想について
ひかりの輪を去っていく方は多いのでしょうか。どこかのブログだったかツイッターだかに、修行としてものたりなさを感じてしまうという内容の書込みを読んだことがありますが、野田さんからみてもそういった印象なのか、な?なんて。
ひかりの輪の目標とする一元的思想、まさに解脱、悟りを目指すというテーマ自体、仏教の教義にも当てはまっているし、悪くないと私は思います。それにムリを感じて団体を去ってしまう人が多いということですが・・・それは、その教義自体がムリなのではなく、ひかりの輪という団体の活動内容が不完全なだけなのでないかなーと。
つまり、ひかりの輪はかつてのオウム真理教のように激しい修行をしていないわけで(詳しい内情は知りませんが)、そこに団体としてのシステムにムリがあるのでは。善悪二元論を排して一元的思想のすばらしさを説くのは良い事なのに、そのための修行がなければ、結局絵に描いた餅に終わってしまうし、せっかくの哲学も生かされてないだけなんじゃないか。
一元思想やコンプレックスの克服、心を止めることを念頭にあげるなら、それなりの修行をしなくてはいけないのに、ひかりの輪では五体投地もヨーガももうあまり積極的にやってないし、上祐代表の話や定期的な神社仏閣めぐりをしているだけだから、確かに団体を訪れる人もかつてから所属している人も、所属している意味がわからなくなってしまうのは無理ないのだと思います。
一元的思想は素晴らしいのですが、現代においてはあらゆる局面において格差が激しいので、その現実問題への適用は一般的には極めて難しいと考えています。オウムにおいてあれだけ激しい修行をしていても、結局神秘体験とか理想の中に逃げ込むしかない状態ですし。
過去記事は、当初のモノは教団分裂時のグタグタな話もあり、今思うと恥ずかしいですが、「陰陽」カテゴリーの所とか見て頂ければ良いかと思います。
あと些末なことですが、もし今後HN「ナローパ」で投稿されるようであれば、できればパスワードはもうちょっと複雑なヤツにして頂ければと…。これまでも「#JalddpaA」って方、何人もいました。
| 201404-03 22:57:12 | 平良文 #JalddpaA
これね
ホームレス、引きこもりの人のエネルギー状態はどうなんでしょうか?
社会的な支援と同時に、何らかの瞑想的支援もされているんでしょうか?
気道が詰まってるとか、エネルギーを無益に浪費しているとか。
それが解消できると、うまくいきそうに思えます。
素人の空想かもしれませんが(笑)